信仰とは何なのか。

bunkiten611さん、またまた御返事ありがとうございます。

以下について回答させていただきます!

返信が遅れて申し訳ありません!

 

 

 

 

自分の信仰心が醒めても、配偶者や、義家族が信仰しているから、家族に取って居心地がいい場所だから、人間関係を壊すには忍びない。

 

これってどうしたら良いのでしょう?

妻のお母さんは生粋の法華講ですが、うちの死んだ実母とは違い自分が一番、身内が二番、信仰が三番の人です。

対する実母は信仰が一番、自分が二番、身内が三番の人で、信仰のためには家族が壊れてでもミッションを遂行するタイプでした。

そんなわけで、勤行をしないとか寺に行かないくらいでは義母は騒がないのですが、信仰しないと宣言すれば関係はこじれてしまうと思います。

私個人的にはそれも致し方ないと思うのですが、妻はそれでは困ります。

妻は信仰心が全くありませんが、そもそもの結婚の前提が日蓮正宗の信者同士であるから、ということにあり、それがあるから私たちと義母との良好な関係が構築できています。

これって、恐らく信仰でなくても似たようなしがらみを抱えている方はたくさんいると思います。

自分の意思に反してまで形式的な信者でいるなんて、実に馬鹿げていますが今の所仕方がないかな、と思っています。

 

日蓮正宗にせよ、創価学会にせよ、カルト宗教というのは家族や親族を取り込むことが上手ですね。

日蓮正宗だと法統相続、創価学会だと一家和楽の信心なんて呼んでいますが、子供が生まれたら真っ先に寺に連れて行かせて授戒させる。

当の赤ちゃんに信仰の自由などないわけですね。

今でも法統相続を勧める冊子を頒布しているんですから、困ったものです。

 

 

【私がすがっているもの】は、あります。

それは夫です。

深刻な病気で闘病中で、あと三年生きられるか?わからない夫です。

 

ご主人様は闘病中なのですね。

何とかご病気が良くなることをお祈り致します。

bunkiten611さんの場合、信仰を持たないご主人様との生活で徐々に宗教から距離を置けたのかも知れませんね。

かく言う私も同様で、同じ法華講同士の結婚でありながら、全く信仰心のない妻のお陰でこうして信仰から距離を取れました。

真面目に私が信仰していたときには一緒に寺に行ったりもしましたが、身内の行事に付き合っているだけで、完全に割り切っている様子でした。

そんな妻のおかげで私も徐々に信仰心が薄れていき、最終的には自分の洗脳を自覚するまでになれたんですから、本当に感謝してもしきれません。

 

 

ところでsokayametaさんには、お子様はいらっしゃいますか?いらっしゃる場合、お子様の【信教の自由】はどのようにお考えでしょうか?

 

私たちは子供を持っていません。

不妊症というわけでもありませんが、生まないと決めて今に至っています。

何しろ、夫婦二人共真の親の愛情を知りません。

そんな家庭環境で育った私たちに正しい子育てが出来る自信がないのです。

とんでもない子供に育っては、それこそ子供自身に申し訳ないです。

 

もし、私たちに子供がいたら信仰をどうしたか?

今の私はこう考えます。

成人するまで宗教に子供を関わらせない

日本国憲法で信教の自由が保障されている以上、最終的な判断は本人が下す問題です。

でも、社会を十分に知らない未成年の子供に自分の信条についてどうするか正確に決めることは不可能です。

 

子供にとっては、生まれ育った家庭環境が社会そのものだと思います。

その狭い社会しか知らない子供に信仰などさせれば、本人は自ら信仰するのが当たり前だと思ってしまうでしょう。

私もそうでした。

しかし、それは本当の意味で信教の自由とは言えないと思います。

何しろ、子供の狭い知識、確信のない中での自由意志なのですから。

ですから、絶対に成人するまで子供に信仰をさせることには反対です。

 

もし、子供が友達と神社に初詣に行くと言えば反対しません。

もはや神社は宗教と言うほどのものでは無いように思います。

数多くある宗教の中でも、神道は比較的有害性の少ないものだと思うからです。

ただし、学校生活をするなかで「うちは○○教だから○○が行えないので僕はここで待ってる」などという惨めな思いをさせる宗教だけはまっぴらです。

 

 

「大白法の異流義破折」は盛大な「おまいう」記事ですよね?大白法の編集人は本気でアレを書いているのでしょうか?

