今日もご無事で。

今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。

さよなら2023年

 なんとなく年納め的に書いておくべきかな、だって毎年書いていたしと思った振り返ったら「さよなら2022年」はあったけれども「さよなら2021年」はなかった。

 コロナ禍に突入した2021年や2022年はインプットがとても少なく、ブログに書きたいと思えることもほとんどなかった。一方で2023年はそれなりに書きたいこともあるはずなのに、パソコンの前に向かってなにかを書く、という習慣が消えてしまったことによりなかなかアウトプットができない日々が続いた。結果的にここ数年でもっともブログを書かなかった年になってしまった。

 無論、自分の文章が上手だとは思っていないけれどスポーツやそういった類と同様に書いていかないと文章力は落ちると思っているし、まとめる能力も落ちてしまうと感じている。毎度同じように言っている気がするが、この文章もリハビリである。

 

 2023年も引き続き、様々な社会問題が顕在化した1年だったように思う。もう僕らの目の前には崩れ始めた様々な現実が待ち構えていて、他人事で片付けられないひとつやふたつが誰の生活の中にも潜み始めているはず。これって年を取ったからそう感じるのかな?

 「どう解く?」という本がある。今年はこの本を2冊(シリーズ)で購入した。基本的には考える子供向けの本なのだろう、と思いつつも、大人が読んでもとても面白かった。「食べていい動物と、食べちゃいけない動物の違いってなんだろう?」というルールという回答で答えてしまいそうな問いから(ただルールを回答することがこの絵本の解ではない)、「人が嫌がることをしちゃダメとお母さんは言うけれど、ボクの嫌いな勉強をなぜ押し付けるの?」といった決して世の中にあるルールや論理で回答できるものでもないものもある。

 

 今日、Xのタイムラインで流れてきたポストの中で漫画ドラゴン桜の切り抜きがあり「考えることを止めてはいけない」「なぜ、駅の看板は多言語で表記があるのか、考えよう」みたいな描写があった。ドラゴン桜でいう「考える」は、「知識としての蓄積を貯めよう」ということだと思うのだが、つまりは知識が豊富であれば問いに対する答えをいくつも用意できるし、最適解を編み出せるよね、っていう。

 ただこの「どう解く?」における「考える」は、知識を増やしていくことを目的とするのではなく、きっと解はひとつでもよくて、問題に立ち向かう、問に立ち向かう姿勢を教えてくれる絵本だなと思った。無論、ドラゴン桜のくだりのように考え、知識をたくさん身につければ武器があることで問に立ち向かう恐れも減っていくのだけれど、知識がなくちゃ立ち向かっちゃいけない、ということもないよね、と。答えのない問いを、一緒に考えていける、そういう気持ちがきっとなによりも大事なのだと思う。

 考えるという行為は年をとるにつれしんどさを伴う割合が多くなってくる。なぜなら、「考え尽くした」ことが知識によって増えてしまうからだ。その間隙を縫いながら、答えを見つけ出さなくてはいけないけれど、それが答えかどうかも勿論誰かが教えてくれるわけではない。本を読もうとも、音楽を聴こうとも、そこにあるのはヒントにすぎず、「答え」と言えるかどうかは、自分自身にかかっているのだ。

 子供の頃であれば、誰かが答えをまず教えてくれた。それが本当の答えかどうかはわからない、けれどヒントが数多くあった。大人になって試されるのは、ヒントを探す、というところからだ。ヒントを探すことすら諦めてしまえば、考えることもせずに生きていくことはできる。その往来のしんどさを年々、感じていくことになるのだ。

 

 ひさしぶりに「アイアムアヒーロー」を読み返した。ちなみにここから先は最終巻ネタバレになります(酷すぎる)。

 あらすじとしては、街中に突如ゾンビがあらわれてゾンビと戦う、という話なのだけれど、「ゾンビはなぜ存在するのか?」という問いがある。主人公は生き延びることに必死で基本的にはゾンビとのサバイバルが物語の主軸になっているわけだけれど、クライマックスに近づくに連れ「ゾンビってもしかして意思を持って動いている?」という仮説がでてくる。結果、ざっくり言うとゾンビは「(ゾンビになった人間の)意識の集合体」ということがわかるのだけれど、「意識の集合体だから、孤独がない」という意見もでてくる。

 人間の孤独は、コミュニケーションの阻害から生まれるのだろうか? コミュニケーションを日々とっていても、孤独を感じることはある。孤独とは「思考の独立性」であるとするなら、このゾンビが孤独ではない、ということも一理ある。この漫画においては、ゾンビのこの考え方そのものはゾンビにしかわからない(ゾンビにならないとわからない)ので、主人公はひたすら闘い続けるのだけれど……。

 

 IT技術の発展によってもし私たちの思考が共有でき、共通項で結ばれ、限りなく独立性の少ない世界になったとしたら、そこに孤独は存在しないのか。しかし、考え続ける限り、問いを立て続ける限り、それは孤独と対峙し続けることになるのではないだろうか。情報が溢れ続ける中で、傷を舐め合いながら、孤独を癒やしながら、でも孤独を大事な感情のひとつとして、手放さずに生きていけたらと思う。

 

 さて、話があっちに行ったりこっちに行ったりしましたが。本当はアーティスト目を目的に見に行った「さいたま国際芸術祭2023」についてとか書きたかったんですけどね。年明け頑張って書きましょう。。。

 

 それでは、私が今年好きになったアーティスト、湯木慧の『スモーク』でしめたいと思います。 みなさまにとって、来年が今年よりも良い一年になりますように。世界にたくさんのいいことがありますように。

 みなさま、今年もありがとうございました。

 


www.youtube.com

信じるものは心に在るだなんて/わかってる/わかってる/わかってるけど(スモーク/湯木慧)

半径数メートルの描写を歌にする、手に届く物語 / Album:miss you(Mr.Children)全曲レビュー・感想

6畳間で鳴らすMr.Children

 2007年に発売された『HOME』を特集した別冊カドカワSpecial Issue Mr.Childrenの中でスガシカオはこんなコメントを寄せていた。

彼への要望ですか? やっぱり無茶なことはしないようにってことかな。うちに来て、シャンパン1本空けて、へべれけになったりしないとか、急にダッシュしないとか。ともかく体に気をつけてほしいですね。ミュージシャンとしてはアコースティック・ユニットみたいなのをやってほしいですね。期間限定でもいいんで、狭い場所で桜井くんの歌を聴いてみたい。(スガシカオ)  

 アコースティック・ユニットと称して良いかはありつつ、この4年後である2011年に発売された『Sugarless Ⅱ』でMr.Childrenの楽曲「ファスナー」をスガシカオ桜井和寿とともにアコースティックギター2本編成の弾き語りでカバーした。(演奏は、それ以前に『Split the Difference』で共演時に行っている)

 

 ひょんな入り口から話を進めてしまったが、Mr.Childrenの最新作『miss you』はここでスガシカオが要望をだしていた「狭い場所で聴く桜井くんの歌」を実現したようなアルバムだ。これまで我々を魅せてきたMr.Childrenの姿とはまたひとつ違う側面を表現する、“仄暗い”楽曲たちが全編を通し収録されている。あえて“仄暗い”としたのは、決して“ダーク”や“闇深い”といったマイナスなイメージを閉じ込めたアルバムではなく、そのほの暗さから、夜の訪れを感じる人もいれば、夜明けを感じる人も、黄昏を感じる人もいるであろうからだ。

 このアルバムが、夜更けなのか、夜明けなのか。黄昏であるのか。聴く者によって、聴く場所によって、聴く時間によってその仄暗さの印象と風景が変わる。そんなアルバムだと感じる。

 

