FILM RED 感想など

またネタバレだらけになるから感想をこちらにわける

 

○Adoさん

すごい。なんでも歌える。なんでも歌えるけど全部Adoさんなのですごい。Adoさんいないとこの映画成り立たない。ワンピースでミュージカル映画やるのすごい。中に中田ヤスタカ絶対いるだろうと思ってたらやっぱりいた。ウタちゃんの「インターネットを模したデンデンムシで広がる」「本人は表に出てこない」あたりの設定は多分Adoさん含む最近のアーティストや少し前のボカロの広がり方から来てるし、なんならAdoさんの存在を前提としてこの映画の構想が組まれたのではという気までしてくる。

 

○ウタちゃん

「シャンクスの娘」というクソデカ設定を映画一本で使い切るの多分メチャクチャ大変だったと思う。しかも原作と大きな矛盾を作ることなくちゃんと使い切った。すごい。その分映画の中での立ち位置の説明は結構忙しかったかなあとは思う。ワンピース世界で後付けとして出してくる大物キャラクターに伝説のジジイではなくてルフィと同世代の女性を持ってくることによる苦労みたいなものが垣間見えた。

基本対象は本来のジャンプ読者層向けにしないといけないのに、100分で

・導入:ウタというキャラクターの説明(シャンクスの娘、ルフィの幼馴染)

・転換:ルフィ陣営との意見の対立

・事件:ウタ(の作り出す世界)vsルフィ陣営+対立海賊団+海軍

・終幕:ウタが今後のワンピース世界でおそらく触れられないことの理由付け

をどうにか全部やりきったのほんと感服する。敵味方概念に捻りを入れる、戻す、を繰り返すの原作だとよくあるけど、ロビン登場〜生きたいッ〜正式加入を100分の早送りにしたらこうなるかな……という印象。よくまとめたなあ…

 

○世界観など

まどマギ(というかイヌカレー)が世の中に与えた影響のデカさにまた感慨深くなってしまった。敵デザインよ。

「大海賊時代は、一般人からするとやはりメリットの全くない世界であることの再説明」「歌っていただけなのにいつのまにか崇拝の対象になってしまうウタ」「楽しいことばかり、という価値観に逆に耐えきれず生活に戻ろうとする観客(≒生活のある者、社会人)の感覚を理解できないウタ(≒社会を理解せず育ったこども)」「全体を見ているので個の切り捨ての早い海軍上層部」「自分たちの生存可能性を上げるためであれば敵相手でも停戦・連携の早い実動部隊の海軍と海賊」「敵味方合同部隊に明確な指示を出せるコビー」「びっくりするほど見ているだけの五老星」あたりは尾田さんそういうの好きですよね!もう!わたしも好きですけど!という感想しかない

 

○ファンサ

細かいファンサが多くて楽しかった。その場にいる説明が成り立つキャラはなるべく新旧ひっくるめて入れてきた感じかな。ベポかわいい。ブリュレ、というかビックマムの子どもたちはやっぱり人気なんだな〜〜と思わされた。しかしウソップのアレは既出でしたか……?

さっきも書いたけどコビーまじ大佐。見聞色くっついてるといっても有能すぎる。

 

○25周年の映画として

原作漫画以外のことを全く知らないんだけど、次の最終章に向けての一つの区切りとして、という意味合いを含んでいるのだとすれば、

・「赤髪のこれまで」を知っているウタを明確に退場させ、物語が未来へ向かっていることをはっきりさせる

・赤髪のクルーと麦わら(大船団+α含む)のクルーを対比させる描写を入れて、将来の麦わら海賊団の立場を暗示させる

あたりがやりたかったことなのかなあと思った。あとこれまでも世界規模で巻き込みが生じる単発のオリジナルストーリーってあったのかな。もしなかったとすれば、今後は大体の出来事世界規模ですよ〜という導入としては良いのかもしれない。

 

追記: ○ベビーウタちゃんさん

あやしたら笑うけど寝返りは打たなさそうだから…3ヶ月くらいかな…と。正直あの世界観で海賊の船に乗っていてあの年まで生きられたこと自体が奇跡のように思う。あのサイズの子の育児しながら航海はほぼ不可能でしょう。ワクチンもないしな…人工乳は…ないだろうな…離乳食…クルーは詳細まで知らないだろうな……

なのでウタの記憶に残っていないだけで、地元の女とか縄張りの村で育っていた期間は割と長かったのではないだろうか。

ウタウタの実をいつ食べた(もしくは果汁を飲んだ、かもしれないけど)のかについては全く補足がなかったけど、アニメで補完されたりしているのだろうか。もしないとすると、海軍上層部があまりにもウタの能力について熟知しているので、海軍保有の実だったのでは?とか、シャンクスがウタに食べさせたのは実の所在(=楽譜とセットで強力な兵器になりうる能力の所在)を明らかにして事実上幽閉しておくためでは?とか思ったりもする。ウタがムジカを起動できると分かっている状態で国を滅亡させてウタだけ幽閉しておくことへのメリットがシャンクスにありすぎるんだよねえ。

