日々生きていくのは厳しい時もある。当たり前の毎日は私にとっては当たり前ではない。日々勝負だ。どう転ぶかわからない中で、すんでのところで持ち堪えている。雑踏の中でも孤独で、それは誰にも癒せない。発狂の中で自殺してきた芸術家を随分見てきた。彼らは本物だったようだ。「美っていうものは剃刀の刃の上を渡ってゆくようなものだ」と誰かが言っていた。私はまだ諦めてないし、堕落もしていないから、こんなに悩むのだろう。死ぬのも嫌だし、死んだように生きるのも嫌だ。私はただ自分に正直なだけだ。いつか何かが伝わるだろうか?
伝説のサーファー
生きている限り人は何かを探し続けていくものだろう。そして、探し物は案外探すことをやめた時にひょんなことから見つかったりする。しゃかりきにがむしゃらに散々悪戦苦闘した挙げ句に諦めかけた時に僥倖は訪れる。そんなものだ。未来予測も計算も半ば無意味だし、ビッグデータを駆使しても、案外未来は予測不能だし、人間という生き物が未だ未知のままだ。
いつかに放った言葉による波紋がどこでどう作用して、今何につながっているかなんて、どんなに検証してもわかるものではないだろう。教育のようにいつかに蒔いた種が実を結ぶのは早くても数十年後、そして、その結果を知らないまま死ぬ人も多いだろう。でも、そんな損得勘定を抜きにした本当の言葉を放ち続けるしかない。
期待することをやめた時に初めて何かが起こるものだし、突破口が開かれるのはいつも予期しなかった不意のタイミングだ。言葉の魔術師のように本当のタイミングをいつか捉えられるようになりたい。
ここではないどこかの果て
あまり考えないで、書こう。
外は晴れている。いわゆる五月晴れだ。木々は青々として、これから来る夏を予感させる。
37歳の私は人生の正午をまだ迎えてはいないだろう。正午間近といったところか。
これからはどこかで比重を少し、他者や社会に向けたものにもしていきたい。何を残せるか、が今後の人生のテーマになってゆくかもしれない。
何がどういった風に伝達されていくか、は意外と予測できないけれど、本当のことが意図しない形だったにせよ、そのまま伝わるということは多い気がする。
いろいろな季節を過ごしてきたけれど、今の季節はまずまずな気がする。ここではないどこかを探し続けてきた僕もどこかで終の棲家を見つけたような気もする。いろいろな意味で37歳というのはそれなりにまとまってくる年齢だし、その上でこれから始まるというような気もする。
すべては自分の在り方が決めていて、自分が行きたい方向を決めるのは自分のこころでしかないというようなことも今感じている。
風を感じて、これからも自分に正直に生きてゆきたい。
友人に触発されて、詩みたいなものを書いてみた
とりあえず私は今苦悩している
今まで見えていなかったものが見えてきてしまったからだ
そこに折り合いをつけるのは難しい
日本社会では本音と建前があるのは当たり前で、なんでそういったものがあるのかも理解しているつもりだ
ただ現代ではそれがあまりに複雑になってきてしまっているから、もう何をやっているのかもわからなくなってきている
意義を見出すのは難しい
特に偽物じゃない意義を見出すのは
障害福祉というのは本当に難しい分野だと思う
だけれど、その先に何かがあると信じて、これからもじっと見つめていきたい
御天道様
てくてく歩いていこう
あまり焦らずに周りに惑わされずに
自分の道を見失わずに
てくてく歩いていこう
生きていると悲しいことばかりだけれど
あまり溜息ばかりつかずに
愚痴も言わずにやっていこう
それをすると、大切なものも逃げていってしまうから
わかってくれない人ばかりでも彼らを嫌わずに
どこかで許して
淡々と生きていこう
それをちゃんとやっている人にはきっと運が巡ってくるから
神が微笑んでくれるから
風に吹かれて
とりあえず最近は頭を使い過ぎているので、クールダウンを心懸けたい。自分は結構真面目だから、作業を正確に丁寧に行うだけでなく、周囲への気遣いや盛り上げ役を買って出てしまう。それは神経を使う作業だから、やはり疲れる。ただ(自分が)「いると、締まる」とか「いる日といない日とでは全然違う」と言ってもらえるのもそんなにお世辞ではないと思うし、そこにやり甲斐も感じている。
ただ頑張り過ぎは禁物だ。頑張り過ぎず、バランスを取るというありきたりの答えにはなってしまうが、やはりそれに尽きるのかもしれない。
風に吹かれている桜が綺麗だ。思い詰めていて、季節も見逃していたことに今気づいた。
自分に正直に
最近はイライラすることが多くて、自分をコントロールすることに困難を感じることも多いが、なんとかやっている。
結局自分が突出してきて、ギャップが生まれ、理解されなくなってきた度合いが強まり、悩みは深まった。そして、それは自分が自惚れているわけではなく、恐らく事実だから、悩みは一層深い。今まである程度素直に尊敬している人や先達からはアドバイスを受け取ってきたりしたが、段々それが自分に嘘をついていることになってきてしまっていたので、その人には一言言った。
要するに独立してきているのかもしれない。ある程度自分と指しで哲学的論議を正面からやりあえる人は減ってきて、自分自身がいつも遠慮気味になってきている。
そして、それは文学でも同じで、自分に正直に、すごくなればなるほど孤立していくというのも本当だと思う。ヘッセの『荒野のおおかみ』とはそういう話だ。純粋に作品の質が高まれば、評価されるとか売れるとかそういう話では全くなく、何かを伝達できたとしてもそれは厳かで、私秘的だ。
私の深いところにある真意が「愛」だとしても、それは誤解されがちだ。そして、一番高いところに登りたいというのは自分の正直な衝動だし、それは自分の欲を満たしたいというような単純なエゴからではなく、その上で何かを与えたいからだ。
それをわかってくれる女性もいたし、私は今でも彼女達を裏切っていないと思う。