鍵泥棒のメソッド
3人とも大好きな役者なので見てみることに
しがない役者・桜井武史は自殺を試みたが失敗。財布から銭湯のタダ券を見つけそのまま銭湯へと向かう。時を同じくして渋滞で立ち往生していた裏の便利屋コンドウは「仕事」を遂行した際の返り血を拭うため、道すがら見つけた銭湯に入る。そこでコンドウは銭湯で足を滑らせ頭を強打。実はたまたまロッカーが隣だった桜井はコンドウのパンパンに膨れた財布を目にしており、コンドウが気を失っている隙に鍵を入れ替えた。ここから2人の人生も入れ替わることとなる。
文句の付けようのない素晴らしい作品でした!昨日のツイート( @manamo_nano )でいえば、1番好きなタイプの映画ではないんですが、その前提を超えて大満足できました!セリフ自体は結構少なめで、大事な場面であればあるほどセリフは使われない。より、俳優の一挙手一投足が大事になってくるわけです。桜井のひ弱で頼りなく、計画性皆無で自信や覚悟がすぐさま喪失する様子は見事でしたね〜 水嶋のどこが機械的で計画性はあるが血の通わない生き様の表現も良かったです。そして、なんといってもコンドウがとても良かった!香川照之ファンにはオススメですね、彼の色んな表情がこの2時間で楽しめるのは豪華としか言いようがない。このコンドウ、2人の足りない部分を持ってる人物なんですよね。だからといって完璧というわけではない。一見するとコンドウが2人を突き動かす一方的な展開に見えますが、実はそうじゃないという点も必見かも。
セリフが少ない分、一つ一つのセリフがスイッチとして働いているのもこの映画の特徴だと思います!
誰しもが演技しながら生きている。それがこの映画の縦軸であり醍醐味です!ぜひ見てみてください〜
〇エンタメ
ふろがーる(テレ東で放送中 Paraviで配信)
〇音楽
しなの椰恵―世界よ、どうかこのままでいて
仮面の告白
イヤホンを絡ませることなくポケットにしまう方法を検索するけど、結局それ面倒くさくてそのまま突っ込んじゃいますよね。
久々の更新です。
自分が見た、読んだモノの感想を文字起こしして頭整理したいな〜って思いながら3ヶ月くらい経ってました。ちなみに今コツコツ見てるのは「半沢直樹」です。今更感凄いですよね。
そういえばKing Gnuの後半のやつ、未だに下書きで宙ぶらりん状態だったの思い出しました。すいません、自堕落な生き物なもので… いつか書きます。音楽鑑賞能力上げたいですし。
最近みんな若林さんにインスパイアされて各々文章を公開してるっぽいですね。今なら才能が垣間見得る多くの人のブログに埋もれて僕の駄文をこっそり公開出来るのではないでしょうか。
青い人間の文なので、はえーって思いながら眺めてください〜
これはどうしてもどうしても読んでみたかったんですよね。あの映画を見た日から、「あの時代の人がいかに言葉を重んじ、思想の明瞭化をおこなったか」に興味を持ち始め、文豪と呼ばれた三島由紀夫の中でも傑作(知人談)と言われる「仮面の告白」を手に取ったわけです。
この本は自伝的作品と言われています。あくまで自伝"的"であり、全てが三島由紀夫の真の過去ではありません。
あらすじ(ネタバレです)
小説は「永いあいだ、私は生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」という書き出しで始まり、幼年期に味わった「悲劇的なものに対する官能的で根源的な欲求」を連ねていきます。
「私」はここからさらに特異(当時において)な素性に気付きます。13歳になると、「私」は磔にされた「聖セバスチャン 」の絵に惹き付けられ、「ejaclatio(射精)」を経験。これが「悪習」の始まりとなりました。また「私」は、野蛮であり見事な体躯の持ち主である同級生の近江に恋をします。近江から、愛すべき癖とも特徴とも欠点とも言えない、完全無欠の幻影を見出し、無邪気な肉欲を孕んだ愛を自覚するも、後に近江への強烈な嫉妬を見出すのです。愛する相手に寸分違わず似たいという欲望があったのです。「私」は異端な嗜好が周囲の友人たちとは違うことを自覚して悩むようになります。
大学生になり、「私」は友人宅にて下手なピアノを耳にします。友人の妹、園子が弾いたものでした。彼女の脚を見た「私」は、その肉感を伴わない健康的な美しさに感動します。のちに「私」は召集令状を受け取りますが、軍医の誤診で帰郷します。その後友人草野への面会のため、草野の家族と共に向かう機会があり、そこで「私」は園子との親しみを深め、お互いに恋心を抱き始めます。「私」は園子へのプラトニックラブを感じ、園子なしではこの先を過ごせないだろうという想いを居心地の良さから覚えます。
