3曲目のXXXXという曲、1:25の

名古屋のハンマーというバンド*1のカセットテープを聴いてから、自分の中でスタークラブ熱がやんわりと復活してきていた。家にあるクラブザスター感のある音源を探す。Jimmy The Dynamites、Bat Kids、The Low Life、The Strummers、The Ryders、The Zett、The Monsters、The Slavemaster Connection、The Stripper、Aggressive Dogs、The Jet Boys、The Magnets*2。面白かったのはThe Low Life「Life Style」。Voは過去にスタークラブのローディをやっていて、日影晃著作『デッドロック・ストリート』にも登場する「コーヘイ」という名の彼だ。当時一度聴いたっきりだったのだが、あらためて聴いてみたらこれがなんだか良かったりする。昔まったくいいと思えなかったものが、今聴くとまったく聴ける*3。聴けるようになったのか、まるくなったのか。と思っているところで、スタークラブの「イリーガル・ダイヤル」を聴いてみることにする。3曲目の「XXXX」という曲。1:25しかない、ショート&キャッチーな楽曲なのだけど、曲の最後の歌詞のある一節に打たれてしまった。このときにああ、スタークラブにわたしが求めていたのはこれだ、これだったな、ということを思い出した。そうそうこれだった。わたしにとっての高校時代はなかなか暗い時代で、音楽が自分の救いだった。歌詞は重要で、何かと戦うために、常に自分を鼓舞させておく必要があった。そんな風な当時のわたしに言葉をしっかりと届けてきたのは長渕剛とヒカゲだった。この時期少し弱いというか、フラジャイルな歌詞を受け入れるにはあまりにも余裕がなかった。余裕があれば、スピッツ大槻ケンヂにもはまっていたはずだ*4。今なら思う。横道坊主やストリートビーツ、ブルーハーツも好きだったけど、当時のわたしにストレートに心を打つ言葉をかけてきたのは、やっぱり、長渕とヒカゲだ。スタークラブの「ソリッド・フィスト」というアルバムでパンクを知り、編集盤「ラジカル・リアル・ロック」で、ヒカゲが地獄のような声を出して言葉を響かせてきた。あらためて、当時のわたしが好きだったスタークラブのような、ダミ声、キャッチー、ウォールオブギター、3コード、あの音像を求めたいな。ところで。今回調べたところ「XXXX」という曲タイトルは本来「XXXX」というタイトルではなかったそうだ。どうやら自主規制が入ったらしい。歌詞の記載も自主規制。

その曲のタイトルは「Suicide Hero」だった。

*1:GのUO氏はのちのシガレットマンのメンバー

*2:もそうだし、90年代という時代にシンクロさせたZone Of Control、Londs Of Threeも

*3:スタークラブがイリーガル・ダイヤルを発売したのが1991年の3月。ハンマーのカセットの録音時期が1991年の9月。ローライフのアルバムの発売が1992年だった

*4:どちらも今思うとなぜ当時好きにならなかったのかと思うくらいの中毒性ある

もうひとつの夜(のことをおもう)

夜の寝るほど遅くもないすきま時間。部屋の電気を消してベッドに寝ていると、遠くから音が聞こえてくる。ごぉおおーーー。途切れることなくえんえんと続く、風のような、大きいのだけど、遠い音。最初にこの音に気づいたのは、前に住んでいた部屋でのことだった。その部屋は方角でいうと北側に窓があって、その窓のある壁面にベッドの側面がくっついていて、手をのばせば横になりながらでも窓が開けられた。その窓からそのまま北の方角にむかって800mぐらい先に246が走っていた。街路灯の続く国道を無数の車が、途切れることなく延々と走っている。それが風の音、マンションのどこかの分電盤から聞こえてくる振動音、虫の音、空気の音などとまじりあって独特な音を演出している。わたしはそれを心地よく受け止めていた。そのときわたしは、わたしが寝ているこの空間とは別の、道路上から走り去ってどこかへと至ってゆくだろう無数の車やバイクたちの、もうひとつの夜のことを考えていた。そのもうひとつの夜への憧憬の念すらあった。そのとき、わたしがそれまで経験してきた無数の夜が、その空間と、ケーブルの音声端子と映像端子をひとつのテレビに差し込むようにぼんやりと接続されていたような気がする。遠い空の向こうにぼんやり見える山にしても、夜の高層ビルの光にしても、昼下がりの入道雲にしても、その場所で何かがおきているような気がして、もうひとつの世界のことを、いつの頃からだろう、いつもその場所に憧憬を感じていた。ところで今の部屋では、その音が聞こえなくなったことを残念に思っていたのだが、夜の寝るほど遅くもないすきま時間。部屋の電気を消してベッドに寝ていると、遠くから音が聞こえるような気がした。窓を開けてみたら、大きいような、遠い音が。この部屋、前の部屋からは40kmぐらい離れているのだけど。方角は西、800mぐらい先には、偶然というかなんというか、246が走っていた。

