さよなら△。また来て死角。

キラキラ輝くもの

生きてる世界のこととか。

きてるってなんだろうって疑問も浮かべるのもめんどくさくなるほどに、寝て起きて学生やらアルバイターやら社会に割り振られた役割の大きなこととか小さなこととかこなして、また家に戻って食べて適当に過ごしてぼーとして時計みたらもう少しで明日が始まる時間がきそうになってるという単調なリズムの中に飲み込まれてる。何にもしなくてもお腹は減るし、黙っていても心臓は動く。もういっそのこと感情奪われてロボットにしてくれた方が楽なんじゃないかなとも思う。同じこと繰り返すだけがあと何十回、何百回、何億回と続くなら時計もカレンダーも全部燃やして明日という概念も消してほしいなんて考えてもみる。そんなくだらないこと考えているとまた今日が昨日になって明日が来る。

最初は仕事覚えようと必死で、叱られて何度も辞めたいと思ったバイトも慣れてしまえば何てこともないベルトコンベアーに乗せていくだけの単純作業のように手順を頭に浮かべることもなく身体が記憶している行動だけでこなせるようになり、最初の向上心さえも腐って怠惰になり単純なリズムの中に沈んでいく。

そんな日常に閉じ込められた囚人みたいな日々の中でも、ごくたまに変化がある。寝ぼけ眼をこすりながらたいしてお客さんもいるわけもなく穏やかなBGMだけが嫌に響く店内を適当に回って、適当に仕事みつけて、いつものきているお客さんに聞かなくてもいいだろと内心悪態をつきながらご注文は何にいたしますかと聞くと、いつもとは違う食べ物と飲み物の名前が出てくる。そんなときに、ああ、世界ってちゃんと動いてたんだって実感するし、今日生きてる世界はいつもとは違う世界なのではないかと少し困惑する。もし違う世界なら前よりは少し幸せになってるのかなとか期待したりする。だったら、感情のないロボットになるのはもったいないから、もう少し人間で生きて幸せになりたいと思う。

そうやって思えた日は、セピア色から総原色の世界に変わってく。見落としてるだけで、たまたま夕食が好きな食べ物だったりとか、私の好きなものを好きだといってくれる人に出会えたとか、好きなアーティストのライブがもうすぐだとか単調なリズムを抜け出して、幸せなパラレルワルードにつながる鍵みたいなものは案外たくさんある。

生きてくっていうのは、今はまだよくわからないし、私は何十年先や何年先のことを考えて生きていけるほど器用な人間ではないけど、そういう小さな楽しみみたいのはたくさんあるし、一ヶ月とか三ヶ月先にひとつは私が見たり聴いたり話したりしたいことは待っていてなめくじみたいなスピードでもそうやって待ち受けてるであろう変化で単調なリズムを破壊していきたいし、自分が幸せになれるであろう世界に近づいていきたい

「おとぎ話みたい」と君は笑った


おとぎ話 "COSMOS" (Official Music Video) - YouTube


映画『おとぎ話みたい』予告篇 - YouTube

 

『おとぎ話みたい』を観ての感想

山戸結希監督の「おとぎ話みたい」を観た。しかも二回。たった二回といった方がただしいのかもしれない。一時間もない映画だけれども、体感としては私が今まで生きてきた年月以上の時間の重みを感じた。スクリーンが呼吸をしていてた。台詞が生々しい息遣いをともなって目の前に迫ってくる。観る前と観た後では魂の重さが違うのではないかと思うくらいに身体に言葉が押し込まれていく。詩的な鋭いナイフが自分の確実に痛い部分をえぐり出す。流した涙は決して綺麗なものではない。本当は泣きたくなんてなかった。自分が醜い人間だと認めたことになるから。「泣ける映画」ではない。映画に泣かされると言った方が正しい。一番の暴力は絶対的に美しいということだ。この映画は最後まで美しい。美しさの前では人はどこまでも無力だ。殴り続けられてもそれに抗うことができない。美しいものを語るということは口の中に拳銃を突っ込まれたような気分になる。自分の咥内に広がる鉄の味ははたして金属のものなのか、それとも自分の血の味なのかわからなくなる。そこにまで死が迫っている気がする。助けて、と言いたくても言葉を知らない私にはそれを伝えることができない。

過去の技巧と照らし合わせて星の数で評価をするなんて悪趣味でナンセンスでなにより無価値だ。映画にあらすじなんて必要なかった。必要なのは意味ではなくて、言葉と肉体と音楽だってことに気付かせてくれた映画だった。この映画を語るという行為も愚かに等しい行為なのかもしれない。映画の内容を考察することもできず、ただ自分が抱えた感情を書き連ねる稚拙な自己表現しかできないことがもどかしい。見終わった後は詰め込まれた言葉を反芻して噛み砕いていくことで精いっぱいだった。その後にひとりふらふらした新宿は私が今までみた中で一番綺麗だった。下品に光るネオンは行き先を導いてくれるシリウスに変わり、私のことなんてどうでも思ってない無関心の人ごみでさえ血が通い心がある人間だと思うと愛しく思えた。高くそびえたつビル群に埋もれるちっぽけな自分が冬の風に体温を攫われる瞬間こそが生の喜びであると白い息を吐きながら一目も気にせずに走りながら感じた。苦手だった街が少し好きになれた気がした。

「おとぎ話みたい」には大人も子供も敵も味方もなく、ただ少女だけが存在する。

少女は一瞬一瞬を死にながら生きているのだと感じる。恋をするということは卑しい行為だと気づいているのにそれに気付かないふりをする。自分の中の汚い部分に気付きたくないから。やがて、少女は自分の命が永遠でないことを知る。だから、生きようとして恋をするのだ。死んだ後も生きれるように。愛というのは「重力」である。昨日までは軽かった身体が重くなる。他人の人生まで背負ってしまったから。もう飛べないことを自覚することはつらい。地に足をつけて歩かなくてはいけない。初恋と名付けた瞬間にもう恋は終わっているのだ。愛の告白は愛した人の中に入ってしまえば背伸びした子供のませた戯言に変換されてしまい相手にもされない。人にはどうでもいいことでも自分にとってはさっきまで全てだったことを否定されるのは虚しい。さっきまでは同じ時空にいたはずなのに、告白したらもう一緒の未来を夢見ることさえ許されなくなってしまう。自分は確かに今この瞬間のことを一生懸命に綴っているはずなのに、愛しい人の中では全て過去と名前のついたデータフォルダに保存されてしまい、もう同じ時間に生きられないのだと実感する。青春の質量だけが重くのしかかってくる。制服を着ていることを愛してくれない理由にするのに、制服を脱いだらもう見向きもしてくれなくなってしまうならいったい何になればいいのか。関係性に名前を付けるとしたらそれはとても曖昧で義務感だけで繋がっていただけだった。少女は時を駆けていくことすらできない。愛されなくても胸は膨らみ嫌でも自分の存在が女であることを自覚していかなくてはならない。無料コンテンツの恋愛なんてしたくない。どうせ捨てられ絶望されるなら骨までしゃぶってほしい。あの時が一番綺麗だなんて言ってほしくない。はじけた赤い実も身体の中では血となり肉となり踊り狂っているのに、いざそれを口に出してしまうと安っぽくありきたりで乾いたドライフルーツになってしまう。青春というのはスタートもゴールもあらかじめ決められている。だからこそ生きていると感じる。終わりがあるからだとわかっているからこそ目の前の色彩が網膜に焼き付いていき手放せなくなってしまった。全部のノスタルジイに変わってしまうのに。卒業をすれば「東京」というユートピアはただの騒がしいネオン街に変わってしまい、夢が乱反射して輝いていた瞳も排気ガスや光化学スモッグにやられて濁っていってしまう。「東京」に憧れる人が羨ましい。私にとって「東京」は生まれた場所であり現実でしかない。「東京」に夢見たかった。「東京」に恋をしたかった。私が「東京」でできることは病名を与えられない患者として夢遊病でチカチカと点灯する繁華街をふらふらと徘徊するだけだ。

青春の万能感が切れたあとは人はいやでも大人になるしかない。

青春というのは「おとぎ話みたい」だった。あの頃は、全てがおとぎ話だった。あとで消すためにシャーペンで適当に書いた進路指導の紙も、好きな先生の話したことならたとえどんなにつまらないことでもメモして隙間のなくなったノートも、友達の耳元で囁いた根拠のない噂も、昨日偶然みたテレビの話も、校則違反の机の下で読んでいた漫画も、なんでもできると信じていた自分も。全部おとぎ話だったのだ。あの頃は自分が幸せになれると信じて疑わなかった。だって、自分が主人公だと信じていたから。どんなホラ話でも馬鹿馬鹿しい話でも聴いてくれて「ぜったいに叶うよ」と言ってくれた。みんな夢の世界の住人だったのだ。今まで私の感じてきた感情は全て「おとぎ話みたい」という言葉に集約されていた。いつからだろう、自分の目で世界を見れなくなったのは。背伸びをしていたはずが、いつのまにかヒールで足元は固定されてしまい「大人」に振り分けられてしまった。自分が好きなものの順位は後回しにされ、他人によく思われたいとしか思わなくなってしまった。保健体育の授業の意味を知ってしまったから人生が狂った。特別でありたかったのに平凡になることに憧れている。ある時ふと気づいてしまった、自分はわき役なのだと。自分の将来の話をしても肯定で返してくれる人なんで誰もいなくなった。代わりに薄笑いでこう言い放つのだ、「おとぎ話みたい」と。夢見る言葉はいつしか現実のアイロニーにしか使われなくなってしまった。

