うまれて10000日

はてブロってそろそろ更新しませんか。というメールが来るんですね。前回の記事をあげて約1か月が経ったそうです。早いですね。

前回のブログの彼に出会ってもうすぐ3年になります。たった3年なんですよね。密度の濃い期間だったなと、改めて感じます。

今日は2017年3月21日
彼がうまれて、今日で10000日目です。
10000日ってすごいですよね。10000日が長いのか短いのかよくわかりませんけれど、うまれてから毎日1円貯金しても27歳で10000円にしかならないのか、と考えると短いですし、一年が365日と考えると10000日って相当先だな、長いな、と思いますし、考え方の違いで長いとも短いとも思える不思議な数字に見えてきます。

そんなうまれて10000日目が休演日、というのも面白いですね。普段は月曜日が休演日なのに今日だけは火曜日が休演日なんです。誕生日ではないですけど、ゆっくり出来る日であるといいですね。

最近色々考えていたのですが、他人に期待をするから自分が傷つくのかなと。期待をされないのは悲しいことなのかもしれませんけれど、始めから何も期待をしていなければ良いことがあれば素直に喜べますし、何もなければそれは普通で終わるんです。
いつからか自分は傲慢になって、普通のハードルが上がっていたのだと思います。

少し考えるだけでも色々なことがあったな、とすぐに思い出せるくらい楽しかった思い出がたくさんあります。今まで応援してきた期間を後悔するようなことはないですし、何かを返せと思うこともないですけれど、思い出して寂しくもなります。
最近話題のブログを読んで、もしかして全部勘違いだったのかな、と考えましたけど、映像にもブログにも写真にも残っているものもたくさんあって、勘違いではないと思うんだけど、いやでも、と結局この考えは答えが出ないのでループしてしまいます。

彼のおたくは通わない人が多いといわれているのが不満で、普通に通っている人はたくさんいました。通っていないからわからないだけだと思いますし、害もないので特に名前をあげる必要性も感じません。

ファンサに関しては誰にしていようが構いませんし、私は通路にいて素通りされたら悲しいけど、そうじゃなければ他のファンの子をたくさん構ってファンを増やしてほしいと伝えて続けていました。それを言ってもくれるんですけどね。優しいから。
ファンサで増えたファンはファンサで流れるとは思いますけれど、ファンサも一つの入口だと思うので悪いことではないと思うんです。
 
もともと確認は出来ていましたけど、先日の接触はこちらが言葉を発する前に名前を呼ばれたので、覚えてる人は名前を呼んでるのかもしれません。面倒臭い女なので、その他大勢と同じ対応ということに腹を立ててしまったのですけれど。
 
きっともうこれからは彼と私とで楽しい思い出は出来ないでしょうし、彼以上にのめり込む俳優も出来ないと思います。
はてブロは気持ちの整理のために書いています。色々言っていても、悲しいとか悔しいとか思う程度にまだ私は彼が好きですし、未練もあるんだと思います。それでももうリアコとは言えない程度には気持ちが落ち着きました。
自分が何もしなければずっと変わらなかったんでしょうけど、それが出来れば苦労はしません。
 
リアコじゃない応援スタンスってなんなんでしょうね。今の彼に演技を観たい!と思わせる魅力を感じないんですよね。
彼の演技は好きでした。色々なキャラの細かい仕草や表情を考えて丁寧に演じてるのがみえるところが好きでした。
こんなところでいってもどうしようもないので深くは言いませんけれど、今の彼にはあまり魅力を感じないのです。
リアコの魔法が解けてしまっただけかもしれません。
 
いつか犯罪者の役を演じる時は是非また観に行きたいです。 

推しに幻滅した話

推しに幻滅した話。

私は古参ファンでした。
彼は早い段階で私を認知してくれました。
もちろん顔も名前も手紙も一致していますし、本人に確認しました。

私は古参ファンで、いわゆるリアコでした。
リアコなので同厨は嫌いですが、芸能活動をしている以上たくさんファンを増やして、たくさん仕事をして、大きくなってほしいと本人にも伝え続けてきました。