 何が悲しくって/こんなん繰り返してる?/誰に聴いて欲しくて/こんな歌 歌ってる?/それが僕らしくて/殺したいくらい嫌いです(I MISS YOU/Mr.Children)

 

 

アルバム『miss you』が示すもの

 21枚目のMr.Childrenのオリジナルアルバムとなる『miss you』は2023年10月4日にリリースされた。前作から3年弱の期間を空け、Mr.Childrenの活動こそあったものの、新曲のリリースはその間で「永遠」「生きろ」の2曲。そして本作はタイアップが1曲もなければ、インタビューもない。2023年に届いた2冊目までの会報誌ではわずかに触れているものの、あくまで“手触り感”にしか触れておらず(会報誌の為引用は避ける)、具体的な言及は行われていなかった。

 発売前に公式サイトで表現されていたのは“Mr.Children史上、最も「優しい驚き」に満ちている。”ということだった。

 

 発売から2ヶ月経った今、このアルバムに対する印象はがらっと変わった。アルバムを聴く前に「I MISS YOU」「Are you sleeping well without me?」「LOST」「Party is over」「We have no time」といった楽曲のタイトル群から感じていたことは“喪失”を表現するアルバムになるのか?ということだった。その“喪失”とはもっと言えば、前作『SOUNDTRACKS』で直接的にインタビューなどで言及していた“生と死”にさらに踏み込んだものではないか?というものだった。

 そしてアルバムを実際に聴くと、そこから感じ取られるのは“桜井和寿のパーソナリティ”だった。1曲目の「I MISS YOU」で歌われている“誰に聴いて欲しくて/こんな歌/歌っている?(I MISS YOU)”という表現や、2曲目の“求められるクオリティ/今日も必死で応えるだけ(Fifty's map〜大人の地図)”といった、まるで胸の内を打ち明けているような楽曲。かつてここまで、桜井和寿を身近に想像させるようなアルバムがあっただろうか、というのが聴き始めて1ヶ月ぐらいの間の感想だった。

 実際にネット上でも「これは桜井和寿のソロアルバム」というコメントも散見されたし、そういう印象を与えていたこともわからなくはない。

あらゆる“喪失”を歌ったアルバム

 しかし、いま感じるのはこのアルバムはやはり“Mr.Childrenのアルバムである”ということだ。Mr.Childrenを冠しているのだから当たり前じゃないかということではあるのだが、それぐらいにこのアルバムは作家の身近なことを歌っているように錯覚させるアルバムだった。Mr.Childrenは大衆性を重視するバンドであるにも関わらず、I MISS YOUであるような“誰に聴いて欲しくて/こんな歌/歌っている?(I MISS YOU/Mr.Children)”という表現は、共感性という観点ではとても限定的で大衆性を排除しているように感じるからだ。

 だが、聴けば聴くほどこのアルバムが実はパーソナリティに寄り過ぎず、大衆性とのバランスを保ちながら綿密に作られた楽曲群であるかを感じる。会報誌で触れていた“手触り感に対する表現”はまさにこのことで、このアルバムは決して内省的なアルバムではなく、世に放たれるべくして制作されたスタジオ・アルバムなのだ。それは、この『miss you』に収められた楽曲たちが、画一的な喪失を歌った楽曲群ではなく、あらゆる方面からの喪失を歌った、コンセプチュアルでそれぞれに物語性のある楽曲が並んでいることに気づくことで明らかになっていく。

 半径数メートルの“喪失”を歌ったパーソナリティにフォーカスした歌は、Mr.Childrenというフィルターを通して我々に届く。この“喪失”が全方位的に当てはまる人間は、おそらくソングライティングをした桜井和寿に他ならないが、私たちはどこか近いようで遠い、シンプルなのに味わい深い、そんな測りにくい距離感の楽曲を通してそのピースを丁寧に噛みしめる。

 これまで大きなフレームで私たち(大衆)を共感という渦に巻き込んできたMr.Childrenは、本作では半径数メートルの情景を描写することで、誤解を恐れずに言えばメッセージ性のない、そこにあるのはただひたすらに丁寧に描写された生活のみ。私たちはその情景描写を通じて、真の意味での“素材そのもの”を味わうことになる。

 

 

『miss you』全曲レビュー

M-1:I MISS YOU

 アコースティックギターアルペジオとピアノのコード。シンプルでありながらマイナー調のイントロが、タイトルと相まってどこか暗さを感じさせる。“寝苦しい夜”というフレーズからはじまり、その暗さは一層聴き手を深い場所まで連れていき、徐々に楽曲は独白めいた方向へと進んでいく。まるで桜井和寿が自分自身のことを歌っていると錯覚させるような詞の内容には、聴き手の共感性を持たせるスペースがほとんど残されていない。考えるのではなく感じ取る、そんな装いを凝らした楽曲。

淀んだ川があったって/飛び越えた/その度ごとに/でも/その意味さえ/わからなくなるね(I MISS YOU/Mr.Children)

M-2:Fifty's map~大人の地図

 アルバム発売前に解禁された楽曲の1つ。尾崎豊のオマージュであることはタイトルからも明らかだが、“バイクで闇蹴散らし/窓ガラス叩き割って/つまらぬルールを破壊しながら(Fifty's map~大人の地図/Mr.Children)”といった詞の内容からもそれは感じ取ることができる。

 「I MISS YOU」とは一転、エレキギターストロークとうねるベース、6/8で攻め込むドラムというバンドサウンドからはじまる。おそらく本作の中でも極めてバンドサウンドが立った楽曲ではないだろうか。“似てる仲間が/ここにもいるよ(Fifty's map~大人の地図/Mr.Children)”というフレーズに勇気づけられた聴き手もいるのではないだろうか。この楽曲も“I MISS YOU”同様に、個人的な、いや、広く捉えるならバンドとしての歩みを歌っているようにも聞こえ、そこに私たちは“共感”ではなく“肯定”を感じる楽曲になっている。

求められるクオリティ/今日も必死で応えるだけ/「偶然」に助けられ/なんとかやって来ただけのこと(Fifty's map~大人の地図/Mr.Children)

M-3:青いリンゴ

 スローテンポなドラムと、2本編成のアコースティックギターオブリガートからはじまるイントロ、そこからテンポが倍になり2つ目のイントロがはじまる。“2つ目のイントロ”と書いたのは、この楽曲の編成が少々特徴的だからだ。

 表現するなら、イントロ1→イントロ2→Aメロ→Bメロ1→サビ→イントロ1→Aメロ→Bメロ2→間奏→Cメロ→サビ→大サビ→イントロ2、といった具合。

 つまり楽曲のオープニングで使われていたイントロ1と2が、楽曲の中で分解されて、言葉を変えればイントロ1はブリッジに、イントロ2はアウトロに転用される編成になっている。これはHANABIであったようなイントロがCメロで流用される形式のような、ちょっとした遊び心を感じるアレンジだ。

 ちなみに本作『miss you』で好きな楽曲上位にこの「青いリンゴ」がある。それは次のフレーズから表現のしようのない刹那を感じるからだ。このテキストだけを切り取れば挑発的な一文にも思えるが、楽曲を通して聴けばそんな意味はなく、このフレーズが自身の命と向き合う刹那的なフレーズであることを感じ取れる。

ナイフを持った奴が暴れ出したら/僕ならどんな行動をとるか/なんて考えてみるんだ(青いリンゴ/Mr.Children)

M-4:Are you sleeping well without me?