上記の通り、3ヶ月で拾われたウタが生存している=ウタは実は船に乗っていなかった期間がそれなりにある、と仮定すると、

実を食べさせたのもシャンクス、あの国への航海にあえて連れて行ったのもシャンクス、とするとその結果ムジカが発動し、国が滅亡したのはやっぱりシャンクスのせいでは??という気もするんだよな……

そうなるとシャンクスにとっての唯一の誤算はその後の世界の発展で映像デンデンムシができてしまったこと、ウタがそれを拾ってしまったこと、だろうな。シャンクスも技術の発展までは想定出来なかったと。

全部妄想ですよ。シャンクス好きな人に怒られそう。

 

追記おわり

 

 

Adoさんはいいぞ!

おつかれさまでした。

 

ゼノブレイド 3 所感と感想

メインシナリオ+全ヒーロークエスト(覚醒除く)+メイン6人覚醒クエスト回収したので感想。まだまだクリアしていない人も多い時期かと思うので、こちらに避難して記載します。ネタバレあり。この休みが終わったらこれ以上やる時間があるかはちょっとわからないので、半分も触っていないサブクエと覚醒クエストはやるかわかりません。

 

メイン考察周りはみんながしてるから別にいいかなと思ったのと自分自身が拾えていないストーリーが多分結構多いので自分が思ったことと気付いたことだけ。

 

◎ゲームシステムについて

・ムービー

正直ムービーは長い……。綺麗で丁寧なのはすごいと思ったが、合計アニメ2-3期分の動画を操作できない状態で見続ける必要があるのは結構しんどい。自分が大人だからまだ良いが、ゲーム時間に制限のあるキッズはブチギレじゃ済まないのではと思う。2,30分動画見させられて集中力が切れてきたところに物語世界の重要事項が飛び込んできたりするので、多分わたしも見たけど記憶に残っていない設定いっぱいありそうな気がする。

 

・戦闘

戦闘システムはイージーでプレイしていたので困りどころはなし。ゼノブレのいつも通り、覚えることは多いし、プレイしていない人に突然投げてなんとなく触れるタイプのシステムではないことは様式美。ただランク上げをしないと経験値がもったいないとの思いから、いろんなクラスを触るよう仕向けられているのは前半は良かったけど、ヒーローが増えてくる後半はやや疲れた。これは好ましいと思う人も多いと思う。

 

・ノポンコイン、お金

ノポンコインの上限に気づかず自動売却されていくさまはちょっとしょんぼりした。使い所ないけどさあ。あと拾える装備品が豊富すぎてお金の使い道が全くない。一応これは、世界観的に金銭のやり取りによる流通がメジャーとは言い難い環境なので、という解釈はできなくもないか。2はシリンダー買ってたね、そういえば。

 

◎ストーリーについて

・時間ループの扱い方とNとM

みんな大好きループものの採用方法が非常に上手。5話で「今回のノアはここまでか〜」と思わせてからの流れは素晴らしいと思った。主人公(操作主人公)がひとりだけ記憶引き継いで頑張るパターンじゃないのは良い。Nがひたすらかわいそうかなとは思わなくもないが。Nがノアとしてループしていたときは完全に記憶保持しているわけではないけれども、一人でループを耐える人が「疲れちゃった、もういいや」という設定はいいなと思いました。そりゃそうだ。オカルンとか梨花ちゃんとかが超人なだけなんよあれは。

そしてMはむしろその上で変化しないことに疲れちゃったキャラクターだが、メビウスの感覚を持たないままメビウスになった存在でもある。実際疲れちゃってZのお眼鏡にかなったのはNであり、MはZにNがお願いした結果メビウスになっている。実際世界を動かしたのはよく考えるとこの人ですよね。結局Zの「今が今のまま止まり続けることを強く望む思い」「強者による世界の変革を受け止め切れない弱者」を汲んでメビウスとなるものを選定していた方法は、アイオニオンの継続としては非常に正しかったということ。どちらでもないMという存在をメビウスに受け入れてしまったことから全ての崩壊が始まったと言っても過言ではなさそう。

 

・主人公サイドの気づきの"普通さ"

どんでん返しが少ない。1,2に共通するストーリー展開の楽しみとして、敵や相手の世界や理論の理解によって、主人公とプレイヤーが「同じタイミングで」固定していたはずの敵味方概念のコペルニクス的転回を経験する、というのがあったが、今回はそれがない。

