思考の掃き溜め

森のなかを駆け巡りながら色々考えたことのストック、とたまに日常のこと

社会人になってみて、半年経って、思うこと

オリエンテーリング愛好家の皆様、こんにちは!

去年は「筑波大学オリエンテーリング部」、現在は「京葉オリエンテーリングクラブ」の田中基成です。

 

企画発起人の片割れである小柴と「俺ら今年は書かなくていいよね~」とかいってたら、坂野が裏でもう1つ立ち上げ、それを見た僕の語りたがりのサガが今年も駄文を紡いでいる次第であります。

adventar.org

 

ちなみに去年は「オリエンテーリングはなぜ面白いか」というタイトルで書いています。今は、こんな勢いのある文章書けない…

sugamoto.hateblo.jp

 

社会人になってみて思うこと

さて、オリエンテーリング界ではしばしば「なぜ学生を卒業したらオリエンテーリングをやめてしまうのか」ということが談義されます。

自身が学生であった時は「そんなんオリエンテーリングが好きじゃなかったんでしょ、俺は好き」と自信を持って言ってましたが、実際に卒業して就職してからこの8ヶ月なにを感じたかを書いてみようかと思います。

 

①眠い

いや、マジで眠いんですよ。

日曜日の大会に参加するために朝早くでて、走って、帰ってきて、寝る、その流れは学生の時から変わっていません。しかし、もう夕方頃になると「うわ…絶対明日眠い、どうやって1日過ごそう…」という考えが頭のなかで膨らみ始めます。帰りの準備がグダったたり、表彰式がグダったたりしはじめると「わぁ、もう明日は無理だ」と思います。

お給料もらってると流石に勤務中に堂々と寝ることが出来ません。毎週バリバリ遠征している他の社会人が、月曜日にどんな顔で会社にいるのか気になります。

もしかしたら、千葉県富津市という辺境に住んでいることが負担の一助になっているやもしれません。

 

②遠征が楽しい

遠征めっちゃ楽しいです。

後先考えない性格もあって、何食べても何飲んでも自分で稼いだお金なので心置きなく使えます。この間の香川(全日本リレーはうどんと酒を見つけては酒を飲んでたし、10月の青森ではスプリントの雨予報を見て、行動内容を「盛岡でじゃじゃ麺奥入瀬渓谷観光→青森の居酒屋で酒」に変えました、当日の行きの高速でです。オリエンテーリング一切しませんでしたが、幸せな1日でした。

 

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昼から香川の地酒を嗜む御一行



③競技との距離感がわからない

「インカレがなくなると…」という話もよく聞きますが、ダイレクトに喰らいました。

いい感じの目標が全く無いです。全日本目指すか、と思っても、まず公認E権のハードルが「ちょっと頑張ろう」で届くものではまったくない。そう思うとずるずる目標なく、やる気もなく過ごしてしまします。

夏まではそれなりに意欲を持ってトレーニングできていましたが、秋以降はパタッと走ることができなくなりました。

 

④自分は一体どこにいていいのか

 僕は頑張りたいレースの時にトリムを着たい派なのですが、流石に「筑波大学(デデーン」と書かれたトリムを着ることは出来ません。ウインブレとかの大学ウェアも一緒ですね。

 なので、それだけでオリエンテーリング界の中で自分がどこにいるのか、大会会場でどこにいればいいのかわからないという気持ちになりました。突然放り出されて、結構な寂しさがあったように感じます。

 先日、ついに所属している京葉OLCのトリムとウィンブレを入手できたので、それだけでちょっと元気になったし、周囲に同じウェアを着ている人がいるというだけで嬉しくなりました。そんな寂しさが徐々にリタイアしていく要因の1つなのかもしれません。

 

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京葉の新トリムを着てドヤドヤする人たち



 

こんな感じですが、やっぱりどちらかと言うとマイナスが大きいかなぁと思います。

大学クラブのオフィシャル業をやっていなかったら、京葉に所属していなかったら、もうリタイアしていたかもしれません。ひととの繋がりってやはり大きいです。

 

その他、社会人になって思ったこと

①毎週楽しめる趣味があるのは(個人的に)幸せ

 会社の人、意外なほど「無趣味」な人が多いです。週末は部屋でダラダラして過ごす、って感じの。どちらが幸せかなんて主観に割り込む無粋な議論ですが、こうして毎週どこかしらに遊びに行く趣味があって楽しいなぁ、と僕は思います。

 もちろんですが部屋でダラダラしたい人たちからしてみたら、僕らは毎週数100km遠くの山に走りに行く狂気の集団です。

 