海軍工廠に動員された「私」は以前から園子との文通を続けており、その中で「私」は時と所の隔たりによる人間の存在の抽象化によって、園子へのプラトニックで一途な傾倒と、常規を逸脱した肉の欲情が矛盾なく等質なものとして、自己の中に同時に存在することを感じ、「正常化」の資格を得た人生に希望を持ち始めます。
その後「私」は園子の疎開先へ訪れます。別の女性との接吻を経験した「私」は、最初の接吻の不快さが、園子への一途さから来るものだと信じて疑わず、己が得た「正常さ」を確かめるため園子との接吻を試みます。しかし、いざ園子と接吻をした「私」は何の快感も得ることなく、根深い異常性を再び自覚し、「自己欺瞞」を拠り所とする他なくなってしまいます。「私」は園子から逃げることを決意し、結婚の申し込みも婉曲に断ることとなりました。そして、終戦を迎えます。「私」は「日常生活」に苛まれる恐怖を感じるのみでした。
戦後、「私」の妹が死にました。涙を流す己に軽薄に「正常」を感じます。園子は別の男と見合いをし婚約しました。「私」が彼女を捨てた当然の結果と自負し、正しかったのだと言い聞かせます。友人に誘われ娼婦と行為をしようとするも、不能をはっきりさせただけで終わりました。「私」は「お前は人間ではないのだ。お前はひと交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物だ」という想いが芽生えます。
ある日「私」は人妻となった園子と再会します。肉の欲情なしに園子に逢いたいという思いが生じ、この欲求がなんなのか。性欲に根ざさない恋が明々白々な背理でないか否か。その様な自問を抱きます。
「私」と園子は密会を重ね、「私にしか分からない不徳の喜びを抜け目なく味わ」いました。いたって脆くも極めて透明な秩序、「正常さ」を生んでいたのです。しかし園子は夫と「私」の間に揺れ始めていました。
別れの時刻まで三十分。「私」は園子と踊り場へ向かいます。幾らか踊った後、2人は中庭に出ます。そこで「私」は粗野で逞しい男性に目線を奪われます。男性の腕にある牡丹の刺青を見た時、「私」は情慾に襲われ、彼の胴体が血潮で美しく彩られる様を想像します。「あと五分だわ」園子の言葉を機に「私」の中で何かが残酷な力で2つに引き裂かれます。「私」という存在が何か一種のおそろしい「不在」に入れ替わるのを感じたのです。「私」は園子からの性体験に関する質問に「知っていますね。残念ながら」と嘘をつきます。園子と「私」は同時に腕時計を見ると、もう別れの時刻でした。「私」はもう一度一団がいた方を振り返ると誰もおらず、空っぽの椅子が照りつく日差のなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射を上げたのです。
ざっくりとこんな感じです。ざっくりとなんて言葉を使っていますが、この要約には中々の時間を要しました。どう噛み砕こうか、どこを抜粋すべきか、非常に悩みました。
考察
考察は恐らく要約以上に苦し紛れで繋ぎに違和感のある文章になるかもしれません…
まず冒頭、中々印象的な書き出しですよね。仮面の告白を読んだことがなくとも、この部分は知っている人もいたりしますよね。
"生まれたときの光景を覚えている" 僕はこれを「非科学的事実列挙の予告」のようなものだと捉えました。今から書かれる文章は科学的根拠なるものは存在しえない。冒頭に持ってくることでこの違和感を読書中に読者に与えないような入口を築きあげる効果はあるのではないかと思われます。
また、この記憶には文章中に確かな反駁が存在してますが、「私」はずっとこの光景を信じています。神童性、天才性の表現とも取れますが、それよりも私のみが信ずる物が自分の中に確かに存在していることの主張なのでは?とも思っています。
どちらかと聞かれれば前者に拠る「私」の異端さの示しと考える方が個人的には面白そうです。
ここから「私」の"告白"というものが始まっていきますね。自分はこの告白された性質を⑴"死に対する耽美的価値観" ⑵"男性に対する肉欲" ⑶"女性に対する不能"3つに分類してみました。
