だらっと和田パン

話が跳んだり跳ねたり行ったり来たり。映画とか、システマとか、漫画とか。ネタバレあります。

7月ダニールセミナー

 

71314日に行われたダニールセミナーに参加してきました。

その前後に行われた東京での特別セミナーにも参加しました。今回はインストラクター向けの特別クラスもあり、自分は時間の都合上参加できませんでしたが、10数名のインストラクター方がそれぞれクラスを行い、情報を交換していたようです。

 

その後の特別クラスの始めでは、時間内に自分のクラスができなかった方がクラスをリードする形で始まり、雰囲気は感じることができました。割と色々な方のクラスに出ている方だとは思いますが、リードを受けたことがない方のクラスを体験でき貴重な時間を過ごせました。

 

15日の特別クラスは少し違う形でしたが、12日のセミナー前日の特別クラスからセミナーまではほぼ一つの流れでした。

 

特にタイトルがあったわけではないので、テーマを言葉で説明するのは難しいのですが、強いて言えば、テンションコントロールなのかな。

 

ある意味プッシュ&ムーブを永遠とやっていたとも言えるし、ずっと相手とのつながりを感じていたような感じでもあります。あとはホールボディー。

 

ダニールが2日目にシステマの奥義について語っていたので、それがテーマとも言えるのかも知れません。

 

1つ目はよく言われる Know Yourself。汝自身を知れ。これはどうも古代ギリシアの格言のようですね。ЕYРΩПНといのがヨーロッパという意味のギリシア語なんですが、ちょっと見たことのある文字だなと思い、調べてみました。曰く、ロシアはウラディミル一世のとき、990年にギリシア正教を国教とし、さらに1589年、ギリシア正教会の総主教座をコンスタンティノープルからモスクワに移したとのことです。かなりざっとですが、ギリシアとロシアのつながりが見えて面白いなと思いました。最近は西洋美術から古代ギリシアについても勉強していたりするので、縁があればロシアまで手が伸ばせるかなと思います。Ωはロシア語にはないっぽいですね。

 

そして今回、ダニールがもったいぶって言っていたのが、Patience. 忍耐ですね。

patientだと患者という名詞か、忍耐強いという形容詞になります)

最近よく言われていた言葉なので、みんな苦笑いしていましたが、セミナーが終わってみると、実はそこがセミナーのテーマだったのかなと思ったりします。

 

その理由はセミナーの内容を振り返りながらいきます。

 

 

まず特別クラス(12日)と2日間のセミナーを通して、初めは全て室内を歩くことから始まります。ダニールは室内を歩くワークがとても好きだと言っていました。

特に目を閉じて歩くワークが好きだと言っていましたね。

 

室内を歩くのはいろいろな効果があると思います。

 

僕なんかは普段会えない方と話したり、昨日のワークはどうだったとか、最近どうですかとか話したりするのが好きです。本当はしっかり呼吸しないといけないとは思いますけど。そうやって自分を会場に慣らしていく感じは大事だと思います。

 

ダニールがこのワークをするといつも違う感じ方をすると言っていましたが、それは自分のその日の体調だったり、フィーリングだったりを感じる。という以外にも会場自体の持っている質感だったり、会場にいる人が作り出す雰囲気や、場を感じることができるということだと思います。

 

インストラクターレベルの方々だとどうしても場の雰囲気を感じる力は大事になってくるはずなので、そういう部分のコントロールも兼ねているのかなと思います。

歩き方によって、その人の姿勢や歩き方を見て、レベル感を見てるっていうのもあるかもですね。

 

僕は正直会場質感を感じることで精一杯な感じです。

たまに、べたべたいろんなところを触っているのはそういうことです。

 

 その後のワークはだいたいプッシュアンドムーブですね。

 

形は様々ですが、初めはグラウンドから。

相手に踏ませるプッシュから。相手のバランスをその方が取りやすいというのが踏ませるワークから始める理由だと言っていました。

 

踏まれたときに逃げるのではなく、その力の大きさと方向を感じて全身に通すそうすると、相手とのコネクトができて動かせるようになる。

 

色んな部位でやりましたが、足の内側は痛いですね。

痛いは痛いで楽しいですが、痣にならない程度でうまいことやってください。

当たり前ですけど、プッシュする方も大事なワークです。

 

ダニールはいろいろすっ飛ばして相手のバランスを取ればいいんだという言い方をしてましたが、まずはしっかり全身に通せるかどうか、力の大きさと方向をどこまで邪魔せずに感じきれるかが大事だと思います。それを邪魔するのはテンションなので、自分自身を知り、少しずつでも流せるようにしていくことが大事だと思います。

 

あとは二つ目の奥義の忍耐ですね。Patience

どこまで余裕を持って相手の動きを邪魔しないか。

 

