【目次】
- 【前話へのリンク】
- <外伝>
- 第77話 打つ手なし!?墨高ナインの巻
- 1.思わぬ采配
- 2.片瀬対聖明館打線
- <次話へのリンク>
【前話へのリンク】
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<外伝>
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第77話 打つ手なし!?墨高ナインの巻
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1.思わぬ采配
「ナイスバッティングよ島田!」
一塁側ベンチ。キャプテン谷口はヘルメットを被りながら、ヒットで出塁の島田に声を掛けた。さらにネクストバッターズサークルへと移動して、これから打席に向かおうとする三番倉橋とも言葉を交わす。
「倉橋たのむぞ。チャンスでおれに回してくれ」
「おう、まかせとけってんだ」
倉橋は意気込んで、打席へと向かう。
「さあこい!」
右打席へと入り、バットを短めに構えた。
(墨谷のやつら、みょうに活気づいてきたな)
聖明館のキャッチャー香田は、横目で打者を観察する。
(さっきの二番も、あの甘いタマをゆうぜんと見逃してきやがったし。もしや、こっちのねらいに気づいたんじゃ)
束の間考えた後、香田はサインを出す。
(四点ある。いまのうちにたしかめてみるか)
マウンド上。福井はサインにうなずき、セットポジションから第一球を投じた。真ん中やや外寄りの速球。倉橋は手を出さず、ポーカーフェイスを崩さない。
(マズイな……)
香田は渋面になる。
(やつらが打ち気にはやってくれないと、打たせて取るのがむずかしくなってくるぞ)
戸惑いながら「つぎもコレよ」と、二球目のサインを出す。福田はうなずき、すぐに投球動作を始めた。
またも倉橋は手を出さず。アンパイアが「ストライク、ツー!」とコールする。
(くっ。これは完全に見抜かれたようだな)
しばし思案の後、香田は三球目のサインを出した。
(だったら、つぎもコレよ)
む、と福井はうなずき、今度はややボールを長く持ってから投球動作へと移る。
またも真ん中外寄りの速球。倉橋のバットが回る。パシッと快音が響く。ライナー性の打球が、一塁側アルプススタンドへと飛び込む。
(こいつ、わざとファールにしやがったな)
香田は打者を睨む。
(そんなにむずかしいタマが打ちたいなら、そうさせてやるよ)
四球目。セットポジションから、福井が投球動作を始めた。その瞬間、一塁ランナー島田がスタートを切る。
外角低めのカーブ。倉橋はバットをおっつけるようにしてスイングした。パシッと快音が鳴る。ライナー性の打球がセカンド頭上を襲う。聖明館の二塁手がジャンプするも届かず、打球はライト前に落ちる。
「ら、ライト!」
マスクを脱ぎ、香田が指示の声を飛ばす。しかしライト甘井が捕球し、中継の二塁手へ送球するが、その間ランナー島田は三塁ベースに足から滑り込んでいた。
ヒットエンドラン成功、ワンアウト一・三塁。
(しまった。はじめからカーブをねらってたのか)
香田はほぞを噛む。
「バッテリー!」
その時三塁側ベンチより、聖明館監督がメガフォン越しに声を掛けてきた。
「苦しまぎれにストライクを集めるんじゃない。ねらい打ちされて当然だぞ!」
監督の激に、香田は「は、はい」とバツが悪そうに返事する。
そして四番谷口が、右打席に入ってきた。こちらも「ようし、こい!」と気合の声を発し、バットを短めに構える。
なるほど、と香田は一人つぶやいた。
(甘いタマをあえて捨てさせたのは、こいつの指示か。なかなか頭がキレるやつだな)
マスクを被り直し、ホームベース手前に屈み込む。
(それなら、あのタマで誘う必要はない。正々堂々と勝負して打ち取ってやる)
マウンドにて、福井はロージンバックを右手に馴染ませる。それから足下に放り香田のサインを確認して、セットポジションから投球動作へと移る。
外角低めの速球。谷口はぴくりとも動かず。アンパイアは「ボール!」とコールした。
(ボール一個分はずしたが、手を出してこないか)