⑴⑵は幼年期からの告白から始まります。ジャンヌダルクや門前を通る兵隊の描写がそうです。後にこれが聖セバスチャン、近江、牡丹の刺青の男に映っていきます。⑴と⑵は同時に発生しているものではないかと思っています。根拠は複数あって、まずはジャンヌダルク。「私」はこの騎士兵を男性だと思い込んだ状態で魅了されているのが特徴です。「私」の虚弱体質から生まれたものだと思うのですが、異様なほど男性の逞しい様に惹き付けられていることが多いです。この逞しさから生命の輝きの強さを感じ取り、反動的に生命の失いをも汲み取るのが理由なのでしょうか。そうすると、ジャンヌダルクが女性とわかった後、二度と絵本を開くことは無かったという描写とも合致します。
また聖セバスチャンへの肉欲がほとばしる場面では、聖セバスチャンに浮かぶ明瞭な死に惹かれているように思います。逆説的に死から男性的な力を感じたと説明することも出来そうな気がします。
しかし自分で書いておいてあれなのですが、ほとほとあまい気がしますね…
おそらくキーポイントは如何に悲劇的で禍々しいかだと思っているので、大きく外した考察では無いと思っているんですがね、うーん。難しい。
続き書きます。男性への肉欲で1番印象的なのは近江の懸垂を「私」が眺めるシーンです。
そもそも近江は札付の不良生徒です。「私」から見れば悲劇そのものだったのでは ないかと思います。不良はいわば異質であり、正常な空間の秩序を乱す、反乱分子となりうる要素です。異常は直ちに排除されるのが集団、特に宗教的集団においては常です。(コンビニ人間の表現を利用してます。読了してる方、結構ここ類似性あると思いませんか?)それにもかかわらず、近江が自身の異常さを表に出し堂々とする描写もあります。
懸垂を眺めた「私」は近江の腋窩の豊穣な毛、二の腕、肩の肉など、「男性らしさ」を象徴する生命力の無益な夥しさに魅了されます。ここで「私」は近江への嫉妬を自覚するわけです。「寸分違わず近江に似たい」という嫉妬は、男性的生命力、そして正常化の仮面を不必要とする生き方にあるのかもしれません。文章中に懸垂をしている近江の姿は磔にされた聖セバスチャンそのものだったというような表現があります。この叙述を見ると、上記の考えも自分の中でスッキリ纏まってくる気がします。
死の間際は生命が著しく輝き美しいものであるという解釈をすれば、「私」が死を羨望し、憧れを抱く対象物としているため、男性的生命力を得て死を美しく見せる存在となりたいと願っていると推察できます。
また近江も聖セバスチャンも共に正常空間にただ1人異常を示す者であり、淘汰される危機(死)に瀕している美しさを有している類似性があるため魅了されているのではないかという考えも浮かんできます。
これで聖セバスチャンへの異様な取り憑きも説明することが出来たのではないでしょうか。
今のところ死への耽美的価値観、男性への肉欲、悲劇的なものへの官能的で根源的欲求は互いに作用し合うような関係性にありそうですよね。
ちなみに近江は夏休み中に退学処分にあったらしく、ここで近江と「私」の関係は途切れるので、同性愛が主題になるのは結構あとになりますね。
次は女性への不能の可能性を感じ始めるようになります。
続きの考察は次のブログであげます!
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King Gnuってかっけぇ。
セブンイレブンのからあげ棒が世界一美味いみたいなところあるよね
おはこんばんにちは!あかあかです〜
今日は前回告知したとおり、愛してやまないKing Gnuについて書こうと思います。
好きな曲を紹介していく、みたいな感じですね!
(今回)
- 白日
- Sorrows
- vinyl
- Flash!!!
- McDonald Romance
(次回)
- あなたは蜃気楼
- ロウラヴ
- The hole
- NIGHT POOL
- 飛行艇
1.白日
もうこれは言わずと知れた有名曲ですね
こんな曲作れるバンド出てきちゃったら、もう誰も太刀打ちできません笑
特にドラムが大好きで、せきゆーが使い分けるんですよビートのニュアンスを!!!!エロい!!!!ミュートしたり、跳ねてみたり、ドラムが呼吸しとるんですよ……サビとかやばいですよ、ただのビートじゃないのよ、ハットどんな入れ方しとるの??ギターも音作りがエグい!腹の底から歪ませられるようなあの感じ、どうなってるのよ。ベースもしれっと弾いてるけどおかしいからな!!!!あのラインを綺麗に奏でやがって!!!
