こぴと物語

女帝によって、クピドの烙印を押された小人「こぴと」が世界のあらゆるものを憎むことしかできなかった日々を乗り越え、人の温かさや世界の美しさに触れて、笑いのツボがどんどん浅くなっておバカになっていく。そんな、ものがたり。

映画 四月は君の嘘 主題歌

 

 

私は漫画やアニメがとても好きだが、なかでも人生の糧としている作品がいくつかある。

 

その一つが「四月は君の嘘」という作品だ。

 

原作は漫画で、2014年にはアニメ化された。

最高の出来だった。

一言でいうのは難しいが、強いて言うならば春風のような作品だ。

そんな大好きな作品が実写化されると聞いて、正直微妙な気持ちだった。

 

たくさんの人に認知してもらえるキッカケになるだろう

しかし

この作品の本当の良さや、深みが伝わらず、薄っぺらく、違った解釈になってしまうのではないだろうかと傲慢は百も承知の上で思った。

 

そうこうしているうちに作品は完成し、タイアップするアーティストとその作品が発表された。

 

私の大好きなアーティスト いきものがかりが主題歌を担当するというではないか!

 

早速その主題歌となるシングル「ラストシーン」を聞いてみた。

 

https://m.youtube.com/watch?v=uXHNoj-uBTU

 

良かった。

歌唱力はいつもさることながら、君嘘の内容を知っている人からすると、

この歌詞は破壊力がヤバい。。。

 

春の中で涙こぼれないように

君を思い出すけど

いつも笑ってるんだ

少しずるくないかな

 

ここの歌詞にヤられましたね。

歌詞の節々に、原作を読み込んだことがよく感じられるフレーズが込められていた。

MVもすごく切なくて、君嘘との内容とも被ってて感動した。

 

今回のタイアップのため、いきものがかりの皆さんは「四月は君の嘘」の原作を読まれ、映像もしっかり観たそうだ。

 

自分の好きな作品に対して、一流のアーティスト達が本気で向き合い、

感じたことを踏まえて一つの作品を生み出してくれる。

こんな贅沢なことってあるのだろうか。

 

そして、作品の端々から原作をしっかり受け取ってくれたことが伝わってくる。

これだけでも実写化して良かったと思った。

ボヤいてた自分が馬鹿みたいだ。

 

 

起こるすべては、きっといいこと。

 

 

皆さん是非、四月は君の嘘 はアニメで一度観てみてくださいね。

きっとこの「ラストシーン」という曲がもっともっと沁みるものになるでしょう。

 

映画一応観てみます。。

 

さて、「ラストシーン」より抜粋…

 

 

 

「君だけが居ない 今を生きていく」

 

 

 

 

「生きる」とは。「死ぬ」とは。

 

 

さまざまな「いのち」が題材の作品がある。

 

 

それは、やはり「いきろ!」というメッセージが強く強く伝わってくる。

 

同時に「無駄に生きるな」「前向きに生きろ」といった強迫観念的なサムシングを感じるときもある。

 

私はむしろ、「生きたい!」と強く願っている時点で、もはやなにかおかしいのではないかと思う。いや、「生きろ」と言われなければ生きれない世界にいることの虚しさを感じる。

 

「気付いたらここまで生きてたよ」といったように意識することなく、生きられたらそれはきっと幸せなことだと思う。

 

というより、皆さまざまに「生きる」ということについて語るが、結局生きている間には「生きる」ということは分からないものなんじゃないかなと思う。

 

「生」が終わり、「死」が始まるまではきっと分からない。

けれどもきっと「死」は何も分からない。

 

だから、僕たちは永遠に「生きる」ということがなんであるのかわからないままなんじゃないかと思う。

ゆえに古今東西、「生きる」ということに芸術家も哲学者も科学者も医者もなんでもない私たちだって考え悩み続けているのだと思った。

 

 

私は「死」について真っ向から考えたことが一度だけ(正確に言えば自分自身の死については度外視している)ある。

 

それは、高校三年生の冬だった。

 

同じクラスの女の子の妹が亡くなった。

急過ぎる出来事のようだった。

いつものように中学校へ向かう途中、車にはねられて亡くなったそうだ。

 

その亡くなった子の姉である同級生は、私の出席番号の1つ後ろで何かと接点もあり縁も感じていた。

 

何度かお葬式やお通夜は経験してはいたものの、こんなに若い人のお通夜は当然初めてのことだった。

たくさんの参列者がいた。

 

会場に流れている曲たちは、亡くなった彼女が生前使っていた音楽機器に入っているもので、世代が近い私たちには、本当に普段から聞いている曲ばかりだった。

 

明るい曲が多く、楽しげな内容のはずなのに、ズシリと胸を突き刺すように重い何かを感じた。

奇妙な体験だった。

目に見える風景は非日常である お通夜の会場なのに、耳から聞こえる音はいつものお茶の間や私たちの携帯から流れる音で。

 

その不調和に吐き気がしたのを今でも鮮明に覚えている。

不気味とすら感じた。

 

