ココロにツバサ属

日々感じたことを とりとめもなく

0か100か

タイトルを書いてみて

20年ほど前にも同じようなことを書いたことをふと思い出しました。

 

その時は白と黒というようなタイトルだったように思います。

それはもう今はなきインターネット空間に飲まれて行った文章で 掘り起こしてくるのは難しいですが、きっと私の中ではその頃と変わらない絶対的(諸法無我)な部分がありつつ、その後 進化変容した部分も少なからずあるのではないかと思うので、読み返してみたいものだと思います。

 

昨日、そこそこ長いお時間をいただいて 公私に渡って大切な方とお話をさせていただきました。

その方が言わんとしていることは、部分的に、話者の自分事と重なっていたので、受け止め方としては難しい部分がありましたが、自分とは違う視野からのお話を聞かせていただき、私がいま抱えている問題と照らし合わせ、知恵を絞るヒントをいただくことが出来ました。

 

物事は0か100か しかないわけじゃなくて

100%のうち、何割かでも関わりがあるなら、その関わり度合いが例え10%としても、それは関わりのあることで、0%にはなりません。

 

そこの所を理解せずに、感情論でぶつかると、0か100かというような話になりがちですが

それは物事の成り立ちや現実、実情を見極めていない愚か者のすることであり

慎重な賢者であれば(慎重なことが必ずしも賢者という話でもありません。迂闊なものはまず間違いなく愚か者であるとは言えると思います)そんなニ極的な物の見方はまずすることがないし、それにより二極的なことは口から出てくるはずがありません。

 

事実認識がきちんと出来ていれば、他者を追い出すような0か100かの論に発展することはないのです。

物事を円滑に進めて行くには、まず事実の共通認識が大切です。

何処に取り違えがあるか、わかれば次のステップに進むことができるようになります。

 

まずは正しい現状認識。

どうしたいかは、それから先の話です。

 

自分目線でしか物事を捉えられなければ、まず事実の判断を見誤ります。

それが失敗の源泉になります。

独りよがりの、誰かのためだけの認識では、自分のことさえ守ることもできなくなり、苦しくなるのです。

 

他者と物事を共有していくには、他者目線に立ち、他者目線からの共通認識を持つことからしか問題を解決に導くことは出来ません。

問題の中には何がどれくらい含まれているか。まずその客観的事実を積み上げましょう。

エネルギー活用

今日から盆休みも明け

明日から高校生は新学期に入るわが家です。

こういう転換のタイミングにムクムクと沸いてくる「何かしたいエネルギー」って割と熱量があります。

まとまった時間がある時にしようと思って出来ていなかったことを実行するには打ってつけのタイミングです。

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このタイミングに乗っかって、45Lの袋に1.5袋分の断捨離をサクっと行えました。

気持ちがグッと軽くなります。

共感を得るということの強み

日々の家事をこなしていると、様々なことが走馬灯のように浮かんでは消えて。家事に集中してるんだか、していないんだか。それでも手元の仕事が終わる頃には考えていたあれやこれやも自然消滅して、何を考えていたんだかも思い出せなくなる。そんなことってよくあると思うのですが、今日はその中でも珍しくふと思考が整ったので、暇じゃないけど、忘れないうちに(笑)アウトプットしておきたいと思います。

 

子どもに身につけさせたい能力の一つに家事があります。もし自分(親)が今日や明日に突然死ぬようなことがあっても、最低限の生活力があれば、憂いが少ないです。

 

長女の時は、家事を身につけさせたいということばかりに主眼が行っていたため、実質的に中身はひどいものでした。例えば洗濯一つとっても、とにかく「こうすれば良いから」とだけ伝えて、言ったように出来ていなければ、「何でこんな簡単なこと一つも出来ないの」という想いが態度に出てしまって。それに反発されようものなら、今度は想いを言葉にしてしまったり。もうそれは悪循環としか言いようのない状況です。イラっとして、イラッとさせて。そんな状況だったと思います。

 

違う違う。そうじゃない。望んでいるのはこういうことじゃないんだ。わかっていても、その時の若くて青い自分の視野ではどうすることも出来ずにいました。それは自分の考えややり方の押しつけでしかなかったんですよね。うまくいくはずがありません。そんな中でも回数をこなしたことで、いつしか長女は独自の方法で出来るようになって行ったんだと思います。