また、プレイヤー視点からすると、今回の主人公たちがメチャクチャ驚く場面というのは、我々にとっての普通の生き方や普通に生きていたら思いつく発想であることが多い。そこから彼らの察しが悪く(テンポが悪く)見えるのも仕方ないが、この部分の物語の処理はまあ、難しかっただろうな……と思う。1や2のキャラクターにとって驚きの出会いの対象はマシーナ、ハイエンターやブレイドイーター、マンイーターであり、その理論は我々の現実世界には存在しないから同じタイミングで驚くことができるが、今回は主にシティーの人たちの産み、生まれ、老いる部分に最も衝撃を受けているので、きちんとキャラクターと感受性を合わせないと結構共感しにくい。とはいえこれは、プレイヤーがそこに「一緒に驚ける」「驚く気持ちがわかる」人間であってほしいという製作側の思いもありそうだなと思った。今作は弱者の論理がしっかりテーマとして書かれているので、特に。

 

・弱者の論理とメビウス

王道JRPGでこんなにいっぱい明らかな弱者や明らかに精神的に弱い人間が出てくるのも割と珍しいかなという気がしていて、好感が持てる。主人公たちにわざわざ「俺たちは運がよかっただけ」と言わせるのは本当に令和のゲームという感じ。すごい。

そして結構メビウスサイドキャラクターの造形や小物っぽさ、退場のあっけなさに辟易していた人は多い印象だが、そこはあまり気にならなかった。あえてZがそういう人間をメビウスに選んでいるだろうからだ。魅力的な悪者とは強固な意志を持ち行為する強者に他ならないので、メビウスに入れる対象にならない。そもそもメビウス構成員自体も割と頻繁に新陳代謝されている可能性が高い(「新しい執政官」という言葉から、10年単位未満での入れ替わりはままあることが想像できる)。メビウス自体は概念でしかないので、彼らもまた個である必要がない。

単純な悪の小物ではないメビウスも一部存在するのは、メビウスの思想(今が今のまま止まり続けることを強く望む思い)自体は悪ではないということを最低限裏付けるためのものであろうと思う。メビウスゼノブレイド世界におけるモナドの対義語の一つといってもよさそうな概念であり、モナドが誰の心にもあるように、メビウスもだれの心にもあるというのも確かにあるし。

改めて思うとシティーの場所やシティーの人間の生き方は一般メビウスには見つからないとしてもZは認識していたことになる。いつでも潰せるバグなので放っておいた、あとはなんだかんだメビウスという立場は飽きてしまうので楽しみに取っておいたという感じかなと思う。ウロボロスに連なるものなので住民全員がアイオニオンの因果からは外れている可能性はあるが、それも予測外の行動をしうるというだけなので、対処自体は難しくないのだろうし。それにシティーの人たちも一定数メビウスになっているような描写もある。戦争世界の中で自分たちだけが幸運にも逃れているという「今」を失いたくない人は結構いると思うので、不思議なことでもないだろう。これは非戦争地帯に生きる我々への皮肉でもあるだろうな。

 

・輪廻転生について

一般アイオニオン人が輪廻から外れるルートは二つあって、①成人の儀を迎える②メビウスになり、死を迎える。②はともかく、システムとしては①が設定してある理由がよくわからない。10年を迎えられるような個体はコロニーや軍を跨いで存在が有名になってしまうので、いくら全員寿命が10年以下でも転生がばれてしまうリスクが高い。輪廻を回し続けるには、個が歴史や地域を跨いで個と認識される可能性を極力避ける必要があるので、そうなってしまった個体を排除するシステムを組み込んでおいたのかもしれない。

とはいえこれは緩やかに輪廻から外れる人間が減ることを示しているので、そのためのシティーという可能性もある。数は少なくともおそらくシャナイアのようにシティーに不適応を起こして輪廻に組み込んでもらおうとする人間は一定数いると思われるので、補充のためには細々と生殖し続けるコミュニティが必要不可欠なのかもしれない。

また先述の通り、②に関してはウロボロスにかなりメビウス構成員を減らされてもそんなに困ったそぶりがなかったこともあり、意外とよくあることなのではとも思う。

 

・二つの世界の融合と再生について

正直かなり混乱した。エンディング後の世界を、これから改めて融合に立ち向かう場面と捉えた人もいるし、融合後の再生がうまく行われた世界と捉えた人もいた。一時的に構成されただけのループ世界であるアイオニオンが残存しているかも不明。とはいえ設定的には後日談をやるのは割と厳しいのではとも思うので、ここの深掘りは追加パッケージでもしないんじゃないかなと思っている。TOAで帰ってきたのがルークだかどっちだか分かんないのと同じじゃないかなこれ。

そもそもラストで一気に概念性が上がった会話についていけなくなり、二つの世界の融合と分離のあたりで、あれなんでこいつらこの先一生会えないんだっけと一瞬混乱してしまったりもした。たしかに今回においては今の安寧を乗り越えたところにある不確実性な未来へのチャレンジというのは極めて重要なテーマなので、神視点であるプレイヤーにもあえて分からなくしてあるのだとは思うが、作中で主人公たちが

 

○世界の時間をすすめる ということは

○アイオニオン時空自体の消滅または現世ゼノ時空からの切り離し であり

○今、行為している自分たちアイオニオン人の時間や寿命が伸びるわけではなく

○ましてやシティーの人たち(=輪廻から外れている人たち)に関しては存在そのものが消える可能性が高い

ことについてはっきり認識している場面あったか????というのはかなり疑問に思った。

 

つまり計画通りにことが運べば、二つの世界の人間は「一生会えない」なんてそんなレベルではなく、そもそも記憶していられないし、なんなら元世界で幼馴染だとわかっているケヴェス勢はともかく、アグヌス勢は同陣営のお互いですら一生会わずに天寿を全うする可能性もある。5億年ボタンの5億年目の最後の日みたいなものだ。

 

そのレベルの選択をするという覚悟、本当に主人公サイドにあったか??ほんとに???