 

私は中国共産党プロパガンダと同じだと思っています。

本音と建前があるんだと。

大白法の編集者は坊さんたちですから、教義に対しては当然プロですし、他宗のことを知るためにある程度勉強をしているはずです。

その勉強をする過程で自己矛盾に気づいてしまうと思うのです。

というのは、私も昔は御書を暇さえあれば読んでいましたが、どんどん深入りし、自分の昔の本とか僧侶用の本を買い揃えるうちに矛盾に気づいてしまいました。

日蓮正宗ではこれを我見と称して忌み嫌い、自己研鑽に制限を掛けていますが、今はネットがありますから、徹底的に調べる根気さえあれば誰でも真実に辿り着けてしまうわけです。

ということは、教義のプロである坊さんが真実を知らないわけがありません。

 

信者から金を搾り取るために上手く「他宗教はこんなに悪いものなんだ!邪宗なんだ!」と植え付けて洗脳していると思います。

これがそっくり中国のプロパガンダそっくりです。

 

例を挙げれば、曰く付きの本門戒壇の大御本尊に対する「言われ」は、枚挙に暇がなく、過去150年の間に何度も何度も非難されてきました。

日蓮正宗はそれに対して人を見下すような口調で批判し、中身の伴わない空論に終止する破折と称した愚行を繰り返してきました。

信者はそれを理解している気になって読んでいるのです。

その一つに、異流義破折もあるように思います。

 

当然、管長の日如はあの板本尊が真っ赤な偽物であることを知っているはずです。

事実を知ってなお「日蓮大聖人が魂を墨に染め流した御本尊」と称して信者を騙しているのです。

 

私もそんなプロパガンダに騙された一人ですが、事実に気づくことが出来るようになったのは小さいながらの成長はあったのかと思っています。

 

 

長くなりましたが、どうかご主人様のご病気が良くなられますよう、心からお祈り申し上げます。

bunkiten611さんの記事を拝見して。

bunkiten611さん、ありがとうございます。

以下の記事について御返事させていただきます!

 

 

私は親に反抗して創価学会を退会し、その後は日蓮正宗法華講となりました。

訳あって今も日蓮正宗に籍を置いていますが、信仰心はなく勤行、唱題もしていませんし、寺にも行っていません。

籍を残しているのは、嫁さんのお母さんが法華講で良好な関係を維持するためで、それ以外に理由はありません。

ですから、籍を残していることと洗脳とは直接の関係は無いのですが、まだ自分は毒が抜けきっていないんだなあと感じることがあります。

 

bunkiten611さんはふと何かにすがりたいと思ってしまうことはありますか?

私は今は神も仏もないと思っているんで、基本ないんですが、それでも何十年と続けてきたルーティンのせいで頭にふと「御本尊」「日蓮大聖人」という言葉が浮かぶことがあります。

前述の理由があるので仏壇はまだ家に置いていますが、手を合わせることも給仕することもありません。

今では、神社や他宗の寺に観光することもできます(宗教に敢えて関わろうとはしませんが)。

それでも、信仰していた時のことが私の意思とは無関係に頭に浮かぶことがあります。

それが呪縛から抜けきれていないんじゃないかと思う理由の一つだったりします。

 

bunkiten611さんの、「こんなに真剣に拝んでいるのに、御本尊は何にも解決してくれない」という言葉には「その通りだ!」と思いました。

私は小さい頃、酷いいじめを受けましたが、親からは宿命転換だ、罪障消滅だ、と言われて一日に三時間以上の題目をさせられたりもしました。

しかし、それで目の前の悩みが消えたことはありません。

逆に、仏壇に手を合わせたことで何か願いが成就したということもありません。

それは、たまたま不幸なことがあったり、幸運なことがあったりしたことを、無意識に信仰に結びつけていただけでした。

また、それを親から言いつけられてきただけでした。

ただ、そうして親から言いつけられたことが私の精神を大いに蝕んでいて、長い間洗脳されていたのだと思います。

 

