森林の崩壊

先日の紀伊半島での大水害に思うところがあり、再びこの本を取り出してきた。実は数年前にいただいていたのだが、斜め読みだけしていたのだ。
今回の水害も想定外の天災という言われ方をしているが、はたしてそれだけで片づけて良いものか?人工林に覆われた山の保水力や地盤はどうだったのか?地滑りをおこした現場周辺の過密な人工林や押し流されてきたおびただしい放置間伐材や貧弱な根の杉の映像を見ると、手入れされていない人工林が被害を拡大させた人災の側面があるのではないかと思われる。
そういう意味で東日本大震災による福島原発事故とだぶって見える。国策として行われた拡大造林によって国土の4分の1以上を人工林に変えておきながら、国産材を生かす産業を育成せず輸入材に頼り、海外では乱伐採で批判を浴びる始末。その間に日本の山は荒れ果て災害を生む。最近では手におえなくなった山を外国人にでも売ってしまおうという林家まであらわれた。政府の無責任ぶりは原子力政策となんら変わらない。この本にはこういった日本の森林と林業の実態が詳細に示されている。
ところで、今回の水害にタイミングを合わせるように、八ッ場ダムの建設が再浮上してきた。確かに今なら治水と言えば理解を得やすいだろう。しかし川の上流は山である。治山を語らず治水だけを持ちだすのは、別の思惑もある様に思え、違和感がある。今こそ健全な森林の育成と木質バイオマスなども含めた持続可能な利用を真剣に考えるべきだと思う。

森林の崩壊―国土をめぐる負の連鎖 (新潮新書)

森林の崩壊―国土をめぐる負の連鎖 (新潮新書)

捕食者なき世界

トップ・プレデター(頂点捕食者)が失われた世界(生態系)にどういうことがおこるのか? この本を読んでみようと思ったのは、鹿による森林の食害が日本でも大きな問題となってきているからである。2005年に「サイエンス」誌に掲載されたこれらの論文の中には有名なイエローストーン国立公園の例もある。かって狼がいなくなったことでワピチ(鹿)が増えすぎ、食害により荒れ果てた森は1995年にカナダから連れてこられた狼によって復活しつつある。この例に限らず、本来のトップ・プレデターがいなくなった生態系では特定の種だけが増え生物多様性は失われていく。人類が捕食者としての色合いを強め、大型捕食動物を絶滅に次々と絶滅させてきた結果が大きなつけとなって回ってきた現在、その生態系のコントローラーとしての役割を人類が果たすのか、代役となる大型捕食動物を野に放つのか? 真剣に議論されるときである。

捕食者なき世界

捕食者なき世界

辺境生物探訪記

題名にあるように辺境に生息する生物についてのちょっとお茶目で酒好きな生物学者長沼毅とサイエンスライター藤崎慎吾の対談集。辺境とは言ってもその話題は極地や砂漠にとどまらず、深低、火山、地下、宇宙にまで及ぶ。したがって出てくる生物の殆どは肉眼では見ることの出来ない微生物である。人間にとってはとても生きて行く事の出来ない過酷な環境(高温、高放射線など)で生きている微生物には生命の起源の謎を解く鍵が隠されている可能性がある。そして、こういう事を突き詰めて行くと必ず突き当たる命題が「生命とは何か」ということ。福岡伸一はその著書「生物と無生物の間」の中で増殖、自己複製とは別に常に入れ替わる分子の集まりとしての生命を「動的平衡」という概念を提示した。この本の中でもそのことに少し触れられているが、長沼毅は「動くこと」とした。確かに本書にある様に宇宙は137億年前に誕生し、水素、ヘリウムから周期表をたどるように元素の種類を増やし最終的に鉄に集約されるのなら、現在のカーボンワールドの中で炭素ベースの有機物ができるのは必然かもしれないが「動く」ことの必然性はない。「動く」ことこそが生命という奇蹟なのかもしれない。しかし今後炭素にかわりケイ素の割合が多いシリコーンワールドに移行して行くことを先取りしたような生物(珪藻)が地球上で繁栄していることも興味深い。

辺境生物探訪記 生命の本質を求めて (光文社新書)

辺境生物探訪記 生命の本質を求めて (光文社新書)

