見えてるものと見てるもの
わたしたちは、世界をありのままに見てると思いがちですが、
どうやらそうではないようです。
目から入ってくる情報は、絞り込まれて、変形されて、脳に行った後もまたいろいろといじられて、、
そうしてやっと、「見えた!」
っていうふうになるらしいんです。
じっさいに「見て」いても、「見えた」と思えないこともたくさんあるそうです。
面白いのが、私たち自身は、世界をありのままに見ていると思っているということ。
私たちが見えないところ、気づかないところで、私たちを動かしているものは、この世にたくさんあるようです。
知覚心理学というものを少しかじってるのですが、こんなのがいっぱい出てきて面白いです。
わたしたちが「あたりまえ」と思ってることの一つ一つが、実はすごいことすぎるということにことごとく気づかされます。
生き物って面白いなあと。
この世界は面白いなあと。
芸術と表現
芸術家って、
言葉では表現できないものを、なんとかして表現しようとしている人たちなんだと思ってます。
画家然り、音楽家然り。
だから、
芸術に携わってる人の話を聞いて、そのあとその人の作品を見ると、すごく面白い。
この人は「あれ」を「こう」表現したんだなと。
面白いなーと。
ただ、芸術に限らず、みんなどこかではそういう一面を、持ってるのかもしれません。
「よくわからないあれ」を「これ」にするために、
みんなもがいてるのかもしれないですね。
服と自由
服って、
何着てもいいはずですよね。
必ずしもズボンとかシャツとかじゃなくていいわけですよね。
でも、
ひとが着る服のパターンって、だいたい決まってるよなと。
各民族それぞれいろんな服を着てたはずだけど、
いつの間にかみんな洋服を着るようになってて、
考えてみたらそれってこわいなと。
私もすごーく ”ありふれた” 服を着るので人のことはいえませんが、
こわいなーと。
政治と正義と苦しさと。 相手の立場への理解
こんばんは
政治について議論するとき、どういった気持で議論してる方が多いのかなというのに、興味があります。
私は、政治について議論してるとき、苦しさを感じなかったらまずいんじゃないかな。と思ったりしてます。
政治は正義と正義の対立だと私は考えていて、そうであるなら、自分がある政治的立場を唱えることは、誰かの政治的立場、つまり正義を否定することだと思うんです。
それってほんとはしんどいことだよなあと。
政治的立場を主張することを否定するわけではありません。
誰かが何かを言わないと、誰かが何かをやらないと、何も動かないし。
どっちが正しいかわからないから、つらいから自分の立場を言わない。あるいは、みんな正しいよっていう極端な相対主義はたんなるニヒリズムですよね。
でも、
相手の立場に想いを馳せることって、
大事なんじゃないかと。
自分が否定している正義も、それを支持する人がいて。
その人はなんでそれを支持するんだろう、なんで自分と違う意見なんだろう、その人はどう考えてるんだろう、っていうのに思いをはせるのって大事かなと。
「自分からみた相手の考え」じゃなくて、「相手から見た相手の考え」っていうのが、ほんとに見えてるかなと。
相手の意見に理解を示そうという姿勢を見せないと、
相手を悪魔のように非難して、
自分たちの立場への批判を受け入れられなくなって、
自分の正義が唯一の正義と思うようになって、、、
そんなことだといつまでたっても建設的な議論ってできないんじゃないかなと。
非難の応酬ばっかりになっちゃってほんとにもったいないよなと。
そして、
少しでも相手の立場に思いをはせるなら、
他人の正義を否定していることを自覚するなら、
政治の議論ってつらいはずだと思うんです。
政治の議論をしているときに、どこかで気持ちよさを感じてしまったときは、
ほんとに他人のためにいってるのかな?
それによって誰が傷つくのかな?
ほんとに自分の正義はそれで達成できるのかな?
自分のために他人を消費してないかな?
って、立ち止まって考えるのが大事かなーと思います。
私自身、自己満足な政治の議論をしてしまうことがたくさんあるので、戒めとして、書いておこうとおもいました。
そうはいっても、どう頑張っても、相手に共感を示せないっていうときは、あると思います。
相手にすごく怒りを覚えてたりしたら、やっぱり難しいですよね。
そういう時は、
理解を示そうという姿勢だけでも持ったり、後で冷静になってから振り返ったり、
できるところから、無理のない範囲でもやろうとするだけでも、
ちょっとは違ってくるかもなあと思います。
方法は違えど、価値観は違えど、
多くの人はよりよい社会のために声を出していると思うので、
非難の応酬に費やされてるエネルギーが、
建設的な、未来志向な議論に向いたら、
もっともっと良くなるのになーと、
思います。
頭ではわかってるけど、ていうとき
頭ではわかってるけど。。。
ってこと、ありませんか?
