ギブギブン

1ヶ月毎日ブログ書く企画ではじめたブログです。

怒りたくない、怒られたくない

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基本的に、怒りたくない。他者に対して。 なぜなら、自分が疲れるからだ。

怒ることで、自分がこうあってほしい、という行動変容が相手に起こるのか?というと、そもそも怒られることがいやだ、という外圧で行動変容が起きるとは自分で考えた場合に思いにくいし。いやそもそも、他人を行動変容させたいという気持ちがあまりない。 そもそも関わるのが面倒な相手なら関わりたくない。関わって楽しい相手は最初から楽しいし、そこに怒るという概念が入ってこない。

あと怒られるのもやっぱり疲れるので、あんまり怒られたくない。それは上述の裏返しで、怒られたところで自分の行動はポジティブに変わるとは思い難いからだ。

ぼくが会社員をやめてしまい、自分に上司もなく、また部下もない、ひとり会社の実質フリーランスをやっているもの、やはりその「怒りたくない」「怒られたくない」気持ちと相性がいいのかもしれない。

ぼくは仕事としてマネジメントをやったことがない。なので、正直肌感として部下をマネージすることがどういうことなのかはよくわからない。前に会社員をやっていたときに、バイトで入っていた方に指示をしたりすることはあったけれど、それはマネジメントではないような気もする。

兎にも角にも、怒ることも怒られることもなく人生を過ごしたいと思ってしまうのだが、別に怒ることが間違いだと思っているわけではない。怒ることによって、結果が多くの人にとって望ましい方向に変わる局面もたくさんあるだろうとは思う。だから、時と場合でうまく使えば、効果を大きく発揮する行為だろうとは思っている。思っているのだが、自分がそれをするのは難しいなぁと思っている。

ある意味では、関わる必要がないなと思う人にはもうそれ以上関わろうとしないでいる、ということの現れだと思う。継続的に、ある程度の強度で関われるということは相手に対して強い利害関係なり、感情的接着があるということだろう。ぼくはそこを持つこと自体を、面倒臭がっているんじゃないかと思う。

カップラーメンをよく食べるようになった

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今年になって、カップラーメン(うどん、そば含めてカップ麺を総称してカップラーメンと書く)を食べる機会が増えた。 もともと、あまりカップラーメンを食べることが多くなかった。というのも、別に健康意識が高いから、というわけではなくて、単にカップラーメンを食べようという気が起きなかっただけである。食習慣も行動習慣だと思うので、その日常行動のなかになかったのだ。

寒くなってきて、温かい汁物を飲みたい、ごはんも食べたい、という気持ちが大きくなってきて、それを手っ取り早く満たしてくれるのがカップラーメンだと気づいた。 そして、適当に何個か買って食べてみた。いやぁ、うまかった。 この温かさと旨さを手軽に得られるなんて、なんとすばらしい食べ物なんだろう、と。

スーパーに行って思うことは、その商品バリエーションの幅広さである。単純に、ラーメン、うどん、そばといった大区分でも色々あるし、あとは日清カップヌードル型の、縦に細長くお湯を入れるだけでよいタイプや、スープ後入れタイプの大きめのカップ麺もある。 しょうゆベースもあれば、こってりとんこつもあるし、激辛味も人気が高まっているのか色々ある。 あとは、地方名産のような味、ブランドを出しているものもあれば、実際に存在するラーメン屋のテイストを再現しようとしている実店舗ブランド型の商品も多様にある。

あとは私はあまり食べないけど、お湯を入れて、しばらくして湯を切ってからソースを入れるカップ焼きそばタイプ、まぜそばタイプも入れると、もうさらに商品種類は多くなる。

新商品の展開速度を考えると、おそらく年間365日、毎日違うカップラーメンを食べ続ける事もできるんじゃないかと思う。 それくらい、豊富な種類のカップラーメンがある。 そして今まで何個か食べた中では、まずいと思ったものはまったくなかった。だいたいどれも旨い。

栄養の観点からすれば、食塩含有量が多かったりして、そりゃヘルシーじゃないのはわかっている。わかっているけど、砂糖と油たっぷりのスイーツやスイーツ系ドリンク、アイスを食べて「これはおやつだから」と言ってノーカウント扱いするよりは(ぼくはよくやっている)そういうものを食べずにカップラーメンを食べているほうが相対的には良さそうにも思える。

とか書いていたらまたカップラーメンが食べたくなってきた。 辛いのが好きなんだけど、わりと辛いと書いていても控えめなのが多い気がする。 中本のカップラーメン「北極」はめっちゃ辛かったけど。

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RPGでモンスターを倒してお金を得ることについて考える

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ドラゴンクエストなどのゲームをプレイしていると、モンスターを倒すことで経験値とお金を得ることができる。経験値はプレイヤーの強さ(レベル)アップに直結し、お金はそれによって新たな装備や道具を買うことに使うことができる。