あとのワークはそのバリエーションを変えただけとも言えます。

座るバージョン、膝立ちバージョン、片膝で膝の上に足を乗せて行うバージョン。

立って行ったり、複数人でワークしたりといった感じです。

 

ワークの流れとしてはグラウンドから座位、立位。そして身体でのコンタクトから、手足へのコンタクトという風なものでした。

 

ダニールのすごいところはダニール自身の動きがすごすぎるので、それだけでセミナーとして成立させられるところ、という結論に界隈では至りつつあります。

 

ダニールの動きを生で見て、雰囲気を感じ、ダニールに触るという3段階があればそれだけで楽しいというのが、ダニールの魅力なのかなと思います。

 

僕自身は参加できなかったのですが、インストラクター特別クラスの内容をリークしてくださった方がいまして、ダニールが質疑応答の中で、「生徒はインストラクターではなく、あなたという人を求めてやってくる」と言っていたそうです。

 

僕としてはこの一言だけでさらにメロメロなわけですが、そうあるべきだよなと素直に思います。

 

かなり意外な方面の方からクラスの内容を教えてもらったので、僕自身も少しはいい人になっているのかなと思ったりもしましたが、ブログによるシェアをしているせいでそういう縁が回ってきたのだと思い、そのまま止めずに流させていただきます。

 

ダニール自身がそれをまさに体現しているのが本当にすごいですね。

毎年レベルアップしているし。

「上手くなりたいと思うのではなく、ただ上手くなる」by Daniil Ryabko

 

みんな一緒に上手くなりましょう!

で終わりたいところですが、周りが最近上手くなりすぎてて言いにくいです。。。()

自分も上手くならないとですね。

ダニールのスペシャルクラス

スペシャルクラス(ダニール)

ダニールが最高すぎたので、ダニールのスペシャルクラスから書きます。

基本的に2日間とも先端から動くというのを基本にしてワークが組み立てられていました。セミナーの3日目にやった先端ワークを深めていった感じです。まずは呼吸しながら、先端から身体を動かして、歩く。たまにクルッと回転したり、上下動したりしながら自由に動きます。身体の一体感があると、先端の動きを小さくしても、身体が一緒に動くようになります。はじめのうちは寝っ転がって大きな動きから始めた方が分かりやすいと思います。

(この前のセミナー後のクラスでYインストラクターは先端ワークの後に、捻るワークを加えて、ローリングまで繋げており、見事なワークの組み立てでした。)

次はその先端からの動きを使って、向かってくるパートナーを避ける、もしくは向かってくる相手を先端からの動きで誘導し、相手を動かすことで、スペースを作る。

基本はこの2つ。それを1対2で行なったり、複数でやったり。

ダニールのワークはどれも楽しいものが多く、みんな楽しみながら、いつのまにかアンコンタクトワークを普通にやってるっていう。すごいものでした。

普段はワークの時に難しいなとか、よくわからないなどと考え込んでしまい、言葉に惑わされてしまったりしますが、ダニールは楽しいワークとして成立させていて、とてつもないなと改めて感じました。

今回のセミナーで1番印象に残ったのは、ダニールの質感。たまたま最近は質感を感じるワークによく取り組んでいたせいか、ダニールの柔らかさをとてもよく感じられました。

目には映るのにいつのまにか風景と同化していて、全く捉えどころがなくなる。本当にふわふわしていて、さわれるような気がしませんでした。どうしてそうなったのかを僕の飲みの師匠、、ではなくシステマ仲間の1人が聞いていましたが、答えはあっさりPracticeでした。

スペシャルクラスの中で、特に印象に残っているワークは、握手やハグをしてくる相手をコントロールするワーク。

握手してくる相手を他の人とマッチングさせたり、単にコネクトを切ったり、ダニールの代名詞的な握手してきた相手を崩していく(今回はあんまりやってなかったですね)というもの。

結局やってたのはコネクトをすることと切ることなのですが、それを先端からの動きでやると、楽に自由に 避けることもできるし、コネクトすることもできるし、コネクトを切ることもできる。

その実験がダニールの特別クラスでした。

水曜日は先端からの動きで、人混みをすり抜けるワーク。人混みの中、VIPをエスコートするワーク。その他には、3人組で恋人をエスコートしているところにもう1人がアンコンタクトで奪いにいくというもの。奪うというと手荒い感じになりがちですが、アンコンタクトでやるとそういう感じはありません。というか、手荒い感じを出すと上手くいかなくなるという、実にシステマ的なワークでした。

ダニールがこういうワークをやると、自然についていってしまう、というかついていかないと逆にテンションが入るので、付いて行かざるを得ないのです。見てても、受けてても凄すぎてついつい笑ってしまいます。 テンションを感じさせないで方向のみを与える。とダニールは言ってました。