暗闇の中で表情の見えない愛の告白きっと映し鏡で、少女は自分の代わりを探していたのだと思った。理解者だと思った運命の人は実はただのモラリストだと知って失望するのだ。背伸びしても届かなかった愛した人の見た世界は、焦がれていた背丈と同じ高さになったいまではあの時感じた怒りも悔しさも喜びも悲しみも色褪せて、都合のいい部分だけをつなぎ合わせた綺麗な想い出とノスタルジイになってしまうのがどうしようもなく悲しい。そして自分は愛する人の体温すら知らなかったのだと実感する。本人不在の愛の告白の方がより生き生きしているのは言葉で愛を伝えようとしたのが間違っていたから。一番残酷なのは少女に言葉を与えてしまった神様だ。恋をしてはいけないと教えてあげなかったから、みんな傷ついている。少女という身体しか感情に耐えられない。愛の言葉を囁くよりどうか私のことを忘れないでください。自分しかわからないと思っていたことは本当は自分以外の人間にもわかっているって知っていた。それに気付かないふりをしているだけだった。自分がつまらない人間だと認めたくなかったから。自分の身体に合わない言葉を吐き出すから無理がきて恋が終わってしまった。人は誰しも自分が一番賢くて正しいと思っているからどうしようもなく孤独なのだ。

この「おとぎ話みたい」の後日談として作られたおとぎ話のMV「COSMOS」も本当に美しくて素晴らしい。夢を叶えるために東京に来た少女の世界は青春というフィルターを失ってしまったためにモノクロに変わってしまったけれども、それでも生きるために自分のためだけに踊り続ける少女からは指先から青春時代と変わらない色が零れおちていって、もう戻れない日々を思い出すのは辛いけれど全てが無駄じゃなかったと証明するために今を生きているのだと思わせてくれる。

 

(2014年過去の感想ブログから)

百八円の人生


安藤サクラの体当たり演技が光る!映画『百円の恋』予告編 - YouTube

『百円の恋』を観ての感想

「百円の恋」を観てきた。噂通り凄い映画だった。精神的にも肉体的にも痛い。観ているだけで無条件にリングにあげられてぐわんぐわん殴られるような感覚だった。映画のラストは綺麗だったけれども、映画をみてから頭をめぐるのは今までずっと自分がため込んできた悔しさとか怒りとかやるせなさとか目を伏せてきた汚い感情がじわじわとこみ上げてきて、心臓が脈打つ。スクリーンに写し出されるのは自分はこんなところにいる人間ではないと思っているのに何にもできずに燻ぶっているだけの自分だったから。そんな現実を突き付けられて、私はまったく殴り返せなかった。観ている間ガンガンと殴り続けられるだけの映画だった。観ている最中ずっと痛いとしか思えなくて歯がギリギリと音を立てて削れてるのではないかというほど噛み締めていた。

改めて安藤サクラさんという女優はすごい人だと思った。だって、作りものじゃない「一子」という人間の人生がそこにはあったから。だらしない身体をむりやり収めた100均の下着を着たり、自分を捨てた男を想いながら鬼のような形相でボクシング励んでいたり、リングで殴られて白目をむいて倒れたり、役に入り込んでいるを超えてフィクションをドキュメンタリーにするほどの人間臭さがそこにあって圧倒された。そして、どんなに血が流れようと大声で泣きわめこうと誰よりも美しかった。演技たるものをまったく知らない私が、スクリーンから感じる気迫と熱量だけで涙してしまうのだからそれこそを才能と呼ぶのだろうなと感じた。「百円の恋」は安藤サクラという女優でなくては絶対にここまでの映画にならなかったと私の他にも何億回と繰り返された言葉を私もここで繰り返すことしかできない。考えるな感じろということを今一番体感させてくれる女優さんだと思うし、人間的にも表現者としても憧れ尊敬している。安藤サクラさんはいつでも世界と身体ひとつで闘っている人だと思っていて私もそうなりたい。

ど派手なアクションシーンやCGがあるわけでもなくただ淡々とどこにでもある生活を切り取っているだけの映画がこんなにもガンガンと心を揺れ動かすのは画面からにじみ出る等身大の悔しさを知っているからだと思う。年上だというだけで他は何も取り柄がない先輩、行き場がないからとりあえず行くコンビニ、慣れてしまえばなんてことないけれどとくにやりがいもなくただ生きていくために続けているバイト、どうしようもない怒りにまかせて買い込んだ百均のお菓子、悔しさの代わりに呑みこんでいくチューハイの味。どれもこれも全部知っている。値踏みされて妥協で選ばれるだけの日々で本当の敵は愛想笑いで誤魔化してばかりの自分だ。理不尽にぶつけられた言葉の中には正解もあってそれを認めたくなくて逃げているだけだ。だから仮想敵を作って怒りを空回りさせて後ろにも前にも進めず幸も不幸も感じることなくただ漠然とすごしている。リングに上がることさえもできず、リングでの闘いをただ傍観しながらその外でぐだぐだと文句を垂れて逃げていくことで時間を浪費して歳を喰って焦りだけが募っていく。自分は何にもない人間ではなくて、抱え込みすぎて身動きがとれなくてなっているだけなのだという実感がこみ上げる。殴りたいと思って拳を握っても、守りたいものが多すぎて悩んでいるうちに殴りたい相手は去っていって二度と会えない距離までいってしまって、そこには解かれた拳と私と悔しさだけが取り残される。そんな毎日が繰り返されて自尊心だけが誇大化した化け物になってしまった。

普通に幸せになるということが一番難しいのかもしれない。

変わっていく毎日で変わらないということがどれだけのことか考えるだけで立ちくらみがしそうだ。映画にはドラマチックさを望んで、自分には何にもない平穏な毎日を望んでいる。輝きを得るということはそれ相当の対価を払うことだ。喜びがあって悲しみがある、愛されながら憎まれているそんな当たり前だけど浮き沈みのあるバイオリズムに巻き込まれるのに疲れてしまった。かつてはつまんないと笑って切り捨てた選択肢が今は恋しくてしょうがない。平行線になれないまま曲がりくねってどこにいくかもわからない人生はもうやり直しができないところまできてしまった。「百円の恋」は青春映画だと思う。ただ終わりのある青春を生きる映画ではなく終わってしまった青春にリターンマッチする映画だと感じる。戻れない日々が嘆くよりも、今自分をバカにしたり見下したりしている奴らと闘うことで何かを取り戻そうとしている。当たった拳よりも空を切り手ごたえのなく消えた拳の方が多いけれども、だからこそどんなことがあっても殴りたいという気持ちだけは忘れてはならない。黙っていたら腐っていくだけの身体とただ呼吸をするだけの日々に戻らないようにするにはがむしゃらでもいいから世界に噛みついていくしかない。一瞬見えた光のために人生賭けるなんて他人からすれば馬鹿でどうしようもないかもしれないけれど、それでもそれに縋っていくしかもう道がない。負けるということは同時に過去の自分に勝つことだと思う。居場所がないなら自分で作らなきゃダメで、それが生きていくということなんだなと実感した。痛いと思うことは生きているということなんだと。

サクセスストーリーというのはめったにないからサクセスストーリーなわけでその裏には無数の物語にもなれなかった残骸が散らばっている。努力をしてもそれを簡単に破られてしまう。変われたと思えてもそれは勘違いだったり、たかだか一歩二歩進んだだけなのかもしれない。世界は私がいなくても回っていて、少しばかり頑張ったくらいでは変えられない。いつもいつもハッピーエンドから一番遠いところにいる。幸せにはなれないとしても現状よりはましなところにいけるだけでもいい。変わったといっても、億万長者になりましたとかそんなたいそうなものではなくて最初は蚊の飛ぶ音より小さかった声がバイトを続けていくうちに大きくなったとか、少しは自然に笑えるようになったとか自分の好きな人とたわいもない話をできたとか人からすればどうでもいいことだけれども私からすれば大きなことで、でもやっぱり世界からしたらミリ単位ですらないことだ。自分が数カ月でできるようになったことを後から来た人が追い抜かしていっていとも簡単にやり遂げる姿を見てしまうと自分は生きている価値なんてないのではないかと思ってしまうことは数え切れないくらいある。でも、生きる理由もないけど死ぬほどの理由もない。だから死に遅れた私はこうしてすり減っていく365日を繰り返してここまで生きながらえている。

リングの外で観る試合とリングの中でする試合は違くて、外から観たら野次を飛ばして弱者を嘲笑するだけのつまらない試合もリングの中に入るとそこには暴力が正当化されて10カウントで価値を決められてしまうリアルだけがある。しかし、殴られてもリングの中はどこよりも優しい世界だと思う。終わってしまえば抱きあってお互いの存在を認め合う。なんで私が舐められるか理由がわかった。私がまだリングに立っていないからだ。闘うということから逃げているからだ。闘わない者には世界はどこまでも残酷で冷たい。自分が何にもないことがわかるのが怖いから努力をしないことを自分が幸せになれない理由にしているのだ。恋愛も、夢も、勉強もどこでも負け犬扱いされるのは試合する前に棄権してしまっているから。闘った者だけが世界とフェアプレイになれる資格がある。新井浩文氏演じる狩野も最初は一子のことを妥協で選んでどこか下に見ていたけれども、一度一子の元から去ってまた戻ってきたのは一子がボクサーとしてリングに上がる覚悟をしたからだ。試合後に狩野が初めて一子の名前を呼んだのは狩野は男である前に勝ちも負けもどっちの味もしっているボクサーであって、一子をボクサーとして、そして自分の女として隣に立つことを認めたのだと思う。自分のために簡単に女を切り捨ててきた狩野が試合後の一子のことは簡単に抱き締めずに手を握って歩み出すラストシーンで、世界は一子は見下されてきた人生で初めてフェアプレイすることができたと感じて涙が出た。