 「青いリンゴ」で構成について触れたので、「Are you sleeping well without me?」では楽曲の編成についても触れたい。本作『miss you』は、前作「SOUNDTRACKS」「生きろ」でタッグを組んだ海外チームも参加している。「Are you sleeping well without me?」では「SOUNDTRACKS」の「memories」で名演したSimon Haleがピアノを演奏している。「LOST」ではパーカッション、「ケモノミチ」ではストリングスで海外組が演奏からレコーディングまで関わっている。無論、その場合の監修はSteve Fitzmauriceなのでどこまでコミュニケーションがあったかであるが実質的なプロデュースも兼ねているだろう。

 詞の面においても「I MISS YOU」同様に“汚して/拭き取って”などフレーズを繰り返す点が聴いて取れる。これが過去と現在を行ったり来たりする反芻の象徴であるのか、この主人公の自問自答は答えに辿り着かないまま暗い余韻を残したままピアノの反復は終わる。

教えてほしい/Are you sleeping well?(Are you sleeping well without me?/Mr.Children)

M-5:LOST

 ポジティブ、ネガティブ両面の要素が楽曲の中でぐちゃぐちゃになっていて、一言で感想を述べられないのがこの『miss you』というアルバムの魅力だと思っているが、例えば「Fifty's map~大人の地図」が“似てる仲間が/ここにもいるよ”、「青いリンゴ」が「季節は巡る」といったフレーズで終わるのに対し、「LOST」は“立ち尽くしている”、「Party is over」では“さぁ前を向いて歩こう/でも何処へ向かえばいい?”といった決してポジティブなフレーズで終わらない終わり方の楽曲もある。特に「LOST」では、やりたいことがあるという希望を求める感情に対し、“立ち尽くしている”というフレーズが4度も出てくる。

 躍動感のあるパーカッションと重なるコーラスの華やかさとは裏腹に歌詞は望みと喪失について書かれている。この相反する状態が、まさに「LOST」の世界観を表現しているようにも感じる。

 そして地味に気になっているのがピアノもいい感じにこの楽曲に彩りを添えているわけですが、弾いているの誰?(クレジットに明記がないので…Mr.Childrenのメンバーになるのだろうか?)

放った光さえ/歪んで闇に消えてった(LOST/Mr.Children)

M-6:アート=神の見えざる手

 これはもう、この楽曲そのものについては語りようのない実験的な楽曲であるが、「LOVEはじめました」や「過去と未来と交信する男」のような実験レベルではなく完全にポエトリーラップの域に突入したMr.Childrenの姿。ただ“Mr.Childrenの姿”とするには、楽曲の編成もシンプルであり、クレジットにはこの楽曲に参加したミュージシャンの名前がない。つまり、Mr.Childrenのみの参加になるのだが、ほとんどがループされるパーカッションとエレピ、ベースの構成である。ベースもシンプルなフレーズの繰り返しなのでナカケーが弾いていない可能性すらある。このアルバムにおける実質的な桜井和寿ソロか?と言いたくなる。

 中華人民共和国や、北朝鮮といった具体的な国の名前がでてきながら社会風刺として巻き込んでいる点は、これまでのMr.Childrenになかった、だけではなく邦楽においてもほとんどないのではないだろうか。国名をあげることがその国を批判することになっているわけではないものの、比喩表現として社会風刺に巻き込んでいるあたり、だいぶ攻めている。直近のインタビューMOROHAへのリスペクトを語っていたのでその影響だろうか。

中華人民共和国北朝鮮のアンビリーバブルな行動/非常識だと報道するけれど/じゃあどこの国が常識的だと/あの金髪女は言うのでしょう?(アート=神の見えざる手/Mr.Children)

M-7:雨の日のパレード

 この楽曲もクレジットにミュージシャンの明記がないため、実質Mr.Childrenメンバーのみで編成された楽曲だと推測される。“子供の飛び蹴り”など親としての日常生活が場面として描かれており、『miss you』全般に言えることであるが生活感を想起させるフレーズが随所に散りばめられている。また楽器の数が少ないことで、コーラスが非常に際立ち、「雨の日のパレード」は特にそのコーラスの際立ちを感じる。特にサビの部分は声の重なりが非常に美しく、意図的かどうか『HOME』収録の「通り雨」もサビでのコーラスが立つ楽曲だったな、と振り返る。なんなら、「雨のち晴れ」もそうだ。これはわざとか。

雨の日のパレード/ずぶ濡れで/でも心は踊る(雨の日のパレード/Mr.Children)

M-8:Party is over

 野暮なことを言っていることは重々承知な上で、言わせてほしい。このアルバムの中で唯一、「バンド編成でいてほしかった!」と思ってしまったのがこの「Party is over」だ。メロディーも詞も、そして曲の構成も素晴らしく、それを際立たせたい為かギター2本という非常にシンプルな構成で仕上げられている。たったギター2本での編成にも関わらずストリングスやピアノのアレンジが聞こえてくるほどに、これまでのMr.Childrenらしさと、『miss you』のエッセンスが上手に調和している印象を受ける。

 このあとに続く「We have no time」にも通づるが、“胸に手を当てれば/暖かな炎を/感じるのに”といったような、「Party is over(楽しい時間は終わり)」や「We have no time(私たちに時間はもうない)」といったような期限を感じさせるタイトルがありつつも、消化しきれない、まだ情熱を絶やすことのできない、ある種のもどかしさを抱かせる温度を感じる楽曲だ。

多分そうだ初めから/君が書いたシナリオの通り/キャリーオーバーできず/未来へ何も残せやしない/心の中まで空っぽさ(Party is over/Mr.Children)

M-9:We have no time

 当たり前のことのようですっかり言及することを忘れてしまっていたが、Sax奏者の山本拓夫がこのアルバムでは度々登場している。Mr.Children + 山本拓夫といっても過言ではない(過言)。「We have no time」は桜井和寿節全開の韻をふんだんに盛り込んだ詞と、「未来」のような跳ねる音のフレーズで高揚感を抱かせるアグレッシブな楽曲となっている。

 Mr.Childrenで2度目の登場ブルース・リー。2度も登場する著名人は初ではないか、という所だが、1度目の登場はアルバム『Q』の「Every thing is made from a dream」だ。夢を見ていた楽曲に対し、「We have no time」では尽きた夢に対し歌う。しかしその姿勢は諦めや停止ではなく、“まだ挑戦”という挑戦と意気込みを感じさせる楽曲となっている。

やり直すには/We have no time/守る気持ちも/沸き起こっちゃう/だけどスキルは/尚も健在/まだまだいけんじゃない?/とか思っちゃう(We have no time/Mr.Children)

M-10:ケモノミチ

 先行配信された楽曲。この楽曲を聴いて本作『miss you』へ期待に胸を膨らませたリスナーも多くいると思う。3拍子で連なりながら、がむしゃらに掻き鳴らされるギター、『miss you』の中でも特別世界観を広げる何重ものストリングス。リズムに乗っているようで複雑に絡み合い、まるで自然の中で勢いで演奏されているかのようなスピード感。歌詞カードにはギターを一人抱える桜井和寿がデザインされており、その様子はアルバムのジャケットにもなっている。

 なによりこの楽曲において気になるのは“誰にSOSを送ろう”というフレーズではないだろうか。オープニングの「I MISS YOU」で“誰に聴いて欲しくて/こんな歌/歌っている?”と叫んでいた主人公の問いかけが、ここにも表現されている。「I MISS YOU」では歌を歌う者にフォーカスされていたが、「ケモノミチ」もまた“君にLove Songを送ろう”というシンガーとしての背景が見えてくる。多重の弦楽合奏と歌で気迫迫る「ケモノミチ」はここ数年のMr.Childrenの中でも異色を放つ存在ではないだろうか。

風上に立つなよ/獣達にバレるだろ(ケモノミチ/Mr.Children)