 

そして とうとう焼香をし、棺の中の顔を見た。

 

 

…ひとことで言えば、言葉を失った。

 

 

同級生にそっくりな女の子がセーラー服を着て横たわっていた。

 

とても変な気分だった。

だって今まで見てきたのは死装束でいかにも棺の中に横たわる人の風貌だけだったから。

なぜ、どこにでもいそうな中学生が、ソノナカに横たわっているのか、分かってはいるが思考が追いつかなかった。

 

それは一見眠っているだけのように思えた。

 

ただ、確かにそれは死体だった。

 

足元が震えたのが分かった。

しかし、私は彼女から目を背けられないでいた。

しっかりと目に焼き付けておかなければ

その時そんなことを思った。

 

それから同級生の彼女を抱きしめた。

強く。力強く抱きしめた。

言葉はひとことも出なかった。

だからせめて。せめて抱きしめることで何かが伝わればいいと思った。

それは、いまの左脳的な知識があるわけではなく、全くもって無知な私が、自然にとった行動だった。

「悲しいね」ではなく、「悔しいね」ではなく 、「無念だね」「辛いね」でもなく。

そんな言葉では言い表せない感情だった。

でもそれをどうにかして伝えたかった。

そして彼女の悲しみを少しでも受け取れたらと思った。

今思えば不思議だ。

感情というものは言葉で移動するだけではないということを本能は知っていたようだった。

 

それから、「死」というものは私達の世代でも当然に、突然に起こりうることなのだと実感したのだ。

 

その後しばらくは「死」について考えた。

 

これが私の「死」について真っ向から向き合った機会だった。

 

ちなみに、その子が亡くなる事故が起きたのは、私たちがセンター試験を受ける(おそらく)1週間ほど前で、しばらくは意識不明の状態を彷徨っていたらしい。

そして、姉である同級生がセンター試験へ行くのを見届けるように、息を引き取ったそうだ。

 

 

この時、魂というものがあるのかもしれないと再び強く認識したような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

とあるバイト

 

まだ梅雨が明け切らない暑い夜、風呂上がりに更新している。

 

 

期間限定のとあるバイトくらいの気持ちでいた今回の仕事へ行っていました。次回は十一月から三月までですが、今回は今日で終了しました。

まさにそこは、現実の最前線と言っても差し支えない場所。人の生活のリアルと向き合う場所。

そして特筆すべきは、そこで働いている人たちは基本的に私の年齢の倍から三倍ほど離れた人たちなのです。

 

お兄さん、お姉さん、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんたちに囲まれて生きている。

 

はっきり言って、最初はこの状況に絶望しかなかった。何を話したらいいのか。しかし業務もロクにできない私はコミュニケーションを取らなければどうにもならない状況になってしまったのです。

この仕事を引き受けた時、まず覚悟したのは閉鎖的で保守的な世界に飛び込むのだから、私ような人間は全く受け入れられないのではないか、そもそも話す内容もないし、、、みたいなかんじでした。

 

しかし不思議なもので、しばらく経つとなんとも言えない昭和の大家族のような安心感と、多様性のようなものを感じたのです。

それは年の功からくる懐の深さというのか、よく分からないのですが、そんなことを思いました。

 

少し考えたことがあります。

昨今たくさんの場所で多様性が叫ばれています。

確かに昭和は様々な面で堅苦しい部分もあったかもしれません。

 

けど、大家族で暮らすとなれば、いろんな人がいるもんだと家族の視点で見れる。

世代も様々な嗜好も思考も在り方もきっと様々だったんでしょう。

 

家族というのは、人が最も早く、そして最も根強く影響される最小単位の宗教団体だと思っています。

 

きっとたくさんの人と暮らしていれば、様々な考えに触れることができ、いろんな考えの人が居るという認識が強く持てる気がするのです。

 

少人数の家族、核家族になれば、考えが偏り、凝り固まるは当然です。それが、閉鎖的な家庭であればあるほど。

 

もちろん、自分の殻にこもる時も必要と思っています。むしろそれが一番大事だと。

ただ、他人を排斥してしまうような凝り固まった視点では、楽しいものは生まれてこないんじゃないかなと少しばかり思ったりもしました。

 

まあ話を元に戻しまして…

おばあさんたちはほんとに気が利いて、とても過ごしやすい職場でした。

 

忘れかけていたのですが、私は小さな頃から父の仕事の関係上及び、家庭の事情ゆえにたくさんのお年寄りの支えのなかで大きくなってきたのです。

 

そんな当時の状況を思い出しつつ過ごした日々でした。

 

業務内容も職員の方たちが、懇切丁寧に教えてくださるので勉強になりまくるし、知るって楽しいなと思えたりもするのです。

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当初は、「傷ついても構わない、むしろ傷ついてやろうじゃないか!」くらいの気持ちでいた今回の仕事ですが、案外に清々しい気持ちで過ごすことができて、単純に嬉しかった。

 

 

