「コア業務への集中」

最近、「コア業務への集中」というキーワードを良く聞く。

アウトソーシングを利用してコア業務への集中を!》
といった具合だ。
そもそもコア業務/ノンコア業務の定義とは何なのだろう。
 
コア業務: コア業務とは、本業のことを表します。 建設会社であれば建物を建てること、製造会社であれば製品を作ること、病院であれば患者を治療することなどです。コア業務は全ての企業に存在し、コア業務の中でサービス・製品の開発や品質向上、納期短縮などを目指すことが、企業として正面から取り組むべき課題と言えます。

 

ノンコア業務: 企業による違いが少なく、また人による違いも少ない業務を表します。コア業務を安定・安全・高品質で遂行するための業務が多く、常に業務効率化やコスト削減を課題として求められています。
ここでは、
コア業務=本業
ノンコア業務=コア業務を遂行するための付属的な業務
という定義のようだ。
ここでは、経費精算などの定型業務・間接業務をノンコア業務と定義しているようだ。
 
・メイン⇔サブ
・重要 ⇔非重要
・非定型⇔定型
といったニュアンスは概ね共通しているものの、明確な定義はないように思う。
 
しかし実際のところ、正社員・ホワイトカラーの業務は管理業務や稟議などの社内手続き、社内会議資料のの作成などのがかなり部分を占め、渦高く積まれたノンコア業務を一つづつはがしていったら何も残らなかった、という笑い話もありそうだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

病院・医療の問題について考えてみる

先日こんなことがあった。

とある症状があり、WEBで検索すると「〇〇科を受診すべし」とあるので

近くの〇〇科を標榜している病院(A病院とする)に電話で相談すると

「それは××科の症状なのでうちではないです」と断られる。

仕方がないので総合内科を受診すると、

「原因不明のため紹介状を書いて他の病院に行っていただこうと思います。大学病院とA病院どっちがいいですか?」と聞かれたので、A病院で断られた旨を説明したうえで大学病院を希望したが、

大学病院は直近の予約がいっぱいということで断念せざるを得ずA病院に行くことに。

A病院に行くと、簡単な検査をしたのちに「とりあえず〇〇の検査(結構高い)をしてみましょう」ということで検査をしたが異常がなく、漢方薬を処方されて終了。

大学病院でも検査したいので紹介状を書いてほしいと頼むと、「何を診てもらうの?」と断られる。

 

そもそも病気や不調を初見で断定するのは難しいものだし急を要するものでなければ

とりあえず副作用のない薬を処方して様子見、というのはわからなくもないのだが

医者にかかるとこのような体験をすることがしばしばあるように思う。

医師免許が更新制でないのを良いことにろくに知識をアップデートせず、古典的・基本的な検査手法のみ実施し、ともすれば患者の大きな負担になりかねないMRIやCTは気軽に実施して売上を上げるというやり方が横行しているのではないか。

 

一方で医療DXが政府主導で進められると報じられており良いニュースだと思う。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD082MN0Y2A600C2000000/

 

 

 

売る側の論理

先日、とある家電量販店で買い物をした。

クレジットカードの支払いを選択したが、

「決済をお待ちの間に」ということで、ファイナンシャルプランナーによる相談が受けられるサービスが初回無料で云々、という内容の説明を数分程度受けた。

(決済処理は通常30秒もかからないので、当然ながら既に終わっている)

若干ひねくれた考え方かもしれないが、

「保険、ローン、資産運用などにご不安はございませんか?」

などとそういったある種センシティブを初対面の人間に話そうという気にはあまりならなかった。

売る側からすれば、

・お客様がお待ちの間の時間を利用するため、不快感を与えない!

・○○デンキと組むことで、安心感を与えられる!

・家電量販店の客層はお金のことを真剣に考え始める年齢層と合致しており、ターゲットとして適切!