横目に打者を観察しつつ返球する。そして二球目のサインを出す。福井はうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。
またも外角低めの速球。今度は谷口のバットが回る。パシッと快音が響く。ライナー性の打球がライト線を襲うも、ボールは白線の数十センチ外側に落ちる。ファール。
(いかん。変化球を意識していたせいか、少しふり遅れてしまったな)
谷口は一旦打席を外し、数回素振りした。一方、香田はそんな打者の姿に、ちぇっと舌打ちする。
(さすが四番だ。ナリはちいせえが、いい目をしてやがるぜ)
ほどなく谷口が打席に入り直し、再びバットを短めに構える。その傍らで、香田は次のサインを出す。
(コレで引っかけさせよう)
福田はサインにうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。
内角低めの速球。谷口が「いまだっ」と、バットをスイングする。パシッと快音が響く。
痛烈なゴロが、広く空いた三遊間を抜けていく。サード糸原が横っ飛びするも及ばず。
「まず一点ね」
島田がゆっくりとホームベースを踏んでいく。スコアボードに、墨高の得点が「1」と示された。
レフト前タイムリーヒット。墨高が一対四と三点差に詰め寄る。
(ようし。ついにつかまえたぞ)
一塁ベース上で、谷口は軽く右こぶしを突き上げる。そしてネクストバッターズサークルの次打者に声を掛けた。
「つづけよイガラシ!」
イガラシは「まかせといてください」と力強く応え、バットを手に打席へと向かう。
その時だった。
「タイム!」
ふいに聖明館がベンチを出て、アンパイアの下へ歩み寄る。そして何事か告げた。ほどなく、ウグイス嬢のアナウンスが流れる。
―― 聖明館高校、シートの変更をお知らせいたします。ピッチャーの福井君にかわりまして、高岸君。ファースト高岸君にかわりまして、福井君。
えっ、と谷口は目を見開く。
(まさかこのタイミングで、二試合完投したピッチャーをかえるのか)
一塁側ベンチ。スコアブックを付けていた半田が「そんな」と、驚いて立ち上がる。
「二試合完投してるエースを、たった一点取られただけで交代させるなんて」
「予選ではどうだったんだろう」
隣で鈴木が問うてきた。「そこまでは……」と半田は首を横に振る。
「甲子園でのデータをたよりに、練習で対策してきたというのに。これじゃどうすりゃいいんだ」
後列で、井口が「うーむ」と呆れ顔で言った。
「さすが名門だぜ。エースと同程度の力のあるやつは、一人や二人じゃねえんだ」
その言葉に、半田は「マズイぞ」と頭を抱える。
一方、聖明館監督はアンパイアに投手交代を告げた後、再びベンチ奥に引っ込む。
(やはり福井ではふんばりきれなかったか)
腕組みして、渋面のまま胸の内につぶやく。
(こうなれば、高岸にまかせるほかあるまい。相手をよく研究してくるのがやつらの得意技だ。それをさせないためには、つねに先手先手と打っていくしかないだろう)
監督の眼前では、キャッチャー香田とリリーフ登板を告げられた高岸がマウンドに立つ。
「まさかこのタイミングでエースを降ろすとはな」
マウンド上にて、香田が目を丸くした。
「しかたあるまい」
高岸は達観したように言った。
「ここまでの二戦からして、やつらの打線はつながり出すと、手がつけられなくなるようだからな」
「おいおい。感心してる場合じゃねえぞ」
香田は渋面になる。
「こんな急なリリーフは予選以来だが、大丈夫なんだろうな」
「心配すんなって」
笑って高岸は答える。
「短時間で肩をしあげるのは慣れてるし、墨谷に一発のおそれのあるバッターは少ない。これぐらいどうってことねえよ」
「む。そこまで言うなら、おまえを信じるが。ただつぎは要注意の五番だぞ」
「分かってる。あの五番を打ち取って、やつらの勢いをそいでやるさ」
「そうだ、その意気だ!」
そこまで言葉を交わし、香田はポジションへと戻る。残された高岸はロージンバックを拾い、左手に馴染ませる。
(やつも左か。いったいどんなタマを投げるのか)
打席のやや後方にて、イガラシはマウンド上の相手投手を観察する。
(ブルペンで肩を作る様子はなかったが……)