the guitar plus me - それはほんとに急だった

それはほんとに急だった。なんだか、本が増えれば増えるほど思考はどんどん働かなくなり、iTunesライブラリの音楽が増えれば増えるほど音楽をだんだん聴かなくなった。本はまだ「本」があるからそこに身体性を感じられるのだけど、音楽にいたってはデータだって音楽で、データが主だと身体性も希薄だ。データばっかりで音楽の身体性を感じれていないのはちょっとどうなのかね。データには検索性の問題もあって、データがありすぎると「あ」から順にスクロールして見ていくのがなかなか面倒だったり、「欲求」と「聴きたい音楽」がマッチしていかない*1。CD棚があった時代は、ある程度目視で聴きたい音楽を見つけられたわけで。この感じ、昔もあったな?と思ったら、カラオケでカタログを「あ」から順番に見ていっていたのが、デンモクに移行していって順番に見るのが容易じゃなくなって、ある程度何を歌うか決めておかないと「それ」にたどり着けなくなってきたのと似ている(なんじゃらほい)。ここ最近、近藤麻理恵『人生が片付くときめきの魔法』を読んでいたのでそういうことを余計感じる。本や音楽が自分の(目視できる)許容範囲を超えているので、何が好きなのかよくわからなくなりがちなんじゃないかと思う。

この3月から都会をはなれて山がよく見えるような環境に住処を移動した。朝起きて家事をした後、自転車にのって水をもらいにスーパーに行く*2。西側に目を向けるとそこには大きな山がつらなっている。そんなわけで、山々を眺めながら国道を走る。ここ数日は音楽を聴きながら走る。昔は外を歩くときも自転車に乗っているときも音楽を聴いていたなあ、なんて思いながら走る。

それはほんとに急だった。the guitar plus meの「Frog」*3を聴いてたら、ギターと声+αのゆったりと動く世界の中に、急に、サックスが入ってくる。それはその音色そのものが自ら回転するように、リフレインして消えていった。静かで、雨の日や部屋の中が似合う、アコギつまびく孤独の音楽の中を、陽の光が差し込む午前中を、それは遠い遠い、山の切れ目の向こうから、夜と走馬灯をつれてきて、そして余韻を残して去っていった。国道が、山が夜に転化する。うちに帰ってデルジベットの「Flowers」*4を聴く。この曲にもサックスが入ってくるのだ。山々の見える空を切りひらくように、オセロが白から黒に切り替わるがごとく、ひろい空が青から黒へとひらり転換する。サックスが都会の夜を連れてきたのだった。*5

*1:コンピレーションアルバムは"compilation"というフォルダにあるからアーティスト単位でソートすると出てこない。なのでアルバム単位でソートして「あ」とか「さ」とかから順に見たりするけど、当然ながらアーティスト単位より量は膨大になる

*2:イオン系列のスーパーでは4ℓの水をただでもらうことができる。要会員だけど会員になるのは無料。水を入れる容器は購入が必要

*3:the guitar plus meの1stアルバム「Water Music」(2004) の1曲目

*4:Der Zibetの2ndアルバム「Electric Moon」(1987) の9曲目

*5:MOTHER2に「フォーサイド」という町があって、それがなんやかんやすると「ムーンサイド」という町になるわけだけど、あの昼夜反転するような感じに、感覚的に近い