 

同様に、どう考えても一般アイオニオン人、特に一般シティー人の皆さんはそのことについて知らなさそうというのがかなり引っかかる。上層部はともかく、作中の短い時間内で輪廻転生システムやメビウスの存在理由まで全て一般市民に説明できたとは思えない。執政官の正体やもう敵陣営やロストナンバーズと戦う必要がない理由、くらいであれば理解した可能性はあるが。命の火時計を気にせずに生きられる、もう戦う必要がない、場合によっては10年以上生きられるかもしれない、そしてオリジンに乗っているメビウスの親玉はなんか敵っぽい、くらいの認識で最後の日を迎えた人間のほうが多いのではないだろうか。今の自分の存在が世界ごと消滅する可能性について知っていた人はどれだけいるのだろうか。

そして、知っていたら主人公に味方しただろうか。

これはサブクエをこなした数の多い人ほど強く抱く疑問ではないだろうかとも思う。

長い目で見ればアイオニオンの世界の成り立ちも人の生き方も不自然極まりないことはわかるし、世界レベルで見れば未来へ進むのが望ましいことはわかるけれども、そのために「変わらない今」と定義されてしまった世界そのものと心中するつもりまではなかった人の方が多いのではないだろうか?

 

と、ここまで掘り下げてはじめて、メビウスの正当性がはっきりするように思うし、主人公サイドの選択で一旦構築された世界が吹き飛ぶことになるので、結局強者の理論じゃん……せっかくここまでやったんだから未来に進もうぜってめっちゃ空気に流されてんじゃん……と思ってしまうのであった。

 

もちろん実はアイオニオン時空だけが別枠で保存されるという可能性も十分あると思うが、それはそれでいつかは再びメビウスのようなシステムが生まれ、他の世界と接続なく今までと同じように世界が回るというだけなので、特にメリットは無さそう。

世界が交わった影響で因果律が変わり、それぞれの世界で一度アイオニオンで得たつながりをいつか獲得したり、別の形で生命を得たりする(それはアイオニオン時空の彼らそのものでは決して無い)程度のご褒美でマックスかな。さすがにそれくらいはあってほしいなと思ってしまう。

もしかするとずっとアイオニオンに生きる者の価値観としては、死や存在の消滅への恐怖がそこまで認識されにくいという設定はあるかもしれない(ただでさえいつ死ぬかわからない戦場にしか生きる場所がなく、無意識に再び転生することを知っているので、命を失う恐怖を恐怖として受け取る能力がないなど)が、それならそれでもう少しプレイヤーには説明してほしかったかなあというところ。

 

今作いちばんの疑問でした。

 

・ノポンの扱いは?

今作ではノポンはおそらく命の火時計に関与する命として認識されていないことから、1,2よりさらに中立感が増している印象がある。ノポンはゆりかごで作られている描写はなかったが、ノポンが生まれたり死んだり送られる描写もなかったので、彼らの生殖がどういう扱いなのかは不明。ノポンは知的レベルの変わらない生き物であり、行商としてシティーとも交流があり、寿命も10年では無さそうなので、そこから体制や転生を疑問に思うノポンがいてもおかしくない気もするが、その疑問を最低限カバーするための「ノポンの不干渉」設定なのかなあとも思った。なんなら主人公メンバーの中で最年長はおそらくリクだろうし。リクは何者なんでしょうね……。

 

◎キャラクター

・ノア

清楚な見た目でいちばん脳筋だった。あの世界で世界に疑問を持てる上に実行に移せる人は相当賢い。

・ミオ

鋼メンタルヒロイン。かなりメンタルが強い(二回目)。普通あの状況で他人のフォローまでできない。

・ランツ

バカ筋肉担当かと思えばすごい気遣いのできる人。やさしい。

・セナ

こちらも筋肉担当かと思いきや多分いちばん繊細な人。パーティの中では筋肉担当二人がいちばん一般人に近い感覚を持ってそう。

・ユーニ

性悪ヤンキーかと思ったら素直でさっぱりしたいい女だった。地元でメチャクチャモテるタイプ。

・タイオン

かわいい。

 

 

 

ひとまずこんなところでしょうか。

もう少しサブクエやったりしたら意見が変わるところもあるかもしれません。

おつかれさまでした!

