いっそ
いっそ
僕の相手はあなたで
あなたの相手は僕で
って決まってたら楽なのかな
でも、そうじゃないんだろうな
生きる意味がわからないな
意味があるのかもわからないな
誰かの一部になりたいし
誰かを全部にしたい
誰だって独りなら
もっと素直に誰かといられるような世界だったらいいのに
今のままじゃ、
まるで僕だけが独りみたいじゃんか
僕のいない世界で
みんな何をしてるのかな
そばにいる人を大切にって
気づいた頃にはだれもいないな
そばに誰かがいると
辛くないから
辛くないから大切にもできないのかな
だれか
だれか僕を刺してくれないかな
治らない痛みがあったら
ずっと想ってられるのかな
幸福と人生の目的
人生の目的は、と安易にネットで検索すると、哲学者の考えた人生の目的!的な記事がヒットする。そのネット記事様が言うには、多くの哲学者が、人生の目的は幸福になること、と主張していると言う。
なんだそれは、無責任な、と思わざるを得ない。幸福を求めるなんてことは当たり前だ、その幸福の意味が知りたいんだ、と。でも、よく考えると当たり前でもないな、と思う。その時代を生きた人にとって、神だとか国家、あるいは戦争だとかで、個人の人生は個人のためにあらず、そういった崇高とされていたもののためにあると本気で説かれていたから。
やっと最近になって、世界では、とは言わないがほとんどの国で、個人が個人のために生きる事が良きものにされたから。
話を戻すと、それにしても人生は幸福のためにあるという主張は無責任だなと思った。自分は、その内容をあえて全集を買うまでして調べてないからの無知故の雑言なのだが、そう思った。
人は、自身の人生に満足ができていない、あるいは存在を脅かすほどの大きな壁にブチ当たった時に、人生の意味を問うと言う。
かく言う自分も、死の淵に立たされて、というか自ら盲目に進んで立ち、またしてもこう言う疑問が頭から離れなくなった。
人生の意味、、、と問われて、頭のてっぺんから、能無しにふっと思いつくのは、愛、あるいは文学または哲学だ。
愛は、女子高生が夢見るような恋愛含め、親子の愛、友人への愛。
文学や哲学は、自分の体験や考え、価値観や、そういった、どう世界を見て、過ごしてきたかと言う、いわば履歴。
哲学と愛の違いは、まぁまた別の機会に。重要なのは、自分にとって、文学も哲学も、残すということが重要なのだ。
ここで一旦、一般的な、バカでもイメージする人生を考えてみると、金、仕事あるいは地位、世間体でいう意味の結婚や子供、社会への貢献、などがある。バカらしい。
今更だが追記しとくと、この場では一切、言葉を選ぶつもりはない。過去の投稿も、あえて、希薄で表面的な書き物をした自分の淡き記憶として残すが、雰囲気や気質が大きく変わるだろう。ただ、脳内の思考にちょっとだけ文体というもの、または脈絡というものを告げたして書いているだけである。だから、言葉遣いが間違ってる、日本語が変だ、読みづらい、などのクレームは臭いから飲み込んでくれ。
んで、話を戻す。上記のような、いわゆる資本主義者がいうような価値には、僕は全く興味がない。これは、本当に。仕事なんて、いや、あえて言い換えると、労働(仕事と労働の違いなんて自分で調べてくれ)はまったくもってしたいと思わないし、金も必要ではあるが欲しいとは思わない。彼女や結婚でも、自分の思う愛が存在しえなかったら、まだ、いまの男友達と結婚したいと思う。
そんなものに、一生を費やされるなら、ストカン飲んで来月に死んだ方がまだましだ。
そもそも、人生の意味についてまともに悩んだことがある奴なんて、そうそう会ったことがない。悩みを話さないだけにしても、にしても、とんちんかんな価値観をぶら下げてるやつが多すぎる。それでいて、自分の目にはそいつらが充分幸せそうに見えるから、だから自分は捻くれてるのだとつくづく感じる。
仕事をする、あるいは社会を発展させるということが、9999の酒を飲んだ俺には無意味にしか思えない。いずれなくなる人類が、これ以上テクノロジーやらインフラやらを発展してなにになる。あえて、便利になるだけだろう。そんな便利は、一瞬のうちに当たり前になり、それをもたらした人の存在なんて、誰も知らないし気にも留めない、感謝もしないに等しい。救急車で運ばれて命を救われてみろ。あぁ、エジソン様が電球を開発したおかげで救急車が間に合った、あぁ、タイヤがあってよかった、あぁ、車を発明してくれてありがとう、なんてら思うか?せいぜい、その場にいた隊員や医者達に感謝するくらいだろう。
そんなの、仕事はてめえが感謝されるためにあるんじゃないと言われそうだが、じゃあなんのためだ?金か?
金なんてもんは、塩水と同じだ。そもそも、その金でなにをする気だ。お前の幸せは何で、いくらで何を買えば幸せになれるんだ?