②他のアウトドアも結構楽しい

 今年に入って「他のアウトドアもしたいな~」と思い、とりあえず「登山」をはじめました。「何時間も決められた道を、最悪出戻りで歩くのは面白くない」と学生の時は遠ざけていましたが、これがもう面白くて。すっかり虜になってしまったので、これから夏の間のメインにしようかと思っています。オリエンテーリングと住み分けですね、夏は二ツ塚より八ヶ岳のほうが楽しいのと一緒。

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今年のベスト山行「燧ヶ岳」、山の中腹に突如現れる湿原の美しさたるや

 

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11月に弾丸で行った「雲取山」、久しぶりに天気に恵まれテンションが振り切れていた


あと、先日「アドベンチャーレース」にでてきました。

オリエンテーリングして、MTB漕いで、釣りして、ボール投げて、ロープで壁登って…って感じのレースでした。レース自体もオリエンテーリング区間では僕が引っ張り、MTB区間ではタフなチームメイトに前を引いてもらったりなどチームならではのアツい面があり楽しかったです。一番ワクワクしたのは、同チーム違う隊であるもっさんチームとすれ違った時にハイタッチしたときかな。ああいう軽いノリはオリエンテーリング会にはないなぁと思いました。

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ゴール直後にチームで、燃え尽きた。3人で男女混合が最も多いレギュレーションのようです。

 

あと、驚いたのは表彰式が18時という時間にも関わらず、参加者がほとんど残っていたこと。レース自体が長いため、競技時間も長い。僕らは早くゴールしたので表彰式までの間に大会が斡旋する温泉に入ってました。これも文化の近いだなぁ。

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このアットホーム感

 あとは春先に20kmくらいですが「トレイルラン」とかもやってみました。学生の時は義務感に追われるように毎週オリエンテーリングばかりでしたが、他の世界も結構面白いかったです。あとは「ボルダリング」とか「沢登り」とかにも手を出してみたいなぁ。

 

③もう少し頑張ってみようかな

 社会人になって、ようやく最近落ち着いて周りを見えるようになってきた気がします。

先述の通り、すっかりオリエンテーリングに競技的意欲を失ってしまっていたのですが、そんな中CC7で京葉の1軍をヒリヒリする展開で走らせてもらうことが出来ました(ありがたいお話や…)。久しぶりに勝負の世界の空気を感じて、ちょっと頑張ってみようかなと思っている今日このごろです。

 親から自立し、仕事も始まり、日々考えなければいけないことは増える一方ですが、そんな中でしばけんのこのツイートで「あー」と。

 

 

やっぱり、オリエンテーリングは面白い。

 

さて、駄文はここまで。

昨年に引き続き「オリエンティア Advent Calender」が、皆様のオリエンテーリングライフのささやかの楽しみとなれれば、主催者冥利に尽きます。

そこにある世界

※ネタバレとかは特にないです。

 おそらく高校2年生とか、そのあたり以来に小説を読んでみた。

 

 きっかけは4月から社会人として研修を受け続け、「自分の勤める会社」の枠組みに詰め込まれた価値観に触れすぎたことによる過食中毒だった。学生ではなくなり、平日の夜に適当にひとに声を掛け、酒を飲みながらだらだら話すような時間を作ることが出来なくなった。何か、他の価値観に触れないといけない、ふらっと手に取ったのが本屋の店頭に置かれていた恩田陸の「蜜蜂と遠雷」。選定に特に理由はなく、強いていうならば大衆受けをすることを示す受賞歴くらいだった。

 あらすじはオーソドックスな「音楽の演奏」に懸ける人々の群像劇で、そんなにインパクトのあるものではない。しかし読み終わったいま、脳天が痺れるような余韻に浸っており衝撃を受けている。中高生時代によく小説を読んでいた時もこんなにも心地良い快感の中にいたのだろうか、最早思い出すことは叶わない。もし、この快感が今となって楽しめるようになったものだとしたら、自身の中でどのような変化があったのであろうか。

 本の中の登場人物達は「演奏」を通じて、世界へ自己の発露を行っていく。コンクールの舞台袖からステージへ出ていく前に「なぜここで演奏しなくてはいけないのか」「なぜ演奏するのか」を、自身に藻掻き問いかけながら自身の足で扉をくぐりステージに立つ。しかし、演奏が終わりピアノから指を離すときには得も知れぬ充足感、万能感に満たされる。「自分はここにいるのだ」と確信を得て、万客の拍手のなか舞台袖へと戻っていく。もちろん人ごとに背負っている責任、価値観が異なるため一様には言えないが、自分はその感覚を「知っていた」と気がついた。「知っていた」というより、いつの間にか持っていたものを半ば強制的に引きずり出されたと言ったほうが正確だろう。与えられた責任に対して気負いやストレスを感じつつも、終えてみれば満ち足りた気持ちになり一刻も早く次を!という一心に覆い尽くされる。次も同じ、もしくはもっと大きな苦悩、それどころか自分を裏切る結果が待っているだけかもしれないことを知っているのに。それはキャラクターに対していわゆる共感を抱いただけのことにすぎないのだが、その共感により初めて過去の経験が自身を構成する1つのパーツになっていることを実感することができる。それは紛れもなく自身の行動が世界と繋がっていると存在を肯定される感覚であった。

