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生活するために書くブログ

異世界系物語は本格ファンタジーを目指さない

異世界系物語が何番煎じか分からない使い古されたモチーフを多用して作話をラクにしていても、空想上の生き物や、現実の物理を無視した魔法を扱っている限りは、ファンタジーと呼べない、ということはない。ただ、「本格」ファンタジーと呼べないだけだ。異世界系作品がゲーム経験に基づく擬ヨーロッパ世界観をベースに物語を展開しているからといって、ファンタジーでないとはいえない。やはり「本格」ファンタジーと呼べないだけだ。そもそも異世界系はファンタジーという形式を間借りしているだけであって、「本格」ファンタジーを目指していない。


転スラのように、徒党の長となり、配下に慕われながら勢力を拡大していくという夢、または、無職転生のように、生まれ持った高い才能を磨き、周囲のために働き、たくさんの家族や仲間に囲まれながら死ぬという夢は、現実には夢とも言い出せないほど荒唐無稽な内容だが、異世界系の形式のファンタジーでは、そのような内容を展開することが比較的容易だった。なぜかといえば、ゲーム経験というモチーフを、一定以上の世代が等しく持っていて、共感を得やすかったためである。これまでずっと、ある種程度の低い、「無双」物語は求められてきたものの、適切なプラットフォームがなかっただけで、それが見出された今では、無数の異世界が生まれて、無双が物語られている。


水戸黄門暴れん坊将軍といった時代劇は、今で言う「無双」であるし、仁義なき戦いのようなヤクザ物も、現実にはできないような暴力や犯罪によって、人や世の中を思い通りにしたい欲望が色濃く反映されている。


ゲームの場合、ゲーム世界において思い通りに行動し、「無双」することによってクリアに至るものであるから、ゲーム的経験をベースとした形式は、無双的な物語との親和性がある。ただこのとき注意したいのは、何が思い通りであるかを決めるのは、プレイヤーではなく、ゲーム製作者およびプログラムであるということだ。ゲームのプレイヤーは、ゲームのルールとステージにおいて無双するのだが、やはり自身で決めた事ではないから、本当には思い通りにならない。隅々まで思い通りにしようと思ったら、ゲームを作る側になるしかないのだが、ゲーム製作者であっても、プログラムの制約は受けるのであって、自由度としてはプレイヤーと大差がないともいえる。プログラムに依らずにゲーム的ルールとステージを用意しようとすると、それは小説になる。小説の作者は、ゲームの場合のゲーム製作者およびプログラムの位置に収まることになる。小説において、ルールとステージは「世界観」と呼ばれ、その深さや密度が取り沙汰される。


異世界系に対して世界観の浅さを問題とするとき、「本格」ファンタジーと比較することは的外れである
。「本格」ファンタジーは、ファンタジーだから世界観がよく練られているのではない。世界観をよく練るというゲームへの適応を高めたファンタジーだから「本格」ファンタジーなのである。そして異世界系は、世界観を練るというゲームを相対化した上で、別のゲームを志向するファンタジーであって、「本格」ファンタジーとは文字通り次元が異なる。


ここで、ゲーム製作者/異世界系物語作者のことを、「ブックメーカー」と総称する。ブックメーカーはまずプレイヤーを想定する。異世界系物語における主人公は、ブックメーカーによってプレイの全体を操作される対象として存在し、常にブックメーカーによって物語世界の任意の位置に飛ばされたり、世界の外につまみ出される可能性がある。これを「神の見えざる手」と呼称する。


近現代の小説家の中上健次は私的経験をベースに重厚な紀州サーガを築いたと言われる。「吹きこぼれるように」作品を書きたいと、作品のあとがきに書いている。サーガを、人間の一生(正確には血族)をはじめから終わりまで記録する試みだとすると、ブックメーカーによって構築されたステージ上で、プレイヤーのプレイングを描くことは、始めと終わりが存在する人間存在そのものを、ダイレクトに表現しようとするものだと考える。これまでの小説は、あくまで小説というゲームのルールのなかで展開するのみだったが、異世界系物語登場後は、メタ的な視点を獲得したブックメーカーが、小説という形式をゲームとして相対化し、異世界系物語という形式も、取りうる選択肢の一つ、というところまで次元を押し下げながら、異世界系物語自身を、物語の及ぶ領域として拡張している。