生きていてもいいのかもしれない、そんなことを思いました。

 

 

 

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あなたは笑う

調べ物をするために図書館へ行こうと決めた。ひどいくらいに天気が良い。よし車で行こう、そんなことを考えてたら父が 健康的に自転車で行ったら などというので、たまには良いか、そもそも本来私は活発な人間じゃないかと思い出し自転車で図書館へ向かった。
風が気持ちよくて悪くない選択をしたと思った。

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図書館へ行く途中公園を見かけた。昔よく遊んでもらった場所だ。なかなかに大きい公園で池には白鳥などがいる。信号や踏切横断歩道を、ミニカートや自転車を運転して交通ルールを学ぶ交通公園などもある、わりと特殊な公園だ。

懐かしい、随分来てないなとか思いながら図書館に着いた。

 

休館日だった。

 

少しショックを受けながらも先程気になった公園に行こうと決めた。
ただ歩いてみた。私は歩くのが好きだ。

走るでもなく自転車でもなく車でもない。

このスピードと安心感、地球の上に乗っている感覚にいつも戻れる。見渡せば子連れが多い、しかしそれ以上に老人が多い。カップルが一番少ない。

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子供達の笑い声が少しだけ聞こえる。あとは草木が風に揺れる音。若者が流してるJ-POPがたまに風に乗ってくる。

 

子供はまだ何も知らない。明るく笑う。

まさに"希望"だ。

老人はなんだかくたびれている。仲間とつるんでる老人はまだマシだ。1人で下を向いてる暗い顔をした老人がたくさんいた。

 

…良い天気だ。

 

"希望"と…なんだろう、絶望ではない。諦観?いや抜け殻、なんとも言い難い状態の人たち。そんな対照的な人達が混沌と存在してる公園が気味悪く感じる反面、今日も平和に世界は死んでいっていると思うと少しだけ嬉しくなる。


私はどちら側なのか、私にも分からなかった。

 

"なにかをしなければならない"と強迫観念からなにかをしている人を見ると、「この人はどこまでいっても満たされないんだろうな」と思うことがある。誰が優れてるか という話がしたい訳じゃない。ただ、この公園にいる"ただ暇を持て余してる"数多の大人達に私は安心感と妙な一体感を感じるのだ。

 

盲目的になにかをこなしている人たちより、暇を謳歌する覚悟を決めた このなんでもない人達 が妙に輝いて見える。太陽のせいだろうか?

何はともあれ先程から足元にいる鴨が離れない。彼は一度もこちらを見ず尻を向けて、ただそばにいる。あ、池にいる白鳥と目が合った。

「暇そうだな」と言われた気がした。

私は聞き返す。「なら君は忙しいの?」と。

 

「忙しく生きるなんて正気なのか」

彼は水に突っ込んだ顔を振って答え、笑った。

 

 

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はじめました。

 

はじめまして、「こぴと」って言います。

 

 

どんなことを日々書いていくことになるのか私自分よくわからないのですが、おそらく ネタに富んだ日々を過ごしている ということは間違いなさそうです。

ただ、なにかと表現するってのが得意でない。。。文字を書くのは好きなのですが、たぶんきっと、自分を知られるのが怖いんだと思うのです。それは私の来歴というか、素性が起因しているのでしょう。

いやなに、大したことじゃないんデスケド。

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もうひとつ、私が表現するということが得意でない理由がある。

わたしは面白いことが大好きだ。なにより笑いのツボが浅い。いや、ちょっとおかしいのかもしれない。おそらく日常のなかでは、箸が転んでもおかしい年頃の方々よりもクダラナイことで笑い転げている自信がある。みなさんが今想像した「笑い転げる様」の遥か上をいく笑い転げ方なのだ。(突然の口調)

おそらく人に見せることはできない。ソレは腹がよじれて、お腹を叩かずにはいられないほどだ。呼吸は困難になり、顔面は崩壊、そして汗だくになるのだ。

 

さて、なにが厄介かというと、実際の生活の大半がこんな感じの私なのだが、根が暗い。そう、「これでもか!」というほど暗い。だからこうやって文字を書いていると、ついつい暗くて重い感じの話題や内容になってしまうのだ。でも仕方ない。これが私という生き物のようだ。

クダラナイことで涙が出るほど笑い転げているのに、ふとしたことで自分以外みんな消えてしまえ、いや、そんな面倒なことなんてしなくていい、私が降りれば事足りる。とか考えてしまう、暗い部分の私を捨てきれないでいる。いやむしろこれが私だとさえ思っている。

 

こんな感じで、どっちの感情を、どう表現していいかわからなくなってしまうから得意でないのだ。

 

それでも、やっぱり笑いたいのだ、私は。できることなら、笑い合っていたいのだ。

 

だから、いろいろなことを書くかもしれない。それは日記どころか独り言にも満たない何かかもしれない。

 

それでも、もし、これをみて少しでもワラエル瞬間があったら。

 

そんなことを考えています。

 

では。

 

(。。。最後までキャラを掴めなかった)