その相手投手高岸は、ロージンバックを足下に放り、投球動作を始めた。セットポジションから、キャッチャー香田へ向かってボールを放つ。
ピシッ。香田のミットが、迫力ある音を立てた。
(は、はやい)
イガラシは苦笑いした。
(準備不足でほんらいの投球ができないってことは、なさそうだな)
一年生打者の眼前で、高岸は速球、カーブ、シュートと続けて投げ込んでいく。
(ただ速いだけじゃなく、根が生えたように重いタマだな。おまけに変化球も切れ味がある。こりゃエースに匹敵するどころか、それ以上の実力と見ていいだろう)
やがて高岸が既定の七球を投げ終え、香田が二塁へ送球する。そしてアンパイアが「バッターラップ!」と声を掛けた。
(さすが名門だ。エースとそん色ない投手を複数そろえるとは)
イガラシは打席に入り、ガッガッとスパイクで足元を均す。
(だが、そうたやすく逃げきれると思ったら、大まちがいだぜ)
そしてバットを短めに握り「さあこい!」と気合の声を発した。
「プレイ!」
アンパイアがコールした。ワンアウト一・二塁で試合再開となる。
初球。香田は「まずコレよ」と、サインを出す。高岸はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
外角低めの速球。ガシャン、と打球が真後ろのバックネットに当たる。
(いかん、振り遅れてる)
イガラシは一旦打席を外し、数回素振りする。打者を横目に、香田は「ほう」と感嘆の吐息を漏らす。
(たった一球で高岸の速球に触るとは。やはり評判の高いバッターだぜ)
二球目。香田は「つぎもここよ」とサインを出す。高岸はうなずき、再びセットポジションからボールを投じた。
またしても外角低めの速球。パシッと快音が響く。ライナー性の打球が一塁線を襲うが、切れてファールグラウンドに落ちる。
(く。まだ遅れてやがる)
イガラシはもう一度打席を外し、また素振りする。
(もっと始動をはやくしねえと、詰まらされちまう)
そして打席に戻ると、バットの握りをさらに短くする。
(さすがに速球にはタイミングを合わせてきたな)
香田は束の間思案した後、三球目のサインを出す。
(つぎはコレでタイミングを外そう)
む、と高岸はうなずき、またもセットポジションから投球動作を始めた。右足で踏み込み、グラブを突き出し、左腕を振り下ろす。
「うっ」
真ん中低めのカーブ。イガラシは上体を崩してしまう。それでも辛うじてバットのヘッドを残し、おっつけるようにスイングした。
パシッと快音が鳴る。打球はショート頭上を襲う。おおっ、と墨高ナインが立ち上がりかける。
「くっ」
しかしショート小松がジャンプ一番、伸ばしたグラブの先に引っ掛けるようにして捕球した。
「しまった」
二塁走者の倉橋が一瞬飛び出してしまう。ショート小松からベースカバーに入ったセカンドに送球されるも、間一髪セーフ。
「フウ。あぶねえ……」
倉橋は安堵の吐息をつく。相手のファインプレーに「ああ……」と、墨高ナインと応援団の陣取る一塁側ベンチとスタンドから、落胆の溜息が漏れる。
「くそっ」
悔しげにベンチへと引き上げていくイガラシを横目に、香田はフウと安堵の吐息をつく。
「あの体勢からミートしてくるとは。さすが七割以上打ってるバッターだぜ」
香田がホームベース手前に屈むと、イガラシと入れ替わるように、六番横井が右打席に入ってくる。やや引きつった表情だ。
(速球だけでなく、変化球も多彩なようだな。ねらいダマをしぼっていくか)
横井も短めにバットを握る。その時、一塁走者の谷口が目を合わせてくる。手振りでサインを伝える。
(まずコレよ)
一方の聖明館バッテリー。香田のサインに高岸がうなずき、投球動作を始めた。その瞬間、谷口がスタートを切る。
内角低めのカーブ。横井はわざと空振りした。谷口は頭から二塁へ滑り込む。
「くそっ」
香田は慌てて送球するが間に合わず。盗塁成功、ランナー二塁となる。
(やられた。いまのは無警戒だったな)
「気にするなよ香田」
マウンド上より、高岸が声を掛けてきた。
「バッターさえ打ち取ちゃいいんだ」
「う、うむ」
香田は気を取り直し、マスクを被り直す。
(さて、得点圏に進めたことだし)
横井は再びバットを短めに構える。
(つぎはコレよ)