このような異世界系物語は、中上が言う「吹きこぼれる」ような作話を目指さない。どこまでも相対化しうる物語の視点をルールの中に押さえつけるように、合理的な世界観の中に収まるように作話をすることになる。異世界系物語の限界はこのあたりにありそうである。異世界系物語に対して批判を試みようとするなら、「神の見えざる手」が、プレイヤーにとって余計なお世話であることをブックメーカーは意識しながらも、ゲームとして完成させることを目的に、人間の一側面である激情の表現に踏み込めない、窮屈さがあるね、といったところかと思う。つまり、ゲーム的経験をベースとした異世界系物語は、受け手書き手双方で通じる世界観が過剰にありすぎるということだ。

20230919の虚ろな回文

虚だけか営み、忌む気怠い醜さとあの火の痕裂くに、見入るだけ無意味な問いかけだろう

 

うろだけかいとなみいむけだるいみにくさとあのひのあとさくにみいるだけむいみなといかけだろう 

 

 

→放火事件のことを思うと本当に涙が出てきてしまう。

 

 

 

中島、桜井氏、中丸かニノ泣くあの世のことよと。この世の悪なのにカルマ悲しい楽さマジかな?

 

なかじまさくらいしなかまるかにのなくあのよのことよとこのよのあくなのにかるまかなしいらくさまじかな

 

 

→性加害事件のことを思おうとしても悲しみが湧いてこず、空虚に乾いた風が吹く。

中島みゆき『倶に』に寄せる感想文

倶に走り出そう

倶に走り継ごう

生きる互いの気配がただひとつだけの灯火

 

中島みゆきの『倶に』、昨日のSONGSの特集で初めて聞いた。

 

突き詰めると、人と人は真に分かり合うことはなく、独りで生まれて独りで死ぬ。しかし、まったく同じように独りで生まれて独りで死ぬ人々が、自分と同じ世界で生きていることだけは確かで、独りで生まれて独りで死ぬ人間のあり方はけっして揺るがないけれども、同じ境遇にある人々の存在を感じながら、独りで生まれて独りで死ぬことのできるこの人生は、走り倒すに足る、と肯定してくれているようだ。

 

歌われているように、私たちは他人について、かすかな「気配」しか感じ取れない。すぐそばにいるように、事実だと思って見ている他人は、すべて私の頭の中で成り立っているイメージにすぎない。私たちの目の前には、私たち自身が作り出したスクリーンが拡がっており、私たちは常にスクリーンを見ていて、直に周囲を見ているわけではない。互いのスクリーンを隔てた向こう側に、中島みゆきが「気配」と表現する何かがあり、それがおそらく他人である。ある意味、私たち人間は皆盲目なのであって、他人との関わりは、手探りで進めていかなければならない。

 

『倶に』を聞いて、私はなるほどと思った。こんな暗闇の中を、怖がらないで生きられる人は誰もいない。この世に生まれた者は、必ずもがき苦しんでいる。私が自分だけの苦しみに喘いでいるように感じている間にも、他人の中ではまったく別の苦しみが渦巻いている。この苦しみは私だけのものではない、私たちのものであると考えたとき、逆に、私たちの苦しみが、私のものになったような気がした。私は私の苦しみをできる限り減らしたいけれども、それと同じくらい、私は私たちの苦しみを少しでも減らそうと決意して生きる。「倶に走る」とは、このようなことかと思っている。

おにまい7話について

アニメおにまいでは、蝶と花が毎話必ず描かれる。6話までは、花はアイキャッチのように場面転換する際に数秒映され、蝶はEDの冒頭で描かれてきた。特にEDでは、にかっと笑うまひろの上を2羽の蝶が、密度の高い作画のされ方で舞い飛んでいるのが強く印象に残る。7話では、この蝶が本編にあらわれ、花はアイキャッチではなく、みはりの部屋に飾られた花としてあらわれた。ここではまず、蝶について考える。


