今日から台所の改修工事が始まった。少し間をおいて次はリビングの壁紙張替えその他。しばらくイレギュラーな生活となるが、そんなこととは無関係な今回の投稿。
今回投稿する10点は、4月12日から20日までの9日間に描きだしたもの。9日で10点だから、まあ、ハイペースだ。最小が14.5×10.6㎝、最大が19.9×15㎝だからペン画としてはそう小さいサイズではない。
流れとして、ある作品のイメージから次の作品が導き出されるということもあるし、関連性のないこともある。基本的に、テーマやモチーフや方法といった個人的(?)な範疇における連続性には、あまりこだわらないようにしている。繰り返しは好きではないのだ。結果として見えてくる不連続性の方が望ましい(それは内在するバリエーション性の豊かさだから)。それでも垣間見えてくる連続性があれば、それはそれとして自分なのだと認めるのが自然だ。
ともあれ、四月の作品は全点掲載と決めた。そうでなければ掲載しなかったものも何点かある。というわけで、九日間のイメージの連続性と不連続性を眺めてみた。
766 春の鏡 (皮膚は美しき服にあらずや)
2024.4.12-19 12×16㎝ キャンソンラビーテクニックに水彩・ペン・インク
佐藤春夫の詩集(『殉情詩集 我が一九二二年』(講談社文芸文庫)を読んでいて、「『ツァラトゥストラ』及び『トルストイ語録』の訳者に感謝す」と副題のついた「詩」という作品の一節「皮膚は美しき服にあらずや」から生まれたイメージ。
当時の新思潮であったバーバリズムや、そこから派生したヌーディズム(裸体運動)などとの関連もあるようだが、そこにはあまりこだわらず、オリジナルな発想を加えた、似ても似つかぬ、変奏。アンドロギュヌス。
いずれにしてもあまり良い出来栄えとは言えないのだが、今回はすべて時系列に出すということなので。
鏡のような白い形は、水彩の下彩の際の塗り残しの形を見立てたもの。少々苦労した一点。
767 帰元‐悲(あわ)れみ
2024.4.12-15 19.9×15㎝ キャンソンラビーテクニックに水彩・ペン・インク
描かれているのは、結果として観音菩薩だとしてもよいのだが、観音菩薩として描きだしたものではない。曖昧に言えば「菩薩性」とでも言うべきか。
田舎の山村などを歩いていると、ときおり路傍に、よく見ればそれと知れる地蔵や観音を刻んだ小さないくつかの野仏群を見出すことがある。墓地というほど整備されたものではないが、いわゆる野墓といわれるもの。
近づいて見れば、文化文政といった年号とともに、「帰元」とか「帰一」、「帰空」、「同帰」、「同帰元」といった刻字が刻まれたものがある。死後は元に帰り、同じところに帰り、一つになり、空となるという、いずれ仏教思想由来の語ではあろうが、そこに六道とか輪廻転生といったおどろおどろしい思想の影は見出せず、どちらかといえば祖霊信仰、集合霊信仰といった、神道以前の古い日本の感性に触れるような気がする。
いずれにしても、タイトル(=テーマ)は完成後。上記のようなことを想起して付けたものである。
なお、観音菩薩の特徴である「慈悲」をひもとけば、「慈(いつくしみ)」と、「悲(かなしみ)」ではなく「悲(あわれみ)」と読むべきことが腑に落ちるような気がする。
767-2 参考
檜原村茅倉は山腹にへばりついているような集落だが、その路傍にあった野墓。風情である。
左は夫婦(両親の供養塔=墓標)で「會」とあるのは「倶会一処(くえいっしょ)」の略ではないかと思う。極楽浄土に往生したものは、仏や、この場合は夫婦が同じところで出会うという意味。
上の二つの墓標には「同㱕」「同𡚖元」の刻字が見える。「㱕」「𡚖」は「帰」の異体字。
767-3 参考:同前
前図の右上の墓標。「○○信女」等三人の戒名。上部の「同𡚖元」の𡚖は「帰」の異体字。夫婦、子供、いずれ同じところに帰る。享保4年1719年の造立。
ほんのわずかに小首をかしげ合掌する、おだやかな菩薩。300年野ざらしでありながら、状態は良い。
768 晩餐
2024.4.12-15 17×15.2㎝ ワトソン紙に水彩・ペン・インク
YouTubeはほとんど見ないが、リール動画は多少見る。AIが勝手に推薦して、アウトドア系、サバイバル系、ワイルドクッキング系の動画がやたらに流れてくる。いいかげん飽きたが、まあ嫌いではないから、たまに見る。そうしたことで何となく出来上がったイメージ。でも制作の主役は、ペンの動かし方といった、技術的な面白さのようだ。
ここから、物語が作れそうではあるが、あまり未来は感じられないかも。
769 無題(悲の器)
2024.4.16-23 15.1×11㎝ アルシュ水彩紙に水彩・ペン・インク
最初のイメージスケッチに「悲の器」と添え書きしてあった。『悲の器』といえば高橋和巳の代表作だが、読んでいない。この作品とも関係がない。魅力的(?)なタイトルだけが浮いている。