血の轍 第一集 一話 感想

携帯メモにツッコミを綴りながら再読していたら文章量が気持ち悪いことになったのでとりあえずここに置いておくことにしました。

ネタバレあり。

ページ数は単行本におけるkindleでのページ数に準じます。紙と多分3ページほどずれています。

二話以降も続くとは限りません。

 

 

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p13 13歳にこしょこしょする母親が端的に気持ち悪い。わたしが朝起きたら母親に顔の産毛を剃られていたあの朝を思い出して吐き気がする。

 

p15 13歳の子ども、一般会社員勤めの夫を考慮すると、静子は若くても35くらい。これだけ顔をかき分けられる著者がこんなに母親をかわいらしく描くのはおかしいのでわざとだと思う。息子から見た母だとすると、母親を女と意識する側にフィルターがかかるのは普通はあまり考えにくいので、そう思わざるを得ない扱いを受けている(母親が恋愛対象に含まれるように教育されている)と想定する

 

p18 1990年代、専業主婦、息子の朝ごはんが水(牛乳?)と肉まんだけ。時代を考えると夫がそれを受け入れているのがやや不自然かもしれない。夫は本気で家庭に興味がないかも。

 

p22 本当に帰るから、ということは前科あり。

 

p23 水着の名札が消える前に書き直されていることに違和感を持つ人が世間にあまりに少なくて驚いている。本人が気づく→親に依頼する、という手順を踏まずに先回りして直してしまう時点で子どもとの自他境界が曖昧になっている親であることがほぼ確定。わたしもそのような親の元で育ったが、親が子供の学校の持ち物を管理している。プールセットと同じように、通学カバンの中や机の引き出しの中も見られている、かつそれを当たり前の権利と思っている可能性が高い。

 

p25 名越先生も言っていたが、これは中学生男子ワールドへの過剰適応の顔。自覚と出力される会話は明らかに乖離。中学生なので、まだ意識してやっている可能性は高い。静一の視点で画が描かれるため、絡みにきた同級生が不細工に描かれているのもわざとかもしれない。

 

p33 吹石は顔と行動の時点で、水商売美人母とのシングル家庭か、女の匂いが強い美人母に捨てられた父親とのシングル家庭であることがほぼ確定。金銭的な困窮のため持ち物がボロボロという描写がないので、父親に引き取られているか。

 

p38 食べて良いか聞けばお菓子を食べて良い家庭であることに逆に違和感。ダメと言われた回数がおおければあの行動にはならないはず。平成初期の良妻の見た目をしている、さらに明らかに過保護な行動をとるタイプの割に、子どもの食への興味が薄すぎる。子どものために過保護になっているわけではなさそうという疑いが出てくる。

 

p39 子どもに選択権があるようにみせかけて、親の思うことを選ぶよう圧をかける場面。我が家でもよく見た光景である。家族でケーキを食べるとして、わたしは子どもだからはじめに選ばせてもらえるが、母親が選ぶ可能性の高いケーキは決して選ばないか、それがわからない場合は母親に優先権を譲るかする必要があった。母親が拗ねてしまうからだ。彼女は姫なので。それと同じである。

 

p42 おもしろいのなんもやってないんねえ、と母親にテレビを消された時に13歳が何も口答えしないのは過剰適応に見える。静子の心情としては①教育上、バラエティやアニメ、ドラマを見てはいけないことにしている②息子もテレビの番組を選択できるということに気づいていない、のどちらかか。我が家は①に近かったが、この家庭では②な気がしてならない。もちろん②の方が悪い

 

p44 後からわかるが、この白猫のエピソード、本来であれば無邪気に掘り返して良いような出来事ではない。少なくとも話題が出た時点で顔を赤らめて子どもが覚えていたことを喜ぶようなエピソードではない。全てひっくるめて演じているか、静子が自分の記憶を自分で封じ込めている可能性が高い。そもそも何もなくても、死んだ白猫の話を食卓の上に載せることに2人とも違和感がなさすぎる。死は無意識的に忌避するものという感覚がない。

 

p47 この流れからの「抱きしめさせて」は正直理解の範囲を超えてしまった。もしかしたら仲直りセックスのようなものかもしれないが、静子には静一への行為に対する全ての罪悪感が無さそうなので、違うか。白猫エピソードを思い出し、「かわいそうな私」を思い出し、それを目の前の男(息子なんだけど…)に慰めてほしいということか?こちらの方が近そう。

 

p49 これは間違いなく試し行為。はじめて読んだ時は猫殺しの犯人も静子かなと思ったが、物語上その必要もないので、違うかもしれない。静一の無難な答えを聞いて、自分の死を基調とする世界の見方をあまり共有できていないことに対する軽い落胆が見える。本当は察してほしいが、そこまでは無理かなー、しょうがないまだ子どもだもんね。という謎の上から目線。

 

 

きょうしか書けないことがある気がした

特に心に溜まっている書きたいことがあるわけではないけれども、今日しか書けないことがある気がした。

 