機関紙の大白法については冷ややかな目でチラ見することはありますね。

何しろ、嫌でも嫁さんのお母さんが私に手渡してきますから。

おそらくは再折伏のつもりなのだと思います。

ですが、掲載されている体験談を見ても何も思わないし、興味本位で読むのは巻末の「異流義破折」くらい。

そのうち、私もbunkiten611さんのように、日蓮正宗について見聞きするだけで気持ちが悪くなるようになるのかも知れません。

 

物事が上手くいっているときには何も感じないのですが、このところ色々とありまして、精神的に落ち込んでいました。

そういう時って、どうも洗脳時代の記憶が蘇ってしまうんですね。

魔にやられてる」とか、そういう考え方です。

 

日蓮正宗にせよ、創価学会にせよ、信者にとっての日常生活に深く侵入しすぎていて、何をするにも教えが目や耳に入ってくるんですよね。

良いことがあれば御本尊のおかげ。

悪いことがあれば魔だの宿業だの。

目の前に試練があると宿命転換のチャンスだとか。

どんな心理状態に対しても何らかの指導がありました。

多分、こういうのが抜けきっていないのだと思います。

不運が続くと宗教の呪縛が再発する・・・

理屈では分かっている。

宗教は妄想。罰などない。信仰に力なんて良くも悪くもない。

御本尊などという紙切れに何時間拝んだところで何も起きない。

拝まなかったからと言って、信仰を批判したからと言って何も起こらない、罰など存在しない。

なのに、不運が続くと「ひょっとして親が続けてきた信仰に背いたから?」などと刹那に過ってしまう。

これってまだ洗脳が解けていないということなんだろうか?

 

思い返せば、小さい頃信仰のことでサボったり嫌な顔をすると母親から

いいことないよ!

罰が当たるよ!

地獄に落ちるよ!

大謗法だよ!

と言われてきた。

 

良いことがあれば悪いこともある。

物事をネガティブに捉えていれば行動が消極的になり、結果としてネガティブを引き寄せてしまう。

それだけのこと。

理屈では分かっているのに、脳がそうさせない。

心の何処かに不安がある。

いつになったらこの不安から開放されるのだろう?

 

日蓮正宗、人の振り見て我が振り直せ。

12月1日号の大白法を読んだ。

毎度のことながら、大白法には「異流義破折」もしくは「諸宗教破折」という余計なお世話な記事が掲載されている。

今回の議題は冨士大石寺顕正会の浅井昭衛氏の死去について。

 

 

氏の死去について論うなら、日蓮正宗の前法主である阿部日顕氏も死去しているので他人のことをとやかく言えたものではないんだが、今回主に話題にしているのは国立戒壇についてだ。

 

日蓮正宗は、昭和52年路線のとき創価学会が国教化を目論んでいるのではないかと国会で論議され、世間から大きな注目を受けたことで尻込みした過去がある。

時の法主細井日達は「今後、国立戒壇という言葉は使ってはならない」と箝口令を敷き、以後この言葉は宗内で使われることはなくなった。

それほどにも、当時の日蓮正宗が世間から注目を浴びることを恐れていたということが窺える。

日蓮原理主義に傾倒する顕正会はこの言葉を宗門の忠告を聞かず使い続け、最終的には破門されることとなった。

 

こうも顕正会国立戒壇という言葉に固執するのには理由がある。

それは、日蓮一期弘法付嘱書(身延山付嘱書)、三大秘法抄(三大秘法稟承事)という日蓮遺文とされる文献の存在が関係している。

日蓮遺文とされる」と書いたように、この文献は歴史的に偽書との議論が絶えない。

主に大石寺門流ではこの文献を日蓮真筆として重視しており、当然日蓮正宗も第一級の重要文献として扱っている。

もちろん、創価学会も例外ではない。

 

大白法 令和5年12月1日号 6面「異流義破折(239)」より

大白法には

 

宗祖日蓮大聖人は、末法の一切衆生の成仏のために妙法の広宣流布を願われたのであり、国家主義的な仏法をめざされたのではない。衆生の成仏に国家云々は関係なく、大聖人の教えを素直に拝し、三大秘法を受持することこそ重要なのである。

今日、国立戒壇の語を使用することは、余計な誤解を招き、折伏の妨げとなりこそすれ、布教上のメリットはない。

 

と書かれているが、なら日蓮はどうして鎌倉幕府立正安国論を提出したのか?、そもそも広宣流布とは何なのか?、それについて明確に説明するべきだ。

 