映画を観てから数日たっても私の中に血液と一緒に今までずっと身体の中に蓄積されていた悔しさが駆け巡ってる。都会がどこよりも眩しく輝いているのは才能のない人間が腐るほどいるからで、私という人間はもはやこの街ではLEDより価値がないのだ。ピンクチラシが無造作に張られた汚い街で価格サイトで最安値を更新している女としてただ一時的な寂しさを埋めるためだけに声をかけられるそんな人生。誰も目を合わせてくれないし、会話はどこかちぐはぐでかみ合わない。嫌いな食べものも好きな音楽も最近観た面白い映画の話も私にとって大事なことは明日には全て忘れられていて、また今日がきたら同じ話を繰り返すことが当たり前になってしまった。これでいいのだ、と言い聞かせても自分に値段をつけたら税込でいくらだろうとぐるぐる考える日々を過ごしていくうちに、目だけは行き場のない怒りでギラギラと光る化け物になってしまった。今に見ていろよ、と誰に向けてでもない一握りの野心も空振りして世界との境界線に溶けてなかったことにされてしまう。私の涙に一円の価値もないこともわかっているけれどどうしようもなく泣いてしまう時もある。ダサくてかっこわるいことも全部わかってるけど、生きてのびてしまったからしょうがない。見下されてる自分。理解されない趣味。半笑いで馬鹿にされる好きな人。一度は他人に大きく汚いバツをつけられてしまった大切なものを正解にするためだけに生きていこうと決意した。これからはもう握った拳はほどかない。邪魔するやつは全員殴ってやると決めた。どうせ死ぬのに何を怯える必要があるのだろう。今度は世界とちゃんとフェアプレイでリベンジマッチしたい。

(2014年過去の感想ブログより)

さよならガールフレンド

高野雀さんの「さよならガールフレンド」を読みました。

さよならガールフレンド (Feelコミックス FC SWING)

さよならガールフレンド (Feelコミックス FC SWING)

 

 

結論から言うとめちゃくちゃ良かったです。最高でした。元々高野さんの作品を知ったのはツイッタ―でRTで回ってきた「あたらしいひふ」という読み切りを読んでいたらすごく共感できて今まで感じてきた私の生きづらさを形にしてくれる人がいるということに興奮を覚えて嬉しくて泣きそうになってしまいました。


あたらしいひふ | ActiBook

似合う服と着たい服が乖離しているつらさとか男受けと女受けは違うとか結局自分の着たいもの着ても文句言われるし、他人に合わせても文句言われるしもうなんなんだよ生きるってめんどくさい。白旗振らないと生きていけない。バラバラだった登場人物の人生が全て重なったラスト見るときは涙で目が霞んでました。洋服って一目で「自分の人生はこんな感じで、性格はこんな感じですよー」とプレゼンするためのツールでそれによってカテゴリ分けされていくと思うんですけど、一旦自分のタイプを決めてしまうとそこから抜け出せなくなってしまうというあのアリ地獄みたいな息苦しさがぶわって広がってました。もはや自分が着る立場じゃなくて洋服に「着られてる」側になっていんですよね。それを「ひふ」と表現するのは素晴らしいなと思いました。

そんな感じで「あたらしいひふ」から知った「さよならガールフレンド」を読んだ感想を自己満足に綴っていこうかと思います。

 さよならガールフレンド

この本を買おうと思ったのは「さよならガールフレンド」という題名がとても素敵だと思ったから。あと表紙の雰囲気が好きでジャケ買いだったのかもしれないです。私は「さよなら」という言葉が好きでそこにはもう引き返せない決意と未来への希望があると思ってる。もう絶対会えないかもしれないのに「またね」といわれて期待させられるのはなによりも残酷だと思う。いつもいろんなものにさようならしなくてはいけないけどなかなかできないまま生きてきていて、そうしたことを繰り返していくうちに中途半端でつまらない人間になってしまったんだと思った。

ビッチ先輩ことりな先輩がすごく好きです。ギャル/ヤン女萌えの私にとっては最高にいい女です。私は自分と逆ベクトルで生きている人間はフィクションとして考えていてそういうものにどうしようもなく惹かれてしまうのでちほも同じ気持ちだったんじゃないかな、と勝手に思ってました。あと「女」としての記号ではなく「人間」としての記号として愛されたかったちほにとって自分を対等な人間として扱ってくれたりほ先輩は退屈な日々に差し込んだ希望の光だったのではないかなあ、と思いました。実際東京に行ったら何か変われるかもしれないという幻想は東京にきたら木っ端みじんに壊されてしまうのだと思う。だから、故郷から出れずに故郷で死んでいく人の生き方も正しいし幸せの形であるのもわかります。でも、やり直すために自分を知らない街に行きたいという気持ちもわかります。優柔不断だけどあらゆる可能性を否定して生きたくない。りほ先輩の言っていた「もう今更キャラ変とか無理っしょ」という言葉が胃に重くのしかかった。人生にセーブポイントがあって間違ったら何度もやり直せたらいいのに、と夢みたいなことを何度も思ってきた。もちろん実際はそんなことできなくて選択肢を間違えたら「最初からやり直し」を選ぶほかなくて今までの自分を全部捨てなければいけない。人生とは「選ぶ」ことではなく「捨てる」ことの繰り返しなんだと思う。「最初からやりなおし」のコマンドを押したちほと「このまま続ける」を押したりほ先輩の人生もどちらも正しい故にとても悲しいけれど、またふたりの人生の世界線が交差することを願ってます。ちほにとってりほ先輩に対する想いは全て「さよならガールフレンド」という言葉に凝縮されているなあと感動しました。いつかさよならするために田舎で生きてきたちほにとってりほ先輩は田舎でできた唯一の未練で、最初は田舎というパズルのひとつのピースでしかなかった先輩が気が付いたら「さよなら」を言うほど大切なガールフレンドになっていたのだなと感じました。

そして、どこにいようと人は生まれながらにして「東京コンプレックス」に蝕まれているのかもしれないとぼんやりと考えた。私は東京コンプレックスで、いつも高層ビルに見下されて育ってきた。田舎の閉塞感は味わったことはないけれど、でもどこにも居場所がないその焦りや憤りや不安感は私が知っている感情そのものでデジャブとかそんなものではなくて自分自身がそのままトレースされている感覚を覚えた。東京はなんでもあるけど私は何者でもない。ショーウィンドウに移される半透明な等身大の自分。地下鉄で暗くなった時に扉に浮かび上がる疲れた顔。女子トイレのメイク台。東京は自分から目を離さないようにはりめぐらされた大きな鏡のような存在でどこまでも自分が自分を追いかけてくる。だから、自分がからっぽだという一番気付きたくなかった事実が日に日に迫ってくる。空虚な自分を埋めるためにスタバに通うし、パンケーキの写真を撮る。自分を見つけようとすればするぼど自分から遠ざかっていき焦りだけが積み重なっていく。だけど、つまらない自分と向き合って生きていかなきゃ何も変われないし、変えようと思って生きなきゃダメだよなと思いました。世界がつまらないのではなく自分自身がつまらないから居場所を変えてもダメだと気づかせてくれた作品に出会えたことに感謝です。思ったより自分は直接的にも間接的にもいろんな人に救われて生きているなと実感してます。面白いものに出会ったあとは世界が面白く見えるように、私も人にとってそんな風になれたらいいなと思います。

『さよならガールフレンド』を読んだ後は私もつまらない自分とさよならできた気がして、いつもは下品に光って見える新宿のネオンが眩しくてキラキラして見えた。世界はもっと面白いかもしれない、と色のついた世界で排気ガスの混じる空気で肺を満たしながら思えました。

 

面影サンセット

 「あれ、おかしいな」と思いながら気が付いたら身体が錆びていることに気がつく。年齢のカウントがだんだん増えていくのに精神年齢は中学生から変わらずに取り残されていくあの何とも言えない焦燥感。私は19歳から20歳に変わる瞬間がとてつもなく怖かったんですけど、あの「もう戻れないんだ」という何とも言えない絶望を閉じ込めたような作品でした。自分ではまだいけると思っていてもいつのまにか対象年齢からはずれて指をさされないためにいつも鏡を確認しないと落ち着かなくなってしまった。いつも大人になりたいなりたいと思っていたけどいつから大人になりたくないと思うようになってしまったんだろう。一年というのは思ったよりあっという間に過ぎていってそのたびに「まだ若いんだから」という言葉に救われるのはいつまでだろうと指折り数える。自分にはもうこれしかないと縋ったものもこれでよかったのだろうかという後悔に変わっていく。けれど、それでも朝は来て夜も来る。綺麗な朝日を見て、明日がくるからまだ頑張ってみるかと思える作品でした。

私のニュータウン

 個人的に読んでいて一番胸が痛くなったお話です。「ああーーーーああーーーー私この感情知ってる!!!!他人事ではない!!!」って気持ちが心臓の壁をどんどん叩いて五月蝿かったです。感情あるあるすぎて人間だということを忘れて赤べこになって首振りながら共感してました。元々女子校育ちなので「女友達に彼氏ができた時の微妙な感情」との付き合い方については人生の命題にするくらい向き合って考えていて、特に大学生になってからは全ての人間関係がセックスできるか/できないかの二元論になってきていつもそれをしゃらんくせえって思って頭掻き毟りながら悩んで病んでいた時期があったのでこの作品を見たときにようやく出会えたと思えました。そしてこの感情に名前をつけるとしたら「世界が滅びればいいのに」のに一言で済むと気がつかされました。そうだ、私はずっと世界が滅びてほしかったんだ。「友達に彼氏ができて寂しい」といった時も、「女の子のアイドル」が好きといった時も、全ては私が女であるがために静かに光る綺麗に光るこの愛とも恋ともいえない感情が「じゃあ、セックスできるの?」「それってレズじゃん(笑)」と半笑いで馬鹿にされて終わってしまうことがたまらなく悔しかった。違うんだ、そうじゃないんだと否定したくても全ての感情を恋愛という計算式に代入してしまう人には私の言葉は届くことがないのだなと諦めて生きてきた。恋人になりたいわけでもセックスがしたいわけでもなくてずっと自分が守り抜いてきた一番目というポジションがいとも簡単に奪われてしまうのが悔しくて憎くて悲しくてたまらないんだ。世界はずっとふたりだけの為にあると思っていたのにそうでないと気づいたときの絶望は言葉にできない。ずっと傷つけまいと大切に扱っていた宝物を男であるだけで奪っていって、挙句の果てにセックスもキスもできてしまうなんてずるい。今までは映画が公開されるたびに隣に座って終わった後はぐだぐだ感想を言い合って、新しいパレードを見るためだけに遊園地に行ってはしゃいで、面白い漫画を貸し合ったりしたどうでもいいけど私にとってはどれも大切でずっと続くと疑ってなかった幸せが「彼氏」という存在に全て壊されて自分はどうしようもなくどんなに頑張っても2番手にしかなれないと自覚するのが嫌なだけなんだ。そういう自分の中のドロドロした気持ちがちゃんと綺麗に加工されて作品になっていたので高野さんはすごいと思いました。

