自分と向き合うこと
精神的な意味で、必要以上に人に依存しないこと、期待しないこと。
最近はそんなことをよく思います。
もともとが依存しやすい質なので、余計に。
何も人嫌いなわけではありません。人を遠ざけようとか、孤独に生きるとか、そういうことでもなく。
人との関係はそれは大切です。ひとりでは生きていけるはずもなく。この歳にもなれば、それは嫌というほどわかっているつもりです。それに、世の中はひとりでは決して味わえないことで溢れている。
だけど、100%共感できる人も100%理解し合える人も、おそらくは存在しないということも、嫌というほどわかります。
別々の人間として違う個性を持って生まれてくるのには、きっと意味がある。どんなにラブラブな夫婦も、親友も、信頼関係で結ばれた師弟も、双子の兄弟でも。もし何も意味がないのなら、一人の人間として生まれればよかったわけで。おそらく別々の個性が出逢うからこそ、生まれる何かがある。
だから、自分の全部を受入れてくれる存在は、自分だけでいい。
そう思えることが、なにより自分自身を自由にしてくれる気がするのです。
よほど人を愛おしく思えるし、優しくなれる気もします。人に対して「裏切られた」「期待したのと違ってた」などと思わなくてもいいし、逆に、もし共感できたり理解し合えたときの感動は何倍にも膨れ上がって、もう感謝しかなくなります。奇跡を感じてしまう。
特に私のような凡庸極まりない人間を、一生まるごと全部受け入れてくれるなんて、自分だけでもう充分過ぎる。
だけど、最大の問題があります。自分が自分を受け入れる、それこそが難しいのです。自分こそ、自分に激しくダメ出ししているから。
凡庸なわりに「こうでなければいけない」「こうであるべきだ」っていう思いはいっちょまえにあるので、毎日自分を責めてばかり。
だから、ここは根気よく、コツコツと、自分をありのまま見る目を養う必要があり。
自分をなぐさめるのでも、諦めるのでもなく、無理に肯定するのでも、ごまかすのでもなく、過大評価、過小評価するのでもなく、ただ、ありのままを受入れる (『アナ雪』みたいなことを言っておりますが)。偏見のない「透明な目」で。
なんの価値観も押し付けない。ただただ、そのままをじっと観察する。静かに向かい合う。そういう目が、本当に温かい目だと思うのです。人に接するときも、自分に対しても。
なんて、頭では考えていても、なかなか難しいんですけど。ダメな自分はやっぱり嫌だし、合わない人は何をどうしても合わないし、腹も立つし(笑)。だから思いっきり孤独を感じたり淋しくなったりもする。人に依存したくなったり。矛盾だらけな自分です。
根気よく「透明な目」を養っていくしかないのかな。
人生の一番の目的って、実は「自分を知る」ということなのではないだろうか?そのために色々な経験をしているのではないか。そんなふうにも思えてきたりします。人を理解することも、結局は自分を知ることにつながる。
どうやら、自分から逃げてはいけない。それだけは確かな気がしています。
人は見えないところでつながっている?
離れた場所にいる人の、感情や考えていることが、ふと伝わってくる。そういうことが、普段あまり意識はしていないものの、日常的にあるような気がします。
きっと誰にでもあるのではないかな。
そんなとき、人って見えないところでつながっているんだなあ…と。不思議ですが、確かにそう思えます。
自分が一番はっきりと自覚できたのは3年前。甥っ子が生まれた瞬間でした。
ある日仕事を終え帰宅中、地下鉄の中で、ふいに、ものすごい鳥肌の立つような、感動、喜びのような至福の感情につつまれ。泣きそうなのを必死でこらえ。妹の出産予定日が近かったので、「あ、もしかして産まれたのかな⁈」と思わず時計で時間を確認。後になって出生時刻を聞いたら、数分違わずピッタリ同じでした。
些細なことだと、「メール」と頭に浮かんだのでスマホを見たら、丁度友人からメールが届いたとか。
感覚的に選んだプレゼントが、ちょうどまさにその人が今欲しがっていたものだったとか。
ふいにどんよりとした重い感情に襲われ、後から、ちょうどその時間ある身近な人に嫌な出来事が起こっていたことが判明したとか。
「しめじ」と浮かんだ次の瞬間、そばにいた幼い姪が「きょうごはんにしめじある?」と聞いてきたとか(なぜ、しめじ?)
…些細なことならきりがない(笑)
誰かの思考や感情を知らず知らずに受け取っていることが、おそらく日常にたくさんあるんだろうな。皆がそうやってつながって影響を与え合っているのかもしれない。
急にあるものが食べたくなったとか、急にある作家さんが気になりだしたとか、急にある場所へ行きたくなったとか、自分で選択しているようで、実は誰かの思いの影響を受けていたりして。
そういえば、高校時代、進路を考える時期に、突然心理学に強い関心を抱き始めたことがありました。未だに理由がはっきりわかりません。当時、自分の意志ではない違和感みたいなものをどこかで感じていて、でもなぜか闇雲に心理学を学ぶ選択をしてしまう。最終的には、本来自分に興味のあった道に進みはしたものの、あの執着は異様でした。もしかしたら、誰かの思いを受け取っていたのかな?