彼が頑張っている時は応援をし、彼が辛そうな時は励まし、彼が楽しい時は一緒に楽しみ、彼に恋をしてからずっと彼中心の生活を送っていました。

彼のファンは、ファンサのある舞台は全通しても、他はそれほど来ないファンばかりでした。
大きい作品に関わるようになってからは古参も新規に負けたくないとでも思ったのでしょうね。いままでファンサ舞台にしかあまり来なかった人もくるようになりました。
それででかい顔をして新規にマウントを取っているのですから、笑ってしまいそうです。

私は彼が出ていればどんな舞台も全通かそれに近い回数を通い続けてきました。
私は彼のオキニではありませんが、彼は常連の私に特別対応してくれましたし、大きい舞台に出てからも干されることはありませんでした。

ただ私は嘘偽りなく本気で彼にはファンをたくさん増やして欲しいと思っていましたし、私のようなファンの存在が厄介であると認識もしていたので、鍵垢に引きこもり、新規との関わりを持たず、たとえ座席で新規にマウントを取られてもそうなんですね~と笑って流し続けました。
今の新規、見ず知らずの座席が隣になっただけの人にファンサの話をするんですよ。その図太い神経はすごいと思います。
私は舞台を観ているのでせめて舞台の話をしていただきたいです。

彼は、おたくを相手に特別をつくるのがとても上手でした。

キスシーンのあるドラマ放送後はブログも稽古も私のプレゼントを身に付け、
このファンサがどうしても欲しいと伝えれば伝えた翌公演から千秋楽まで徹底的にそのファンサをこちらに投げ、
このシーンのセリフが好きと言えばそのシーンで多少立ち位置をずらしてでもゼロズレ状態を作ってくれて、
客おりルートが外れすぎて悲しいと伝えれば歩き途中わざわざ直線上で止まって指差しや手を差し伸べてくれて、
ペンライトで彼以外の色を振ればその状態でもファンサをくれて、
翌日は気が付いているアピールだけして徹底的に干され、
アフトーやカテコで話をする時はチラチラと自分を見ているか確認をされたり、
ストレートでも会釈やキャラのポーズをとってくれたり、
それ以外にも色々なことがDVDに収録されて残っています。
これでもほんの一部でしかないほど、書ききれないくらい色々な不思議なことをたくさんしてくれました。

でもこれは私にだけしているわけではありません。私の方が色々してもらってる!と言う人もいるでしょうし、逆もいると思います。
彼は人によって少しずつ接し方を変えているようですし、私に対してはわかっている風にへらへら笑っていることが多かったです。なにがわかっているのでしょうね。

彼は特別を作るのがとても上手でしたが、同時におたくがその特別をどれだけ大切にしているかを理解できないようでした。

彼はとても優しいですが、優しさはときに残酷だと思うのです。

私は彼のお芝居が大好きでした。
ただやはり根底にあるのはリアコなので、何かしらの対応をしてもらえないと満足は出来ません。でも、いままではそれがあったのです。特になにを求めたわけでもないですけれど、彼は勝手にいろんなことをしてくれたのです。それが今は、蔑ろにされているような、今までのことをすべてなかったことにされるような、そんな気持ちです。
でもきっと彼はそんなこと知りもせずに、私を見ればヘラヘラ笑うのです。

結局何に幻滅したかって? 人の気も知らずへらへらしているその姿です。
私はなるべくいつも笑っていましたけど、やっぱり悔しいし悲しかったです。私が何も考えずただその場を楽しんでいるとでも思っているのでしょうか。そんなわけないでしょう。
ずっと応援してきて、初めてのイベントに新規とファンサ舞台ばかりしか行かなかった古参が当たって、そのどちらからもマウントを取られて、傷付かないわけがないんですよね。これは僻みです。わかっていますが、もう私は何のモチベーションも持てません。