世界が終わらない限りわたしたちは 

また会うことができる話すことができる  

それを希望と呼びたいんだ

最後のこの言葉がとても好きです。そうだよなあ、とじんとあったかいものが心の中に染みわたりました。関係性は時間と共に変わっていくけど好きという気持ちは変わらないなら最後まで貫いて生きていきたいと思いました。

ギャラクシー邂逅

銀河鉄道の夜みたいなぽんわりとした詩的な作品で個人的にすごく好きだなあと思いました。高野さんの言葉は他の作品だと普段見ないふりしているところをグサグサ刺してくる三角定規みたいな鋭利さを秘めているんですけど、こういう風に優しさを散りばめて組み合わせていくこともできるのだなあ、と感動しました。私は思ったことをそのままにしか言葉で模写できない人間なので抽象的に綺麗な形で表現できるのは羨ましいです。人に惹かれる気持ちを「惑星」や「重力」に例えるセンスがすごい。確かにこの世にある全ての気持ちは万有引力で説明できるのかもしれないな、と思いました。普通にすると説明文になってしまうことをロマンチックというオブラートで包んだリアリティに昇華しているところが本当に大好きです。ボギャブラ貧民で上手く言えないんですけど、惹かれあうのに理由はあるけど理由はないみたいな、結局全て後付けなんだから好きってわかればいいじゃん!みたいな爽快さがよかったです。感情に形はないのだからそれを何と呼ぶかは自分で決めればいい。

 まぼろしチアテーゼ

エグいくらい心にくる作品でした。性別が「女」であることと「女の子」であることは別物であるって自意識過剰上等でこれは私の言いたかったことを全部代弁してくれている!!!って思いました。ずっと自分のことを「女の子」のできそこないだと思って生きてきたので時々「女の子」扱いされることに浮かれてしまうはたからみたら馬鹿に見えるし、自分でも単純すぎて嫌気がさすけどどうしようもなく嬉しくなってしまう気持ちわかりすぎる。けれど、一瞬の熱で浮かれてもその魔法が切れたあとの虚しさが半端ないんですよね。だからまた「女の子」になりたくて嘘に溺れていってしまう。ずっと不幸と鬼ごっこしてる状態の無限ループに陥ってしまう。私にとって「女の子」というブランドはとても残酷すぎる。明るい髪色。ブランド物のバッグ。雑誌に載っていそうな全身コーデ。高くて折れそうなヒール。綺麗に引かれたアイラインとリップ。どれもこれも似合わなくて一人だけ群れで色の違うことに気付いてしまった魚になった気分になる。聴き耳を立てて聞いた恋バナはどれもこれも別世界のお話のようで、かみ合わない話に愛想笑いと相槌で誤魔化す日々。どうしてだろう、と考えて出る答えはいつも「私が『女の子』ではないから」。

わたしには「女の子」の資格がない

だから愛されなくてもしょうがない

この人が私と製造元が同じなんて 酷い冗談だわ

私にはない「女の子」の資格がある人

愛される資格がある人

 作品の中のこの言葉は特に印象的で、それは形は違うけれど何千何万回と心の中で唱え続けていた言葉だったからだ。もやもやしていたものがはっきりと輪郭をもって現れた時の興奮で心臓が脈打つ音が聞こえた。世界が愛される前提で構築されていることが怖くてしかたがない。「女の子」という枠から少しでも飛び出ると「そんなんじゃ誰からも愛されないよ?」と悪魔が囁いて、そのたびに逃げ出したくなる気持ちを抑えて世間の言う幸せの手本を丁寧に丁寧になぞる。私が今なんとか「女の子」として勘違いされるのは若さがあるからであってそれがなくなった未来を考えると恐ろしくて頭の中でチカチカと孤独という文字が瞬いては消えていく。キャバクラのティッシュを貰えるのも知らない人から声をかけられるのも「女の子」だからではなく私が彼らにとって都合のいい存在だからにすぎない。元々たんなる退屈さを埋める為の気休めで彼らは私が何を喋っても聴いてないし聴こうともしない。ただ自分のことだけを壊れた機械のように繰り返している。そういう時惨めな気持ちになって、自分が透明人間なのではないかと思い始める。そういう気持ちを高野さんが訳すと「呪いが滲みだす」というのだなあ、と感動しました。声に出して読みたい日本語です、「呪いが滲みだす」。

でも、最後に主人公のりさこのお姉さんが言っていた「私女の子代表になんかなったことないよ」という言葉にすごく救われました。勝手に自分で決めたカーストに囚われていただけで本当は「女の子」であることに上も下もなくてただみんな今をど真ん中で生きているだけなんだとわかった気がして、自分の中で「女の子」でいることが少し抵抗がなくなったような気がします。愛されている人は愛されるためにそれそうとうの対価を支払っているのであって、愛されることで失っているものをたくさんあるしつらいこともあるし全部が全部ひっくるめて幸せに変換することは不可能なのだと実感したら、昨日の敵は今日の友なのかもしれないと思えてきました。全ての「女の子」が「女の子」から解放されて幸せになる日を願っています。

エイリアン/サマ―

私の中の童貞が騒ぎだす作品でした。ありがとうございます。カルピスの原液をそのまま飲みほしたような青春の甘酸っぱさが最高でした。個人的に夏という季節が好きなので夏全開って感じで最高でした。全体的に疾走感と爽やかさで駆けだしたら止まらないアイドルのPVっぽい感じがドルオタの血が騒ぎました。短いけれど青春全部つめこみました!みたいな濃度が濃い作品でよかったです。この気持ちを恋と呼ぶのか友情と呼ぶのかまだ知らないけど一緒にいると落ち着くみたいなもどかしい関係が好きだなと改めて思いました。個人的に異性をエイリアンとかドラえもんに例えるの超わかります。青春時代に同性だけの閉ざされた空間にいると自分と違う性別の人間がいると「あ、テレビでやってたぞ!」「ネットのデマじゃなかったのか…」ぐらいの傍観者の気分で接するようになってしまって、喋るのすらまにならないし、本当に未知との遭遇という感じになってしまうんですよね。だから、恋とか愛とかそれ以前にエイリアンの生態を知らなきゃいけないあの感覚。恐れ多すぎて触れることもできない。エイリアンの血は何色なんだろう。まとまらないけどとりあえずは青い空、熱くなったアスファルト、同級生の大人っぽいだるそうなギャルが出てくる作品にはずれはないし最高です!

 

全部の作品に共通するのは台詞のひとつひとつが丁寧で綺麗で読み終わったあとに何度も何度も反芻して噛み締めたくなるものばかりで、私は言葉でしかものを考えられないので私の中で長年ちらばっていた感情は視覚化するとこうるんだなあということを絵と台詞で見せてくれた高野さんが最高に尊敬しているし大好きだなあと思いました。高野さんの描く女の子はふわふわでカラフルで抱きしめたらやわらかいけど女の子だって血と肉とできているし脳髄が染みわたっているんだよという生々しさがとても好きです。毒があるくらいが可愛いです。女の子に与えられる記号は「サブカル」「メンヘラ」「ブス」とかマイナス記号が多いからそれが私は悔しくて女の子になりたくなかった。けれど、私が幸せにしたい女の子たちを幸せにするために必要なのは私が女の子として幸せにならなきゃダメなんだと思いなおした。女の子が女の子を求めるのはプラスの記号になるためだし、女の子を救えるのもまた女の子だと信じてる。

 関係ないですけど、読んでる最中も読み終わった後も頭の中に大森靖子さんの「絶対彼女」が流れました。「さよならガールフレンド」は生まれ変わるならまた絶対女の子がいいって思わせてくれる作品でした。

 


大森靖子『絶対彼女』Music Video - YouTube

 

『劇場版BiSキャノンボール2014』

あの夏がまたやって来た。


劇場版 BiSキャノンボール 2014 特報 アイドル vs AV監督編 - YouTube

ようやく楽しみにしていた『BiSキャノンボール劇場版』を観てきました。とても面白かったです。もう解散からずいぶんたってしまったからいまさらドキュメンタリー観ても何の感情も湧かないんじゃないかという不安があったのは事実でそれはいい意味で裏切られた。OPから涙流しまくりでした。特に横アリのライブのシーンになるとあの時横アリにいた私にタイムスリップしてしまって涙腺が崩壊するのを止めることはできなかったし、私が好きだったBiSがいると思ってなんてことない一言にいちいち反応してしまって他の客からしたらなんでこいつ泣いてるんだと思われたかもしれないけど、やっぱり私は今でもBiSが大好きだと実感されられるのと同時に私にとってBiSが解散した2014年7月8日はまだ終わってなかったのだと再確認させられた。でもBiSキャノのおかげで私があの夏に残していったやりきれなさとか後悔は無事に成仏させられそうです。当時は最高に楽しかった記憶しかなくて悲しいとかマイナスな感情は全然なかったのだけど、改めて振り返ってみるともうBiSが観れないというリアルを突き付けられていまさらになってすごく寂しくて悲しいけどやっぱりあの夏を目撃できてよかったと思ったし、BiSを好きになってよかったと心の底から叫びたかった。そういった意味で『アイドル VS AV監督』というファンとしては死ぬしかないキャッチコピーにひるまず地雷を自ら踏みにいってよかった。半年経った今ようやく前に進めそうです。