何となくイメージ的に中途半端なまま完成してしまったという印象。だからタイトルは「無題」だけでよいのだが、そうした場合でも、なるべく副題のようなものは記しておきたいと思っているので、そのままにした。そういうこともある。
770 蛇体
2024.4.17-19 19×14.5㎝ アルシュ水彩紙に水彩・ペン・インク
この絵を見たとき、女房は「ゲッ!」と言って、複雑なひきつった微笑を浮かべつつ、目をそらしていった。後の3点も同様。
まあ、その気持ちはわからないでもない。多くの人に忌避され、おぞましく思われるモチーフというのは、文化云々といわずともいくつかある。実際の蛇は私も苦手だ。一人で山を歩いていて遭遇して、覚えず「ギャッ!」と叫び声をあげて飛び上がってしまうくらい。しかし、冷静に見れば、すばらしい造形的な魅力を持った存在であることも認めざるをえない。
なぜわざわざこんなものを描いたのかと言われれば、それは天使が送り届けてきたからだとしか言いようがない。ある時、唐突にこの完成形のイメージで降りてきたのである。
途中から、エデンの園でイヴに知恵の実(リンゴ)を勧めた蛇や、人面蛇体の宇賀神などのイメージとつながったことは事実だが、モチベーションの実質としては、ない。しいて言えば、複雑にこんがらがった有機性といったものを、冷徹に描いてみたいという純粋に(?)造形的かつ技術的な衝動が、私を面白がらせた理由だろう。
771 南国の見知らぬ神
2024.4.18-22 14.5×10.6㎝ 雑紙に水彩・ペン・インク
順序としては蛇体シリーズ(?)の後に置きたいところだが、今回は制作順に出すと決めているので、この位置のまま。
内容的には特に言うことはないのだが、きっかけとしては、友人がひと頃しょっちゅう話題にしていた、彼のFB友達のドミニカ女性とのやりとりのこと。むろん私には何の縁もゆかりも見たこともないのだが、連日熱く語るその友人のおかげで、何となくこんな異国の神だか、巫女だか、女性像が降りてきてしまった。無理やり押し付けられた、一種の集合的無意識?
絵画用ではない正体不明の描きにくい紙に苦労したせいで、珍しくやや積極的に色鉛筆を使ったところが、収穫といえば収穫かも。結果としては、そう嫌いな絵でもない。
772 蛇体のをみな
2024.4.18-19 15.7×12.6㎝ 木炭紙に水彩・ペン・インク
再び蛇体シリーズ。前掲の男性形の「770 蛇体」を描く過程で、対というわけではないが、女性型の蛇体が自然に出てきた。
2点並べて制作していると、本作が娘道成寺の「清姫」に見えてきて、前作のタイトルを「安珍」にしようかと一瞬思ったが、さすがにあざといような気がして、やめた。
773 双蛇体
2024.4.20-22 18.6×13.9㎝ アルシュ水彩紙に水彩・ペン・インク
複雑にこんがらがった有機性を冷徹に描くというのは、やってみると予想外に面白い作業だった。それはそれで、その先に何か新しい世界もあるようにも思われた。
それはそれとして、男性形単体、女性形単体とくれば、次はどうしても双体となるのは必然(?)。蛇体を描くという気持ち悪さ(?)は相変わらずだが、これも造形のため(?)といった心境で、ほぼ根性で描いた。
774 蛇精
2024.4.20-23 16.5×12.7㎝ 木炭紙に水彩・ペン・インク
さすがに蛇体を描くことに疲れ、飽きてきたのだが、何かやり残したことがあるようが気はしていた。それはクリムトやラファエル前派、象徴派が描いたようなファムファタル(男を滅ぼす悪女/運命の女)の比喩としての蛇体。
うーん、ここまできたら描くしかないかという感じで、これが最後だと取り組んだのが本作。複雑な造形性という点では、やや力尽きて単調になった感はあるが、まあイメージとしてはある程度やりきったかなという気はした。
そういえば中上健次に『蛇淫』という小説もあった。昔読んで面白かった記憶はあるのだが、内容は忘れた。この絵と関係あるのかな?
775 無題(父祖‐JIZOU)
2024.4.20-23 18.8×13.3㎝ 水彩紙にペン・インク
蛇体を描くことに疲れたからというわけではないだろうが、何のイメージも持たず、黒い下彩の洋紙を見ていたら、ぼんやりと浮かび上がってきたフォルム。
茫洋とした大男。祖霊、父祖、集合霊といった言葉が明滅する。まとまらない。紙上のニュアンス、にじみなどを手掛かりに、肩の上の子供(神?)が現れ、それが増える。まるで水子地蔵ではないか。私は水子地蔵というイメージは好きではないのに。
だが父祖の集合霊としての祖霊にしたところで、要するに子孫を見守る存在ではないか。子を守る地蔵という役割(?)のイメージは、そうした前神道的感性を外来宗教としての仏教がスムーズに肩代わりしたものでもある。だとすれば、本作のイメージが父祖の祖霊であれ、地蔵であれ、同じことだと思った。
今一つ洗練(?)されないまま終わったという気はするが、まあ一度は描いておくべきイメージだったのだろう。これはこれで。
(記・FB投稿:2024.5.8)