だが、なぜモンスターはお金を持っているのか。 これについて考えるとき、実は2つの全く異なる問いの解釈が成立することを前提にする必要がある。

1つめの解釈は「プレイするゲームとして見たときになぜモンスターを倒したときにお金を得ることができる仕組みにしているのか」である。 2つめの解釈は「ゲームの世界観を考えたときに、なぜモンスターが倒されるとお金を出すということが起きる形にしているのか」である。 要するに、1つめは「プレイ体験」の話で、2つめは「世界観」の話だ。

プレイ体験を考えると、プレイヤーにとってのゲームをしての苦しさ、楽しさ、積み重ねで思ったときに、苦しいこと(=ザコ敵との戦闘)に対するご褒美として何をもらうことができれば、それを続けたくなるか、という体験のデザインの話になるだろう。 このあたり、詳しくは玉樹真一郎さんの「つい」という本を読んでもらうほうが私の適当な説明よりはるかに有意義なのでそちらに譲るとして。

amzn.to

とはいえちょっと考えてみると、モンスターを倒してもらえるものが経験値だけよりも、お金ももらえたほうが、ザコ敵を倒すインセンティブは増える、ということは言えそうだ。 お金が貯れば、次の街で強い武器が買える。それはプレイヤーにとって喜びの体験になる。したがって、ザコ敵を倒して小銭を稼ぐことにも意味が出てくる。

次に世界観のほうだが、プレイヤーがモンスターから得られるお金については「モンスターが所持していたお金を奪う」という行為の結果という解釈と、実はもう1つ「モンスターがお金に変換された」という現象が発生した結果という解釈も持ち得る。 自然な印象としては前者になるが、その解釈に立つと、「モンスターがお金を持ち歩く理由はなにか?」というさらに別の問いが浮かんでくる。ゲーム世界のお金が、人間(プレイヤーたちを含めた)社会だけで通じるものであり、モンスターたちに貨幣利用概念がないなら、お金を持ち歩く意味がない。ほかの人間の冒険者を倒して奪ったお金なのだろうか?たとえば現実世界でカラスが光るものを集めるように、モンスターはお金を単に光るものとして集めるのだろうか。 後者の解釈で、モンスターがお金に変換されるとしたら?実はこれが一番整合するかもしれない。どういう理由かはわからないが、倒されたモンスターはふしぎな力によって、お金(あるいはお金の等価物?)に変換される。なんなら、形の見えない何かが蓄積されるような形だったりするのだろうか? ひょっとすると、プレイヤーたちがモンスターを倒して得ているお金というのは、電子マネーのようなものなのかもしれない。

Apple Storeに行き、M1 Mac miniの小ぶりさを感じ、思うこと

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つい頼んでしまったMac miniを受け取るために渋谷のApple Storeに行ってみた。 コロナ禍だとApple Storeも予約していないと入れないから、せっかくならApple Storeにも入ってみたいもんな、と思っていたら、なんと普通に店に入れてしまいあれあれとなった。

コロナ禍がこの数ヶ月で急速に沈静化しつつあるということで、それはそれでいいことなんだと思うけど、まあでもこれなら自宅に配送してもらってもよかったかもしれないなとは思った。

ただ、店員さんから対面で受け取ったMac miniの軽さにはびっくりした。え?こんなん?というくらいの軽さ。 デスクトップPCということでいうと、家にあるWindowsのミドルタワーケースにはいったPCは総重量がおそらく7kgくらいはあると思うので、それに比べるとなんと小さく軽いことか。 というか、もしこれでMac miniをセットアップしてみて、それで充分に性能が発揮されてしまうと、Windowsデスクトップどうしようかなぁという気持ちが起きてしまうのは予想される。それはそれでちょっと悲しい気もする。

多分動画の書き出しとかはWindowsデスクトップのほうが早いような気はするけど、そもそもそんな高速書き出しを要求するほどレベルの高い動画編集もしていないしな、と思ってしまう。

Windowsじゃないとできないお役所関係の手続きがあったりするけど、それもまあこんなガチのゲーミングPCはいらないので、別にもっと安いノートPCや安いデスクトップPCでいいなぁと思ってしまうと、ますますこれもしようがない。

かくなる上は、もうゲームだ。原点に帰ってゲームをするしかない。 たしかに今年、バイオハザード RE:2をプレイしたのは、あれはWindowsでしかできなかった。いや正直にいえばPS4でもできてしまう。まあできてしまうんだが...。 ドラクエ11Sもまだクリアしてないからやりたいけど。でも全然やってない。 ほかにもゲームをいくつか買ったが全然やっていない。