 

結果と内容については口外御法度令が下されているので書きませんが書いていいよと言われた情報とネタバレしない程度に個人的に感じたことを書いていきたいと思います。 

 

まずこれを言いたい。

なんで、アイドル映画なのに〇射があるんだよ。

 最初映画がR15になっている意味が分からなかったのですが、予習として『BiSキャノンボールSSTV版』を観て分かりました。AV監督が本気でアイドルとヤろうとしていること、そのためならどんな手段だって使うこと。一様本家のテレクラキャノンボールに乗っ取ってレース形式で映画が進んで行くんですけど、ポイントの基準が最低でした。電話番号交換、手つなぎまでは普通だし、靴下の匂いを嗅ぐとかマニアックながらもギリギリのボーダーを保っているものはまだいいとして問題はボーナスポイント。

  • +100P ハメ撮り
  • +9P  オナニー
  • +7P  フルヌード(正面)
  • +7P   フルヌード(バック)
  • +5P  手コキ  

 アイドル映画で絶対に見ることはないであろう単語の数々に圧倒されてしまった。BiSを知らない人からしたらひどすぎるかと思うかもしれないけど、久々に「ああ、この感じがBiSだった!」と思いだして懐かしくなりました。PVやプレイボーイで全裸になってしまうのがBiSの通常運転だから色々神経が麻痺してしまって少しのことでは動じなくなってしまったけど、今回はフィクションとしてのアイドルではなくリアルとしてのアイドルを描く作品だから意味合いが違ってくるので観る前から気が気ではなかったです。

 私はBiS目当てで行ったのですが、6人のAV監督のキャラの濃さに圧倒させられて映画が終わる頃にはすっかり全員のファンになっていました。途中からこれって『アイドル VS AV監督』じゃない。『アイドル VS アイドル』だ。いわゆる対バンだ。AV監督のファンのみなさんの熱量がすごかった。あれはもうアイドルといっても過言ではない。私が行った日は研究員よりもテレキャノファンが多かったです。いつでもアウェイなBiSだったけど、解散してまでアウェイで闘うなんて私の好きなBiSらしいなと思ってちょっと笑ってしまった。テレクラキャノンボール知らない私でもあまりの強引な駆け引きに笑いが絶えなかったんですけど、テレキャノファンのみなさんの「きたよ、いつものあれ」という笑いどころを節々に感じたので、6人ひとりひとりにカラ―があってキャラ立ちしてそれぞれファンから推されているという点でもうAV監督もアイドルだと結論にいたりました。コアはもちろんビギナーにもちゃんと魅力を伝えることができる人たちのプロ意識と技術の高さに尊敬の念しかないです。爪痕残すどころか一種のトラウマ残してくれましたから。いつでもビギナーズラックこそアーティストとして最高のパファーマンスだと思ってます。メンバー構成もマジでヤバい2人(ビ―バッブみのるさん・梁井一さん)+ゲス紳士(嵐山みちるさん)+物分かりのいい大人3人(カンパニー松尾さん・バクシーシ山下さん・タートル今田さん)というなんともアイドル的でよかったです。

ネタバレしない程度にそれぞれの感想綴っていきます。

 

個人的にこの映画のMVPはウイカさんであったのではないかと思います。とにかくかっこよかった。惚れなおした。男前すぎた。映画を観たあとに「誰に抱かれたい?」と質問されたらコンマ秒の勢いで「ファーストサマ―ウイカ様」と答える以外の選択肢がないです。私は最後の最後までウイカさんがどんな人かというのが分からないまま研究員生活が終わってしまったんですけど、映画全体でもBiSのブレイン担当というくらいその場その場でその人の求める「ファーストサマ―ウイカ」に形を変えていくのは本当にすごいと思ったし、それをわざとらしくなく自然にこなしてしまうのはさすが女優の一言に尽きます。いつでも器用にアイドルを演じているウイカさんだけど映画ではウイカさんの今まで見えなかった人間性が見えて、観る前と180度印象が変わりました。私は一番ウイカさんがBiSに関してクールだと思っていたけど誰よりも熱い人だったんだなと思いました。自分よりもメンバーのことを考えて「三度の飯よりBiSが好き」という言葉に偽りはなかったのだなと嬉し泣きしてました。「騙されたのはどっちだ?」というキャッチ―コピーはウイカさんそのものだと思います。

 

サキ様はサキ様だった。私が好きになったサキさまそのものだったよ。ありがとうとしか言えないです。サキ様推しとしてはどんな風になるのか不安だったけど、バクシーシ山下さんが相手でよかったと思ってます。バクシーシさんとサキ様はどっちも真面目でひとつひとつのことをよく考える似たもの同士で相性ばっちりだと思うのでこのふたりにはもっと別の形で会ってほしかったなあと思った。映画としては出番も少なかったけど、一番ファンが求める「アイドル」を貫こうとするサキ様は自分がドルオタというのもあってよくわかっているなあと感じたし、いつでもファンのことを考えてくれるサキ様がわかってとても嬉しかったです。確かに映像としてはインパクトもないけれどファンのことをよくみて一人一人に丁寧に言葉をかけてくれる真面目さこそなによりもサキ様の良さであると思っているので最高でした。我儘言えばもっとサキ様の出番欲しかったし、個人的にサキ様は短距離走より長距離が得意だと思っているので半年や一年くらいの長期間のドキュメンタリーだったらもっとサキ様の良さが光るのではないかなと思ってます。そのときはバクシーシ山下さんに純粋なドキュメンタリーとして撮ってもらえたら個人的に嬉しいです。サキ様の武器は言葉だと思うのでもっと多くの人にサキ様の言葉が届いてほしい。

  • ビ―バッブみのる×テンテンコ

とりあえずビーバッブみのるさんがテンコさん推しに殺されないことを願ってます。すごかったですね、人間見た目じゃわからないことってたくさんあるんだなと思いました。テンテンコさんの可愛さ故にみのるさんのゲスさが際立っていてまるで生き地獄でした。みのるさん第一印象は「よく喋るイケメン」だったのが観終わった後だと「人でなしも人の形をしているのだな」としか思えなかったです。誤解してほしくないのはこの「人でなし」というのは褒め言葉として使っています。クリエイタ―として自分の求めるものを撮るためならどんなことでもする人そのためなら自分がどう思われてもしょうがないとガンガン攻めていく姿勢がすごかったです。事実、BiSキャノをちゃんとキャノンボールとして成立させたのはみのるさんあってのことなので、自分の仕事はきっちりしなければ気が済まない人なのだなと感じました。計算なのか天然なのかわからないところがとても魅力的だと思います。小さな身体で誰よりも強い心を持つテンテンコさんと巧みな話術とイケてるルックスと独自の美学でテンコさんを丸めこもうとするみのるさんの攻防はまさに虎と龍の闘いでした。熱かった。ビ―バッブみのるさんの相手はテンテンコさんじゃなかったらダメだったし、横アリで笑顔で踊っていたテンテンコさんがこの辛さを少しも見せなかったと思うとプロ意識の高さに脱帽して自分の無力さをただ嘆くしかないです。でもそこに悪とか正義とかはないです。両者ともにアイドルやAV監督としての自分を貫こうとしている姿に感動しました。ビーバップみのるさんはきっとAV監督としての仕事に誇りをもっていて「なんとしてもファンに見せられる形にしなくては!」と中途半端を否定して完成を求めた結果、どんどん(研究員としては)悪魔のようなアイディアが溢れてきたのだなと感じました。AVファンはこういう人がいるから生きていけるんだろうなと思えたし、日本まだまだ捨てたもんではないという謎のポジティブパワーを感じました。あと純粋さと狂気は紙一重だなと痛感しました。トラウマ級にすごかった。

  • タートル今田×プールイ

この映画のプールイさんは聖母のような美しさでした。とぼけているようで守るところは守るガードの固さ。さすが、最後の最後までBiSに残ったオリジナルメンバーでありリーダーの貫録があった。プールイさんなくてはBiSはここまでこれなかったと思うので、プールイさんには推すとかそういう次元を超えて尊敬と感謝しかないです。プールイさんの口から出る「アイドル」という言葉の重みがすごかった。アイドルと言われるたびに胃が痛くなった。なによりもアイドルに正解がないことへの辛さと諦めをプールイさんの言葉の端から感じたのが痛かった。ただ幸せになってほしいと心の中で祈ってばかりいた。タートルさんのいい人ぶりが全開なのがすごくよかった。AVというより完全にプールイさんパートだけ純愛映画のようになっていて逆に浮いていたという印象が残った。まったくBiSを知らないタートルさんが最後終わるころにはすっかりプールイさん推しの研究員になっているのが自分のことを見ているようで微笑ましかったです。BiSは失敗作と言ったプールイさんだけども、昨日まで自分に興味がなかった人を一日ほどの時間で虜にしてしまうことは誰にでもできることがないしそれこそがプールイさんが、BiSがアイドルであった証明になるのではないか。世間からしたら失敗だし、何にも残してないし結局世界は変えられなったかもしれないけれど、それでもBiSは一人の人間の人生を変えられるだけの力があったということがBiSが存在した理由であったと思います。あと、本当にプールイさんの笑顔が可愛い。ふにゃっとした笑顔に嬉しいことも楽しいことも悲しいことも辛いこともあったBiSの三年半が詰まっていると思うと感情に言葉が追いつかない。

コショージさんはさすがだなあと映画を観ながら感心しっぱなしでした。梁井さんも最初らへんはコショージイズムに困惑してるのが面白かった。最後の最後にBiSにコショージさんという爆弾が落とされたのは正解だったのかも、とぼんやり思いました。コショージさんがファンキーすぎるので途中までは梁井さんがすごくまともに見えていたんですけど、ビーバップさんが動の狂気なら梁井さんは静の狂気の人だなと感じました。後半からのヒートアップさがやばかったです。人を見た目で判断しちゃいけないと痛感しました。BiSキャノがBiSの解散のドキュメンタリー作品として悲壮感だけにならなかったのはコショージさんのあっけらかんとした性格と愛されるおバカさ全開があったからだと思います。コショージさんがBiSキャノにとってのコメディを担当してくれたことがよかったなあと思いました。キャノンボールファンとしてもわりかしチョロいぞ!!!これはいけるんじゃ!!??と期待の星枠だったと思うのでそこらへんも無意識でやっているあたりコショージさんは何かしらをもっている人だなあと恐ろしくも感じました。