 また、物語には自我を飾ることなく無邪気に表現することの出来る少年が出てくる。「自分は自分のままに」行われる演奏は、自己問答の中で複雑に絡まってしまった人々の価値観の根底に容赦なく、不意をつくように触れてくる。幾人の審査員は自身も理由が分からない内に激情に駆られ、同じステージに立つコンテスタント達はいつの間に埋もれてしまっていた自身が演奏する根源を少年の演奏の中に再び見つけ出していく。「天才」と呼ばれる人々も自己に問い続け、共感することで自分を見つけていくことには変わりない。妬ましい天才達と才がないと自覚する自分も同じなのだと、そんな表現も琴線に触れるものがあったのかもしれない。

 

 共感できるものは自己内で理解できるものと同義であり、それが増えるということは自身の認識できる世界が広がるということに他ならない。そこにある世界は変わらないのに、認知とともに自身の世界は広がっていく。ここ1年くらいで急激にその世界が広がっていることを実感し、それを楽しみ、嬉しさを感じつつ、死ぬときになって「あぁ、もっと見えるようになりたかったな」と悔やむのは嫌だなと思ったりする。

 何かに対して剥き出しの自我を向き合わせた経験が、確かに自分になることに二十数年生きてきたことでようやく「知った」。だから自分は向き合い問いかけ続けるのだ。

 

 ~余談~

 ここ数年評論文のようなものばかり読み続けていたため、同じ文章であっても小説というもの性質の違いにも驚いた。評論文は自己を削り出した末にその形が顕在化したものだが、小説は自己の外部に言葉で世界を構築することで生み出される。例えるなら一本の木材から削り出した彫刻像と、自身で選択した食材を組み合わせ調理した料理が近いような気がする。前者は鑑賞することで自分の手元にある彫刻像と比較する事ができるが、後者は直接摂取し味わうことが出来る。すなわち解釈の必要性の有無であり、口に合う合わないは調理法を知らずとも感じることが出来るのだ。なるほど「小説」という表現はこういうものだったかという気付きがあるとともに、その味を出せるようになるまでの料理人の背景に思いを馳せることを含め隅々まで楽しむことが出来る。たった2,000円で最高のディナーを味わった気分だった。

 自己から切り離されたところに世界を築く。言葉を「紬ぐ」とはよく表現したものだと思う。

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たった10ヶ月前に書いた文章ですら、いま読み返すとなんか違うな…と苦笑してしまうのもきっと見えるものが少しずつ変化しているから、な気がする。

なぜ走るのか - 思考の掃き溜め http://sugamoto.hateblo.jp/entry/2016/07/26/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%B5%B0%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B

どんな「地域クラブ」に入りたい?

以下、FBに書いたものの転記

「地域クラブ」について、2か月後には大学クラブを卒業して社会人になる身として考えたものを投げておきます。

 僕はオリエンテーリングが大好きなので、当然のように大学卒業あともオリエンテーリングに何かしら 関わりたいな、と考えています。なので地域クラブ入会を検討するわけですが、学生の期間に地域クラブと交流を持たなかった人は「地域クラブ」が一体何をしている団体なのかわからない。入って自分の生活にどのような刺激があるのかわからない。

 この「わからない」は以下の2つと考えます。
オリエンテーリングって一人でもできるじゃん?団体に所属する意味は?
・一般的なスポーツ地域クラブの「定期的に練習会」などの活動がオリエンテーリングにおいて難しい。じゃあ活動は何をしてるの?

 しばしば、地域クラブについて議論が起こったときに使われるワードとして「普及」や「強化」がありますが、その推し出されたその類の言葉を聞いて「入会しようかな」と思う人はほぼいないでしょう。現在大学でそれなりに競技的にオリエンテーリングに取り組んでいる僕でも全く魅力も、入る意味も感じません。オリエンテーリングは好きでも、社会人になってから「全日本選手権者を目指すぞ」とか「もっとオリエンテーリングを広めたい」が軸にあるわけでもなく、「今後もオリエンテーリングと関わりたい」と思っているだけです。
 現状、そのようなスタンスを主軸に置いている地域クラブなんて日本に1つもないのにまず上がるのはその話、というのに違和感を強く覚えます。活発な大学クラブでさえそんな団体はないですよね。 