いや、いつだって書けることだ、きっと。それくらいにあるひとりの人間の思考は有限であり、そして逆に言えば忘れていってしまうことも毎日無限にある。そもそも視覚から認識に、認識から短期記憶に行く過程ですらとてつもない情報の切り捨てを我々の脳は勝手に行っているわけであり、我々の意識は、物理的な脳という物質が勝手に整理してパッケージングしたそれらを受け取っているだけの受動的な存在なのである。

今日起こったことだって、まあ、一部を除いて毎日、あるいは毎週末に起こりうるくらいの頻度で発生する事項でしかない。目覚ましをかけずに2人で寝過ごした、ゲームの山場をクリアした、昼食を家で作った、企画展に行った、居酒屋に行った、酒を飲んだ、等々。その企画展が寺山修司に関わるものだったことは文字を書こうと思ったことにある程度影響はあると思われるが。そして自分の心を打ったと思った詩作を忘れる始末である。エッセンスさえ残ればよいなんてそんなの戯言で、後から字引出来なきゃ割と意味がない。このポンコツが。

 

物事の感じ方が行政の括りや紙一枚で何かが変わるとは思い難い。何もなければ明日の夕方には苗字が変わることにはなるが、だからなんだっていうんだという気持ちが8割、必要な通過点だからそういうものだと思う気持ちが2割、後の気持ちがゴミみたいな小数点以下。もしかするとそのゴミみたいな分量しかなかった気持ちが数年間で増幅され、あたかも初めから自分そういう気持ちも持ってましたみたいな風に記憶修正されて5年後にやってくるかもしれないが、そんなことは今のわたしの知るよしもない。

一緒に住居が変わるだの、結婚式当日に籍を入れるだのする人には特別感もあるのだと思うが、それだって紙一枚でプロフィールが変更されたことに感動するというよりは、実際に自分の身を置く環境が変化することに感動するのだろうし、そこまで人間繊細に(機械的に)出来ていないのではという気がする。とはいえ、なにか今日しか書けないことがある気がしている時点でわたしもその影響をなんとなく受けてしまっているということになり、結局何を言っても単なる強がりになってしまうというジレンマ。

一体何に対し強がっているんだろうわたしは。変わることが実は少しだけ怖いのかな。そうかもしれない。全く「いいえ」を押すつもりがなくても「はい」を選びそして自分から"選択権が消失する"(そりゃ選択したんだから、当たり前なのだけれども)のは怖い。そんなの突きつけたってわたしは「はい」を選ぶに決まってるだろ、わざわざ確認するようなことしたってわたしは何も変わらないぞと言いたいのかもしれない。

正直この一種のセーブポイント、後戻りできない最後通牒みたいな顔をしながらも、わたしが明日やることになることはどちらかといえば選択なんかじゃなく確認に近い。セーブポイントと選択ポイントは違うように、すでにわたしはたくさんの選択をしてきている。自分は自覚的な・積極的な選択をしてきたと思っていても、きっとそんなこともないのだろうなとも。明らかに自分というバイアスのかかった色眼鏡でものを見て、現実には無数に存在する選択肢から3つか4つしかないふりをして、その中からだけ"選んで"きた。3つとか4つを1つに決めるのは大したことじゃない。無数を勝手に3つとか4つに絞って、そして主人にそれを気付かせないのが憎い脳の仕業である。その方がエネルギーが少なくて済むのはまあ、わかるし、抱く疑問は少ない方が結局総合的な満足に繋がったりするわけだし、よくできているなと感心はする。もしかするとわたしが明日起こることを選択ではなく確認でしかない(つまりわたしにはもうそもそも選択肢なんかなかった)と思っていることも、わたしの脳が勝手に無数を1つに絞った結果なのかもしれない。臆病な奴にも見える。でもその方がきっと上手く行く。as is well.

 

言葉は残さないとなくなってしまう。

起きがけの夢を朝ごはんを食べたらもう忘れてしまうように。

しかしいつも言葉は後からやってくる。

だからやってきたあと、忘れてしまう前に。

そのわずかな時間でかすめ取ってフックをかければいいのです。

いつでもそこに戻ってこれるように。

セーブポイントへのささやかな反抗を。

 

 

「主体」になるということ

www.jstage.jst.go.jp

 

見かけて気になったので、「思いやり」と「かげぐち」の体系としての社会、という以上の論文を読んだ。1994年の論文だそうだが、(奇しくもわたしの生まれた年と同じだが)、全く古びることのない名文だった。社会学系論文に全く明るくないことを前提として、思ったことを書いてみたいと思う。

 