余裕綽々で試験に臨んだはずが、持ち前のポンコツさで失敗してしまっても、周りが慰め、むしろ肯定さえしてくれる。そのときまひろは、妹になった今、多少出来が悪くても、自分を必要以上に貶めたり、劣等感に苛まれることはないのだと気づく。それが薬の効果による仮初めの安らぎだとしても、少なくとも今は安らいでいられる、そういう時間を生きている自分に気づいた瞬間が、教室の外を舞い飛ぶ2話の蝶として表現されているように見えた。


原作では蝶は描かれていないので、アニメ監督による創作になるが、モチーフとして、非常に的を得ていると思う。まず何より、「胡蝶の夢」を想起する。夢と現実、どちらが夢で現実なのかは究極のところ分かりはしない、突き詰めると、今生きていると思っている現実も本当は現実でないかもしれないし、じゃあ夢かというと、そうとも言い切れない、どちらつかずのまま生きてゆく他ないという意味で捉えているが、今作の内容にぴったりではないか。

 

確かに、妹のときの自分は本来の自分とは違う。でも、引きこもり暮らしていた兄のときの自分だって、本当の自分とは呼べないかもしれない。両性の自分をどちらも本当と呼びにくいのであれば、発想を切り替えて、両性の自分は両方とも自分だと言ってしまえばよいではないか。2羽の蝶は、まひろが兄としての自分と、妹としての自分の狭間で、ふらふらと揺れ動きながらも、日々暮らしていく様を表している、と感じた。


そういえば全然関係ないけど、まひろ(mahiro)とみはり(mihari)って、音がかなり似てるよね。もしかして、構想当初は双子の設定で、お互いに男女逆転するとか、みはりもTSするバージョンとかも考えていたりしたのかもしれない。

「UCC GOLD SPECIAL PREMIUM ナッツビート」レビュー

www.amazon.co.jp

 

まずかったので、レビューを書く。

UCCの商品を今後一切避けるために、そしてUCCへの深い怒りを記憶に留めるために・・・。

 

<条件>

・粉(中細挽き)16g、熱湯150ml程度、ペーパードリップ

・抽出終わりの薄い部分はカップに入れないようにした

 

 パックを開けて粉を嗅いだ瞬間に、おいしくなさそうと感付いてしまった。「ナッツビート」と謳うからには、粉の時点で近いイメージの香りがするものだろうと期待したが、何の香ばしさもなく、前に怖いもの見たさで味見したアーミーグリーンのような安くて気分が悪くなる匂いがして、がっかりした。

 抽出時にガスが少し出たが、豆が膨らむことはなかった。まあパックのコーヒー粉でそんなに膨らんだりしないのだろうから、ガスの少なさをあげつらってもしょうがないのだろうけれども。また、ガスの多さは、豆の新鮮さを示す指標のひとつでしかなく、味に直結するとは限らないので、そこは許せた。

 抽出を終えてみてまず驚く。ナッツ感がかけらもない。その辺の安い喫茶店が出すコーヒーと同じ、コーヒーの風体をしているが、香りのない黒い液体があるだけ。当然、口に含んでみてもナッツを感じない。もともとコーヒーは豆であるから、どのように淹れても、豆の感じはあるもので、このコーヒーには、コーヒーの前提条件から生じる豆らしさしかなかった。

 

 総じて、質の悪い製品に、きれいな皮を着せて少々高く売っている。質の悪いものを、スタンダードだといって売るならまだしも、質が良いように繕って売るのは罪深い。コーヒーの会社としてそれでいいのか。初めてコーヒーを飲んだ人が、コーヒーってこんなものなんだと思って、以後コーヒーを飲まなくなって、コーヒーの業界が縮んでいく未来を中の人も描いているだろうか。コーヒーのおいしさを覚えさせないようにして、質の悪いものを、これはいいものなんだと言い聞かせて、消費者を飼い殺そうとしているようだ。

 

今これを書いているうちに、コーヒーが冷めてきたのだが、冷めたコーヒーを飲んだ後に、ほんの少しナッツの香りが鼻を抜けるようだ。ナッツビートとは?と首をかしげるほどにささやかだ。製品の開発者は、これを「ナッツビート」と命名されることに良心の呵責を覚えているのではないかと心配になる。UCCの中の人がかわいそうなので、これ以上UCCの製品を買わないことで助けてあげようと思う。