これはもうゲームをちゃんとやろう。それしかこのWindowsのパワーを活かす道はない。

と思ったけど、よく考えたらVR方向に使えば良いんだと気づいた。全然やったことないけど、これはVRに手を出すのがいいのかも。

人間が部屋を片付ける方法

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大前研一氏が著書で語った話。

人間が変わる方法は三つしかない。一つは時間配分を変える、二番目は住む場所を変える、三番目は付き合う人を変える、この三つの要素でしか人間は変わらない。もっとも無意味なのは、「決意を新たにする」ことだ。かつて決意して何か変わっただろうか。行動を具体的に変えない限り、決意だけでは何も変わらない。

ライフハックの名言という文脈でよく引用されるし、ぼくもまあそうだなぁとなんとなく思っているのだが。 これ、もうちょっと小さい話ではどうなんだろうなと思ったりしている。 別に人生のサイズ感の話じゃなくてもっと日常に毛が生えたレベルの話で見たらどうなんだろう。

何が言いたいのかというと、ぼくは自分の部屋を片付けようと思い続けて、片付けないまま数年が過ぎてしまった。数年は言い過ぎたかな、いやでも最初に片付けようと思ってから多分結構な時間は経っている。

でも、別に片付けなくても今すぐの実害があるわけじゃない。片付けたらいいなー、片付けたら気持ちいいだろうなー、そう思っているけど、その程度で行動を起こすほどこちとら勤勉じゃない。

実は今年2回くらい片付けようとまた思ったけど、面倒になったり、あるいは怪我をしてしまったりして、それでやる気がなくなってまたピタッと止まっていた。 というぼくなのだが、今度こそ、今度こそ、片付けに本気を出したいと思い始めた。 理由は、新しくコンピュータを買ってしまったことが。そう、M1 Mac miniWindowsデスクトップを今年買ったときは、なんとか既存空間を適当に動かして、ミドルタワーをなんとか設置し、机の上に27インチモニタをなんとかおいてまあいいかこれで、ということで運用を始めた。 ただ、Mac miniを追加してしまったら、どうやってももう、場所がない。いやMac miniを置くだけならいいかもしれないが、その性能を存分に発揮させるほどのモニタを置きたいのだが、そんな場所はない。となればもう、既存空間のうち無駄になっているところを片付けるしかない。

部屋を片付けてから、新しいモノを手に入れる、というスタイルもあるだろう。だが、ぼくに関していうと、新しいモノを手に入れてしまってから、それをちゃんと使えるようにするために部屋を片付ける、という順番のほうが良さそうだなと今思っている。 といってもこれ、片付けないままでいる可能性も全然あるんだけど、でもそんな自分はさすがにちょっと嫌なので、わからんけど、来年2月中くらいまでにはたぶんなんとか少し頑張って片付けてると思う。あーでも完了しているかはわからないな。

というわけで大前研一氏のフレーズに戻ると

ぼくが部屋を片付ける方法は1つしかない。新しいイケてるデスクトップコンピュータを買う。これでしか部屋を片付けない。もっとも無意味なのは、「部屋を片付ける決意を新たにする」ことだ。かつて決意して何か変わっただろうか。具体的に置きたいものを先に買ってしまわない限り、決意だけでは何も変わらない。

amzn.to

ラーメン屋の前のカーネマン

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おくさんがでかけていたため、夜ご飯を1人で食べることになった。 ふと思い立って、久々に二郎系ラーメンを食べに行こうと思った。家から歩いて10分くらいのところに2年ほどまえにオープンした店舗をGoogleマップで見つけたのだ。 二郎系ラーメンは、かれこれ1年半以上行っていない。なんかこう少し楽しみな気持ちで、歩いて店舗に向かった。午後8時ごろの話である。9時閉店なので、まあ空いているだろう、と予想して。

だが、お店の前に到着してびっくりした。行列ができている!といっても別に大行列ではない。5人くらいである。店舗の客席数が仮に8だとして、5人ならば、二郎系ラーメンの1客あたりの回転時間(20分くらいかな)を考えれば、おそらく20分も待たずに入店できるだろう。ということが、だいたいその場で計算できた。

なのだが、このときぼくが取った行動は、行列を見た瞬間回れ右してお店から離れ始めてしまった。 論理的な時間計算よりも、「すいていることを勝手に予想して来たら予想と違ってしまい、1秒でも行列で待つことが耐えられない」という感情が先に出てしまい、もうなんか足が動いていた。

行動経済学の大家ダニエル・カーネマンは、システム1とシステム2という人間の思考モードに関する概念を提唱した。自動的で速い処理のシステム1と、意識的で遅い処理のシステム2が人間にはある、という説である。