 

三女の場合。長女の時の例があるので、もはや積極的に家事を身につけさせたいと思わなくなっている自分がいました。押しつけが反発を呼び、反発することがデフォになってしまうと何を言っても耳に届かなくなるからです。本人がやりたい時が身につける時。自然とそう思うようになっていました。

 

コロナ禍のSTAYHOMEの間に、その時はやってきました。何か家事を手伝ってみようという所まではこちらから促しましたが「じゃあ洗濯物を干してみるわ」ということになりました。

 

最初は一緒に干しながら基本的に彼女のペースでやりたいように事を進め。こういう時は、もうちょっと、こうした方が、ホラ、いい感じじゃない?などとやりながら。押しつけるわけではなく、一緒に作業をこなしながら、お母さんは、こういう時、こうしているんだよ~と伝えます。この時点で彼女はまだ何故そうするのか、腑に落ちていなかったりします。なので、ここで魔法のエッセンス少々。こうすると、ホラ、あっち側から見た時に、下着なんかが見えないでしょ?

 

小学生なりに 家事の哲学ほんまや~✨となる瞬間です。そうか、そこまで考えてやっているのか、という所を伝えられれば、反発することなくこちらの考えを取り入れてくれるようにもなるし、それはそれとして別の方法に挑戦することになったとしても、彼女の糧の一つにはなっているはずなので、こちらとしても後味が悪いということがなく、家事と育児を遂行できます。

 

そのためには、魔法のエッセンスを振りかけることが出来るだけの自らの日頃の鍛錬がモノを言う鍵になります。作業に対しての知恵の積み重ねとそれをアウトプットする手間を惜しまないこと。簡単なことではないですが。無駄にイラッとする時間を過ごすよりは有益な時間に変えられると、失敗談は語ります(笑)

トムとジェリーから

朝の番組でトムとジェリー、引き続きトゥイーティーが、2本立てで放送されている。

(子どもが言うにはeo光TVの放送とのこと)

 

どちらの番組も、小さき者が比較的大きな者に捕食されようとするのだけれど、小さき者の知恵や機転により 小さき者がその攻防戦に打ち勝つ様子が痛快に仕上げられている。

 

この手の番組は、あくまで小さき者が社会的絶対弱者として描かれていて、比較的大きな者の方は捕食者=悪者とされている。

 

こういう所から我々は日常的に、小さき者は保護され大切にされるべき対象であり、比較的大きな者は強くなくてはならない、叩かれてても仕方ないというような、ある種の強迫的観念に晒されてきているのではないかと、ふと思う。

 

大きな者は、その身体に見合うだけの食事栄養が必要だ。空腹を満たさなければ、生きるか死ぬかの一大事であり、本来笑いごとではないはずなんだ。必死になって当然なんだ。

 

無邪気にTVを見ている子ども向けの番組を見ながら、こんなことがふと頭によぎる自分もどうかしてるとは思うけれど。

亡くなられたプロレスラーの木村花さんのことが頭にあるので、こんなことが浮かんだのだと思う。

 

テラスハウスのことも木村さんのことも、木村さんが亡くなられるまで全然知らなかったんだけど。出来事を知って衝撃を受けていた所で。

 

誰かを悪にして成り立つような番組作りや、ネットの世界で匿名での誹謗中傷が、なくなることはないとしても、検挙しやすくなることで、少なくなってくるといいなと思っています。

 

トムとジェリー式のこういうわかりやすい構図っていうのは、何も考えずに、ボーッと見るにはお手軽なのかもしれないけれど。

恐ろしいくらい自然に印象操作をされてしまっていて、無自覚的にそれを受け入れてしまっている可能性があることを感じた今朝の一コマでした。

 

トムとジェリーの中には、時折芽生える友情みたいなシーンがあって、それを見るとホッとして、2人はじゃれ合ってただけなんだな、と思わせていただいていることは、忘れずにいたい。

理屈っぽい

PCR検査から2週間が過ぎた。

微熱状況は依然として変わらない。

この間には婦人科を受診。

前から先生にお勧めされていた薬を服用することにした。

即効性がない薬なので、もうしばらくの間は様子を見ることにした。

 