 僕が魅力を感じるのは「オリエンテーリング愛好家のコミュニティ」であることです。別に活動として頻繁にオリエンテーリングをしなくとも、月に数回はメンバーと一緒に走る機会がある、飲み会がある、同好のもの同士コミュニケーションをとる機会があることが外部から見えるように「可視化」されていることがポイントだと感じました。
 そこで僕は、メンバーの各個人が好きなように呼び掛け集まり走り・飲み会して、そこでオリエンテーリングの話をすることが「見えている」京葉OLCに魅力を感じ入会することにしました。実際中に入ってみても気楽に集まり、メンバーで話すことが楽しい団体で入ってよかったなぁと思っています。実際この2~3年で京葉OLCは卒業したての社会人が20名以上入会しているという実績があります。

 
・「地域クラブ」は「オリエンテーリング愛好家のコミュニティ」としての面を外から見えるようにアピールする。
・卒業後も「競技的頂点を目指したい」と考える人は殆どおらず、「オリエンテーリングと何かしらの関係を保持したい」と考える人のほうが確実に多数である。
・団体内の多様性を包容した上で、「強化」や「普及」は内部からムーブメントが起こることを待つ、または刺激をしてみる。
このあたりを念頭に団体のスタンスを見直すことで変わることがあるのではないかなと考えます。
もちろん団体内での多様性の容認はもとより、団体ごとの多様性もあって当然だと認識しています。なので「強化」や「普及」のためのクラブがあっても何らおかしくはないです。

 ぼやきの1つではありますが、学生が卒業後にオリエンテーリングから離れてしまうのが一番の課題であると言われるなか、卒業を目前とした一人の大学生として考えたことでした。

思考の回し方

 時間が生まれ,気になっていた自分の思考の回し方について言語化してみる.

 思考の回し方,というよりは価値観の形成過程の回し方.文章中で何かを基準にしたような単語を使ってしまっているけど,まあそんな基準は各個人でたしかに持っているだろうし,気にしないでほしい.欲を言えば,誰が読んでも違和感を覚えることのない,客観性の保たれた文章を書きたいなぁとは思っている.

 

大枠は多くの人がこの枠に当てはまるだろう.

1. Plan

自己の価値観も持つ客観的な意義,ポジション.及び,外界に与えうるインパクト,そのリアクションの仮定(確認).

 

2. Do

外界に対する発信,行動.

 

3. Check

発信に対した,外界からのリアクションの評価(1.における仮定との差異の検討),考察.及び,自己価値観の修正,融合.

 

 これをひたすら何十年と繰り返していくうちに,根底にある「自己」を削り出し認識していくことになる.この三段階は各個人が固有のリズムで行っていくのだが,自分はPlanのステップにおけるリズムが自分で気持ち悪いな,とここ半年くらい思うことが多かった.

発信する前にPlan(確認, 仮定, 認識)するであろうことは,

・自己の価値観も持つ客観的な意義,ポジション

・外界(⊃他人)に与えうるインパクト,及びそのリアクション

だが,いかんせん前者に対して後者の比重がとても軽い,相対的に前者が重いというわけではなく.

 おそらく原因は,前者:自己価値観の認識に対する自信が強いため,外界のリアクションを考察する時間があるなら,さっさと発信して実際のリアクションを食らって修正したほうが早いと思っている(多分).自己の中で認識する「一般論」の認識が強く,その既に自分の中で用意された仮定とリアクションを比較するクセがついているため,後者を行う時間がほとんどない.例えるなら,目の前にある「壁」をこの「強さ」「角度」で叩いたら「どのくらい痛い」のか「どのような種類の怪我をするのか」,また壁は「どのように変形するのか(もしくは変わらないのか)」という仮定が常に自己の中にある.「壁」の種類や素材などは外見などの少ない情報で「自己一般論」に当てはめて,想定されるリアクションと実際のリアクションとの差を検討して,次に移行する.細かい条件を加味した考察をほとんど行っていない.

 こんなことを考え始めたのは,この半年「~した」って話をすると「ええっ!?」と言われることがこれまでに比べ異常に多かったからである.ともすれば,どこかの段階のテンポが人より早い(もしくは欠落し,飛ばしている)のかと考えていた.2016年はコミュニケーションを取るときに自己価値観は後ろにおいて,両者がフラットな状態で話すことを心がけるようにしたら多くの悩み事と解決したが,後ろにおいている間に自己価値観が凝り固まり,狭窄なものになってしまったのかなぁと最近うつうつと考えている.

 余談だけど,跳ね返ってきたリアクションが自己一般論による仮定とかけ離れすぎていると暫くの間思考停止するくせも最近判明した.現在思考停止中である.