今回の二郎系ラーメンを待てなかったぼくのケースがこれが当てはまるのかわからないが、当てはめはできそうな気はするのでちょっと無理くりだけど考えてみると。

ラーメン屋の行列を見たときに、システム2に適合するかは、わからないが、ロジカルな計算はたしかに発動したのだ。そして、20分も待ち時間はかからないだろう、それに他に特にお店の候補があるわけでもなかったので、そのままそこに入店するのが合理的であろう、という思考はたしかに頭をよぎったのだ。 だが驚くべきことに、感情が「並ぶんならもういいよ、帰る」と計算を上書きする強さで思考を包み込んでしまい、そのまま足が帰宅モードになってしまった。これはシステム1なのだろうか? 改めて言語化してみると、直感というよりは、もともとの予想に対する感情に引っ張られたことが大きかった気がする。

カーネマンのいうところのシステム1、2はちょっと今回のケースは違った気がする。

なんらかの判断を下すときに、直感にひっぱられるとあとあとで後悔するようなことになってしまうようなケース、とくに大きな意思決定では、システム2を引き出して、熟慮の末に決断することが重要だと考えられる。これに関してはまったくそう思う。 ただ、たとえばラーメンを食べるか、うどんを食べるか、くらいの軽い決定に関して、しかもすごいお目当ての店に行くわけではなくて家から歩いていけるくらいのところであれば、それは本当にどっちでもいいし、なんなら食べなくてもいいし、みたいな軽さになるわけで、そうなってくるとシステム1、2の思考判断以前に「もういいや」という予測を伴う感情が強く出てしまうということがありうるんだと感じた。

いやー、でもこれも、カーネマンの言ってたことを知っていたから、こういう思考の巡らせ方が楽しめるわけで。 ありがとうカーネマン。

M1に満足しすぎて2台目のM1を買ってしまった

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もちろんここでいうM1とは漫才王者決定戦のことではなく(ぼくは人生で一度も見たことがない。おくさんはかなり見ているらしい)Appleが開発したSoCならびにそれを搭載したコンピュータ・デバイスのことである。

11月下旬に別に緊急必要性がまったくないのにM1 MacBook Airを買ってみたところ、そのあまりの気持ちよさに久々にデバイスそのものに感動した。メモリはたった8GBでミニマム構成である。それなのに、拡張外部ディスプレイをつなげた状態でZoomをしながらOfficeアプリケーションを複数立ち上げてさらに、Chromeのタブを20個近く開いても、平然と動いている。僕の所有しているintel CPUのMacBook Pro 16inchはメモリ16GB積んでいて、GPURadeon 5300Mということで一応別積みのはずなのだが、それでも上記動作をさせようものならファンが全力で回りアツアツになっていた。それが、M1 Airだとほとんど何も起こらず問題なく操作できる。全然熱くならない。 いやはや、M1チップと、それをソフトの動作としてきれいに落とし込んだ状態がどれほどintel 時代からの進歩なのかとおもうと、それをたった1年後にそうなっているということが考えれば考えるほど恐ろしい。

というわけで、悲しいかなほとんどintel MacBook Proを使わなくなってしまっていた。購入価格でいうと、intel MacBook Proのほうが23万円くらいで、M1 Airは9万円程度である。価格が2.5分の1なのに、性能がほぼ上に感じられるというのは、戦慄だ。

というわけでintel Macの処遇に困りつつ、しかしM1の別のマシンが欲しくなってしまった。冷静に考えたら間違いなくいらないのだが(なぜならメイン機でWindowsデスクトップを使っている)それでもM1が魅力的過ぎた。

もちろん、2021年秋に発表されたM1 PRO/MAXチップ搭載のMacBook Proを買う選択もあるのだろうが、最低25万円くらいはするので、さすがにそこまで投資する気にはなれなかった。

そこで目をつけたのがMac mini(もちろんM1)だ。持ち運び用にはAirで充分なので、据え置き用でM1をつかいたかった。となれば現在の選択肢はiMacMac miniとなるが、さすがにiMacを置く場所はなかった(ちゃんと掃除して場所をつくれば置けたかもしれないが)。そこで、値段も相対的に安いし、Mac miniを買うことにしたのである。

改めていう。まったく必要ない。必要ないのだが、じつはちょっと不安もあった。なんか最近、Windows機の電源が不安定なのだ。すでに電源が落ちてしまったことが複数回ある。大事なミーティングなどに出るのにこれではおぼつかない。PCパワーには満足しているが、安定性のほうがもっと大事である。 そこで、M1 Mac miniが欲しくなっちゃったのだ。

というまあ、理由を作っているだけなんだけどね。 しかしまさか1ヶ月足らずで2台もMacを買うとは。でもさ、2台買ってもintel MacBook Proより安いんだよ…。