M-11:黄昏と積み木

 とにかく優しい。“一つずつ”、“丁寧に”といったフレーズが何度かでてくるがそのフレーズ通り、一つずつ丁寧に歌い上げられるメロディーが印象的な楽曲だ。「ケモノミチ」以降の楽曲、「黄昏と積み木」「deja-vu」「おはよう」は相手を思いやる詞の世界観になっているように感じられる。2人で乗り越えていこう、という気持ちと、だけど欲張りすぎない生活でいようという価値観も感じられ、いつか桜井和寿がHAPPY NEWSという本の帯(森本千絵氏のデザインだった気がする)に寄せた言葉を想起させるような思想だ。

ゆがんで見えている世界は実は錯覚で、僕らはHAPPYが敷き詰められたふかふかのカーペットの上を今日も歩いているのかもしれない。(櫻井和寿

どこか『シフクノオト』にもありそうな、でもそれ以上に優しい、もうこれ以上望まずに豊かに生きていける、心持ちで世界は変えられるということを、最小の、ミニマムの生活圏の言葉で、等身大の言葉で伝える真髄のMr.Childrenがここにいる。

欲張らないでいれば/人生は意外と楽しい(黄昏と積み木/Mr.Children)

M-12:deja-vu

 “あぁ僕なんかを見つけてくれてありがとう”というフレーズが象徴的な楽曲。このアルバムにおいて参加ミュージシャンの中で忘れてはならないのが、「deja-vu」「おはよう」でピアノを演奏している小谷美紗子だ。交流があるか定かではないが、くるりHeatwaveとも対バンをし2015年の2マンライブツアーで小谷美紗子も対バンをしている。deja-vuとはフランス語で既視感の意。この『miss you』では主人公は自分自身を肯定しきれずに悩んでいる楽曲が多いように感じているが、この「deja-vu」は“見つけてくれてありがとう”というフレーズからかろうじて自分自身を肯定しているようにも思える。わずか3分ほどの楽曲にも関わらず濃厚なストーリー性を感じさせ、聴けば聴くほど味がでるような味わい深い一曲。

誰の中にもブレーキと/そしてアクセルがあるけど/僕らうまく操っていけるかな?(deja-vu/Mr.Children)

M-13:おはよう

 何度かブログでも書いているかもしれないが、かつてプロモーションの為のメディア行脚でMr.Childrenがとあるラジオ局に訪ねた時、ラジオのパーソナリティが「私がMr.Childrenでいちばん好きな楽曲は“安らげる場所”です。では、お聴きください」といった感じで“安らげる場所”を流したことがある。

 いまでこのMr.Childrenメンバー全員が参加しない楽曲もそこそこあるが、“安らげる場所”は桜井和寿以外のメンバーが参加していない。『Q』というアルバムは、それほどまでに特殊性があり、ある意味では“バンドに拘らずバンドをやった”傑作であるのだが、この「おはよう」もそういった“拘り”を捨てた先にある純度の高い楽曲のようにも感じてしまう。(そう感じさせられている、という穿った見方もある)

 ↑書き終わり気づいたが、前作『SOUNDTRACKS』のラストを飾る「memories」に対しても全く同じ印象で書いていた。

 「memories」がMr.Children編成に拘らないという点における「安らげる場所」との共通項があるとして、「おはよう」は作家としての純度の高さという点での共通項があるように思える。

 

 『HOME』というアルバムに「あんまり覚えてないや」という楽曲がある。「おはよう」を聴いて、その類似性を頭に思い浮かべた人も少なくないはずだ。この「おはよう」は、「あんまり覚えてないや」よりもさらに音楽的な作為性を外しながら、音楽的なトライもしていると思う。

 矛盾しているようだが、私がこの楽曲でとにかく感動したのは“駅前には〜”のくだりだ。これがサビなのか、サビではないのか、もはやそれを定義付けようとすることが野暮ったい、ただこの歌を聴いてくれと言わんばかりの構成と歌詞になっている。この構成は、計算されたものか、そうではないものか。いずれにしても、Mr.Childrenとしての無作為な作為であることに違いない。

駅前には自転車を置ける場所が/あまりないから/歩いて駅まで向かおう/その方が長く話せる(おはよう/Mr.Children)

 本作『miss you』はパーソナリティな内容を歌っているようで、様々な挑戦が仕掛けられているアルバムだ。それは音楽的な構成から、詞の内容まで気づかれないように、けれど綿密に組み込まれている。

 思い返せば「青いリンゴ」では“生まれ変わったら見たい世界がある”と言い、「We have no time」では“やり直すには”というフレーズがでてくる。過去を振り返るようなフレーズも頻出する中で、やり直したい、再トライしたいという心情が楽曲には表現されているのだ。

 それが桜井和寿自身の心の内を表現しているのか、表現しているのであれば本作がその挑戦(やり直したいこと)であるのかは定かではない。

 

 「おはよう」は今日にフォーカスし、今日を終える。自分を肯定できているかはわからないが、他者は肯定している。“誰か”が見えていなかった「I MISS YOU」から「おはよう」では僅かながら“君”がいる。

 Mr.Childrenには新しい楽曲をまた聴かせてほしいと心から願いながら、この「miss you」は、楽曲の主人公は、この中でしっかりと完結していて、おそらくこれ以上も望んでいない。『重力と呼吸』でMr.Childrenはバンドとしてのサウンド面の強さを押し出し、『SOUNDTRACKS』ではアナログレコーディングといった形で丁寧な音像でそのスタイルを示した。様々な表情を見せるMr.Childrenという生き物はもはやひとつの大きななにかではなく、あらゆる形に変化する生き物であったが、本作においても“巨大化したMr.Childrenという偶像”を通して鳴らされる音楽ではなく、狭い場所で、ほんの10畳程度のスタジオで、4人だけで鳴らせる最小限の音で小さなMr.Childrenを動かし始めた(再起動させた)、そんなアルバムだと感じた。そしてこの物語は、きっとどこかでひっそりと続いていくのだろう。

さぁ前を向いて歩こう/でも何処へ向かえばいい?(Party is over/Mr.Children)

さよなら2022年

 いつものように駆け込みふるさと納税を済ませ、だらだらとNHK紅白歌合戦をみて、ザッピングしながらテレビ東京ドヴォルザークの「新世界より」第4楽章をカウントダウンにあわせて終えるという謎の番組でその手を止めた。

 社会人になったあたりから大晦日や元旦が特別なものではなくなりはじめたが、ここ数年でその感覚に拍車がかかっているような気がする。年越し蕎麦は食べたが、紅白はみたが、師走の町中を歩いたが、そこから感じ取れる何かが減ってきている。感受性の問題ではあるが、ひとまず区切りを恣意的につけたいという気持ちで、いまこの文章を書いている。

 2022年はインプットもアウトプットも少ない年だった。(少ない年を略すと少年になるんだね。)具体的に言えば、“余計な(雑味のある)”インプットやアウトプットが少なかった。仕事やプライベートでやらなくてはいけないことは勿論あり、そつなく、できる限り論理的にこなす日々であったが、一方で感情的になにかを求めたり、得たりすることが少なかったなという反省がある。

 これはいま文章を書いていて気づいたが、もしかするとこの「できるかぎり冷静に」「論理的に」という意識が年々増しているせいかもしれない。もともとは仕事柄、感情的介入の必要のない(パフォーマンスとしてはエモーショナルな部分は求められる)仕事が故に、できるかぎり「状態を可視化する」「言語化する」ことを心がけていくうちに、自分の感情は箱にしまうようになってしまっていた。これは決して悪いことではなく、経営者でもない限り自分の感情が仕事にポジティブに働くことはなかなか無く、もしポジティブに働くとしたらそれは意図的な介入であり、意図的な介入を試みている時点でそれは論理の中にある感情なのだ。