もう少しでも気遣いを見せてくれたら良かったのにな。
いままで私が大切にしてた時間は、あなたにとっては大したことのない時間だったのでしょうね。

最後に、彼のファンへ。
彼の特別に意味なんてありません。どんなにブスでもババアでも、嫌われることさえしなければ、通ってさえいれば、良対応をもらえます。
嫌われることをしない、ということが大切ですし、通っていても彼が覚えていなければ意味もありませんけれど。
自分が特別だと思ってしまわないよう気を付けてください。
あなたは特別でもオキニでもありません。そもそも彼にオキニなんていません。

それでは、頑張ってください。

孤島の鬼 -咲きにほふ花は炎のやうに-

孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうにーを観てきました。

感想をどこにあげるか悩んでいたのですが、はてブロと言われたのでここに書きます。

前作の孤島の鬼から約2年。今回演出が変わるとのことでどのようになるかと思っていましたが、演出が違うだけで、こんなにも違う作品になるのですね。だけ、という言い方は失礼とは思いましたが、同じ作品でこんなにも違うと感じたのははじめてで、とても驚きました。
もちろん、演者さん、セット、光、音、色々なものが違っていて、その全てが作用した結果“違う”作品になったものとは思いますが、咲にほふ孤島はおどおどしい空気と少しコミカルでポップな印象が融合した不思議な世界でした。

前作の孤島の鬼は、初日を観た後心がズン…と沈み、この舞台をあと何回観るのだろう…毎公演このような気持ちになるのだろうか…と、かなり気の滅入る舞台でした。舞台開演前のBGMのないしんと静まり返った会場で、電波がないため誰も携帯をいじることなく、ただ座って、前を見て、おしゃべりせずに開演を待つ。扉が閉まる時のプシューという音がもうすぐ始まる、という緊張感をもたらし、客席と舞台のライトが落ちた暗闇の静寂から私の語りが始まる。この、他の舞台にはあまりない空気が好きでした。

前作に思い入れが深いことが原因ではありますが、私は前作の方が好きでした。
今作には今作の良さがありますが、孤島の鬼として、江戸川乱歩の作品として観るのであれば、前回の重くのしかかる感じが、光が、無駄のないひとつひとつに意味のあるセットが好きです。

今作は、面白いです。
舞台上に横長の机をどっかり置くというのははじめてみました。机の高さも不揃いで、間に隙間が空いていて、上に乗ったり下を通ったり間をすり抜けたり。人を動かすことが好きな演出家さんなのでしょうか。SK商会の仕事シーンはなんだかダンスを踊っているようですし、シュッシュッと素早く動いてもきちんと揃っていました。なかなか無理のありそうな体勢での静止も多く、プルプルしてしまいそうなのにきちんと止まって涼しい顔で演技をしていて、さすがだな、と舞台とは関係ないことを考えてしまいました。でも別に膝を曲げた中腰の姿勢で演技する必要があるとは思えないシーンだったので、演出家さんの趣味なのでしょうね。ドエスらしいですし。笑
個人的に北川刑事の、間取りの説明のぬるっとした動きと、箕浦の名刺をバケツリレー形式に受け取るところが好きです。平井くんはいつみても目を奪われる動き、演技をしていて、観に行く舞台にいると嬉しい役者さんのひとりです。