SSTVから一番ひやひやして観ていたのはのぞしゃんだったのかもしれない。マイペース担当という言葉通りにアイドルやっている時は違って普段はぽんわりしていて言葉数も少なく秋田から上京してきた初々しさが残る普通の女の子といった印象で可愛かった。けれど、最初から言葉巧みにみちるさんのペースに巻き込まれて困惑しながらもポイントを重ねてしまうのぞしゃんは本当に純粋なんだなあと思うと同時に研究員としては不安要素ばかりで心配だった。甘いルックスと柔らかい物腰でのぞしゃんを毒牙にかけようと手招きしているみちるさんはいい意味で下衆紳士だった。でもやっぱりのぞしゃんはBiSのオリジナルメンバーできただけのことがあって合間合間にしっかり女の子の強さと生まれながらのハングリーさを見せつけていたのがさすがだった。危ないと思っていても持ち前の天真爛漫さと純粋故の鈍感さで回避してしまうのはのぞしゃんだからこそなせる技だなあと思ったし、アイドルになるためではなく自分を変えたいと思ってBiSに入ったのぞしゃんが実は誰よりも「何にもしなくても自然と愛されてしまう」という天性のアイドル性をもっていることがまぶしかった。のぞしゃんにとってBiSは生きるための場所であったかもしれないけど、3年半の間でもうBiSが無くても生きられるようになったのぞしゃんは強くたくましく可愛い女の子だと思った。もう幸せになってほしさしかない。野イチゴとか摘んで生きていってほしい。

 補足としてマネージャーの渡辺さんに対してのコメントは「可愛さ余って憎さ100万倍」みたいな人だなあと思いました。いろいろあった中できちんとBiSを終わらしてくれたことに関しては感謝しているし、渡辺さんがヒールになってくれたからこそ彼女たちも守られた部分があるのでそこらへんのメンタルはすごいと思ってます。ただ、映画を観ていて自分がない人だなと思いました。全体を通して見るとすごく論理的に違和感があるしはちゃめちゃなことを言っているように思えるけど、BiSメンバーを可愛いと思っていることもAV監督と一緒にメンバーを騙しながら冗談いいながら笑い合っているのも渡辺さんに全部が全部本当のこと思います。ただ流されやすいし思いつきで行動している人だなあと感じたし、あらためてBiSがここまでやってこれたのはプールイさんや他のメンバーの協力もあって奇跡的なことなんだなと思ってました。渡辺さんはとにかく違法でもなんでもアンテナをブッ立てて受信して面白そうなのを片っ端からやっていくスタイルで、そういう自由な発想だからこそBiSは横アリまでいけたし苦しめられたと思います。けれど、渡辺さんを完全に嫌うことができないのはキャラクターとして憎めないところがあるし、横アリで流していた涙が語るように本当にBiSを好きだったからだと思います。ただ愛情の伝え方が下手なだけで。そして私はBiSに携わるものを嫌うことができないです。だからBiSはある意味で渡辺さんに守られていたし、渡辺さんを守っていたのだと思います。

あと、 6人6色で女の子たちをその気にさせるための話術がすごい。観ている最中は「このままメンバーがマジで毒牙にかかってしまったらどうしよう…」と思って周りの笑い声に合わせてとりあえず自分も乾いた笑い声を出してました。

とどめの本編での〇射シーン。

これ、マジでやばいんじゃないか?

 頭に浮かんだのはBiSの『DiE』という曲のPVその過激さから通称『ハメ撮りPV』とも言われているやつで私はアイドルが好きになった時に毎日アイドルのPVを漁りまくりある日ネットの荒波に揉まれてこのPVにたどりついたときの衝撃はやばかったです。「こんなの私の知ってるアイドルじゃない!!!」と思いながら何度もリピートしまくり気がついたらリリイベに足を運んですっかりBiSの虜になり研究員としてのスタートを切りました。でも、フィクションとリアルは別だ。本当に好きなアイドルがヤられてしまって、しかもパブリックに公開されてしまったらそれこそまさにDiEだぞ、と葛藤してました。

 


BiS / "DiE (Special Edit)" Music Video - YouTube

 

男なんてどうせ馬鹿で最低だと心を閉ざすメンバーと女なんて馬鹿だから簡単にヤれるだろと思ってるAV監督の対比がすごく面白かった。心を裸にするドキュメンタリーを撮ってほしい女の子たちと文字通り丸裸の女の子たちをハメ撮りしたい男たちだからこそ生まれるぎこちなさと疑心暗鬼の連続の生々しさがドキュメンタリーとして最高だった。でも、結局この映画が描きたかったのは男VS女でも大人VS子供でもなくてただアイドルVSファンだったのかなと足りない頭で考えてたどり着きました。人間なんて生まれた数だけ欲望を抱きながら生きているのだからいい人間だって悪い人間だって絶対いるし、〇〇のファンだからいい人だって絶対言いきれないと思ってます。だから親目線でアイドルを応援する人だって恋人になるためのガチ恋だって、ただ可愛い子に自分を認知されたい人だって、画面越しだけでめでたい人だって、やらしい目線でみる人だって全部ファンにカテゴライズされるしどれが悪いとかいいとか善とか悪とか裁けないしそんなの意味がない。だから、キャノンボールの「アイドルとヤる」という最悪でわかりやすいゴールのためにアイドルに好かれようと試行錯誤を重ねながら心を開かせようと行動する監督たちの姿にアイドルとファンの関係性にデジャブを感じてしまった。監督たちが真面目な顔して相槌を打ちながらメンバーの話を聞いている最中も頭の中ではどうやってセックスにもっていくかと考えているということを映像として観ていて自分は本当にアイドルのことを考えて好きという気持ちを伝えていたかを考えていた。「セックスしたい」という部分は「顔を覚えてもらいたい」「恋人になりたい」「歌って踊っている姿をみたい」とかいろいろな自分の欲望を代入していくことができて、それは全て言葉や行動としての「愛」に変換される。マイナスもプラスもどんな感情もアイドルであるがために受け入れなければならないのはすごく大変なことだと思います。いつかBiSのインタビューの中にあった言葉の「こっちだって殴ることができるんだぞ」って言葉が忘れられないです。ちょうど世間が握手会の事件で騒がれていた頃のインタビューでアイドルという存在が揺らいでいた時期にアイドル側から「私たちだって人間なんだ!」とど真ん中にボールが投げられてああ、その通りだなと思いました。私がずっと探していた言葉だから今でもぐるぐる回っています。私が好きな女の子たちはアイドルである前に人間だということを忘れてはいけないし、いつも受け身で消費されるだけではない存在なのだと忘れないようにしなければならないなと思いました。アイドルは神でも天使でもないただの血と肉でできている人間だからこそ美しく可愛いのだと思います。可愛いという暴力性にいつもボコボコにやられっぱなしされて、嬉しさも悲しさもできる限り共有していきたい。だから、私は殴られる覚悟でいつでも大好きって好きな子たちに伝えていきたいです。

 

終わったあとカンパニー松尾さんのトークショーがあったのですが、すごく楽しくて面白かった。BiSキャノからのテレクラシリーズ新規でにわかの私ですが、監督であり出演者であるカンパニー松尾さんの考えを言葉として生で聴けてよりいっそうこの作品を愛そうと思えました。

カンパニー松尾さんは最初から負け戦が決まっていて「BiSキャノは敗戦のドキュメンタリー」と言っていましたが、テレキャノを知らないで研究員の立場から観た私からするとこの勝負は引き分けかなと感じました。AVとしては世紀に残る駄作でアイドルのドキュメンタリーとしては超名作だと思ってます。ただテレキャノファンとしてもの足りなかったのは少し分かるかなと思います。だってテレキャノファンからしたら「こっちはアイドルがヤッているの観れると思ってきたのになんだ!!!!ふざけんな!!!!!」ってなるくらいでAVともいえないイメージビデオくらいの生ぬるさだったかなと。ただ、それは最後までアイドルらしくないと言われたBiSに対するアイドルとしての最高の褒め言葉だから私は嬉しいです。フライデーが出るたびに恋が終わり、嘘か本当かわからないネットに流失した動画を繰り返し見て、週刊誌に踊る熱愛と枕営業の文字に毎回死にたくなっている姿をみて世間から笑われても、好きな女の子たちがブスか可愛いか値踏みされている姿を見てどうしようもない怒りを抱えながら悔し泣きしても、「アイドルにも彼氏いるし、セックスしてるでしょ?」と耳打ちされ続けても、アイドルが自分たちがアイドルと思い続ける限りは好きでいることを許されていいんだなとアイドルを好きな自分が肯定された気がしてとても嬉しかったです。誰よりもアイドルらしくなかったけど最後の最後で誰よりもアイドルを貫いたBiSって最高にかっこいい。少しでもこんなにかっこいい女の子たちを疑ってしまった自分を恥じてやっぱりBiSを好きになってよかったなと思いました。だから、カンパニー松尾さんの敗戦とはAV監督としての敗戦という意味で使ったのかなと思いました。自分自身でもAV監督として完成された作品をファンに届けられなかったことをちゃんと隠さず正々堂々と白旗あげる姿は大人でかっこいいなと思います。だけど、もしかしたら意図的ではないのかもしれないけど結果論として「BiSは最後までアイドルだった」ということを証明できる作品として創り上げたことはドキュメンタリー監督としては大勝利だったのではないかと思っているので、私ひとりで決めることではないけれど、引き分けかなと思いました。あとBiSキャノはそれぞれ6つの視点から女の子を描きだす過程がオムニバス形式みたいに観れて作品はこうやってできるんだとクリエイタ―の裏側が観れるものづくりのドキュメンタリーとしても楽しめました。脳髄を形にしていくやり方が人によって違ってそれぞれの監督たちのこだわりと生きざまを見せつけられてプロのすごさを感じました。