 そのように過ごしているうちに、仕事以外でも、そういった意識が潜在的に芽生えてしまっていたのかもしれないと思った。いわゆる私の考える“雑味”とは、感情的な動きに付随してあらわれるものであると思っているから、論理的に組み立てる中には雑味は存在しないのだ。

 生きている限りすべてがすべて論理的になんていかないし、感情で動いているし、昨日も今日も明日も私は「あー人生しんどいな」「めんど」と思いながら生きているわけだが、そこで取れる雑味は何度も噛みすぎて味がなくなってしまったのだろう。

 2023年は継続的な刺激を、そして感情的な動きを大事にする年にしたい。継続的な、とつけたのは地味にインパクトのある出来事は2022年にあったが、それは振り返るとあまり自身の成長には繋がっていないなとも思うからだ。やはり継続的にどう不規則な刺激を自分に与えていくかが重要であり、それを計画的に立ててこそ、より変化のある日々を過ごすことができるのではないだろうかとも思う。

 さて、ドヴォルザークの「新世界より」も終わったところで、私のこのブログタイムアタックも終えようと思います。特にそんなつもりはありませんでしたが、つまらない文章をだらだらと書いても仕方がないので、年明け、休み中にでもまた読んだ本の振り返りとかを書きたいと思います。

 世界が昨日より平和でありますように。目の前のなにかや誰かは世界の一部であり、また世界は目の前のなにかや、誰かでもある。そういった想像力を持って、白と黒の間のグラデーションを、0と1の間にある無限の可能性を見通せるように生きていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

寛容のパラドックス

 M-1グランプリ2022決勝を観た。できれば、ブログはなにかを読んだり聞いたりしたものの感想を書き込む場にしたいと思っていたが、雑記も多いので、ここ最近のもやもやも含めて言葉にする訓練をしたいと思った。そのきっかけがM-1グランプリ2022決勝戦だった。

 

 書いていて思ったけど、たぶんブログ史上最散らかし(さいちらかし)の散文です。

 

 M-1グランプリは好きでもともと例年観ていた。今年、M-1グランプリの決勝の数週間前になって何気なくTwitterで「M-1グランプリを感動ポルノにするのはやめてほしい」といったような趣旨のツイートを見かけた。ツイートした本人がそういった意図で書き込んでいたかどうかは定かではないが、たしかにM-1グランプリは「人生逆転」といった一面をいつからか孕むようになり、芸人の背景にスポットがあたり、「これだけ苦労してきた人物が、笑いで勝負しようとしている」といったいわば人生にスポットをあてることで、感動を生み出す物語にもなりつつあった。それは奇しくも今年優勝したウエストランドがネタで語っていた「芸人のアナザーストーリーとか流すな」「優勝したらお母さんに泣きながら電話するじゃねえ」といったような部分とも通ずるところがあった。そしてまたさらに重なるように、優勝したウエストランドの毒舌ではない方(河本)は、優勝が確定した直後に一筋の涙をカメラの前で流すのであった。

 

 話は変わり、ウエストランドが優勝する直前、そして直後に立川志らくが「君たちは優勝したらスターになる」「傷つけない漫才とか言われている時代に、君たちのような漫才(毒舌、誰かを傷つけているかもしれない漫才)が評価されれば時代が変わる」といった趣旨の発言をし、松本人志も「肩身の狭い時代ですが〜」などとコメントしていた。

 私たちは気づかない間に「誰も傷つけない表現」を評価するような時代の空気を感じていた。しかしそもそもだが「誰も傷つけない」とはどういうことだろうか?「誰も傷つけない」ということそのものが「誰かを傷つけている」のではないだろうか?

 

 私はよく「やさしい」と言われる。

 「表現に気をつけている」と言われる。

 「気を使っている」と言われる。

 

 しかしそれは裏を返せば、「無関心」であり、「相手を信頼していない」のであり、「距離を置いている」のだ。

 

 無論、私にそんな意図はないが、受け取る私自身は常にいい意味で評価されているとは思わない。ウエストランドの毒舌漫才にのっかり、あえていうが、相手にそんな理解力があるとも思っていない。それは私は私を離れた瞬間に理解されるものではなくなるし、私の表現力がどれほど優れていたとしても、だ。

 だから前提人間は「相手」と話しているときであっても、それは究極「自分との対話」であるとすら思う。

 

 なのでウエストランドの漫才は、毒舌と言われているが「自分との対話」であるのだ。それは一歩引いて冷静に見ればそうであり、それを「傷つける漫才」だとか、それ以外を「傷つけない漫才」と評されることに、なんとなく違和感を覚えた。ああ、人間ってカテゴライズすることが好きだよな、と。もはや表現が、“その箱”にしまわれてしまった時点で、窮屈なのだ。

 

 そしてここ最近の自分も完全にそうである。

 

 あるときテレビでアナウンサーが小説家相手にリアクションをとっていた。アナウンサーも好きな小説家らしく、その語る内容からも小説をちゃんと読んでおり、嘘ではないことも伝わってきた。しかし、リアクションがとにかく大げさなように見受けられた。

 おそらくそのアナウンサーは「相手に理解していることを伝えたい」がための大げさなリアクションなんだと思った。静かに感動することはできる。しかし静かな感動は相手には伝わらない。小説家相手に言葉での「感動しました」一言ではどこか平易で嘘っぽい。では、ここは自然体ながらも大げさに少し感想を伝えよう。そういう「演出」なのだと思った。「表現に気をつけている」のだ。

 私も日々コミュニケーションする中で「相手に伝える」ことを意識する。コミュニケーションを円滑に進めることを意識する。コミュニケーションが滞ることが怖いのだ。コミュニケーションが止まることが生産性がないように思えてしまうのだ。あまりにも不健康だと思うが、私はコミュニケーションを進めることを重視してしまう。

 おそらく相手もそうだろう。コミュニケーションを円滑に進めたいがために、お互いがお互いのために演じている。社会を回すために、我々はコミュニケーションに潤滑油を持ち込んでいるのだ。錆びてガラクタになってしまわないように。

 けれどいつしか、そのコミュニケーションは、社会を回すとは、一体どこに繋がっているのか、わからなくなるときがある。傷つけない漫才とは、傷つける漫才とは、いったい誰に向けているのだ。そう、傷つける漫才はクレームが来てテレビにでれなくなり仕事がなくなるから、傷つけない漫才があるのだ。しかし傷つけない漫才が評価されることで、傷つける漫才が表現として抑圧されないのだろうか。これは感動物語なのか? そうではない、M-1グランプリは表現の場なのだ。そして表現を評価する。

 その人が表現したいものが、然るべき形で、「表現として評価される」場所なのだ。それは誰の為でもない。笑いとは、第三者がいてはじめて成立するものであるながら、矛盾を持つ考えではあると思うが、このM-1グランプリ2022決勝戦を観て、そしてここ最近のモヤモヤを通じて感じたことは、表現が、自分(それぞれの自己)が、人生においてどこに向かうべきなのか、本来どこへ向かうものなのか、ということであった。

 

 どこへ行っても自分は、自分ではないなにかを演じ続けてしまう気がする。

 他者との交流が発生する以上、それは自分ではない何かを通してでしか他者との交“流”は滞りなく続かないのではないか。

 そう考えると、自分は、自己は、どこで手にすればよいのかと悩む。

 

 そんな風に考えている。

家族と家族愛について考える〜「ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子」を読んで

 

 私は、両親との関係があまり良好ではない。と、風呂場の中で書き出しを思いついたところであったが、いざ書き出してみると、この一文の意味するところを自分でも見失ってしまった。しかし書くなら今だと行方もわからないまま深夜2時に書き出している。