香田がサインを出す。高岸はうなずき、セットポジションから第二球を投じた。内角高めの速球。横井はスイングするが、バットは空を切る。
「は、はええ」
横井は目を丸くして、一旦打席を外しバットをさらに短く握る。
(フフ。ただ速いだけだと思ったら、甘いぜ)
香田は含み笑いを浮かべ、次のサインを出す。高岸はうなずき、三球目を投じた。
「うっ」
内角低めのカーブ。横井は完全に体勢を崩し、打ち上げてしまう。ガキと鈍い音がした。サード糸原が数メートル後退しただけで、余裕を持って顔の前で捕球する。
「くそっ、やられた」
悔しさのあまり、バットを叩き付ける横井。その眼前で、ピンチを一失点で切り抜けた聖明館ナインが、足早に引き上げていく。
(いやなムードだな……)
一塁側ベンチ。守備へ向かおうとするナイン達の重苦しいムードを感じ取ったキャプテン谷口は「みんな待て」と、声を掛ける。
「どうしたのかね?」
アンパイアが駆け寄り、尋ねてきた。谷口は「いえ、ちょっと」とだけ答え、ナイン達には円陣を組ませた。
「みんないいか」
声を潜めて話し始める。
「相手がリリーフを用意してきたのは予想外だったが、こんな時は慌てないことが大事だ」
ナイン達は前屈みの姿勢で、黙ってキャプテンの話を聞いている。
「かなり力のあるリリーフ投手のようだが、やることはいつもと変わらない」
そう淡々と告げる。
「できるだけねばって一球でも多く投げさせ、情報を集めることだ。そうすれば攻りゃくの糸口が……」
その時だった。ふいに半田が「キャプテン!」と口を挟んでくる。
「どうした半田」
「見てください。あれ」
谷口そしてナイン達が振り向いた視線の先で、聖明館が控え捕手と背番号11の選手に声を掛けていた。どうやら三番手の投手らしい。有原、と監督は投手に声を掛ける。
「いつでも行けるように、急いで肩をあたためておくんだ。いいな」
「はい!」
有原と呼ばれた投手は、控え捕手を伴いブルペンへと駆けていく。
(しまった……)
谷口は胸の内につぶやく。
(向こうは、こっちに分析するスキさえ与えないつもりだ)
丸井に「キャプテン?」と声を掛けられ、ああと我に返る。
「と、とにかく。こうなった以上、我慢比べだ」
谷口は渋面で言った。
「向こうの思うようにはさせない。しつこく喰らいついて、最後にはひっくり返してやろう。いいな!」
墨高ナインは「オウヨッ」と、快活に応える。
2.片瀬対聖明館打線
六回表のマウンドには、前の回に続いて片瀬が上がる。サイドスローのフォームから、一球二球と速球を投げ込んでいく。
(片瀬が淡々と投げてくれることだけが、救いだぜ)
ボールを受けながら、キャッチャー倉橋は胸の内につぶやく。
(やつらに次々とリリーフをつぎ込んでこられちゃ、こっちとしては打つ手なしだ)
ほどなく片瀬が既定の投球練習を終え、倉橋はいつも通り二塁へと送球する。
(とにかく、うちが勝機を見出すには、これ以上点をやらないことだな)
そして聖明館の八番打者が、右打席に入ってきた。
アンパイアが「プレイ!」とコールする。倉橋はすぐに、一球目のサインを出す。片瀬がうなずき、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。
外角低めに投じられた速球が、打者の手元で小さくシュートした。打者のバットが回る。ガキ、と鈍い音がした。
「くそっ」
ファースト正面のゴロ。捕球した加藤が自ら一塁ベースを踏む。
(フン、ほんとに軟投派投手は苦手なようだな)
倉橋はひそかにほくそ笑む。
(この調子でおさえられりゃいいが)
続く打者は、ピッチャーからファーストに交代した福井だ。バットを短めに持ち、左打席に入る。
(ほう。握りを短くしたということは、やつらも片瀬のようなタイプの投手が苦手だと、自覚はあるのか)
倉橋は束の間思案して、サインを出す。
(コレで様子を見よう)
片瀬はサインにうなずき、テンポよく投球動作へと移る。
外角低めのカーブ。福井のバットが回る。パシッと快音が響いた。ライナー性の打球がセンター島田の前に弾む。
(ちぇっ、またヤマをはられたか)
倉橋は苦笑いした。
(ランナーを置いて上位に回したくなかったが、ここはなんとしても、しのがないと)