金を神格化して、金に踊ってるところを見ると、つくづく、人間は社会のための生き物だと思う。社会がなんだ。社会なんていう、目にも見えない生き物の腹を満たすために、何人の人が不幸になって、それで死んでいくんだ。
金の話をしてるからか、電車でこれを買いているからか、気持ちが悪くなってきた。
じゃなんだ、愛か。と思うが、ここではまた長くなるから愛がなんだって話はしないが、愛がなにか、それでどう幸せになるかは難しいし、ほとんどの人はそれを分からない。愛は体験と苦悩からしか発展はしない。
その、愛が人生かと問われ、俺は恐らく、そうだと答える。だがどうだ、人類みな愛のために生きてみろ、世界は1年と持たないぞ。これだから、生きるのは面倒だ。
愛のために行きたいが、それができないから社会を仕事や金で回して、時間を稼いでる。誰だかが、仕事は趣味がない奴の暇つぶしだとかいっていたが、そんな感じだ。
ここまで言っておいて、なんだが、俺はまともに仕事をして、家族なんかを養ってる人をほんとうは本当に尊敬している。もし、こう言った苦悩を踏まえても仕事をしているとしたら尚更だ。俺には、そこまで、社会の舞台で演じる演技力も素直さもない。要するに、社会不適合だとヤジを飛ばされるような人種なんだ。
愛に行きたいが、仕事ができない。しかし、自分が最も、とは言わないが、恐怖するのは、今の自分の人生がこのまま無になり、存在したこと、また、自分の今の文学や哲学が無になるとこが怖い。そうなってしまったら、なんで生まれてきたのか分からなくなる。
生まれてきた意味なんてないし、死ぬことにも意味はない。だから、何も考えずにただ生きればそれでいいという考えもある。それもそうなんだが、味気ないから好きではない。
何かしらの、自分だけでもいいから納得する生き方が欲しいのだ。その一角、というか、今のところの解が、文学や哲学として、生を残すということだ。
しかし、それですら、どんな傑作でも、10億年も経てば無になってるだろう。今、隕石か何かが地球を破壊すれば、明日にでも、今までの人類の全てが無になる。
所詮、人類には人類のために生きることしかできない。せめて、自分のために生きたい。せめて、自分が愛する人のために生きたい。それを否定する社会なんてクソ食らえ。
あなたも?
いつからか人に頼れない性格になって
結局 意地はって
頑張っても頑張ってないふりして
自分らしくって言い聞かせて
頼られたいはずの努力も虚しく
頼りたいのはいつも自分らしい
認められようと画面に張り付き
懲りずに 一人じゃないふりはもう板に付き
どんな時にも認めてくれるのはアクアだって
そう思ってたって
周り見たら いつだって
自分以外の誰かも そこにいた
議論の本位
以下の「議論の本位」を note の方に改正・盛り盛りして再投稿いたしましたので、
ぜひ以下のリンクからそちらをご覧ください!
福沢諭吉『議論の本位』に習う「良質な会議」|リーダーは必見|GreenDog #note
https://note.com/greendog/n/n3b87374ed3a8
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無駄な議論をしている人が多すぎる。
と言うか、議論が何かをわかってない奴が多すぎる。
ただの話し合いならばいい。
フリートークとしていろんなことを話せば、話が飛ぶことで思わぬ発見ができることが多々ある。
しかし、
それを公式な議論(会議の事)でされるとたまったもんじゃない。
長い意味のない話を聞かされ、なんの結果も出ない時間が過ぎるだけだ。
と感じるので、昔読んで未だ記憶にある、
福沢諭吉の「議論の本位」と言うのものに付いてまとめる。
福沢諭吉は、『文明論之概略』の大一節で「議論の本位」について述べている。
(ずっと学問のすゝめに載ってると勘違いしてたのは内緒)
以下に、ネットで見つけたわかりやすいまとめ(?)を引用する
(下に結局もっと短くまとめるから読み飛ばしていいよ)
「軽重や善悪、是非などはあくまで相対的なものであって、相対的により重であり善であるものを、議論の本位とする。
この議論の本位を定めなければ、その議論の対象の利害得失を議論してはならない。
議論の本位を定めずに、無意味な議論を続けているものには以下のようなタイプがある。
①主張するところは同じだが、その根拠が異なるもの
②ことの利害を論じるときに、互いに相手方の極端な場合をもち出して、それを否定しあうもの
③正直と頑固、利口と軽薄のように、人の一つの性質には表裏があるが、互いにその欠点の部分を非難しあっているもの
これらの弊害を除くには、人と人の交際が最も有力な手段となる。
なぜなら、さまざまな人と交際するうちに、その欠点だけでなく長所も見えてくるからである。
そもそも、議論というものは、各人の意見を述べたものなので、一様であるはずがない。
ものごとの利害得失を議論するには、先ずその軽重是非を明らかにしなければならない」
上に挙げた三つの無意味な議論の例は、全て相手に対する無理解から生じています。いろいろなところで述べられていることですが、特に議論をするときには、多様な価値観という前提を理解することが必要です。
『文明論之概略 第一章:議論の本位を定る事』(https://blogs.yahoo.co.jp/tetorarukia/45176971.html__ysp=6K2w6KuW44Gu5pys5L2NIOOBqOOBrw==)
長い?もっと短く言うと、
議論するときは:
・何に付いて議論しているのかをはっきりさせろ
・それに関係しないものは話すな
・多様で、時には本位を逸れる意見は多様な価値観から生まれるってことを理解しろ
ということ。
つまり、議論する時には、
なんの話をして何を決めるために話してるのかを明確にして、それと関係ないことは話す必要がないと言っている。
それを理解し実行するだけでだいぶ変わるはず。
値札
孤独からしかいいものは作れない
そう言う人もいる
自分の信念や哲学をさらけ出すと、
それをバカだと嘲笑うやつも、否定するやつもでてくる
出る杭は打つ風潮もある
そういう意味で、確かに孤独かもしれない
でも、実績、実力が認められてる奴の言葉はみんな聞く
元々はバカにしてたのに、そいつが出世すると手のひらを返すやつもいる
値札の付いたものにしか価値を感じない大人はたくさんいる
だけど、実力の基礎となるのは哲学であるはずだ
だから、恐れずさらけ出せばいい
コメ欄の悪口なんて気にしなくていい
一人の人としてきちんと評価してくれるやつもいる
恐れずさらけ出したその哲学がいつの日か実力になる