 

 「家族」とは「仕組み」であると私は思っている。だから「家族愛」であるとか、「家族であるから信頼している」という言葉の意味するところが関係性ではなく、無条件な愛や信頼を指している場合には、それは私には受け入れがたい考え方であるとも感じる。

 「親ガチャ」や「毒親」という言葉も、ここ数年で起きたムーブメントの一部だ。あれらの言葉に関しても、それが意味するところが「家族への責任転嫁(依存)」ではなく、「関係性とはランダムであり、そのランダム性が人生を築き上げている」ということであれば、私も同意する部分がある。

 大好きな作家の小川洋子さんと、大好きな研究者の山極寿一さんの対談本「ゴリラの森、言葉の海」を読んだ。まさか、このふたりに繋がりがあったとは!と大変驚いたものであったが、冒頭の出会い部分を読むと繋がりは必然的なものであった。もともと、小川洋子さんと心理学者の河合隼雄さんが「博士の愛した数式」をきっかけに対談をしていたのだが、河合隼雄さんのお兄さん(河合雅雄さん)と山極寿一さんが先生と教え子の関係にあったそうだ。山極寿一さんはゴリラの研究者であるが、そもそもその元となる、日本でサルの研究をする「サル学」の名付け親、その創始者の一人が河合雅雄さんであるそうなのだ。

 具体的な小川洋子さんと、山極寿一さんの出会いのきっかけは河合隼雄物語賞・学芸賞の選考会ではあるが、こうやってお互いのルーツを辿ると出会うべくして出会った二人であるように勝手ながら感じた。

 

 前置きがいつもながらに長くなったが、私が山極寿一さんを好きになったきっかけは「考える人」という雑誌の「家族ってなんだ?」特集である。

 「家族ってなんだ?」特集なのに、ゴリラの研究者を連れてくるこの雑誌のユニークさもさることながら、山極さんのゴリラから家族を考えるその目線に大変心打たれたのだった。

 そして今回の小川洋子さんとの対談でも図らずも「家族とは?」という話に広がっていく。人間も、ゴリラも、オランウータンも、チンパンジーも、すべてヒト科であるからこそ、ルーツは通じているのだ。

 

 私たちはしばしば家族との関係性に悩まされる。それにはどこか頭の片隅で「家族だから」という前提が付き纏っているからではないかと思う。しかし「家族だから」とはなんだろうか?なんの根拠があって「家族だから」なのだろうか?「血の繋がり」とはそんなに深いものなのだろうか?

 無論、男女の関係性があって、その子孫が誕生し、必ず受け継がれる遺伝子がある。やれ視力は遺伝だ、運動能力は遺伝と関係ないだ、うつ傾向は遺伝している、などその実体は未だ明らかにされていないものの、育つ環境以外の起因で自分が形成される可能性があることは確かだ。

 一方で私は冒頭でも述べたように「家族とは仕組み」であると思っている。はじまりは他人である。「自分の子」ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。人間関係を誰かと構築するときに「趣味が一緒だから」という理由で、その人をすぐに信用したりはしない。信頼や愛情は、様々な調和があって構築されるものであると私は思う。

 遺伝子を受け継いでいるからといって両親を愛することができるのか。愛する必要があるのか。愛とは無条件であるが、無条件である条件に決まりはない。

 

 サルもゴリラもチンパンジーも、そして人間もそうなんですが、生物学的に子どもだとしても、自分には見分けられないんです。(ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子

 

 山極寿一さんは対談の中でこのように語っていた。つまり私たちは、「自分の子供」がいるから「家族」になっていくのではなく、「家族という関係性」を仕組みを作るから「家族」になっていくのである。「生物学的な血縁関係はなくても、親子関係は作ることができます。」と山極さんは続ける。記憶が朧気であるが、たしか雑誌「考える人」でもこの話はあったように感じ、私はこの文章を読んだときにどこか救われた気になった。家族は、家族になるべくしてなったのではなく、家族という仕組みがあったから、家族になったのである。裏を返せば、あくまで仕組みが家族にさせたのであって、親子関係が良いものであるかどうかは、お互いの技量にかかっている。

 大人になってしばしば思う。「大人も大人になるべくしてなったわけではない」と。大人の認定試験なんてあるわけではないから、大人にとってもすべてが初体験であるのだ。だから、両親であっても、不完全な部分は大いにある。そう考えたときに、「家族であるから」「両親であるから」というのは、あまりにも無意味な期待でしかない。あくまで、他者なのだ。その他者とどのように関係性を築き上げるか、築け上げられないか、に関しては、昨日出会った誰かとおおよそ違わない距離なのである。

 余談であるが、この「自分の子供であるかどうか」を見分けられる生き物もいるそうで、ウズラは羽の柄で、カエルは匂いで分けることができるそうだ。

 

 「家族愛」「愛は無条件である」なんて言葉を使ってしまったが、こうやって山極さんの話を聞いていると愛という言葉の身勝手さも痛感する。ゴリラの世界にもオスによる子殺し(自分の子どもではない)があると小川さんは山極さんに尋ねる。そして山極さんは「その理由はわからない」としつつも、子どもを殺されたメスが、その殺したオスと交尾してまた子どもを産む理由について「社会生物学的に解釈すれば、自分の子どもを殺したオスというのは、自分の子どもを守れなかったオスよりも強いわけです」と語る。このように考えると、我々は考える力を持ってして、なにか運命的な都合のよい解釈を得ようとするが、それはもしかしたら合理的ではないのかもしれないとさえ思う。

 いや、きっと合理的ではないのだろう。山極さんは「ちなみに人間には奇妙な現象があって」と前置きした上で、「セックスをしたら愛が芽生えると思っている。」と話す。つまりは「動物にはありえない。」ということを意味するのだ。だからこそ奇妙なのだ、と。「でも人間はなぜかそう信じています。どこかで反転しちゃったんですね」と語るように、なにかの条件が「愛の引き金」になっているのは、やはり合理性に欠ける考え方である。と、考えながらそれを論理的に解釈しようとすることで、その考えや願いが遺伝子に刻まれて、条件となっていくのであればそれもまた面白いななどと思った。(Mr.Children「進化論」の影響)

 

「強く望む」ことが世代を越えていつしか形になるなら この命も無駄じゃない(進化論/Mr.Children)

 

 だからといって、合理的な関係性の構築だけを社会的にできるのかといったら考える力を持っている以上そうではないのだろうが、もし合理的に生きることができたら、いまよりも生きやすいのかどうか、ということにもちょっと興味がある。

 

 そんな合理的な生き方の弊害になっているのが、「言葉」であるかもしれない。(あえて弊害、と書いたが、その弊害によって我々は社会を構築できていると思うので、私は言葉があってよかったと思う。)

 ゴリラは普段滅多に顔を近づけないが「赤ちゃんの寝顔をのぞきこむとき」と「愛し合っているとき」に顔を近づけるのだと言う。一方で我々は顔を見つめ合いながら、よく会話をする。それは何故か?ということを考えたときに、「サルや猿人類の目と比べると、人間の目だけ違う、それは横長で白目があること」なのだと言う。「だから、目がちょっと動いただけでもその動きをモニターできる。」そうすることで、心の動きを捉えているのだと。

 私はこの話を読んだときに目から鱗が落ちた。(目だけに。)

 

 以前のブログで「オフラインでもある必然性があるとしたらなにか」について書いたことがあると思うが、もし我々が無意識に「目の動きを見てコミュニケーションをする」ことを学んできていたのだとしたら、オンラインになることでその心の機微を感じ取ることができなくなったという可能性は大いにあるのではないかと思った。