奪うワークをやった後は、エスコートしている人もまとめてコントロールするっていうワークです。エスコートしている人もまとめて、いつのまにかエスコート下に入るというなんとも不思議なワークでした。

そのあとは複数人のコントロール、止まっている相手をコントロールするパターンと、自分に向かってくる相手をコントロールするパターンをやりました。人によっての個性がよく見えて、これまた面白いワークでした。

その他火曜日にはエスコート(本当はただ立ってる相手ですが)している相手を使って、向かってくる相手を崩す、相手が自分に触れないようにすると言ったようなワークでした。

エスコートっていう意識は、システマ的には大事なのかもしれませんね。おもてなしでもいいですが。何かしてやろうというよりも、気持ちよく動かしてあげた方がお互いに気持ちが良い、Confortableになれるということかと。

セミナーの振り返りに繋げようかと思ったんですけど、ダニールのスペシャルクラス最高すぎて、これでひとまず終わりにします。

7月にもダニールくるので、是非みんなでセミナーに行きましょう。東京のは申し込み始まったようです。

(大阪も行っちゃいたいなー)

アンコンタクト

皆さんお久しぶりです。

仕事が忙しいという言い訳をもとに更新をさぼっていました。すいません。
どういったことを書いていくのか悩んでいた時期でもあったので、ちょうどいいブレイクをもらいました。ありがとうございます。


今は仕事だけでなく、その他もろもろ忙しくなってきてしまったので、5年後くらいにはそこらへん全部ビジネスにしてしまいたいなというのが正直な思いです。(まったりする時間が欲しい)
今はいろいろと至らないところが多いので精一杯失敗をして、うまい具合にまとめていけたらなと思います。

僕の好きな映画のセリフの一つに “You don’t make mistakes. Mistakes make you. Mistakes make you smarter. They make you stronger, and they make you more self-reliant.” というセリフがあります。

ざっくりと訳すと、あなたが失敗を作るのではなく、失敗があなたを作る。という感じです。日本語にしてしまうと変な感じですが、英語にすると妙に良いですよね。ここらへんは語学の面白さであり、翻訳の難しいところだと思います。

ちなみに映画のタイトルは、「あなたの旅立ち、綴ります」(The Last Word)です。

この言葉のように思いっきり失敗して新たな自分を創り出していきたいなと思ってはいます。それこそシステマは、僕の中では安全に失敗ができる場なので、本当はもっと思いっきり失敗していきたいなと思ってはいますが、なかなかうまく失敗できないのが面白いところだったりします。

一番辛いところは、失敗を楽しんでいるときは、超内省している時なので、表面上楽しく振舞えないってところですね。


それはともかく。

今回は2019年令和初のミカエルセミナーの振り返りです。

今回のセミナーのテーマはアンコンタクトワーク。
正式にはアンコンタクトという言葉はないそうですが、日本人お得意のネイティブには伝わらないカタカナ英語を勝手に作る方式を貫きたいと思います。
ノンコンタクトは言いにくいのと、裸眼っぽさがあるので、あまり好きではないのです。(勝手)


接触のコミュニケーションのことですね。そこをシステマでどう練習するか、ミカエルはどう考えているのか、の一端をみせてもらったという感じだと思います。


最近、色々なセミナーや講座に出て感じるのは(システマに限らず)インストラクターが伝えているのは、単に内容(システマの場合はシステマ、先生の場合はその担当科目)のみを伝えているわけではないのだなということです。システマの場合は、特にその範囲が膨大なので、ぼんやりしがちなのですが、どうやってもインストラクターの人となり、場の雰囲気(作り方)、話し方などのほうが、技術よりも大きなファクターなのではないか。


映像技術や、通信手段が発達し多様化したからといって、ミカエルやそのほかのマスター達の作る雰囲気や人となりに触れるというのは、動画や写真から伝わるものではとてもないなと思いました。


それこそ今回のテーマのアンコンタクトは映像で見る限りではインチキ臭いことこの上ないものですが、実際にやってみると普段誰もが使用しているものであることがわかります。

ただ、それをミカエルの感受性と、動きの精度の高さでやると、よりインスタ映えする動画になるということなのです。

そもそもミカエルが生きてきた戦場というのは最もリアリティが必要な場所であり、そういった方々が行っているシステマが、リアルから外れるわけがない。ということを改めて感じました。


リアルで思い出しましたが、今回引っかかった部分は「自信」という言葉です。

何人かの方とお話しして思ったのですが、多くの方(自分を含む)は自信というのをアメリカンな、体が大きい人が威圧するようなものと勘違いしてはいないのだろうか。


それはそれで、もちろんアンコンタクトとして成立する(体が大きい人や、ムキムキの人を見るだけで威圧感を感じるので)とは思いますが、それがしたいのであれば、筋トレをしたり、薬でも飲めばいいので、システマである必要がないですね。