そして一番甘井が右打席に入ってきた。こちらもバットを短めに握る。
(ミート重視に切り替えたのか。やっかいだな)
倉橋はしばし悩んだ後、サインを出す。
(とにかく厳しいコースを突いていこう)
片瀬はサインにうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。その瞬間、甘井はバットを寝かせた。外角低めの速球。
「なにっ」
倉橋はマスクを脱ぎ捨てる。コンッ。打球はマウンド左に緩く転がった。
「く……」
サード谷口がダッシュして捕球し一塁へ送球するが、すでに甘井はベースを駆け抜けていた。セーフティバント成功、一死一・二塁。
「くそっ。小技を使ってきやがったか」
倉橋は腰に手を当て、唇を歪める。その眼前で、片瀬は屈伸した。
「おい片瀬。足は平気なのか」
「あ、はい。大丈夫です」
後輩の返答に、正捕手は安堵の吐息をつく。
「片瀬」
今度は谷口が声を掛けた。
「おまえのガッツは買うが、深追いはするな。何度も言うようだが、バックがついてるんだからな」
はいっ、と片瀬は快活に応える。
倉橋がポジションに戻ると、二番小松が左打席に入ってきた。こちらは始めからバットを寝かせている。
(やつらめ。投手が代わって、露骨にバントが増えてきたな。いくら片瀬の足が悪いからって、しつこいぜ)
横目で打者を睨みながら、思案する。
(こうなったら、あえてバントさせて、アウトカウントをかせぐとするか)
正捕手のサインに一年生投手はうなずき、セットポジションから第一球を投じた。
真ん中やや外寄りの速球。小松は素直にバントした。マウンドほぼ正面に、打球が緩く転がる。
「無理するな!」
マウンドを駆け下りて捕球した片瀬に、サード谷口が声を掛けた。片瀬はそれに従い、一塁へ送球する。二人のランナーがそれぞれ進塁し、二死二・三塁となる。
「ナイスフィールディングよ片瀬!」
倉橋が声を掛けると、片瀬は「どういたしまして」と白い歯を見せた。
その時、谷口が「タイム!」と三塁塁審に合図して、マウンドに歩み寄った。倉橋もマスクを脱ぎ、二人の下へ駆け寄る。
「少しかき回されたが、よくツーアウトまでこぎつけてくれた」
谷口はまず、バッテリー二人をねぎらった。
「とくに片瀬は、バントをよく処理したな。足は大丈夫なのか?」
はい、と一年生投手は微笑んでうなずく。
「もうバントにやられることがないように、予選の後、毎日足をきたえてたんです」
「ほう。それはたのもしいな」
後輩の言葉に、キャプテンは目を細める。
「ツーアウト取ったはいいが、この後どうする?」
倉橋は渋面で言った。
「打順はクリーンアップだ。ランナーの足を考えると、内野の間を抜かれりゃ二点入っちまう」
む、と谷口は厳しい表情になる。
「追加点を取られたら、正直勝ち目は薄い。だからここは大量点を恐れるより、なんとしても無失点で切り抜けることだ」
「つうことは……歩かせるか」
倉橋の問いかけに、谷口は「ああ」と首肯する。
「満塁にして守りやすくしよう。あとは片瀬の、相手打線との相性の良さに賭けるんだ」
そう言って、後輩の左肩をポンと叩く。
「分かってるな片瀬。相手はおまえのボールをいやがってる。おまえが本来の力を出しさえすれば、けっしておさえられないことはないんだからな」
キャプテンの言葉に、片瀬は「まかせてください!」と力強く応える。
「そうよ、その意気よ!」
倉橋も一年生投手を励ました。
ほどなくタイムが解け、谷口と倉橋はそれぞれポジションに戻る。
そして三番香田が右打席に入ってきた。同時に倉橋は立ち上がり、左打席の後方へとずれ、ミットを掲げる。
ほう、と香田が挑発的な笑みを浮かべた。
「満塁でうちの四番と勝負とは、いい度胸だぜ。あのボウヤ、腕が縮こまらずに、ちゃんと投げられればいいが」
なんとでもほざけ、と倉橋は胸の内で言い返す。
片瀬が山なりのボールを四球投じた。敬遠四球。香田が一塁へと歩き、これですべての塁が埋まる。
「内野! 近いトコで取っていこうよ」
倉橋の掛け声に、内野陣は「オウヨッ」と快活に返事した。
そしてネクストバッターズサークルより、聖明館の四番鵜飼がゆっくりと右打席に入ってくる。眼鏡の奥の眼光が鋭い。
(強気で攻めるぞ。片瀬、思い切ってこい!)
