死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『ひまわりっ!』とeufonius

ひまわりっ!』というアニメがあった。ビックリマークを付けるか付けないかで全く別の作品になってしまうので注意が必要である。忍者の方のひまわりであり、健一レジェンドの方ではない。

 そう、忍者アニメである。ゼロ年代特有の美少女アニメ……というほどにオタクオタクはしてなかった覚えがあるが、かといって一般層(そもそも当時で言う一般層とは何なのか分からない)向けの作品でもない。妙にお色気仕草も散りばめられていて何だかなあという感じがしたが、okamaによるキャラクターデザインはポップでかわいく、親しみやすさもあった。しかしそれはオタクの贔屓目かもしれない。

 どういうアニメであったか。先述したとおり忍者アニメであり、日常アニメである。忍者師範学校のほのぼのとした日常を描く。と思いきや、後半につれて若干雲行きが怪しくなり、とはいえ鬱展開に入り込むわけでもなく、全体のトーンとしては平和である(あったと思う)。こう書くと、何が魅力だったのか判然としないが、おそらく毎週見ようと思う程度には普通に面白かった、ということだろうし、そしてそれは商業作品において重要である。当時この作品がどの程度盛り上がっていたのかは分からないが、変則2クールが採られていたことからすれば、少なくともメーカー側はそこそこやる気だったのではないか。適当をこくのもよろしくないが、よい作品だったとは思うのである。惜しむらくは、1期が涼宮ハルヒの憂鬱と被ったことだろう。当時の多くの作品と同様に、その陰に隠れてしまった。とはいえ陰に隠れた名作とまで言うと言い過ぎには思う。

 

 メーカーのやる気の片鱗として述べるのが適切かは措いて、このシリーズは主題歌がとてもよかった。2作を通して、OPを白石涼子が、EDをeufoniusが担当している。伸びやかな白石涼子の歌声は、明るい曲調とあいまって、主人公のひまわりっぽさを感じられてよい。そして、eufoniusである。初見では何と読むのか分からないし、読み方が分かってもそらで書くことはできない。思えばこれが、そんなeufoniusの楽曲との出会いであった。

  第1期EDの『ぐるぐる〜Himawari version〜』は、初夏の木陰を思い起こさせる一曲で、そろそろセミが鳴き始めそうだなという時分に無性に聞きたくなる。ピアノとスネアの音が心地よく、ずんずんと前に進みたくなる。おとなしさの中に、一歩ずつしっかり踏み出していこうみたいな感覚があって、前向きな気持ちになれる。それはOPと同様に、ひまわりらしさを意識したものとも言えそうである。

「Himawari version」とのタイトルから分かるとおり、ぐるぐるにはもう一つ、通常バージョンと呼ぶべきか、eufoniusバージョンと呼ぶべきか、ともかく別バージョンが存在する。こちらはストリーミングサービスでも視聴することが可能で、アニメ版と比べるとワンテンポ遅く(アニメ版がワンテンポ速い、が正しいか)、歌詞も違う。夏は夏でも夕暮れ時を想起させ、夏の終わりに聞きたくなる。個人的には郷愁もあってHimawari versionの方が好みだが、多分もろもろの権利関係で配信は叶わないのだろう。端的に言って残念である。

 

 第2期EDの『きらきら』は、ぐるぐるとはうって変わって、ピコピコ音が特徴的な可愛らしい楽曲である。キャラソンが隆盛を極める時代において、この曲もメインの登場人物分だけバージョンがあった。eufonius名義を含めてその数6つである。多くない? でもまじぽかとか、何か世の中そんな感じでしたよね。

 少しでも時期が現在に近いからか、ぐるぐるよりもきらきらの方が、個人的には印象深くて、今に至るまで頭の中にいつも残っている一曲である。イントロからすでに気持ちよくなり、口ずさみたくなる。落ちサビからラストまでは、静かな中に盛り上がりがあって心地が良い。好き好き大好き。

 残念ながら、きらきらはストリーミングサービスに載っていない。ぐるぐる以上に何かが面倒くさいのだと思われるが、できることなら聞けるようにしてほしい。正式に聞く手段が物理CDに頼るしかないのは色々と損失である。

 

 あとはもはや別作品の話になるが、eufoniusと言えば、何かのアニメを見ていた際に毎度CMで流れていた最終試験くじらのED、『遠い夏空』である。もとい、この曲が遠い夏空というタイトルであるのを知ったのは、当時から数年経った頃だった。やたらと、と言うと失礼だが、耳につく。これも夏が近づくと思い出す。

youtu.be

 

 ここまで来て何を書きたかったのかようやく思い至ったのだが、夏が来るとeufoniusの曲が頭を流れるねと、そういうことを書きたかったのだった。今ではその名前を何も見ずに記すこともできる。