秀ちゃん吉ちゃんの解釈がかなり違っていて、原作は淡々と書かれていたためどちらが正解ともいえないのだと改めて感じました。
前作の秀ちゃんは幼い子どもで、感情的で、自由になりたい、外に出たいと望み、吉ちゃんを嫌い、その行動に泣き叫び、抵抗する、強い意志を持った少女でした。
今作の秀ちゃんはとても賢い子で、現状を受けとめ、無駄な抵抗はせず、なんだか物語の身売りの少女のようでした。
もちろん今作も拒絶はしていますが、前作の、涙をボロボロ流し髪をぐしゃぐしゃにして叫びながらのた打ち回り、客席をじっと睨みつけ訴える姿が目に焼き付いて離れないのです。
凛ちゃんは泣いている人を見ると気持ちが特に入るのかわかりませんが、泣いているとものすごく目が合いました。レッドシアターの最前列は自分と舞台を遮るものがない、その世界の一部のような気持ちで観劇が出来ますが、前作は泣いていると目が合う人が多かったです。鯨井さんもそうですね。
前作の孤島は何度見てもボロボロに泣いてしまったので、少し恥ずかしかったです。
否定をするわけではありませんが今作は全然泣きませんでした。泣けないわけではないのですが、泣き所があまりないといいますか、気持ちが入る前に次のシーンにいってしまうような、間がないというのでしょうか。前作は演者側も泣いていましたが、今作は泣くというより怒る描写が多いように感じます。

友人と私は、ほしのくんの吉ちゃんが秀ちゃんを守るように、相手を睨みつけながら秀ちゃんを後ろから抱く様子をガーディアンと称しましたが、ガーディアンというには足を引っ張りすぎですね。その時の秀ちゃんはまるで人形のようで、感情が見えなくて、前作の秀ちゃんは箕浦に恋をしていましたが、今作の秀ちゃんはここから出る手段として打算のようなものを感じました。今作の秀ちゃんからは箕浦に対する思慕をあまり感じ得ません。
財産に関しても、ずっと閉じ込められて、かたわとして生きてきた秀ちゃんにとって、お金はあまり意味をなすものではないのかもしれません。

前作では、鬼は誰であったのか、様々な考えをめぐらせました。人は誰しも心に鬼を持つ、と自分では結論づけていましたが、今作の鬼は、箕浦…いや私だろうと思い、私は箕浦の中に存在するもう一つの人格で、六道の辻箕浦は死んだのではないかと感じました。
今作の救いは、諸戸道雄さんが天国にいけたのではないかな、と感じた最後です。手を差し出す道雄さんに私は恐怖をみせていましたが、箕浦は手は取らずとも横に立ち、少し微笑むような表情を浮かべ、歩み寄り、二人は共に逝ったような描写に何とも言えない気持ちになりました。上手く表現が出来ません。いい意味ですが、表現が難しいです。
前作は全体的に上品で美しく哀しい、愛がテーマの舞台でしたが、今作は愛よりもその先の欲望、人間の汚さが前面に押し出された舞台だと感じました。
今作の箕浦は、道雄さんの愛を受け入れたのでしょうね。拒絶をしたのは私ですから。

気になったのは、濁った水槽の中に落ちるロープと、椅子のあたりに生える草です。これがこうある理由がわからなくて、ただ、あるだけなのでしょうか。
前作のネズミの入った水槽はある特定のシーンでネズミが動く仕掛けがありましたし、生きた金魚は語られずとも実験動物を表していました。諸戸屋敷のシーンでは小さくネズミが鳴くような、チィチィという音が聞こえて、また、シーンが終わったあとの小道具をホルマリン漬けにしていくのも、今こうして語る私の過去の記憶、思い出を色褪せぬよう保管していくように見えて、ひとつひとつに意味が見えて、安い言葉ではありますが、すごいと感じました。

ここまで書いて、私は前作の孤島の鬼が相当心に残る作品で、好きだったのだろうと改めて感じました。時が立つのは厄介ですね。脳内でとても美化された、美しい記憶になってしまうのです。
前作と今作、違いがありすぎて比べるのは違うと感じるほど、全然別の作品でした。
再演ではなかったのです。

やっぱり、舞台は生物ですね。
その時見たものが全てで、DVDで生の良さはわかりません。
再演といってもやはり変わるものですし、その時観たいと感じたものは観るべきだと、強く思いました。

幸いにも、私はここ最近観たいと思った舞台は全て観ていますし、特別後悔もありません。
これからも好きな舞台を好きなだけ観たいと思います。


初ブログが唐突な感想になりましたが、気の向くまま、好きなことを書いていこうと思います。