カンパニーさんも言ってましたけど、BiSキャノは疑問符でしかない映画だし、最後までクエスチョンマークしかなくて問いかけのまま終わってしまっているから観終わったあとは「アイドルって何だ?BiSって何だったの?」という答えのない問答がずっと頭の中で続いていてしばらく経った今も時折ふと考えてしまいます。BiSキャノの面白さというのは未完成だからこそではないかと思っていて、立場によって受け取る感情や見え方が違ったりして怒りも苦しみも悲しみも楽しさも愛しさも全てごっちゃごちゃにかき混ぜて残った感情を表す日本語が見つからないから面白いとしか言えない作品だなと感じてます。終わった後にもやもやするけれど気が付いたらBiSやアイドルのことを考えてしまうということはこの映画が面白かったということの証明であり意味ではないかと思います。映画を見ていたときに私の周りはテレキャノファンだけで研究員は私のみという完全アウェイだったのでライブシーンではひとりで涙していたんですけど、途中でおそらく今までBiSを知らないで生きてきたであろうサラリーマンの男性が私の隣で啜り泣いていてそれがたまらなく嬉しくて興奮していました。大半のテレキャノファンがBiSキャノをつまらなかったとしても、一人のサラリーマンの心を動かしたという事実がアイドルという存在がいる意味で、それがどの程度の確率かもわからないけどたとえ0.0000000001%だったとしてもそれほど尊いものはないと思ってる。モノクロから世界が色づくあの瞬間こそを人は恋とも愛ともアイドルともいうのだろうなとひとり噛み締めていた。それと同じようにAV監督たちに心動かされる研究員もいたと思うし、私もその一人だ。こんな世界があったのだと眼から鱗の連続だった。アイドルとAV監督相容れない水と油の関係だからこそお互い偏見という壁をぶっ壊すいい機会になったと思うし、お互いにやるじゃんとスクラム組んで仲良くするかダメなら殴り合っていけたら最高じゃんと思ってる。世界は自分が思っているより大きくてやっぱり面白い。自分の生きる世界を否定するより肯定して生きていきたい。

映画にはエンドロールがあるけど、解散してBiSがなくなっても大好きだった女の子たちの人生は続いているわけでそれこそがあのもやもやするラストへの解答になるのではないかと思っているので私はこれからもBiSのメンバーを私なりに応援していきたいと思ってます。to be continuedは自分の眼で確かめなくちゃいけないてはといまからわくわくしているし違う景色を大好きな女の子たちとこれからも見ていきたい。

最後にBiSメンバーが今どんな活動しているか紹介して終わります。

  • プールイさん

プールイさんは今は『LUI FRONTiC 赤羽JAPAN』というバンドで歌ってます。歌いたくて居場所作るためにBiSをはじめたといっていたプールイさんがまた歌っていることが嬉しいです。病気とかメンバー脱退とかソールドアウトしなきゃバンド解散とかいろいろあったけど無事メジャーデビューできてよかったです。これからも笑顔でいてください。


LUI FRONTiC 赤羽 JAPANメジャーデビューシングル「リプミー」ミュージックビデオ ...

  •  のぞしゃん、ウイぽん

ヒラノノゾミさんとファーストサマ―ウイカ様は『BILLIE IDLE®』として新メンバーのヤスイユヒさんとモモセモモさんを加えてエイプリールフールにデビューアルバムを出します。いよいよ活動するのかと今から楽しみです。個人的にウイぽんのシャウトと凛々しい歌声とのぞしゃんのα波が出ているような柔らかい歌声が好きなのでまた声が聴けるのが嬉しいです。新メンバーのふたりも可愛いのでこれからもっと知っていきたいです。どうかエイプリールフールの嘘になりませんように。

 

  • テンテンコさん

テンテンコさんは今はフリーでDJやったり歌を歌ったりしてます。フリーという選択がとてもテンテンコさんらしいなと思いました。ホラーテイストのDVD出したりテンテンコなりの未来を築いているのが最高です。テンコさんの歌声は中毒性があって、歌詞も独特ですごく好きな世界観だからもっとテンテンコらしさを見せつけてテンテンコというジャンルを確立していってほしいです。憧れているのが戸川純さんと言っていたのでなるほどなあと思いました。新曲いい感じです。エンドレスリピートしてます。MVからしてフックがすごくてさすがです。


テンテンコ 「Good bye,Good girl 」(MV) - YouTube

 

コショージさんは前にインタビューでBiSを解散したら眠り続けるみたいなことをいっていたのでアイドルをまた続けることが意外でした。すごく嬉しかったです。今は『Maison  book girl』というグループで活動してます。ライブいけてないし、音源もないからなんにも新しいグループについては何にも言えないのだけど、個人的にコショージさんの文才がドンピシャなのでこれからも文字を綴っていってほしい。歌詞でも詩でもブログでも。とにかくコショージさんの言葉が聴きたいし読みたい。何ももってないふりして何でももっているコショージさんってずるくてとっても魅力的な人だなあと思う。のぞしゃん推しだから愛され体質な気がします。とにかく愛らしい存在。コショージさんがグループ活動をする前に朗読している動画を見て泣いてしまった。とにかくコショージさんを構成する言葉の粒を集めたい。


コショージメグミ@りんくうにぎわいフェスタ 20140920「詩の朗読」 - YouTube


コショージメグミ@りんくうにぎわいフェスタ 20140920「日記の朗読」 - YouTube

サキ様は今はミズタマリさんと『プラニメ』というアイドルユニットで活動してます。本当に推しがアイドルやっている姿をこれからも見れるという事実が本当に嬉しい。サキ様はBiSでは唯一アイドルになりたくてアイドルになった人だからそういう人がこれからもアイドルでい続けてくれる覚悟をしてくれたことに感謝しかない。ありがとうございます。サキ様は本当に私のヒーローだから歌とダンスでもっと多くの人を笑顔にしてくれると思ってます。マリさんも大阪の女の子なのでよく喋ってよく笑って元気で素敵な女の子で最高です。今まで知らなかったマリさんという存在もサキ様を通して知れたこともとても嬉しいです。本当にアイドルって人生においてプラスな記号であると日々実感して噛み締めています。最初は手探りでぎこちなかったふたりも新年あけてから初めてみたら歌もダンスも息があっていて本当の意味でプラニメになれたんだなと思えました。ふたりだけでなく会場もお客さんも全部をプラニメに染め上げたあの幸福感はまだ身体に残っています。ミニアルバムも出るし、楽しさしかないです。マリさんとサキ様のふたりなら世界地図を笑顔で埋められると信じてます。


プラニメ「UNIT」MV - YouTube

 

 

暫定 愛しています

溢れる想いを吐き出していかないと死んでしまいそうという気持ちでこんなものをはじめてしまった。

松田龍平が好きだ。

言葉にすれば一行で済むほど単純で拍子抜けする。けれど、今の私の身体の細胞は子の感情で支配されているといっても過言ではない。好きすぎてフルネームで呼ぶことしかできない。敬称がみつからないのだ。年上の男性をちゃん付けするのははばかれるし、さん付けは遠くなってしまう気がする。かといってあだ名をつけるというのは失礼な気がして迷った挙句の正式名称になった。

 

きっかけは他人からすればどうでもいいくらい単純なもので、それで私の人生がここまで変わるとは思ってなかった。その時私は大学に入って楽しくてしょうがない毎日がまっているはずだった。けれど、最初こそ順調に滑り出したものの現実はそんな甘くなくてかみ合わない会話と上滑りする愛想笑いの連続で居場所もなくすっかり周りの人から離れたところで思い描いていた楽しい生活を眺めるだけの傍観者になってしまっていた。楽しさを演じて学校と家を往復するだけの単調な毎日の中で疲れて眠るだけの身体は生きていても無駄としか思えなかった。そんなある日になんとなくぼんやり観ていたロードショーで『探偵はBARにいる』がやっていて、とくにすることもなかったのでそのまま観ていたらすごく面白くて、その後やっていたCМでもうすぐ2が公開されるということを知ってたまらず近所の映画館を探して友達と一緒に観に行った。2も同じように面白くて、久々に楽しかったと思えた。観てからはどうしようもなく高田という役が気になってしまって、そこからたどっていって松田龍平という人がやっているのかとその時知った。そこから先はあんまり覚えていなくて、興味本位に借りたDVDは観ていくたびに松田龍平という人間をもっと観たい、知りたいと思わせて流行りのCDだけを借りるために行っていたTSUTAYAに通うことが日常になって、毎日松田龍平という文字を入力して検索して、関係する雑誌や本を買いあさり今まで買ったことのなかったDVDBOXまで頼んでいた。気が付いたら、松田龍平に浸食されていた毎日はとにかく日に日に加速度を増していくばかりで不幸なふりをして悲しんでいる暇さえなかった。恋も愛も落ちるというものではなくて蝕まれていくものだと体感した。