歌も毎度の事ながら強みしかない。ホント。オクターブコーラスの厚みで死ぬ。Cメロからのサビ、なんだあれ。落差すごすぎてジェットコースターじゃん。そもそも入りの息遣いで卒倒モノでしょ!
「時には」 はいこの入りで全員井口の方を向きました!「知らず知らずのうちに傷つけてしまったり」ここへの繋がりはすごい。まず時には の歌い方で、すでに「後悔したことがあるんだ」って分かるじゃないですか。知らず知らずの で知らなかったんだけど、振り返ってみたら一つ一つ失態をおかしていたのを確認して噛み締めている感じ…あぁすごい!
常田パートも「生きるなら」ここ潜り方でそっと懐に入ってくる感じでみんなは常田ファンになってしまうわけですよ。
サビとか「へばりついて離れない地続きの今を歩いてるんだ」で高音低音が交互にきて、どんだけもがいても地続きの今を歩くしかないんだっていうのが耳に刺さってきて。「全てを隠してくれ」で井口が高音から息を残しつつ消えてく… 儚い、儚すぎる!!!
みんなでもっかい聞こ!2億再生させるしかねぇので!
2.Sorrows
どうなってんだよ!!この曲リズム隊がエグすぎやしないか?多分ベースが1番エロい弾き方しとるのこの曲よ??Aメロがなかなか聴き応えあるんだよなぁ
ドラムはキックが優勝してしまっています。なんちゅう、なんちゅうビート踏むのよ〜 ギターはもう言うことねぇくらい。最後のサビとかどうしちゃったの??ギターでえげつない世界観出すじゃないですか!!!ボーカルも疾走感もちつつ味出しまくってるから耳がメタボになったわ。Why don't you come back to me?のハモり聴いて帰ってやらんやつ人間じゃないでしょ。痛みを二人分け合えるよのところとか、痛みを で少しがなって、中々の痛みなんだなって思って、 二人で優しく語りかけて距離感詰めて 分け合えるよ を強く歌って意志の強さ見せてくるところとかもう泣いちゃう。ささやかな人生を愛せるのならば信じたもの全てを手放しっていいんだ こことかエモすぎる まるで自分にいいきかせてるように叫ぶじゃないですか、決して誰かと決めた覚悟じゃない、1人で勝手に決めた事なんだって伝わるんですよね。誰も保証はしてくれないんですよ、愛した人でさえも。愛すべきは人生なんですよ。曲名がSorrows たる所以ですね。
3.vinyl(King Gnu.Ver)
あー三番目で遂に来ちゃったBEST OF しゅきしゅきソング!!!!この曲2パターンあるのよね、King Gnuの時のやつと、srv.vinciの時のやつと。僕はvinci時代の方が個人的には好きかな〜 違いはドラムのハットがアクセントになってるのと、歌詞と、Cメロが全く違うってところ!ぜひ聞いてみてくれ〜サビ入る前のボーカルとかこっちの方が攻めてるって感じしてなんか好きなのよ〜 簡単なイメージの違いはKing Gnuが大人の夜、srv.vinciは未成年の強がりかな。
この曲はボーカルがはちゃめちゃに好きです。強みは井口のグルーヴ感、サビ前はドラムのビートを殺すことなく綺麗にズラす…なーにやってんだ!!!惚れた!!貫いてこの心を ですでに心は貫かれてしまっているわけで。さよなら愛をこめて で愛は込められてないんだと悟るわけで。それに息の漏らし方が「コイツ、何も信じてねぇな」感を醸し出してる。特にラストサビ前はエモの塊。悲しそうでか弱そうで、でも覚悟だけはあるような姿勢が見えてくる気がする。ホントに俺が女だったら濡れてます。それくらいあらゆる感性を刺激してくる曲なんだよ〜!!!
4.Flash!!!