 

 おいおい言葉の話どこ行ったよ、というとこであるが、この「白目の動きを察知する」ためには「一定の距離」を保つ必要がある。“だから逆に、言葉が生まれた”のではないかと山極さんは考察する。“この距離を保つため”だと。“意味が最初ではなくて向き合うことが重要だった”と。

 

 勿論、起源的には「相手を呼ぶため」であったり、「特定の記号を伝えるため」に「音を発した」ことがはじまりに近いとは思うが、言葉により深いコミュニケーションが生まれたきっかけはこのようであっても合点がいくと感じた。

 

 だから裏を返せば、我々は言葉というツールをまだ使いこなせていない。なぜなら、言葉を使うことそのものに最初は意味がなかったからだ。「見つめ合うため」という目的を達成するために言葉があっただけなのだ。

 

 私たちの関係性は、言葉によって保たれている影響が大きいが、その言葉とは本来は相手を繋ぎ止めるためのものであり、関係性は言葉とはまた違うコミュニケーションで成り立っていたものなのかもしれない。それはいわゆる現代でも「言葉は嘘つき」であり、しかし「関係性」もまた合理的でなければ各々に託されたフィクションでしかない。

 そんな私は言葉が好きで、言葉を頼りに生きているが、その言葉をまた関係性に依存させすぎているかもしれない、言葉の持つ暴力性を軽んじていたかもしれない、とこの本を読んで思い直した。

 

 山極 数式を説明するのは言葉じゃないですか。でも同時に、言葉は本当は違うものを同じものにしてしまう大きな力があるんじゃないでしょうか。例えば「走る」という動作は、ニワトリもイヌも人間も、本当はそれぞれ違っているのに、同じ「走る」という言葉に置き換えちゃえば、どれも想像できるわけですよね。そういう力を持っている。ただそれは、うっかりすると、ネガティブなことを生み出してしまうかもしれない。

 小川 置き換えによって切り捨てられる部分が大きくありますね。

 (ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子)

 

 最後に。私は、家族との関係について「無条件な愛」を「家族」という関係性だけで提供しようとすることには受け入れがたいと書いたが、山極寿一さんはまた違った視点から「(人間の)親子愛・夫婦愛」を語る。

 

山極 親子愛も、夫婦愛も、傍から見たら「あいつら、なんで自分の利益を無視して付き合ってるの」って思うでしょう。でも愛だから、その一言で片付けられる。

 (中略)

山極 そして愛は、先ほども言いましたが、自分の時間を相手に与えることによって作られる。愛している相手に時間を費やすことを厭わない。それが自分を捧げるということでもあるんです。

小川 見返りは求めず、自ら望んで、進んで、与えるんですね。

山極 それができるのは、やっぱり人間しかいないわけです。他の動物の場合は、たとえ血縁者であっても、お乳を吸わなくなったらすぐ他人になります。だから親子の間でもえこひいきがあまりない。むしろ助け合うときには、お互いの利益になるからという理由がいるんです。

 (中略)

山極 だから人間の愛というのは、動物から見たら変なものですよ。そして、宗教も科学も、愛という実体について答えを出せないでいます。

小川 その愛が幻だったということも多いですね。永久的なものではない。

 (ゴリラの森、言葉の海/山極寿一・小川洋子)

  合理性を排除した「運命」というロマンスの先で、我々が手にする未来とは一体どのようなものなのだろうか。プロフェッショナルなお二人の対話で締め括ることが美しいとは知りつつも「もうちょっとで5,000字じゃ〜ん」と思ってしまったが故に余計なアウトロを書き足す。これもまた人間の合理性に欠けた判断なのだろうか。(5039文字) 

消えかけの可能星を見つけに行こう@超雑記シリーズ2022/05/29

 

 20代は未来に可能性を抱いていた。“何か”になれると信じて、自分の中だけにある想像と距離を計算しながら、その可能性が絶える可能性に時にヒリヒリとしながら。それだけで日常が大切なものに思えたし、あらゆる場所に感情が波立っていた。

 しかし30代になって、“何か”など存在しないことに気付いた。すべては“どこ”から物事を視るかだけであり、捉え方だけが世界を創っていることに気付かされた。生と死も、都心の雑踏も、自分の内側も、“何か”ではなく“どこ”から視るかだけなのだ。この世にすべて付いている名前は記号でしかなく、そのものは存在しない。存在しているのは、観測対象と観測地と観測方法のみだ。それらに記号をつけて区別しているだけである。

 ともすると、可能性などというものも時間軸(未来的可能性)と併せて考えるのも難しいのかもしれないと思う。日々は日々への期待、言葉を変えれば手の届く範囲のみに対する期待のみで満ち溢れ、手の届かない場所はなく、それもどこから物事を視るかに過ぎないのだと感じる。大富豪も、見えない障碍を持つ者も。

SENSE

SENSE

  • アーティスト:Mr.Children
  • Toysfactoryレコード
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 唐突だけれど、Mr.Childrenの中で『擬態』という楽曲があり、とても好きな彼らの楽曲のひとつである。その歌にこのような一節がある。

  富を得た者はそうでない者より
  満たされてるって思ってるの!?
  障害を持つ者はそうでない者より
  不自由だって誰が決めんの!?
  目じゃないとこ
  耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ
  見落としてしまう
  何かに擬態したものばかり(擬態/Mr.Children)

 実に半年ぶりのブログの更新で、今日自転車に乗りながら、冒頭のことを考えていた。そして、どうしても書き残さなくてはと思いながらPCに向かってキーボードを打っていると、スッとこの一節が思い浮かんだ。もともと引用するつもりもなければ、Mr.Children 30周年にかこつけるわけでも(おめでとうございます)なかったが、自分の思考を書きながら「きっと、この文章なにが言いたいかも伝わらないだろうな。なにが言いたいんだろうな」と考えを巡らせていた時に、思いつくでもなく自然とこの『擬態』のフレーズが思い浮かんだ。そして、「ああ、自分が冒頭で言いたかったことってこういうことだな」と腑に落ちた。

 

 そう考えるとなにも不思議なことでもなく、今更なことでもなく、Mr.Childrenの『擬態』が大変好きな楽曲であることはどこかで書きたいとずっと思っていた(書いたっけ)。おそらく10年ぐらい前から。なので、「20代〜」とか「30代になって〜」とか書いたけれど、それは自分自身の勘違いで、それこそ“どこから物事を視るか”ということなだけで、きっと自分の中にずっとあった考え方なのだと思う。

 (文章だけだと堅苦しいので、画像を挟み込んで中和したいがストックがないのでAmazon

を差し込む)

 最近めっきり本を読まなくなってしまって、買っては読めずにいる本がたまるばかりだ。コロナ禍になって時間はできたはずなのに(忙しさという意味では同等かもしれないが)、どうにも本に手が伸びない。音楽は辛うじてサブスクに入っているから仕事中に聴いたりするけれど、前のように感受性豊かに心の中に落とし込むことができていないような気がする。

 だからアウトプットできる感情や思考も多くなくブログを書こうにも続かないという状態が続いていたのだが、何故か久々にこうやって文章を綴っている。

 

 有り難いことに仕事はオンラインでさせてもらえることがほとんどなのだけれど、オフラインとオンラインの差、弊害みたいなことは今まで考えずにいた。「オフラインでできることをオンラインでやろうとせずに、感覚的にオフラインを勧めるってどうなの」って正直思ってしまっていたし、事実ほとんどがオンラインで完結する。

 しかし、事実であるのは“オンラインで完結する”ということだけで、その質的なものはオンラインとオフラインでおそらく差がある。それこそ、引用した『擬態』の詞のように“目に見えるもの”ではなく“目に見えないもの”の差である。