確かに自分の意志だ、と思えるものと、突然自分の中に流れてきた他人の感覚のように感じるもの。
些細なことなら問題ないし、逆に人生を面白くもしてくれる気がしますが、将来の道を決めてしまうほどのことになると、本当に自分自身の中から湧いたものなのか、見極められなければ後々大変なのかなと思います。わかりませんが。案外そちらに流されておいたほうが道が開けるものなのかな?
妹の出産時の出来事を堺に、そういう誰かと見えないところでつながるような不思議な感覚も、大切にしたいなあと思うようになりました。
とても大切なことを自分に伝えてくれていることがあるのかもしれないです。
なぜこんなことを書いたのかというと、一昨日にもそういうことがあったので。
甥っ子が生まれたときよりも、もっと強い感情を伴い…泣いた記憶です。
ただ、今回は確かめる術もなく。
少なくとも、妄想ではない。と、断言できないところが哀しい(゚-゚;)
映画『羊と鋼の森』
美しい映画でした。
音も景色も光も、主人公の真っ直ぐすぎるほどのひたむきさも、透明で澄んでいました。
予告で、ただただピアノの音色の美しさに誘われ、それほど期待もせずに観たものですが、映画を観てこんなに心洗われる思いになったのは、いつぶりだろう。
ピアノの調律師を目指す主人公の成長の物語。
長い間調律されておらず、埃に埋もれていたピアノを再生していく場面は、ボロボロに泣いてしまった。主人公が再生したのは、喪失の悲しみと深い孤独に沈みきっていた青年の心。あまりに切なくて美しいシーンでした。
そして、劇中に登場する、原民喜『砂漠の花』の一節の味わい。
明るく静かに澄んで懐かしい文体
少しは甘えているようでありながら
きびしく深いものを湛えている文体
夢のように美しいが
現実のようにたしかな文体
『羊と鋼の森』原作は、かなり前に一度読みましたが、当時は、悪人不在のどこまでも優しく美しいストーリーに、民喜の言う「きびしく深いもの」が欠けているような、「優しすぎる」という印象しか抱けなかった記憶。欠けていたのは、当時の私の感性のほうだったのかな?
今回映画を観て、もう一度原作を読んでみたくなりました。
昔から、小説にも、音楽にも、絵画にも、まさにこの『砂漠の花』の一節が表してるようなものを無意識に求めてしまう。
澄んでいて夢のように美しいけれど、きびしさや憂いを含み深いものを湛えている…そんなものに出逢えたときは人生の至福の瞬間です。
余談ですが、「砂漠」って、「沙漠」とも書くんですね。知らなかった。ネットで検索したら、『沙漠の花』という表記のものがいくつかありました。
もうひとつ余談。主人公の先輩役の鈴木亮平さんが、西郷どんのときと全く違うオーラを放っていて、驚きました。すごい役者さんだ、亮平どん。
読みたいのに読めない
すごく読みたいのに、読み進められない小説があります。
泣けてしまいまともに読めない。どうやら感情移入しすぎるようで。何度か挑戦したものの、しまいには少し文字を追うだけで泣けてくるまでに…。
耐えられず読むのを止めても、しばらくは感情が波打つように襲ってきては泣きそうになり。
ものすごく消耗するので、いったん挫折。
自分の経験でもないものを、なぜここまで感情移入してしまうのか不思議なくらいで怖くなる。
今まで、読み進められないほどになったことはなかった。(読み終えてしばらく放心していたことはありますが。)
とても繊細で美しい文章です。以前同じ方の他の小説を読んだこともあり、きっと好きなはず。
またそのうちに挑戦してみよう…。
そうまでして読まずとも、と言われそうですが。読みたい衝動と苦しい気持ちが拮抗していて、自分の中で闘っています(゚-゚;)
読書というものは…。ただ楽しいだけでは済まされず、ときに苦しいような、狂おしいような感覚も味わうもので。でもそれこそが自分に大切な何かを与えてくれるような気がしていて。
歳をとるごとに、涙もろくなるばかりか、ある種弱くなっているような気がします。人を支える側にもなり、本来なら強くならなければならないところ、感情が年々リアル化していく…。逆行しているようで情けないです。
名言集にほっこり
一昨年の誕生日にいただいた本。
久しぶりに読んでみたのですが、やっぱり好きだなあ〜。
いかにも「名言です」的な堅苦しさがないのがいいです。
添えられている動物の写真が絶妙で、ぷぷっと笑いつつ、ほっこりしつつ、さりげなくじんわりくる。
そのときどきで、気になる言葉も変わるのですが、本日のマイベスト5↓
背伸びして視野をひろげているうち、背が伸びてしまうということもあり得る。
それが人生のおもしろさである。
(城山三郎)
(キリンが街を見下ろしている写真とともに)
たとえ、どんなにそれが小さかろうと、
ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、
はじめてぼくらは、幸福になりうる
(サン・テクジュペリ)
方向音痴にも道はある
(須田誠)
寒さに震える者ほど、太陽を暖かく感じる。
人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る。
一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば、自分の幸福なのだ。
(川端康成)