裸の山

ラインホルト・メスナーの2002年の著作を読んだ。弟ギュンター・メスナーを失った、1970年のナンガ・パルバート遠征の記録である。
メスナー兄弟の登頂からギュンターの死にいたる経緯に関する見解の違いで、ラインホルトと遠征隊長ヘルリヒコッファーや隊員との間で軋轢が生じ、ラインホルトはメディアにも叩かれる。DNA鑑定によってラインホルトの主張を裏付ける結果となったギュンターの遺骸が発見されたにもかかわらず、その確執は現在までヘルリヒコッファーの遺族との間で続いているという。現場にいなかった人間が書いた報告書によって、自らの野望のために弟の命を犠牲にした男というレッテルを貼られたラインホルトの無念は想像してあまりある。
実は彼は本書と近い内容の著作を遠征後に出版しようとしたが、発禁の憂き目にあったというエピソードまである。そういう意味でも、やっと彼が事実を明らかにする事ができた本書は実に興味深い。来年は本書を原作とする映画も公開される予定なので是非見てみたい。
しかし、この経験から軍隊的大規模遠征隊による登山を嫌い、少人数でヒマラヤを目指すようになった彼のスタイルが、アルパインスタイルとして現在の先鋭的登山の主流となったのは間違いないし、その革新性において最高の登山家といえる。

裸の山 ナンガ・パルバート

裸の山 ナンガ・パルバート

アンデスの奇蹟

チリの鉱山事故の一連の報道を見ながらこの本を読んでみたいと思った。1972年におきたアンデス山中への飛行機墜落事故からの生還を扱ったものだ。当時、死亡者の遺体を食べたことがセンセーショナルに取り上げられ、その後数回にわたって本や映画になった。しかし、今回の本はアンデスの高山を超え必死の脱出行の末、生存者を生還に導いた一人が事故前後の人生も含め回想したもので、特にその時々の心の動き、人生観、宗教観などが興味深い。また、事故から30年以上たち、年齢を重ねることによって、より深く、客観的に自己分析できている彼の言葉は、様々な人生を送る者それぞれにはとって、示唆に富んだものとなっている。

アンデスの奇蹟

アンデスの奇蹟

世界は分けてもわからない

今年になって初めて書きます。実はこの本は昨年一度読んでいたのだが、ハイライトとも言える細胞の癌化のメカニズムの解明に向けた、科学者同士の競争とその中で生じたスキャンダルの部分が、結構専門的で、仕事帰りの疲れた脳にはチト難解で、電車の中で何度も本を床に落としてしまったのである。
ところが、今回、再度読み直してみると、なるほど興味深い。以前読んだ2冊「生物と無生物の間」「動的平衡」では生命を「動的平衡」という概念で定義してみせ、目から鱗であったが、今回は世界(生命を含むすべての自然)が部分だけを見てもわからない、つまり全体としてのつながりまで考えないと本当のことは見えてこないというメッセージが込められている。これは一見当たり前のようで、「そんなこと解っておる。今の科学には世界を分けて、局所的に深く理解しようとする力しかないのだよ」と思ってしまわれる輩も多そうだが、こういう視点、意識を常に持っておくことは重要な気がする。
臓器移植、新薬などの医療分野にしても人体全体のバランスを崩さずに出来ることは未だ少ないのだろう。自然の一部である人間が世界を全体として捉え理解することがどこまで可能であるかは疑問であるが、本書にもあるように、無理矢理、生と死の間に境界をもうける脳死の問題などsokoatariはもっと慎重な議論がなされるべきであろう。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

日本の地名

谷川健一の「日本の地名」を読んだ。民俗学文化人類学の研究において地名がいかにかに重要な手がかりであるかが良く理解できた。地名には古代から近代に至る2000年以上の人々の生活や移動の痕跡が残されている。また、関東以北にはアイヌ語、九州北部には朝鮮語の地名が多く残っていることなどからも日本がけっして単一民族ではなく多様な文化的背景を持っていることも理解できる。それにしても、本書のなかで、谷川健一も述べている様に、戦後、市町村合併など様々な理由のもとに地名の改変が行われ、それは現在も続いている。これは、まさしく過去の歴史を捨て去る行為に等しく、行政のsokoatariのセンスは信じがたいものがある。

日本の地名 (岩波新書)

日本の地名 (岩波新書)