本論文では、現代社会が形成される形式・技法として、「主体」(=私)が他者とともに、”承認と葛藤”という傷つけあう行為を日常的に行うことなく「社会」を運営していくそのあり方について述べられている。アイデンティティ(「存在証明」)の獲得には他者の、それも承認をしてくれる他者が必要不可欠であり、そのためには「思いやり」と「かげぐち」という日常にあふれる技法が必要ということだ。コントロール可能な甘い承認をお互い投げかけあうことで社会は平和に運営されており、その技法によって押しつぶされた葛藤は、「かげぐち」という形でこれもまた「思いやり」の枠組みの中で消費されていく。運営上は適切なシステムであるものの、これは自己の「主体」もまた失われる、自由の損失という欠点を孕んでいる。体系の維持に不可欠な「主体」の損失をどこまで個々人が許容し、また「社会」がそれによるデメリットをどこまで容認するのか。25年前に指摘されたこの「社会」の形式がいまなお十分通ずる現在において、生きにくさとはなにか、どう生きてけばいいものか。そんなことを考えた。

 

”<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。(中略)「自分が何者であるかを、自己に語って聞かせるストーリー」は、「他者による事故の定義づけ」があってはじめて確かなものになる” ”社会は、自分ひとりでは獲得しえない存在証明のために、ひとびとが他者からの承認を求めて形成するもの" 

これは筆者も述べている通り自明のことと思う。そして他者もまた「主体」であり、「主体」である私の存在証明をするはずの他者をおびやかす。この「主体」同士の闘争(まるで万人の万人による闘争である)を回避するために、緩衝材としての「思いやり」が発動する。

他者からの「主体」におびやかされ、「主体」であるはずの自己が「客体」に落とし込まれるということは、日常においてよくおこる。恋人の求める理想の女性像を演じる彼女などはよい例だ。いやだと思いながらも変わらない日常を繰り返す被雇用者などもそうかもしれない。

しかし、「思いやり」が行き過ぎた結果ではあるものの、「主体」としての個人を放棄し、「客体としての自分」にすべての存在証明を依存して生きていくこともまた可能である。むしろ傷つきやすい自己を守るのにはよい手段だ。これはある自己と自己の乖離であり、「社会」の問題であると同時に自己同一性の問題でもあるように思う。「客体」と「主体」のパワーバランスが自己の中で発生し、それらは本音と建前と呼ばれながらも同一の自己ではある。建前と思いながらも行動を重ねていくと、それは他者からの評価として行為者に帰ってくる。アランの幸福論にもある通り、礼儀としてのほほえみの動作は人を孤立の悲しみから救うのである。干渉が起こらないわけは全くなく、それらは混ざり合って私に自己と認識されるようになるだろう。さて、「主体」はどこまで生き残れるのだろうか。

その「主体」を強く持ちすぎることによって、”感受性と機転と思慮によってはじめて可能になる"(原文より)「思いやり」を使用できない、または使用しない人間は社会のために排除されうる。ここに葛藤を強く感じながらも社会に属するためにしがみついている人間がいわゆる「生きるのがしんどい」人間であろう。

誰しも傷つきたくないという思いは持っている。しかしその中でしがみつく技術に長けていない、「主体」を失うことを恐れる生きにくい人間は何をするか。一つの方法が、「主体」と「客体としての自分」を使い分けるための複数の環境を持つことだと思う。もちろん分けた環境の先でも「客体としての自分」が発生するが、その個数が多いほどにひとつのある「主体としての他者」に飲み込まれる恐怖は薄れていく。

たとえば、名前、容貌を分けたり変えたりする。これらの直接的に個人を決定するレッテルは、他者からの自己の過去へのアクセスを許容し、他者から現在だけでなく過去も含めて飲み込まれる恐れが発生するため、変更によってそれらを回避することが可能となる。特にひとつのある「主体としての他者」に飲み込まれる恐怖を持つものは、積極的に自己を分離させることによってその恐怖を避けようとする。犯罪を犯した、などの大きな問題に限らず、すでにその個人によって「客体」でしかない個人の決定事項、すなわち社会的立ち位置、性別、年齢、等々。この点において名前と容貌を容易に"変更"(あくまでも偽りとここではとらえない)できるインターネットはやりやすいところがあるだろう。

 これは、「客体としての自分」と「主体」を無意識に、違和感なくうまく癒合させることが可能な人間である、またそれが可能な環境に属している場合には起こらない事象であろうと思う。原文には「社会」の中で「思いやり」の体系のなかにいて、「かげぐち」の技法を使いながら生きている人間について、以下のように述べられている。

"ほんらいの私は「かげぐち」など言わないのだ、「かげぐち」は一時的な私なのだ、私の持っている道徳心は自分の言った「かげぐち」を許せないほど高いところにあるのだ、「思いやり」深いのだ、という自己のリアリティを再度確認するのである"

これは自己を対象にした性善説である。自己の肯定先がすでに「客体としての自分」の中で完結してしまっている。そこにはもう元々の「主体」などないように思える。もちろんこれは極端な例であることは理解している。

あるひとつの「思いやり」の体系の中の住人となってしまうと「主体」も「客体」もなくそこで完結してしまうと思われる。随分先に述べたとおり、これも一つの生き方であることに間違いはないが、そこに葛藤を持つことは、よく言えば体系を俯瞰できるということにもなる。たとえ先に排除を受けたとしても、一種意識的に「思いやり」をやめている状態になる(千葉雅也氏的に言うと、「ノリ」から降りる)こともまた一つの生き方ではないか。