Pure Japanese感想

『Pure Japanese』についてまとめると、日光江戸村という、江戸時代の日本を模したテーマパークを舞台に、ディーン・フジオカ演じる、忍者を演じる役者が、天性の嘘つきのくせに、純日本人的な精神性を無理やり装って、忍者というよりあからさまなヒーローとして、しかしヒーローと言うのが憚られる程残虐に敵を惨殺するも、窮地に陥った少女を救えないという作品だった。

複雑すぎる。

①メインの撮影地である日光江戸村を、劇中でも「日光江戸村」と明言していることが特筆すべきギミックで、全編にこの前提が効いている。日光江戸村を「日光江戸村」として扱うことで、視覚から入ってくる情報は江戸なのに、絶対に江戸ではあり得ないという認識が視聴者側に成立する。

ディーン・フジオカは、今の日本を代表するイケメン俳優だが、その容姿については、日本人離れした、どこか異国を思わせる美貌に魅力があるものと思う。そのような見た目の俳優に、「純日本人」的な役目を演じさせる時、視覚から入ってくる情報は「日本」的なるものから逸脱しているのに、設定上は「日本」的な人間なのだと思わさせられる。

③物語前半は無愛想ながらも、人助けをせずにはいられない人物に見せておきながら、後半では、実は嘘ばかりついて保身に血道を上げるサイコパスだと分かるのだが、前半に形作られた良い印象を引きずってしまい、後半に見方を変えることにストレスを感じてならない。

日光江戸村というテーマパークであるからこそ、劇中でチャンバラショーが行われ、それを鑑賞している人が映されていたが、それと同じ場所で行われる、よりリアルに血飛沫が上がる残虐な殺し合いを、『Pure Japanese』を見る私が鑑賞している、という構造を看取せざるを得ない。映画製作者の狙った効果であることは間違いないが、まるで罠にかけられたように、私達は『Pure Japanese』の構造に取り込まれてしまう。

⑤心臓の位置を銃で撃たれるも、手裏剣を胸ポケットに入れていて助かるという、非常〜〜に荒唐無稽な、コミック的な一幕が、全編に嘘くささや虚しさを纏わせる。そもそも、「忍者役の演者」が忍者風の格好して大立ち回りする虚しさがどこから来るかと言えば、「忍者」という「日本」的な存在こそが、後世作られたフィクションだからである。


総じて、「日本」的なものへの懐疑のレベルを飛び越え、有り得べからざるものとして指弾し、「日本」的なものを信奉する人間を挑発する作品になっている。これまで日本人は、過去のより純粋であったとされる日本人像を心の拠り所としながら、その日本人像の都合の良さ、虚ろさを意識外に追いやって美化する傾向があった。西暦2022年に生きる私達は、日本人と呼ばれてきたものを括弧にいれ、検証する役目を担うことができる。その作業の中で私達は、積み重なった「日本」に依拠することはできない。「日本」なるものを差し引いて私達が自分自身を観察したとき、そこにあるのは、ディーン・フジオカが演じたように、見た目はいいが利己的で、他者への共感能力が欠如したサイコパスのような存在ではないか、という警句を『Pure Japanese』は発している。

因果応報

なんとはなしにブログを書く時期が来たのかもしれなくて、何かを書き残しておきたい欲が強くある。それで最近は自分のブログをよく開いてみて、すごく昔、10年以上前の記事を見たりする。ものすごく変なことばかり書いてある。5年前の自分なら、恥ずかしさで爆裂しそうなところだが、いまの自分からすると、変わった部分よりも、変わっていない部分があると感じられて、月日の流れとは、とか、過ぎ去りし青春、とか、相応の年を取った大人を気取ってしまいそうになる。

振り返ってみればあれもgoodだったなど、人生を気楽に過ごそうとしていくことが、処世訓になりうるという話を、誰に聞いたでもなく知っているけれども、過去の自分にいくらいいねを送ったところで、自分以外の誰が救われるわけでもないと思われ、不毛だと考えてしまう。

因果応報。しでかした事、開陳した文章は、いつまででも自分を追いかけてきて、油断している自分を後ろから刺すようだ。個人的には、その厳しさ、あるいは、厳しさに対するマインドを保持しつつ、長い目で見て納得できるように努めて行きたい。