LIVE2019"sympa"のドラムソロ聞いた事ありますか?あれもう常人には叩けないビートですよね。頭の中のメトロノームどうなってるんだろ……聞けるズラしってマジであたおかなんですよ。ベース入っても馴染んでしまう。エデンの園でしか実現しないのよこんな融和……ドラムもギターもベースもキーボードも好き勝手暴れてるんですよ。テクの暴力なんですよこんなの…ドラムに任せたかと思いきやベースがエグいラインひいてるし…ギターも常にグイグイ引っ張ってくし…キーボードもサイケデリックで…んでもって奇跡的にまとまってるんですよ、常田変態すぎだろ一生ついてく。
この曲は常田さんのボーカルが主軸なんですよね(Tokyo Rendez-Vousとかもそうだよね)。声の渋さが絶妙にいいんですよ…あなたにならハチャメチャにされてもいいって思えちゃうくらい重さも乗っかってて休む間がないんですよ。くだらねぇぜ真実なんてただ下り坂を猛スピードで 下手したらガキンチョ臭さしか残らないこの歌詞をダンディにしてしまう恐ろしさよ。とか思ってたら かけるけるんだ の だ で無邪気さ見せてくる感じ。ギャップ萌えで萌えすぎて灰になった。サビ前のワクワク感から、井口のパート。間違えだらけの人生が光を見失わせる→逆らって→全てを求めないで→この身を焦がしてでも光放って ここの歌詞どうしたらかけるの???人間のアンビバレントだけども身勝手な部分、しがみついてしまう感性を表しまくってて刺さりに刺さる。光見失って、間違った過去とともに逆らって、全ては求めないって言うけど、失った光を自分で放ちたいという人生最大の欲求をしてしまう…………それを井口が儚さとわがままを持ち合わせたような声で歌うんですよ。はぁすき。
5.McDonald Romance
これはみんなに絶対聞いてほしい曲。なぜか再生数が少ないし、常田さんも人気がないって言ってたけど、ここまでか細くて若さを表してる曲はなかなかないと思ってる。多分日本で売れないタイプの曲ってこういうことなんだろうなって思うと悲しくなるね… ハネのない曲なんですけど、ハンパないChill曲だから聞いてほしいなぁ
最初のキーボードのこぼれ落ちていく感じの音がめちゃいいんですよね。気付かずに手の内から零れていく感じ。落ちていく姿も綺麗だからそれが損失だって気付かないんだろうなぁ…
歌詞もすっごい素敵なんですよ「もう財布の底は見えてしまったけど、それさえも笑いあった、それさえも恋だった」チャレンジの多い若い頃だからこその恋なんだっていうのが伝わってきません??今財布の底見て笑ってたら往復ビンタからのぼっち確定演出ですよこんなの。幼さ、ダサさ、どうしようもなさ、それさえも愛し合えたんですよこの頃は。「きっと永遠には続かないの、明日には明日の風が吹くでしょ?」やっぱり本人も自覚してるんですよ、単なる青い恋愛だって。その後に「今を鮮明に焼き付けて」ですよ?やっぱ目の前の恋は無視することは出来ない、でもどうせ終わる。だったらこの瞬間を自分に刻んでやる。甘酸っぱいななんだこれ!!!
しかもこのパートのキーボードがとてもとても良き。渦巻く気持ちがそのまま音に乗ってる感じがしてエロティックなんですよね。
ボーカルは言わずもがなめちゃいいんですよ 高音を余韻残して歌われたらもう痺れちゃうんですよこちとら。今すぐ聞いてきてほしい!!!!
ざっと5曲紹介しました!
King Gnuファンからしたら当たり前だ!って言われそうなことばかりですが…笑
King Gnuをまだ聞いたことない人、是非ともこの機会に聞いてみてください!
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三島由紀夫の例の映画
字面からは思想主義的なイメージが強く、遠ざけがちになるかもしれないが、これは誰にでもオススメしたい映画だったので、できるだけネタバレ少なめに丁寧に書こうと思います!