 僕らに次に求められている、この次にあるフェーズはきっとこの“目に見えないもの”の差をどのように言語化していくかということなのだと思う。このままなんとなくオンラインからオフラインに戻ってしまったら、また同じことだと思うし、僕らはオンラインでなにを感じ取ることができ、オフラインでなにを感じ取ることができていたのか。

 (言及せずにどんどん商品紹介を差し込みますが、一応文章の前後と関係あるものを選んでいます) 

 仕事の話から入ってしまったけれど、コロナ禍において音楽や本を読まなくなってしまったのも個人的にはそこと関係があると思っている。よくスターバックスMacBookを開いている人間がネット上で揶揄されることがあるけれど、あれってすごく大事な時間だったなと個人的には思う。私はいまでこそセキュリティ的な面もあって喫茶店で仕事をすることはほとんどないが、本を読んだり、音楽を聴いたりすることはコロナ禍でなければあったと思う。

 なぜそういった雑音の多い空間で、集中的に本が読めて、自宅では読めないのか。何度か自宅を居心地良い空間に変えようと試みたけれど、どうしても上手くいかない。本が読めない。音楽が聴けない。そうするとどんどんと心が鈍っていく為に、なおのこと手が伸びなくなっていく。

 結論、わかりやすいところから言えば自宅にはそれを行うこと以外の誘惑がたくさんあるが、喫茶店であれば誘惑は少なく、また例えば買い物や食事、そういった“なにかとなにか”の行動の間にそれを挟むことがあるがそれらがすべて“別の場所”に存在していることもあると思う。

 

 「マルチデバイス」という言葉がほとんど使われなくなった、というニュースを見たが、私達は現代においてスマートフォン一台の中にすべてを集約しようとしている。本、音楽、SNS、新聞、写真、映像、出会いまでも。“一つの中にすべてがある”というのはとても便利であると思う。私もそうなってほしい。しかし集約されるということは、前述するような“一つに集中する”ということが難しくなる状態なのではないかと思う。言い換えれば、より集中力が求められる環境になっていくだろう。

 

 人間が、それに対応する集中力を手にするか、それとも分散したマルチな脳を手にするのが先か。

 

 あーそんなくだらないことを考えている。こんなこと考えてもなんにもならないのに。くだらないことを考えながら、惰性で仕事をやっている。惰性でやっているのは“仕事をやっている自分”であって、仕事そのものはしっかりやっています。けれど、こんなふうに考えていることとは一切無関係の、ひたすらに、猛スピードで過ぎてゆく時代に消費されてく無形の仕事である。

 日々も同様である。この一瞬を、どれだけ大切に思おうとも、それを思えているのは自分だけだ。なぜなら、自己は他者を覗けず、他者は自己を覗けないから。

 人生はハードモードだ。自分のことは自分でしか思考できないし、すべては自分が司っている。誰にも支配されない、あるがままの自分を生き続けなければならない。そしていかに愛するか、その答えを自分自身で見つけていくしかないのだ。

 

 と書いていて気付いたけど、このブログのサブタイトル「今日も無事なら明日も無事でいて。そんなくだらない話。」だったわ。くだらなくてOK。

 

 もう少しワクワクするようなブログを書きたいので、本とか音楽とか、取り込めるモチベーションが戻るといいな!(モチベーションは自然と湧き上がるものではなく、自発的に動き出すことでモチベーションがつくられる派……であれば逆では!?)

僕らは奇跡の連続で生きている@超雑記シリーズ2021/12/25

 いかにもなタイトルで大変恐縮でございます。数日前から、この言葉がパッと浮かんでどうしても頭から離れずに消化の為にこのブログを書いております。この書き出しも含めてなんとなく“スピリチュアルさ”を感じ離れようとする方がいれば、それは不本意ですのでお待ち下さい。(いや、書いておきながらそれはどうなんだという話ではあるのだが)

 

 前置きとして、最近同じ話を何度も繰り返しているような気もしているので、人生アップデートしていかなくちゃいけないなとは思うのですが、同じ話をしていたらすみません。(どうにも謙りすぎだな?)

 

 さて。なぜこのタイトルを思ったかというと。

 高校生のとき、本屋で本を見ていた。本棚に整然と並べられた本を見て、突然気持ち悪さを感じたことがある。作者の「あ〜ん」までの五十音に沿って本が綺麗に並べられている。小川洋子を探そうとすれば「お」を、角田光代を探そうとすれば「か」の行を探す。その“現象”が自分にとってはあまりにも奇妙だった。だっておかしいじゃないか。なぜ、ここに本が綺麗に作者の五十音順で並べられているのか。理解ができなかった。

 

 その感覚をより噛み砕いていくと、「なぜここに本が綺麗に作者の五十音順で並べられているのか」はもちろん理解できる。「誰かが本を並べた」からだ。では、なぜ本を誰かが並べたのか?それは「誰かが誰かに本を並べるように頼まれた」からだ。では、なぜ本を並べるように頼む必要があったのか?それは「本屋」だからだ。では、なぜ「本屋」なのか?などなど……。

 その“現象の連続”が高校生の自分にとってはとても奇妙に感じた。誰ひとりとして、その現象のピースを崩さずに、つなぎ合わせてきたからこそ、ここに本が並んでいる。誤解を恐れずに言えば、その“本が並んでいる”という状況が「奇跡だ」と思えたのだ。

 

 当時カウンセラーと話す機会があり、そんな話をすると、即座に「それは存在論だね」と返答をもらえた。存在論とは平易に言えば、物事が存在する理由を問うものである。「なぜ、そこに在るのか?」それは人が生きる意味でもあるが、物事がそこに在ることでもそう考えることができる。

 話は一瞬逸れるが、自分が言葉にできなかったこの現象が、ひとつの考え方として認められたときに、自分の存在が認められた気がした。人間が意味を求めることは、人間のエゴでもあるだろう。そして哲学はもしかしたらその頂点かもしれない。しかし、得体のしれない状態を放置できるほど、我々は考えない葦ではないのだ。

 

 やがて時は経ち2021年年末。(いま気づいたけどこの話面白くなかったです)

 世間はコロナ禍でリモートで働いている人々も少なくないだろう。私もその一人であり、zoomやGoogle meet、或いはteamsといったツールを使いながら壁紙を設定している時にふと不思議に思ったのだ。「これはまた奇跡の連続だったな」と。

 

 オンラインミーティングの技術がなかったらリモートワークは実現できていなかったかもしれない。壁紙が設定できなかったらプライベートが暴かれていたかもしれない。しかし一方でオンラインミーティングが主流になってしまったからこそ、物理的な距離感が良くも悪くも発生し、その弊害によって“失われたなにか”もあったかもしれない。

 

 しかし私たちはその“失われたなにか”については「奇跡」を論じ得ない。なぜなら不確定要素であるからだ。だから私たちは、“いま、ここに在る”という事象においてのみ“奇跡”を讃えるのだ。

 

 なんて、オチをつけてみたはものの。もうちょっと楽しい話をするべきだったか。

 「無い」というのは「在る」があってはじめて認知される。そういえば、そんな話も当時高校生の時に読んだ。それも小説で。保坂和志さんによる『カンバセイション・ピース』というやつです。ちょっと厚めの本ですが、日常の会話が延々と続く本です。Amazonのレビューで「自分の感覚がずっと遠くまで伸びていくような気がする。」というのがあったけど、言い得て妙だな。ていうかいい表現だな、これ。

 まあ、最近書いているブログよりは多少暗い要素は減ったかな。年末までにもう少し明るい話題を書きたいな、なんて思います。ではまた。(久々に勢いで書きました!!)