日蓮が幕府に立正安国論を提出したのは、同書にある自界叛逆難(内乱や疫病蔓延などの国内の乱れ)、他国侵逼難(外国からの侵略)を回避するためであり、それには国家ぐるみで法華経を広めなければならないと考えていたからだ。

また、広宣流布の目的とは平たく言えば世界中の人々を信者として取り込むところにあり、かつて細井日達舎衛の三億を引き合いに出して、世界の1/3が信者に、もう1/3が理解者に、残りの1/3がそれ以外の状態となったときが広宣流布成就の時であると述べていた。

このような大事業を完遂するには、当然国家主導でなければならず、民衆の意思を尊重するやり方で、ましてや民主主義という自由主義の中で特定思想に統一することなど不可能であることは明らかだ。

 

そもそも、日蓮正宗が時代に反してまで折伏固執し、明治期に摂受に舵を切った日蓮宗を批判している以上、「宗祖日蓮大聖人は、末法の一切衆生の成仏のために妙法の広宣流布を願われたのであり、国家主義的な仏法をめざされたのではない。」などという言葉を発しては、創価学会と同じ穴の狢ではないのか。

こうも自分たちの発言に責任を持てないとは、流石に開いた口が塞がらない。

 

日蓮正宗が重視する文献を見ていけば、この言葉が如何に矛盾しているかがよく分かる。

 

国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。(日蓮一期弘法付嘱書)

 

戒壇とは王法仏法に冥し、仏法王法に合して王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王覚徳比丘のその乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立すべきものか。(三大秘法稟承事)

 

これらの文献は世間では偽書と見られているが、日蓮正宗では重要文献の扱いだ。

それを素直に読めば、明らかに「国主導による国教化」が最重要事項であることは明白だ。

 

自宗に優位になるようにと、様々な偽書を悪用してきた結果、まさか世間から「日蓮正宗創価学会は日本を乗っ取って、日蓮主義を国教化する気だ」などと言われるとは夢にも思っていなかっただろう。

その結果、時の法主細井日達日蓮正宗日蓮真筆として最重視されている文献(偽書)を曲解する愚行に及んだ。

それが事の顛末だ。

 

冨士大石寺顕正会といえば、一部では暴力教団で名が知られている。

彼らがこうも過激になっているのは、偽書である日蓮一期弘法付嘱書、三大秘法抄を字義通り読んだ結果であり、だからこそ富士という場所を重視し、破門された富士大石寺の本門戒壇の大御本尊に固執しているのだ。

日蓮正宗は、こんなモンスター教団を生み出しておいて他人事のように「異流義破折」と称して非難しているが、いわゆるカルト宗教というのは自分の言葉には本当に責任を持たないようだ。

そのことは統一教会にせよ、創価学会にせよ、エホバの証人にせよ、どれを見ても共通している。

 

 

親が宗教に嵌まると時間を奪われる

幼少期から創価学会活動を当たり前のようにやらされてきた。

親当人は構わないだろう。自分の意思で創価学会に入会したんだから。

 

やらされる子供はたまったものじゃない。

ただ創価学会の家に生まれたというだけで、宗教行事への参加を強要され、毎朝、毎晩の勤行(読経)を強要される。

貴重な幼少期の時間の多くを宗教行事に奪われた。

 

幼稚園のときまではよかった。

それと言って強制されるものはなかったからだ。

 

小学生に入ると月一回の少年部員会への参加が強要された。

こうして貴重な日曜日が奪われた。

当時の小学校は週休二日制ではなかったので、土曜日は午前の3時限の授業があり、週一度の日曜日は貴重な休みだった。

それが毎月一度親の都合で奪われた。

さらに、聖教新聞社発行の少年部新聞というのが週一回発行されていたので、これを毎週読まされる。

 

中学に上がると今度は中等部員会が毎月あり、やはり中等部新聞を毎週読まされる。

高校に行くと高等部員会が毎月、高等部新聞を毎週読まされる。

大学に上がると学生部会が毎月。

創価学会の子供への洗脳教育は徹底している。

そして社会に出ると男子部会(部活部会とも言う)があり、他に月一回の本部幹部会という池田大作のスピーチを聞くための衛生中継(と言ってもいつ開催されたかすら定かではない録画の垂れ流しなのだが)を見るために会館に赴き、聖教新聞を毎日読まされ、大白蓮華第三文明グラフSGI等の各種機関誌を購読させられる。