私はよくあります。
たとえばちょっと前にはやったアドラー心理学の考え方とか。
そのメリットとか理屈はわかるけど、いざやろうとしても難しいんじゃないかなと思います。
難しいというよりは、やってみようとするとなんとなくすっきりしないというか違和感があるというか。
こういうのができないときって、精神論に結び付けられて批判されることってあるよなあと思います。
それは勇気がないからだとか、それは甘えがあるからだとかとか。。。
確かに、居心地がわるいこと、違和感を感じるもの、なんでもかんでも拒否してたら自分が変わる可能性を大きく大きく狭めてしまうことになると思うので、それはもったいないと思います。
ただ、
感情的に受け付けない、なんとなくできないっていうときは、その「なんとなくのもやもや」をちゃんと見つめてあげるのも、大事なんじゃないかなと思うんです。
モラルとか感情とかとか
自分が意識できないけど無意識的に自分の行動を決定するものってすごーくいっぱいあるとおもうんです。
頭で理解できても行動にうつせないときは、「あー自分だめだな」じゃなくて、「なんでだろう」と。
「なんで自分は違和感を感じるんだろう」と、考えてみて、掘り下げてみるのが、大事かもしれません。
はからずも「メタ認知」の記事と同じ感じになってしまいました。。
すみません。
愛国心とは
おはようございます
「愛国心」ていう言葉をもう一回じっくり考えてみるのが、大事かなと、思います。
愛国心=保守的って思う方って、多いかなと。
でも、
それがすべてなのかなと。
自分が生まれた共同体に愛着をもつのは、極めて自然なことで、
愛情の表現の仕方が、人それぞれなだけと思うんです。
日本の伝統を大事にするのももちろん日本を愛するが故だと思うし、
国に対して批判的な意見を浴びせるのも、愛するが故だと思うし。
国を愛してなかったらわざわざ大事な時間を割いてまで議論しないですよね。
「愛国心」っていう言葉が、特定の人びとの専売特許みたいになってる状況ってもったいなあと。
本来そう言うものじゃないよなーとか。
お互い国を愛するが故議論に熱が入ってしまうんだっていう、お互いを尊重する気持ちが、大切なのかなと思います。
性と日本①
こんばんは
日本の性に対するスタンスってすごく保守的だなと思っています。
最近でこそ様々な性の在り方に対する理解が広まってきたとは思いますが、男女差別は根深いですし、「オカマ」とか「オネエ」とかいう言葉およびそれに対する人々の反応を見てるとまだまだ先は長いのかなとか思ってしまいます。
信じられないようなセクハラがいまだに存在しているらしいというのはよく聞きます。
最近話題に上る性犯罪もこういった社会の雰囲気が影響してる部分って大きいんじゃないかなと思うことがあります。
一つは男女観。
「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」というのが今でも驚くほど根強いなと思います。
そういう見方を持つこと自体は否定しませんし、自ら望んでそういった生き方を自分が貫こうとするのは何ら問題はないと思います。
ただ、それが他人に強制されるようになっているのであればやはりそれは問題だろうと。
「男らしくあること」「女らしくあること」を強制するような空気や社会的な圧力があったり、それによって不当な差別がおこなわれるようならば、やっぱり見直していかなきゃいけないですよね。
そういった見方が強いから、性犯罪をめぐる議論でも、「男は~」「女は~」っていう議論が多くなっちゃうのかなと思います。
(男ー女という対立構図を提示した事に関して、不愉快な思いをされてしまった方がいらっしゃるかもしれません。その点はすみません。下でも同じような表現をしてしまいますがご理解いただけると嬉しいです)
二つ目は「性」というものに関して。
「性」というと、何か口に出しづらいものみたいな雰囲気があると思いますし、特に特定の人びとがそういうことについて触れづらい空気があるなと思います。
そういう性の扱われ方が、同意の無い性行為を生み出してしまう一つの原因なのかもしれないなと思います。
「男が行かなきゃいけない」「性について話してる女は恥ずかしい」みたいな考えとかがこじれた結果を生むのかもしれないなと思いました。
性犯罪において悪いのが犯人であることは当然ですが、社会としてこういう問題をなくすためにどうしていったらいいのかを考えるときに、「なぜそういうことが起きるんだろう」っていうをみんなで考えていくのが大事かなと思います。