僕としてはConfidenceよりも Leap of Faithに近いかなと思っています。 Leap of Faithは信じて飛び込むという意味なので、そのままの意味だと少し違うのですが。。

これはもともとプラグマティズムを提唱したウィリアム・ジェームズが言った言葉で、プラグマティズムとは実用主義のことです。(功利主義に近い)

最近ではスパイダーマン・スパイダーバースに出てきました。(今年のダントツ一位の映画なのに、それすらもブログで書いていないことに気づき、さぼりすぎたなと思っております)


現代アメリカを作った大きな一つの思想です。 様々な主義、主張、宗教があるアメリカという国の中で、いろんな意見があるのはわかるけど、とりあえず合理的な行動をしようぜ。というものです。(考え方とかは置いといて、みんなでお金稼ごうぜの方がわかりやすいかも)Leap of Faith についていうと、自分たちの主義とか思想を疑ったりしないで、とりあえず信じて行動してみよう。うまくいかないかもしれないけど、それで少しでも救われるなら、悩まないで行動しようぜ。という考え方です。


ミカエルのセミナーなんかはまさにそうで、今回のセミナーも、フィジカル的なものからアンコンタクトに徐々に移行していくんだろうなという予想を裏切り、始めからがっつりアンコンタクト。

戸惑いながらもワークをしながら、ミカエルに触りながら、三日間過ごすとなんらかの掴みがある。とりあえず信じてやってみようぜと。


まあおそらく、ミカエル的にはシンプルなことを言って、やってるだけで、アンコンタクトでの自信というのも、明確な指示を出せというだけのものかもしれません。
標識が消えてたら伝わらないし、言葉だって僕みたいにぼそぼそ喋ってたら、伝わるものも伝わらないはずで。

ではシンプルなはずのものができないのはなぜかっていうのはおそらくあり方なんでしょう。テンションがあって、自分と外の世界との間に壁を作る。自分の感覚に蓋をする。(歩きスマホ、イヤホン、その他諸々)そうしたものを少しずつとっていくのがシステマなんだろうなと。


しかし、アンコンタクトで明確な意思を相手に伝えるというのは、これほど私生活で役に立つワークもないのではないか。


日本人の苦手なアイコンタクト、姿勢、ボディランゲージ、握手など。ハイコンテクスト文化のまんま悪いところだったりしますが、身体を意識的に動かして相手に明確な意図を伝える練習ができる場所、というのが日本には少ないので、こういったことをうまく生かせれば、ビジネス界でシステマが流行る日もそう遠くないのではないかと思ったりもしてます。

とりあえずシステマ人口4桁に乗っけたいですよね。とか思ったり思わなかったり。

セミナーの内容についてはこの次で。。。。

 

セミナーから一か月、セミナーまで一か月

  

早いもので、ザイコセミナーから約一か月半が経過しました。あれからというもの、様々なところへ出稽古をしに行って、少しでも復習の時間を多くできるようにしております。

今まで、セミナーなどでお見かけしたり、少しばかり会話していた方たちとも、多く練習できり、会話したりできて、楽しく過ごさせていただいております。

 

 

そんな中、気が付いてみれば、3月も終盤に入ろうとしています。もうすぐ平成という一つの時代が終わる前に様々な著名人の訃報が聞かれることが多くなっているように思います。そして、スポーツ界ではついにイチロー選手が引退しました。

 

 

あまり野球に興味がない自分ではありますが、日本スポーツ界を引っ張ってきた異質な存在として、イチロー選手のトレーニングや考え方に注目していた人は多かったのではないかと思います。

 

 

当たり前のことかもしれませんが、海外での注目度も非常に高く、改めて一人のアスリートとしての尊敬の念を深めるばかりであります。

 

 

3月が終わるということは年度末ということです。そして自分にとっては4月からは転職先で働くことになるので、新生活という言葉が似合いそうな気もします。

 

まあ自分としてはいつも通り、「やるべきことをコツコツと」しかできないので、特に浮かれたりすることもできずに、終わらせるべきを終わらせ、行うべきを行っております。

 

 

仕事先が変わるということは、環境が変わるということです。なかなかに忙しく、色々な所へ飛んでいくことも多くなりそうで、そうなってくるとシステマを今までのようにはできないだろうなぁとも思っております。

4月から一か月近畿で研修、みたいな話もでたりで、次に会うのはミカエルセミナーで、ということになる方も出てくるかもしれません。

 

そもそもミカエルセミナー行けんのか?という話にもなりそうですが、絶対に行くぞという強い気持ちと、ゴールデンウィークだし大丈夫でしょう、という軽い気持ちを合わせて、先ほど申し込みしました。

 

 