 

「主体」がたったひとつのある「主体としての他者」に乗っ取られることを防ぐには「存在証明」をしてくれる環境を複数持つことが重要であるという、結果的によくある論調になってしまった。しかも書いたこと全ては全体としてみればとりとめなく、この言葉でまとめとなるとは思えない。詰めなくてはならない視点はたくさんある。あくまでも思考記であるという言い訳を一つおいて、今日は筆をおこうと思う。

鍵がない

心が悲しい気持ちで満たされると本当にしっかり思考が空回りする。行動を起こしさえすればそれなりに幸福感を得られそうな事柄に手出しする元気もわかない。それがどんなに簡単なことであったとしても、だ。

久々に鬱屈していた。この気分はなりはじめてしまうと最早何が原因だったのかは直接の問題ではなくなる。いま悲しくて、辛い。それにどうしようもなく振り回されてしまう。どうにも纏わり付いた負の感情を積極的に打ちはらうのは得意ではない。

そんななかで帰路について、スーパーに寄り、家に着いて、鍵が無かった。

鍵がない。

ひとつの問題の発生である。

解決されないことで直接的に不利益を被るのは自分だけであり、尚且つある程度致命的である。

自己解決する必要度の高い問題の発生というのは思考回路の強制的な一本化に非常に役に立つものだ。気づいた瞬間からまるで意識に登る前かのように自分の行動の振り返りと次なる行動策がいつのまにか浮かんでくる。可能性の最も高いのは職場に置いてきたことで、次点でスーパーで、なくはないのが道中での紛失。見つからなかった際にするべき各方面への連絡と今日の宿泊先と。翌日以降には大家に相談に行くべきか。

そうしていると鬱屈はあっても押しやられていくもので。

結局第一候補の職場に普通に置きっ放しにされていたわけだけれども、解決したころには悲しい気持ちはなりを潜めていたのであった。むしろウォーキングできて良かったなあという満足感があったくらいだ。

負の感情が起こったときにそれに満たされないようにするのは比較的難しいことで、そのきっかけを自分から探しにいく、行動に移すのは相当にエネルギーが必要である。人に機嫌をとってもらうのはあからさまに悪いことだし、自分で自分の感情を完全にコントロールできたら理想的なのだろうけれども、そのきっかけくらいは外部委託しても良いのではないかと思った。

今回の鍵の紛失はただの事故だけれども、そんなきっかけを与えてくれる人間関係があると少しだけいいのかもしれない。もちろんその相手に当たり散らすのはあってはならない。綺麗にきっかけだけを置いていってもらえる距離感は、こちらの礼儀無しに実現可能なものではない。

人間なので、悲しくはなるし、鍵もなくす。

でも丁寧に生きていけたらいいなと思う。

 

 

何も考えたくない。

家に白くて足袋のように親指だけ離れている靴下がある。確かどこかに宿泊した時に浴衣についてきたものをそのままもらってきてしまったのだと思う。わたしが履いた靴下が誰かにリサイクルされることはないだろうからもらって悪いものではないだろうなとも思う。

わたしはその靴下が嫌いで、なぜなら親指だけ離れているからだ。その靴下の存在意義の否定である。それならさっさと捨てれば良いものを、そこにあるというだけで一週間に一回くらいは履かれている。毎回何だかんだ履かれて、洗濯され、収納され、また履かれている。洗濯しているのはわたしなのだが。

ルーチンに一度乗ってしまったものをそこから放つのは嫌いな靴下ですら難しいらしい。地味にエネルギーがいる作業だ。

別に靴下マニアでも何でもないし、よく物をなくす上に物を探すという情熱をあまり持たないので、靴下は無くしても良いよう同じものを多量に買ってごまかす事が多い。靴下に限らず、ペアのものはペアでなくなったと気づいた瞬間にペアでなくなるものであって、気付かなければペアのままだからだ。そういったものはするりとルーチンから抜けていくようだ。多分6枚3ペア同じものを買って5枚無くして初めてまともに「無くした」とわたしの頭の認識にのってくるのだろう。

嫌いな靴下はなぜかなくならない。これは本当に1枚無くしたら使い物にならなくなるというのに、杜撰に扱おうがすっかり2枚で毎週鎮座している。はやくどちらかにいなくなってほしい。

嫌うというのは意識が向かうということだ。特殊に意識に登ってくる、ルーチンに収まった嫌いな物体を排除することのなんと難しいことか。人間も生活もそうなのかもしれない。だとしたら嫌だなあ。できれば6枚3ペアの好きでも嫌いでもない靴下を無くさないような人生が送りたい。とはいえもう手元に4枚しかないし彼らが元々のペアだったのかは全く定かではないのは人生だから致し方ないのであった。