というメリットばかり浮かんでくると思う。特に、その企画を考えた人・進めたい人ならなおさら、「いかに良いアイディアである事をアピールするか」という事ばかり

考えるはずなので、デメリットについては軽視しがちなのだと思う。

 

売る側の立場にもなる身として良い教訓 を得た。

 

 

 

 

 

考える事のコスト

他者に対して、

「ちょっと考えてみればわかる事なのに」

「ロジカルに考えればおかしい」

などと思った経験がある人も多いだろう。

自分もどちらかと言えばそのタイプで、ロジカルに考えたり物事の矛盾を指摘したりするのが好きなタイプ(ともすれば屁理屈屋)であるのだが、世の中には「そもそも考える事が好きではない」人も存在しているのだという事実に気づいた。

そういう人にとっては考える事は負担であり、ストレスであり、コストになる。

 

「考える事が苦手」というのは、少しネガティブな表現になってしまうが、例えば身近な例で言えば「運動が苦手」「運動音痴」というのに近い。

 

運動が苦手な人がスポーツをやらないように、考える事が苦手な人はこ難しい本を読んだり、理屈っぽい議論を交わしたりはしないのだ。

 

 

 

女性が「限定」に弱いワケ

特に女性は、「期間限定」「今だけ」といった唄い文句に弱くついつい物を買ってしまったりサービスを契約してしまったりする傾向がある気がする。

 
メスが生存するための本能として、特別扱い(つまり外敵から守ってくれたり食べ物を取って来てくれたりする)してくれるオスを好きになるような遺伝的特性を持つようになったという仮説は自然に思え、人間においても同じような傾向が見られると言われている。
 
「限定」「特別」というのがオス(男性)の態度でなく商品の売り文句だったとしてもそれを好むというのは興味深い。
 
 
 

懸賞のギモン

食品などの懸賞で
「1枚のハガキで複数口応募可能」
というパターンが時々ある。

抽選をする際の自分の勝手なイメージとしては、集まった大量の応募ハガキを大きな箱に入れてそこから当選枚数分だけ
選ぶ、という感じだが、1枚で複数口応募可能な場合はその抽選方式ではNGである。
1口応募からx口応募の人まで混在しているので、それぞれの応募口数を確認して1口の当たりやすさを調整しなければならない。
必然的に各ハガキを1枚づつ確認して何らかの形でリスト化する必要が出てくる。 おそらく手作業が必要だろうから
かなり面倒ではある。

一方で1枚で複数口応募が可能な場合は
応募期限までは同じ商品を継続して購入する促す効果があると考えられる。

応募ハガキを1枚づつ確認して情報を入力したりする労力<複数口応募によって1口応募より増えた売上(利益)

という図式が成り立てば、複数口応募にする意味がありそうだ。

寛容な社会

  • 混雑した電車で体が触れただけで、すごく不快そうに睨みつける
  • 報告資料のフォントが一部違っているだけで厳しく指摘し、やり直しをさせる
  • ネットショッピングで注文した商品が時間指定に10分間に合わなかっただけで配達員に悪態をつき、SNSにアップする

よくある話だと思う。
経済成長の鈍化、少子高齢化、何が原因かはわからないが、どうも昨今の社会は寛容さを失っている気がしてならない。

昨今よく見られるシチュエーションとして、芸能人が不倫したと聞けば
「イメージが壊れた」
「信じてたのに」
などと宣い、好奇の目で見る。

TVに映る姿はその人の一部(仕事上のキャラクター)でしかないし、「信じてた」などというのは完全に後付けであって、普段は対象の人物に興味すら持っていなかったというのが実態だろう。
犯罪を犯したわけでもなく、あくまで個人的な問題に対して全力で叩き、引退や休業に追い込む行為は異常だと言わざるを得ない。

人々が古き良き時代に持っていた優しさや余裕を失ってしまったのか、はたまた昔から民衆はゴシップ好きなものであり、単に発信する手段を持っていなかっただけなのかを知る由はないが、もう少し寛容な社会を皆で志向してもよいのではないかと思う次第。