今年度は自分の練習の拠点が赤坂に移ったこともあり、クラスに出る回数がかなり多くなりました。ほぼ毎日あるクラスと、月謝制による練習出放題というのはかなりありがたいもので、なんだかんだ、平均で週4回は参加していたような気がします。

 

 

クラスに多く参加できた。というのはとても良かったのですが、片道1時間の道のりと練習後の飲み会に参加しすぎた結果、最近自分で練習する時間が少なくなっていたように思います。

 

そしてザイコのセミナーの後ということもあり、より一層何を練習したらいいのかわからなくなっていました。

 

 

そうした時にやっぱり立ち戻るべきは呼吸ということで、最近はどこに行くにも呼吸を意識するようになりました。

 

 

そもそもザイコセミナーが呼吸のセミナーだったからともいえます。

ただ、ザイコの言葉は時にハイデガーのような難解さを感じてしまうことがあり、難解さを頭で考えてどうにかしようとすることで、感じる力を失ってしまいがちです。

 

 

言われたとおりにやるだけで見えるものがあるのに、自らそれを手放してしまうことがいかに多いかを改めて感じる次第です。

 

 

呼吸という次元、呼吸の状態を呼吸で整える。

 

 

自分が最近やっているのは、呼吸を全身に通して、感覚を広げ、広がった感覚に呼吸を合わせていく。そうすると自分が初め全身に呼吸を通した時よりもはるかに広く呼吸できているように感じます。そして、実際に身体も大きく開いて姿勢が良くなります。この時いかに普段の呼吸が足りてないのかを実感するのです。この感覚を壊さないように街中を歩いたり、今までやってきたワークをやったりしています。

 

どうしても丁寧に繊細にやってしまうのですが、早く感覚に慣れて、自由に雑に動けるようになりたいなと思っております。

 

 

ちなみに、なんだかんだとプリズナートレーニングを続けています。最近ではかなりハードになってきて、回数が伸び悩んでいたのですが、この呼吸の状態をできるだけキープするようにすると不思議なもので回数が増やせるのです。

 

ただ、ココが面白いのですが、例えば前回14回できたので、今回は15回やりたいと思うとします。そこで状態を作り、その状態を崩さないようにトレーニングを行います。最初のほうはそれなりに状態を保っていられるのですが、目標回数を意識した瞬間この場合13回身体が重さをもってしまい、かなりきつくなります。

 

 

いかに自分の状態が思考に引っ張られているかを感じるとともに、言葉の持つ力のようなものを感じます。

 

 

しかし、こうした感覚がおぼろげながらもみえてくると、ザイコがセミナーでちょくちょく言っている、見た目のフィジカルトレーニングを呼吸のトレーニングとして扱っているという意味がようやく理解できるのです。

 

 

嘘言ってたわけじゃあないのか、疑ってすいませんと思うわけです。ここでも素直になれない自分が浮き彫りになりますね。「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」といったのはカエサルだったかな。。。

 

 

あとはその感覚をもってスティックやら、シャシュカに自分を動かしてもらうっていうのをやり始めました。

 

呼吸に動かしてもらったり、武器に動かしてもらったりと、より一層他力本願に変わりつつあります。

 

 

自分のからだからいろんなものが抜けていくと、2001年宇宙の旅のようにモノリスによってからだを持たない存在になり、攻殻機動隊のようにいろんなからだをもつっていう発想もわからなくはなくなってくる。

 

現代における、薄いデータ、厚いデータも近い話だけども。

 

 

結局今の風潮的に身体に戻ってくるのも人間の限界かもしれんが。

 

 

というわけで、ミカエルセミナーまであと一か月。それまでに環境がどう変わるかはわかりませんが、できることをやるのみなのです。

カフェオレ

グリーンブック。ようやく観れました。作品賞もROMAが取るのではないかと思っていましたが、観てみたら納得の一作でした。

 

ROMAもおすすめの作品ですが、白黒映画で、時代背景などとも相まって雰囲気が暗めなので、グリーンブックのような明るく、笑えるけど社会問題にもしっかり焦点を当てている。そして事実に基づく話。誰もが楽しめるという部分も含め、作品賞を取っても反論の余地がない作品でした。

 

 

そういえばROMAが劇場公開するそうで、観る前はなんで劇場公開しないんだろうと思っていましたが、観た後は、あの映画は劇場公開しなくてもいいんでなかろうかという思いもありした。特に反対なわけではありませんが。

 

 

そしてついに最後の「午前10時の映画祭10」のラインナップが公開されました。今から非常に楽しみです。スピルバーグの3作品に始まり、バックトゥザフューチャーの3本に終わる全27作品。どれも名作中の名作といって過言ではないと思いますが、僕はそのうちの7作しか観たことがなく、観たことがない名作たちを初めて観るのがスクリーンで、とても幸せだなーと思うわけです。