倉橋はサインを出し、ミットを内角高めに構える。片瀬はうなずき、セットポジションから第一球を投じた。
内角高めに投じられた速球が、鵜飼の手元でシュートする。打者のバットが回る。カキッと快音が響く。痛烈な打球が、レフトのアルプススタンドに飛び込む。
「ファール!」
三塁塁審が両腕を掲げコールした。
(ハハ、さすが四番だぜ。すげえ当たりしやがる)
けどよ、と倉橋は一人ほくそ笑む。
(どんな当たりでも、フェアゾーンに飛ばなきゃ意味ないぜ)
続く二球目。今度は外角高めにミットを構え、サインを出す。投手はマウンド上にて、しばし間合いを取ってから、投球動作へと移る。
外角高めの速球が、今度は鵜飼の手元でさらに外へ切れていく。打者はこれも手を出し、パシッと快音が鳴る。
またも痛烈な打球が、さっきとは逆にライトのアルプススタンドに飛び込む。二球続けてファールとなり、これでツーナッシング。
「た、タイム」
ここで鵜飼がアンパイアに合図し、打席を外して数回素振りした。おかしいな、とつぶやきが漏れる。
(フン。さしもの四番も、片瀬の投球には戸惑ってるようだな)
倉橋は胸の内でつぶやいた。
(ただでさえ苦手な軟投派なうえに、タマが適当にバラつくだけじゃなく、手元でナチュラルにいろいろ変化する。なにせ、あの谷原でさえ手こずったんだからな)
手振りで「ロージンだ」と指示し、またしばし間合いを取らせる。そして三球目のサインを出した。
(こいつでトドメだ)
片瀬はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。サイドスローの指先からボールを放つ。
「うっ」
外角低めのスローカーブ。鵜飼は上体を崩し、バットが空を切る。
「ストライク、バッターアウト。チェンジ!」
アンパイアが右こぶしを突き上げコールする。マウンド上、片瀬は「よしっ」と声を上げ、グラブをパチンと叩く。
「おおっ」
「ああ……」
甲子園球場のスタンドからは落胆と安堵の入り混じったざわめきが起こる。
「ナイスピーよ片瀬」
セカンドから丸井が声を掛ける。
「バッテリー、よく踏ん張ったな!」
サードの谷口が二人をねぎらう。そして満塁のピンチを切り抜けた墨高ナインが、足早にベンチへと引き上げていく。
三塁側ベンチ奥。聖明館監督は、腕組みしたまま眼鏡越しにグラウンド上を見つめる。
(うーむ、もう一押しだったが。あの一年生ピッチャーなかなかやるな)
そして守備位置へ向かおうとする、明らかに重い雰囲気のナイン達へ呼びかける。
「おまえ達、気落ちしてるヒマはないぞ!」
今しがた三振に倒れた鵜飼が「は、はい」と返事する。
「これで分かったろう。墨谷を倒すのは、簡単なことじゃない。何度も言うようだが、やつらに流れを渡さないためには、絶対にスキを見せないことだ」
そう言って、フフと含み笑いを漏らす。
「やつらの得意技である相手を分析するすべは、こちらが複数のリリーフを用意することで封じた。いま勝利に近いのは、我々なんだぞ。いいな!」
聖明館ナインは「ハイ!」と快活に応えた。そのこわばっていた表情が、僅かながら和らぐ。
選手達を送り出した後、監督は一人つぶやく。
「まったく。世話の焼けるやつらだ」
―― この後、試合はしばし膠着(こうちゃく)することとなる。
聖明館の二番手投手高岸は、持ち前の快速球と多彩な変化球を武器に、墨谷打線を寄せつけず。六回ウラを難なく無失点で切り抜けた。
一方、松川をリリーフした片瀬も力投を見せる。六回に続いて七回もランナーを出しながら得点は許さない。
そして試合は、四対一と聖明館リードのまま、終盤の攻防へと入っていくのである。
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