まぁ、50年前なんでネタバレもクソもないんですけど…笑
〇鑑賞した理由
僕は政治思想主義は持ってないし、なんなら三島由紀夫作品は読んだことがないです。(お恥ずかしい。)ただ、「自分がこれから触れないジャンルかもしれない」と思い、「あえて観てやろう」という自身への小さな反骨精神で興味を持ったにすぎません。
〇概要
まず初めに簡単に三島由紀夫と東大全共闘について映画の中でとりわけ重要である部分を書き記します
三島由紀夫は言わずと知れた戦後日本の文豪で、右翼(保守派)天皇論支持者です。
東大全共闘は当時の東大学生が組織した共産主義組織、つまり左翼団体です。
舞台は東大駒場キャンパスにある900番講堂
東大全共闘は討論会と称された集会を開き、「日本の将来について語りたい」との理由でその場に三島由紀夫氏を招待します。
右翼と左翼が議論を交わそうと言うのです。今じゃ考えられない。笑
この映画は三島由紀夫と東大全共闘の2時間に及ぶ議論を流しているという構成としては端的なものです。
〇とりわけ惹かれた議論
他者の位置づけの議論は1番面白かったですね。
一見すると「あれ?革命の話は?」って思うかもしれないですが、これはバチバチに関係してます。
そもそも革命というのは「国家」と「国民」の関係性を逆転させる、つまりは位置づけを思い切り変えてしまう行為です。
それに、闘争の際には「暴力」が付随しますから、どうしても暴力を与える「相手」の存在が浮き出てくるわけです。
三島氏はこの議論においてサルトルの「存在と無」に書かれた「エロチズム」の表現を引用しました。
サルトルは「1番卑猥なものというのは手足を縛った女の裸体」だと言います。これは他者が自分の意志を主張する術を無くし、こちら側の思いどおりになる状況のことであると三島氏は解説。
そうなると暴力は非エロチズムの象徴であるというのです。
つまり、「相手の主体性を認めているからこそ、暴力という手段で対抗するしかないんだ」というのです。
他者の存在を、暴力で浮き彫りにしようなんて説明に不覚にも声を漏らしてしまいました。
〇僕が考えるこの映画の魅力
それは、「言葉が力を1番持っていた時代の象徴」であったという点です。
左翼と右翼というあからさまに対立する2つが討論を行っている、これだけでも異様なことですが、それに加え「お互いを言い負かそうとはしていない」んですよね。
戦後日本は今まで個人を国家(天皇)と一致させていた人々が終戦を機にその拠り所を無くし苦悩にされされていた時代です。その後、どうにかして自己を確立しようと皆が「思想」を求めた頃だと思うんです。
思想を自身のものにするために、あらゆる知識を蓄え、言語化することを繰り返し続けてきた彼らにとって「言葉」が持つ力というのは現代に比べ遥かに強力だったんです。
強力でないと思想は単なる虚構に過ぎなくなり、自分を空っぽにしてしまいますからね。
だからこそ、学生と三島はそれはそれは丁寧に議論を進めます。
静かなる闘争、とでも言っていいんでしょうか。曖昧さを一切残さないように議論の定義を慎重に進めていくんです。
自分の中に相手の主張を取り込み噛み砕いて、それでも違和感があればそこを指摘する姿勢が、言霊を美しく残そうという意思が垣間見えてとても感銘を受けました。
〇感想
先にも書いたように、この時代の人々は自己の確立のために「思想」を利用しました。だからこそ、言葉の運用は秀でて美しく、高尚な議論も活発であったと思うんです。なぜ現代では議論はマイノリティな手段になったのか考えてみたんです。それは決して現代日本人が劣ったのではなく、自己確立の手段が簡易的または多様になったのだと思います。
Instagram等SNSにより「投稿」を行うだけで自己承認欲求が満たされやすくなったり、流行を追いやすくなりました。
故に、昔のような知性至上主義とならずとも、あらゆるツールで存在価値を見いだせるようになったのだと思います。
その代わり、言葉の力はあらぬ方向に利用され始めました。特に誹謗中傷、発信者の姿が見えずと言霊は恣意性を持ち続けながらさまようになりやすくなったため、昔とはまた違ったストレスを与えられやすくなったのだと思います。
それに、アイデンティティは簡易的であるが故に虚弱であるために、すぐさまに自分が空っぽになってしまう事態も起きやすいなと考えさせられましたね。
言葉の時代による役割の違いがこんなにも明確なのかと衝撃と悲しさを覚えました。
どちらが果たしていいのか、答えはないと思いますが、できれば僕も自分の内から生み出した言葉や思考でアイデンティティを見つけたいと強く思いましたね。
ぜひとも映画を鑑賞して、言葉のあるべき姿というものを実感してほしいなと思います。
これ上手く感想書けてるのかな…不安だ…
よく分からなくなってたらごめんなさい💦
ここまで読んでくれてありがとうございました!
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あかあか録をはじめてみます!
おはこんばんにちわ!
あかあかです〜よろしくお願いします〜
あっ、いまっ、新品のボールペンの先っちょを頂きました〜
こんなん、なんぼあってもいいですからね〜
と、在り来りなひとボケをかましつつ。
ここでは気になったエンタメ、音楽を
恐る恐る綴っていこうと思ってます。
いつか正しい目で評価できるようになりたいので
今のうちに失敗してやろうって魂胆です
見てくれる人に対して失礼だって声は受け付けますし、
受け付けた上で落ち込みます。当然のことだからね。
なるべく観念に縛られることなく書いていきたい所存です。
暇な時に見てね〜
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