 

 

と、いうわけでハート・ロッカーの話でもしますか。(どんなわけだ)

ハート・ロッカー。キャサリン・ビグロー監督が女性初のアカデミー監督賞を撮った作品です。最近だとこの監督はデトロイトゼロ・ダーク・サーティーで有名ですね。

 

 

ずっと気になってはいたのですがなかなかタイミングが合わず、最近ふと話に出たのでようやく観ることができました。

 

 

ゼロ・ダーク・サーティーは観ていたので、戦争描写や人物の心情を描くのがうまいのは分かっていましたが、ここまである種の体育会系的な男くさい感じを描けるとは思いませんでした。っていうかむしろ男より上手いんじゃあないか。僕なんか女性の気持ちなんか全然わからんけどなー。とかオスカー監督と比べるのがおこがましいことすら考えてしまいます。ある意味BLっぽいと言えなくもないのかもしれんけど。

 

心理学の先生も結局のところ、どの性別にしても、自分が生きる性別以外のことはわからない、性別の違いを語るときにはそれぞれの性別の方々に話してもらうのが良いとのことを言っていました。そう考えるとやっぱりすごい。

 

そもそもお前は人間の気持ちがよくわかってないと言われればそれまでですが。

 

 

映画に限らず、男性作家の女性の書き方が押し付けっぽい、固定観念に縛られたもののことはよくあるので、そう考えてもすごいなあと思う。もちろん実際の軍人の話であったり、アドバイザーや役者の意見もあるにはあるんだろうけど。

 

 

そしてこの映画のすごいところは、そんな男たちはお互いに敵の見分けがついていない所です。

 

 

主人公のジェレミー・レナーは基地にDVDを売りに来る地元の少年ベッカムと仲良くなり、サッカーをしたりする場面があり、自分の子供かのように(自分が家にいないことへの贖罪の気持ちもあるのかも)優しくします。

 

 

しかし、ある時、作戦中にベッカムが殺されて人間爆弾にされているところを発見し、いつもなら陽気に爆弾処理をするレナーが、この時から戦争に対して考えを持つようになってきて、全くブレない機械のような男が人間の心を取り戻し始めます。

 

 

そして、ベッカムを殺した犯人を見つけるために暴走し、仲間をケガさせ、軍のルールを破り、歯車が狂い始めます。そんな中、基地にDVDを売りに来たベッカムを発見し、自分が敵だと思っていた人と、現地の人を全く区別することができていないのだとわかります。

 

 

そして、そもそものテーマになっている爆弾処理班という武器を無力化するという、戦争自体への否定をする存在も、現地の人からしたら敵であり、石を投げる存在に見えているわけです。

 

 

これは自分たちが見ているあやふやな情報をもとに相手を判断しているということがわかります。

 

 

人種差別はまさにここから始まっているのではと思います。

 

グリーンブックの二人組は白人と黒人です。

 

CMで使われていた言葉で、”If I’m not *black* enough and if I’m not *white*enough, then tell me, Tony, what am I? 「黒人でも白人でもなければおれはいったい何者なんだ?」

ピアニストとして黒人ながら高い地位でいるも、バーで飲むことも招待されたホールに付属のレストランに入ることもできない。白人からも差別され、地域の黒人からはお高くとまりやがってと差別されます。

 

 

トニーも見た目は白人ながら、イタリア人なので半分黒人だと差別され、スラム街のようなところで腕っぷしと、でまかせでのし上がってきたので、逆にホールの中に入れない黒人とは仲良くギャンブルできても、ホールの中の白人からは下に見られます。

 

 

お互いに居場所がないのです。そんな二人が旅を続けていく中で、歩み寄り、清濁併せもつようになっていくところに人間の成長と可能性を感じるのでした。

 

 

肌の色に限らず、白黒つけられるもの、正解、不正解で分けられるものはほとんどないので、基本的には白黒つけないカフェオーレがちょうどよいのではないのかなと思います。味は飲んでみてから判断すればいいのだから。

 

 

コーヒーはブラック派ですけれど。

 

それにしてもバディムービーというのはやっぱりいいですね。いろんなものを超えていく。

I’m tryin’ real hard to be the shepherd

3月8日は国際女性デー。だからというわけではなかったのだが、「82年生まれ、キム・ジヨン」を読了した。

 

何とも言えない。何とも言えないのは面白かったとかそういうレベルで片付けられる話ではないからである。


話は82年生まれのキム・ジヨン氏が出産後の鬱により他人の人格が乗り移るようになり、カウンセラーのところへ通うようになる。そのカウンセリングの記録形式で、82年に生まれたキム・ジヨン氏の人生を赤裸々に振り返る。その中で語られるキム・ジヨン氏の人生というのはありきたりな一人の女性人生として描かれているが、ありきたりな女性の人生がいかにハードなのかということを表している。