さてさて。

自分という人間はどうも理屈っぽい(笑)

良い点 悪い点あるだろう

理屈が先に立たない人には煙たがられる傾向にある。

けれども理屈を重んじる人からは重宝がられる。

 

今起きている状況を分析して整理して言葉にするという作業はともするとウソになりやすい。

それは視座によって受け止め方や立場が正反対だったりするからだ。

それを避けようとするなら俯瞰するしかない。

でもそれだと響かない。

響かせたいなら立ち位置は同じ所でないと意味がない。

 

人間てのはややこしくて難しい割に単純な生き物だ。嫌なものは嫌でしかあり得ない。

そこを乗り越えたものは最早人ではなくて、仏や菩薩、はたまた神の領域と言って過言ではないだろう。

 

話が大きく逸れてしまった。

私は物事というのは大抵理屈でカタがつくと思っている。

理屈でカタがつかないことが出てくるということは、感情が挟まっていると見て大体は間違いない。

そこ(理屈)を煙たがって力で押し切ろうとするものの正体は感情以外の何者でもない。

私はその奴隷になるのは御免だし、そういうものが見え隠れする所からは一早く離脱して生きてきている。

 

今日も懸命に理屈を考えながら、生きる。

コロナウィルス罹患?❸

その後も熱が37.5度前後から下がらないので、かかりつけの内科に診ていただけるか確認の電話をした所「熱のある方は診ることは出来ません」と一蹴されてしまいました。

 

えっ🤯…何で…??

熱があるから診てもらいたいのですけど😭

一瞬頭がクラっとしましたが、ああ、これが医療崩壊と言うものなんだなあ。。。。。

と、納得してる場合ではありません。

 

焦って保健所に2度目の電話をしました。

こんな事になっているけど、一体どうしたら良いのでしょうか。

 

1度目の電話では電話口の方の対応で終わったのですが、2度目の電話では保健士さんに繋いでいただくことが出来ました。一つ階段を上ったことは感じましたが、問診の結果やはりPCR検査の対象ではないから ということで、もうすぐなくなりそうな薬は、熱があっても診てもらえた耳鼻科で再度お願いすること、薬を変えて下さいとお願いすること、PCR検査を受けたいならば出来るだけ内科を受診してレントゲンを撮ってもらうこと などをご教示いただきました。

 

次の日に、薬がなくなることもあり、耳鼻科を再診。内科でお断りされた後だったので、事前に電話を入れる時もドキドキしました。診てもらえなかったらどうしよう…でもやっぱりセキがないならお越し下さい と変わらない対応が神対応に感じられました。

溶連菌の検査は陰性でした。

 

ひとまずお薬ももらえたことに 少しホッとしましたが、家族にとってはまだ「何だかわからない」不安がつきまといます。

かと言って内科は他にかかりつけがありません。かかりつけ医が診てくれないものを、どうして初診の人間を診て下さることがあるだろうかと思われて、お尻が上がりません。

 

どうしたもんかなあ。と思いながら、コロナウィルスの説明を改めてじっと読んでいると、検査の対象として37.5度以上の熱が4日以上続いていること となっていることに気がつきました。

微熱が出だしてからはもう6日が経っていましたが、37.5度以上になってから既に4日目になっていました。

 

その線で気を持ち直して3回目の保健所への電話。また保健士さんにつないでいただくことが出来、たまたま2度目の時の方と同じ方だったので、丁寧に対応していただくことが出来て幸運だったと思います。

それでも比較的に優先順位が高くない症状なこと、他に検査を受けなければいけない人が沢山いることなど、しんどいだろうけど、もう少しだけ薬を飲んで様子を見てほしいとお願いされました。

その上で、薬がなくなる頃になってもまだ状況が変わらない場合は連絡してもらいたいし、気になるので、良くなった場合にも自分宛てに連絡してほしいと名前を教えて下さいました。私の名前も聞いて下さいました。

 

そして4度目の電話。状態がまだ変わらないことをお伝えして、検査を受けられることになりました。ここまで来るのに熱が出だしてから9日間がかかりましたが、ここまで親切に対応して下さった保健士さんや耳鼻科の先生に感謝をして、検査の日を迎えたいと思います。