 

どこかにはいて、どこにでもいるが、ここにはいないVTuberなるもの

 引退した、あるいは契約解除されたVTuberのグッズを販売することは可能か。ここで想定しているVTuberとは、企業所属のタレントであり、かつ現実で人体での活動をしないタレントを指す。一般的に企業はタレントの名称について商標権を登録しているところ、仮に引退等をし表舞台から姿を消したとしても、基本的にはそれらの権利を存続させるだろう。それは当該タレントが復活する可能性を留保してるからとも言えるが、実態としては、他者に当該名称を使用されることを避けるための、資産保護の一環である。

 事業としてのVTuberは、タレントビジネスと、いわゆるIP・コンテンツビジネスの良いとこ取りをしている(悪いとこ取りをしているとも言える)。タレントの人気が軌道に乗れば(これが一番難しいのだが)、多種多様なグッズ展開が図られ、半ば無尽蔵に収益手段が開発され、確保される。ファンには、購買意欲をそそられないグッズを買わない選択肢も与えられるが、「購買して応援する」こと自体が購買意欲になるので、あまりに消費者を舐めた商品でなければ一定は売れるように見える。それは人間のタレント(アイドル)でもそうだよ、と言われれば確かにそうで、人間のブロマイドとVTuberのアクスタ(人間もアクスタになるので比較対象としてはよくない)のどちらが粗製乱造感があるかといえば甲乙つけがたいが、例えばボイス商品なんかはVTuber特有に思われ、それはアニメの文脈があるからこそな気がする。人間がよくわからないシチュエーションボイスをやっていると思うと、私はちょっとキツいなと感じてしまうもろもろも、キャラクターがやっていると思えば一定受け入れられてしまうのは、VTuberの持つ視覚的な要素と、消費者側のオタク的な素養がマッチングしているからだろう。

 VTuberはキャラクターであるか。その昔、と言っても2022年頃だと思うが、その頃は企業側もまだ「キャラクターと現実にコミュニケーションがとれる」のを一つの売りにしていた覚えがある。それがコンテンツとしてのコンセプトだった。しかし、VTuberをキャラクターたらしめている要素が何かを考えたとき、結局は視覚的な部分が多勢を占めるように思われる。声だけではキャラクターにならない。最初にアニメ的な外形を認識しているから、その後音声を聞くだけでも、頭の中にキャラクター像が浮かび上がるのである。そうすると、その作用は別にVTuber特有のものではなく、イラスト化された配信者でも歌い手でも同じことである。では、VTuberとそれらイラスト化された人間との境界線を考えると、そのままで恐縮だが、VTuberは実在する人間をイラストにしたものではない、との認識があるかどうかになるだろう。とすれば、やはりVTuberはキャラクターなのである。

 キャラクターは実在しない。しかし、実在しないからこそ、商品展開として採れる選択肢も豊富である。そして、それらの商品を通じて、私たちはキャラクターとのつながりを見出す。それはVTuberに関するグッズの消費行動を左右する、重要な要素である。ファンたちは、単なる商品を購入する以上の意味をグッズに見出す。それは、好きなキャラクターとの繋がりを感じる手段であり、その存在を肯定し、彼ら/彼女らの世界を一部自分のものにする行為である。ところが、そのような行為をすればするほど、現実との乖離は広がる。つながりを留めようとした結果、反対に、彼ら/彼女らが実在しないとの感覚は強くなる。

 引退した、あるいは契約解除されたVTuberと、我々の世界は、比喩表現でなく断絶する(ここでは生命的な死を想定していない)。今もどこかで元気にやってるよ、と思えるかどうかは、彼ら/彼女らがいた世界をどの程度まで現実のものとして捉えられていたかによる。そして、その現実感を向上させるのは、思っているよりも難しい。表舞台から姿を消したVTuberは、文字通りこの世界からも消えてしまう。VTuberに触れる行為は、異世界を内在化する行為なのだと思う。その手段として配信があり、グッズがあり、ライブがある。それらを通して、私たちは存在しない世界を、キャラクターを自己の中に取り入れ、彼ら/彼女らを実在するものとして取り扱う。そして、彼ら/彼女らがいなくなる時、そのような現実が存在しないことを思い出すのである。

 引退した、あるいは契約解除されたVTuberのグッズを販売することは可能か。キャラクターは歳をとらない。死を迎えない。いつまでもそこにいるはずである。しかし、VTuberはそうではない。いつか明確に終わりが来る。その矛盾は技術的なものでなく、心情的なものであるから、時間とともに解消される見込みは薄いが、むしろそのような矛盾こそがVTuberの魅力の根源でもある。どこかにはいるが、ここにはいないのである*1

*1:これは消費者側特有の感覚であることを留保する