私は牙城会をやっていたのでその任務が月に2回あり、最寄りの会館で夕方17時頃から22時まで警備室で過ごしていた。

冬は寒く、大きな会合があるときには「今晩は!ご苦労さまです!」と来館の度に起立して挨拶をしていた。

更に、中学二年から音楽隊にも所属していたので、その練習も毎週あった。

練習のために電車で30分かけて練習会場である文化会館に通った。

その金銭的、労力的な無駄は計り知れない。

 

朝晩の勤行で奪われる時間も深刻なものだ。

毎日朝5時台に起床し、朝は五座の勤行を40分掛けて行わされた(日蓮正宗の子供なら、もっとゆっくりなので一時間は取られただろう)。

加えて、夜の三座の勤行だ。

多分20分くらい掛かるだろうか。

これが体調不良以外の日は休日構わず毎日なのだ。

趣味でやりたい人がやるのは一向に構わないが、何故こんなことをやらされなければならなかったのか?

こんな時間があったら、毎日勉強をしたらさぞかし成績が上がったことだろう。

 

こうして毎日必ず1時間が勤行で奪われていた。

それが小学一年生のときから社会人になり、創価学会を脱会するまでずっと続いたのだ。

 

真冬の朝のクソ寒い中、当然のように導師をやっていた父は当時何を思っていたのか?

あまりの眠さに居眠りをしようものなら、頭をぶっ叩かれた。

自分たちの価値観を正しいと勝手に押し付け、むしろそのために私を生んだことに激しい憤りを感じる。

 

当時は洗脳されていて大半のことに疑問を抱くことさえ出来なかった。

だから親に不満をぶちまけても「お前はそれが当たり前だと思ってやっていたじゃないか!今更言われてもどうしようもないだろ!何故当時言わなかったんだ?」などと世迷い言を言う始末。

それが言えたなら苦労はない。

生まれた瞬間から創価学会の家にいた私が、その異常性に気づくことが出来るとしたら、どんな方法があったというのか?

 

そのことについて何度も父に不満をぶちまけたが、全く話にならない。

多分、根本的に理解できていないのだ。

今でも思い返すと腸が煮えくり返る思いだ。

私の貴重な時間を返して欲しい。

大事な青春期を奪ったことに自覚がないのはどうしても許せない。

この不満、どうしたら解消できるのだろう?

 

池田大作の「ナンニョ〜ホ〜ネンゲギョ〜」

池田大作の題目についての記事を見ていたらふと思い出した。

 

 

池田大作の独特すぎる題目三唱の声。

本部幹部会の最後で行われていたと記憶するが、大作の場合は三唱じゃなくて六唱だったような。

それと、とにかく数珠をジャリジャリと激しく揉む。

これは日蓮正宗的にはもう有り得ないんだが、法華講員にも是非聞いていただきたいところ。

 

肝心の「ナンニョ〜ホ〜ネンゲギョ〜」はYouTubeに幾つも投稿されていて簡単に見つけられる。

ナンニョ〜ホ〜ネンゲギョ〜(ジャリジャリ) ナンニョ〜オ!〜ネンゲギョ〜(ジャリジャリジャリ) ナンニョ〜ホ!ネンゲギョ〜(ジャリジャリジャリ)  ニョ〜ニョニョニョニョ ニョ〜ニョニョニョニョ ニョ〜ニョニョニョニョ!(ジャリジャリ) ニョ〜ニョニョニョニョ ニョ〜ニョニョニョニョ

と聞こえるんだよなあ。

 

 

動画では三千偏になっているが、池田大作はそんなに長時間の題目はしない。

継ぎ足し編集されている模様。

 

 

創価学会 財務 広布部員 高額献金

上には上がいるもので、家族や親戚の名前まで使って多額の寄付をしてきた人がいるようだ。

X(旧Twitter)でたまたま見つけた投稿がこれ。

 

 

それにしても凄い量だ。

総額は数千万円はたまた億に達するか?

創価学会員の家族がいたらひとたまりもない。

 

宗教二世問題で宗教献金にフォーカスされるようになったが、こういうのは少なからずあらゆる宗教で起きていると思う。