 

 

僕にとって韓国というのはかなり身近な存在で、もともと韓国ドラマをよく見る家庭に育ったので、韓国の文化については割と知っている。好きな恋愛映画歴代1位はいまだに「猟奇的な彼女」。「猟奇的な彼女」が直訳なのかどうかはよくわからないが、僕的には韓国の女性は結構気が強い女性イメージがあり、僕自身の昔の彼女もあんな感じだったので、別に猟奇的でもないんじゃあないかと思っている。

 

ある意味韓国人女性に対するステレオタイプといえるが、日本人女性に対する、3歩後ろをついて歩くというものよりかは、よっぽど当てはまっているような気がする。ステレオタイプなんて時代とともに変わるもの。

 

さらっと触れてみたが、僕の昔の彼女は韓国人でニューヨークにいた時に知り合った。あまり長い期間付き合っていなかったので、僕の韓国語はあまり上達しなかったが、韓国の文化や韓国の映画には多く触れさせていただいた。というか、何を隠そう僕の映画好きは彼女の影響なのである。そう考えると、人との出会い、一期一会、一人の人間が他人に与える影響は思いの外大きいのではないかと思い、いいかげんに生きてはいけないなあと思ってみたりする。


「82年生まれキム・ジヨン」で描かれる女性は大きく3パターン。おばあちゃん、お母さん、そしてキム・ジヨン氏である。


おばあちゃんはザ・男尊女卑社会に生まれ育ってきたため、絶対的に男を立てていこうとする。それがたとえ自分の孫であっても自分の考えを突き通し、孫にまでその考え方を押し付ける。


お母さんはそういう考え方がはびこる社会での抑圧を受け、自分たちの子供たちにはそういう思いをさせたくないと常に考えており、どんなに景気が悪く旦那が失業しても、自分たちの力で娘たちにはちゃんと大学まで行かせてやろうと苦心する。


そして、キム・ジヨン氏の代である。これはおよそ現代の日本の女性と同じようなものだと思われる。ただ、キム・ジヨン氏が大学へ行き、就職するころの韓国はかなり景気が悪かったようで、そのあたりの就職難な部分も同世代の自分としては分かる部分があるように思える。


だが、しょせん分かったように思えるとしか言えないのである。


なぜなら僕は男性だからである。


フェミニン映画もよく見るし、女性作家のエッセイや小説、ハリウッド女優のインタビューも読み、フェミニンの記事を読むように努力している。かなりフェミニンよりの考え方を持っている(と思っていた)自分もこの本を読んで打ちのめされた。


全然わかってなかったなあと思うし、自分の無知さを呪うばかりである。

というか現代の男性はどれくらい理解しているのだろうか。多数が理解できていれば、そもそもフェミニストが生まれる必要もなかったのだから、男女間での理解のギャップは思いの外大きいのではないかと思われる。

 

この本の中にもあるのだが、OECD加盟国中、男女の賃金格差のワースト1位が韓国である、日本は3位である。隣国で近い分政治的には争っているようであるが、内情としては似たり寄ったりなのではないだろうか。向こうはすでに女性大統領が出てるっていうのはあるけれども。

 

賃金の問題はMetoo運動の中でも盛んに取り上げられていているし、あれだけ煌びやかに見えるハリウッドの世界からMetoo運動始まるのだから、順位に関係なく、大きな問題としてとらえなければならないのだろう。賃金に限らず。
最近のハリウッド女優の記事では必ずと言っていいほど、フェミニズムの話が取り上げられている。

そして、多くの女優は映画の多くの女性像は男性の理想像であることが多く、女性の監督、脚本化、俳優の数が増えてくればより現実的な女性像を描くことができるのではないかと考えている。

 

内面のセクシュアリティにかかわらず、男性である以上女性は意識するし、女性にも意識される。女性が夜道で後ろを男性に歩かれたとしたら、たとえ僕のように体の小さい人でもそれなりに意識するだろう。というか僕も夜道で人が歩いていたら警戒するけど。

 

結構努力していたつもりだったんだけれどなぁという感じである。
なんとも I’m tryin’ real hard to be the shepherd.(羊飼いになろうと本気で努力してる)と改めて思い直す次第であった。(このセリフわかる人いるかしら???)