演技もなにも分からない私が松田龍平が静かな低音で吐く台詞、ころころ変わる表情や瞳だけで感情を語ってしまう演技に笑ったり泣いたりするようになって一番驚いたのは自分自身だった。こんなに自分の中にはいろんな感情があるということに気が付いてびっくりした。松田龍平を好きになってから私は今までよりだいぶ人間になれた気がした。苦しかったときのことはあんまり覚えていなくて、ただただ日々がすぎていっただけな気がする。ただいつも楽しかったときには松田龍平がいて、それだけで十分だなと都合のいいところだけ思い出して生きていければいいやって思えた。松田龍平は死にそうな私が生きるために掴んだ蜘蛛の糸だった。個人的に一番変わらなくちゃだめだというきっかけをくれたのは『蟹工船』という作品で松田龍平演じる新庄が不幸になれてしまった仲間たちを奮い立たせるために「俺たちの最大の弱点は慣れだ」「俺たち一人ひとりが本気で考え、一人ひとりの意志で立ち上がらなければ何も変わっていかない!!」と演説するシーンで泣いてしまった。流れた涙は決して感動とか綺麗なものではなくて、何もしないで嘆いているばかりの自分に対する悔しさがあふれ出た結果だったと思う。それは私が今まで避けてきた真っ直ぐで誰もが分かっている言葉で内心馬鹿にしてきて、そんな言葉を言う人を理想論だと冷やかな目でみてきた。けれど、松田龍平というフィルターを通してみるとそんな馬鹿げた言葉もすっと私の中に入ってきて鋭いナイフで一番痛いところをえぐりとるような衝撃をもたらした。観終わった後に「俺たちは生きているんだ!」と叫んだ松田龍平が頭の中で何度もリピートして「そうだ、私は生きているんだ」ということを思い出した。不幸に慣れてしまった私は生きることも死ぬことも放棄して人間さえもやめようとしていた。他人からしたらどうでもいいことかもしれないけど、もう一度生きようと思えて、フィクションからノンフィクションさえも編集してしまう松田龍平という人間に出会えて本当によかったと思えた。大げさではなく人生を変えてくれた人だと思う。

今年に入ってから、生まれて初めて映画の舞台挨拶に行ってきた。眠たい目をこすりながらコンビニで何度も松田龍平に実際に会いたいという一心でチケット販売機のボタンを連打して格闘しながらチケットが取れてときは小さくガッツポーズをするくらい嬉しかった。けれども、同時に不安だった。失礼なことだけれども、私の中で勝手に作りだした松田龍平という人物が生きている松田龍平という存在と食い違っていて幻滅してしまったらどうしようという気持ちがあった。また生きる理由をなくしてしまったらどうしようと。松田龍平のいなかった頃のなんもない自分に逆戻りと思うと怖くてしかたがなかった。それだったら一生ユートピアのままであったほうがいいのでいてくれた方が幸せかもしれないとすら思った。

けれどもそんな心配なんてぶっ飛ぶくらいに松田龍平松田龍平だった。

小さな劇場で一瞬だけ横を松田龍平が通った時に生まれて初めて自分の耳の裏から血液が流れ出して脊髄を通って心臓に到達して鼓動が鳴る音を聴いた。全身がドクドクと波打って言葉なんてもういらないと思った。今までスクリーンでしか聴いたことのなかった低音、すらりと伸びて組まれた脚、マイクを持つ彫刻のような手を肉眼で耳で拾い集めて身体中のありとあらゆる五感が松田龍平に満たされていく幸福感は私が生きてきた年数で体験してきた全ての幸せを合わせても足りないくらいだった。既婚者だとか子供がいるとかは些細なことで、結婚したい、恋人になりたい、そんな願望で言えるほど簡単なものではなくて気が付いたのは、ああ、私はこの人になりたかったのだということだった。どうしようもなく愛される才能がないことに気が付いた私は、愛されるために生まれてきた人を好きになるのはこの世の真理だ。クールに見えてふとした時に零れる笑顔の可愛さとか、喉仏だけ上下させて静かに笑う癖だとか、相手を自分のペースに巻き込みながらもちゃんとさりげない優しさで守ってくれているところだとか短い時間でもそういう彼の歩んできた人生のダイジェストが垣間見えて本当にこの人を好きになってよかったなと心の底から思えたし、少し失礼なことを想ってしまったことを反省した。夢のような時間が終わったあとは、ふらふらとしながら電車に乗って席に座って今日という日を忘れないためにと買った映画のパンフレットを抱えながら少し泣いてしまった。上気した頬も車内の聞きすぎた暖房のせいか興奮のせいかすらもわからなくなっていた。松田龍平にとって私はたくさんいる中の一人でその存在すら気が付いてないのかもしれないけれど、私にとって全てであった。だから、存在と時間と空間を共有できて今までどうあがいても平行線だった人生がほんの一瞬でも交わったことがどうしようもなく嬉しくて耐えきれなかった。もしかしたら、普通のサラリーマンになって結婚して幸せになるという人生もあったかもしれないのに、演技もしたこともないただのサッカー少年だった松田龍平が偉大な俳優であり父である松田優作さんの肩書きを背負ってまで俳優という選択肢を選んでくれたことと15年という長い間荒波のような世界で続けてきてくれたことを考えると全てが天文学的な確率で奇跡以外の言葉が見つからなくて、ありがとうとしか言えなくなってしまう。私は松田龍平という俳優が過ごしてきた15年のうちたった2年程度しか共有してないけれど、それでも十分に伝わるくらいに映画という中に自分の人生を残しておいてくれて感謝しかない。たった一人のものになっていたかもしれないたくさんの喜怒哀楽を作りものだとしても本当だと信じさせてくれるようなリアルに変換していつでも見ることできる今という幸せを噛み締めながら生きている。ただ、一度だけ会えればいいと思っていたのは間違えで、また会いたいと思ってしまった。自分が思ったより欲深いことに気付いてまた人間に一歩近づけた気がする。心の中で勝手に決めたいつかありがとうというという約束はまた生きる理由を増やした。

 

松田龍平を好きになってから人に「変わったね」といい意味で言われることが増えた気がする。これまでの私はなんとなく受験して、なんとなく相槌をうって、なんとなく大学生になったようなふらふらとして他人の顔色で人生の正解をカンニングして生きている自分というものをもたないぼんやりとした生き物だった。でも、松田龍平に出会ってから自分がいかに彼の素晴らしさを語る言葉をもたないことに絶望して、このままじゃだめだと思って文章にしたり、今までより感情を表すことが多くなったと思う。何にも語ることすらできなかった自分に唯一松田龍平が好きだと断定できる気持ちがあることが今はどうしようもなく嬉しい。松田龍平に出会ってから私は前より自分が好きになれた気がする。自分が今までしらなかったことや逃げていたことは案外楽しいことだと思えることになったし、どんなに孤独でもひとりではないと気がつけた。それでもまだまだ年齢と大人という称号にふさわしくなくてこれから頑張らなくてはいけないけれど、家と学校の往復だった毎日に寄り道という楽しみが増えたし、今までは全然知らなかった街を迷いながら映画館にいったり、邪魔だった前髪を少しだけ切ったり、ご飯がおいしく思えたり、松田龍平っぽいってだけで反射的に買ってしまったお気に入りの服ができたり、メイクも少し上手くなった。たったそれだけのことでも、モノクロだった世界に色があるのだと気づくには十分で、世界は自分が思っているよりも面白いってわかった。松田龍平に出会わなかったら、またこれからもなんとなく社会人になって結婚してという流れるようにテンプレートな人生を送って幸せだと思いこみながら生きているつまらない人生になっていただろうなと思うとぞっとする。だから、ようやっと言葉を喋れるようになったことが嬉しい。曖昧な想いは形にしようとするほど詩的になっていき、綺麗にしようとするほど散文となって散らばっていく。それはかつて私が嘲笑した愛を叫ぶという行為で自分で自分を袋小路に追い込んでしまった。しかし、他人にどんなに蔑まれようとも伝えていかなくてはいけない。悲しいことに分析したり批評できるほどの頭をもっていない。残留する想いは濁りにかわっていく。この煌びやかな世界もいつかは朽ちて、私の眼もまた腐って死んでいってしまうのだろうかと考えるとただ恐ろしくて、自分が生きた証を少しでも残さなくてはという衝動に駆られた。私の身体にかかる重力は私の吐く言葉には関係なくて、それなのに愛が重いというのはなんとも自意識過剰なことだろうと思う。春は突然やってきて、私に修羅ももたらした。寝ても覚めても思い浮かぶのは松田龍平のことだけで他に何をしていたか思い出せない。恋というにも愛というにもしっくりこない。ただ毎日名前もつかない感情が微粒子となり喉の奥までつかっかるほどに満たされていく。今の私にはただ、愛してますとしかいえない。それしか表現できないのが恥ずかしい。与えられた言葉でしか想いを形にできない自分がもどかしい。本当はもっと深くて淡くて柔らかいものなのに、どぎつく派手なテンプレートであてはめることしかできないのだ。全ての感情が暫定である。ただ生きているという事実だけが日に日に濃くなっていった。

 

 自分だけが一方的に好きで、叶わないと言うのもおこがましいくらいにはるか遠くにいてこれから先話せるかも触れられるかもわからない人間の一挙一動に笑って涙して怒ってはたからみたらただの馬鹿じゃないですか。でも人生って少し狂ってるくらいがちょうどよくてやっぱり楽しいです。たとえこの先、私の名前も存在も彼の脳髄の一滴も満たせず、体温も知らないまま死んでいくとしてもこの喜びを教えてくれただけでかまわないと思えるくらいに最愛です。

 

貴方に出会えて私の地獄は色を取り戻し、楽しくなりました。

 

意地と憧れだけでやっと立っている状態で言うのはおこがましいにもほどがあるけれど、私と私が好きになった全ての存在を正解にするだけが今生きている理由です。馬鹿にされることも気持ち悪いという言葉ももう気にならなくなりました。振り替えってみてたまに戻りたいと思うことはあるけれど、そんなのはどうでもいいくらいに今生きているのが幸せで楽しいです。好きでいてくれることを許してくれてありがとうございます。これからもそんな優しさに甘えて、殴られて当然くらいの歪んだ形をした愛を勝手に綴って勝手に生きて勝手に死んでいこうと思います。今は暫定的に愛してますとしか言えないけれど、もっとふさわしい言葉を見つけるためだけに生きていきます。だから、これからも憧れでいることを許してください。そしていつまであるはずのない永遠の中にいると勘違いさせてください。少しでも松田龍平という人間に近づくことが私の生きる意味です。


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