結構古い映画に出てくるセリフで、最近見直したときに妙に気になってしまい、ずっと心に引っかかっているセリフである。


これから入る新世界にはフェミニン色の覇気はほぼ必須といえる。


イーストブルーにいた間は覇気なしでもどうにかなるが、新世界では標準装備と言えるだろう。鎖国と差別が好きな国がどう変わっていくのかは興味があるところではあるが、はたして国際基準に乗っていけるだろうか?? 
時代遅れになりつつある、テレビ業界がいまだにあれだけの力を持っているというのも不思議であるが、20年後今の小さい子たちが大人になるころにはさらなる加速度でいろいろなことが変わっていってしまうだろう。


覇王色の覇気でももっていればいいのだろうけど、ないものにあこがれずにできることを地道にやっていく。

アカギの言うように、「責任をとる道は、もっと地味でまっとうな道」なのである。

女王陛下のお気に入り


女王陛下のお気に入り
面白かったです。町山さんの言葉を借りれば、苦笑いコメディ。
なかなかゲラゲラは笑いにくい内容だったりしますが、ついクスッと笑ってしまうような作品でした。

 

女王を中心に、権力を持っているのは女性。もちろん軍人などは男性ですが、女性が媚びるようなシーンはなく、むしろ男性は頭が悪い、もしくは子供らしさが全面的に押し出されており、それを女性が利用して、ないがしろにして、バッサバッサと言葉や態度で切り裂いていく様は見ていて痛快でした。エマ・ストーンの初夜のシーンとか、男の僕が笑っていいんだか、悲しいんだか、わけわかんなくなりそうでした。女性の皆さんは爆笑してください。

 

英国版大奥と、色々なところで言われていますが、まさにそのまんま。レイチェル・ワイズエマ・ストーンの二人の対決は見ていてハラハラドキドキさせられっぱなし。

 

主演の女王役、オリバー・ストーンはトランプをモチーフにしたと本人が言ってるように、わがまま放題のやりたい放題。政治のことは一切わからず、女王にされてしまって自分の意見はもっていないし、力の使い方も全く分かっていないので、自分のコンプレックスに触れるものを権力でなぎ倒すことしかできない。

 

そんな権力者をいかに利用するかという争いの中で、巻き添えを食らうのは描かれない
戦争に行っている人々。そして圧政に苦しむ民。
アメリカ政治のみならず、韓国や中国、もちろん日本の政治にも関係するような内容で、笑うに笑えず、苦笑いをし続ける2時間でした。

 

この作品、さまざまな部門でアカデミー賞にノミネートされていますが、特に助演女優賞エマ・ストーンレイチェル・ワイズと二人ともノミネートされていて、どちらが取るのか非常に楽しみです。

 

僕はレイチェル・ワイズのカッコいい女性像に引き込まれてしまったので、ぜひとも助演女優賞取ってほしいなと思っております。前回取った時のナイロビの蜂はこれから観てみたいです。

 

Twitterでも呟いたのですが、ぼくは前々からカッコいい女性というのが好きで、ふと最近これはココ・シャネルが最初なんだなと思い出しました。

 

中学の頃か、高校生の頃なのかは定かではありませんが、ココ・シャネルにはまった時期があり、そのころからカッコいい女性への憧れがあったように思います。


しかし、一方でそのくらいの時期、特に高校生以降は部活が体育会系だったこともあってか、男らしい男を自分自身目指すようになりました。


そこらへんは読んでいた漫画なんかからも影響を受けていたように思います。
特にジャンプの全盛期というのはヒーローといえば男であり、女性はサポートや母性の象徴としてのみ、いたように思います。

 

そしておそらく、僕がフェミニンな考え方に触れたのはエマ・ワトソンのUNでのスピーチだったと思います。たしか大学生のころ。大学のころは体育会系の部活の中でリーダー系の役職に多くついていたので、それこそ今の自分では想像できないくらい、男らしい像を演じていたように思います。


なので、大学時代の友人、特にあまり僕と近くなかった友人に会うと昔の自分を演じなくてはいけない気になってしまいかなり疲れます。最近はましになりましたが。

 

 

そのころから比べると時代はかなり変わってきた、もしくは変わりつつあるような気がします。

 

特に外国では。。

 

ハリウッドではそういう影響もあり、今までないがしろにされてきた側の人々にスポットライトを当てた映画が多くあるような気がします。

 

一つはトランプがいる時代という意味もありますが、そうした抑圧によって生まれる芸術というものはかなり多くあるので、何事も、良い、悪い、と二元化できるものではないなと思います。

 

そうした流れに乗れる人、乗らない人、遠くから見てる人、抗う人。

 

これも、どれが良い悪いという話ではないのですが、棹をさせば流されるもので、システマ的に言えば、流れに乗りたいところ。

 

と思いつつ、7部に出てくるリンゴォ・ロードアゲインの言う「男の世界」に共感してしまう自分もいるわけで、ここら辺は難しい。

 

光り輝く道。デイライトといえばアメフトのランニングバックであればだれもが見ていたものなのでなんだかんだそこへの名残もあるような気がします。。

 

とはいえ、この「男の世界」とフェミニンな流れは、実は相反するものではないと思います。

 

フェミニン映画。という括りが正しいのかはわかりませんが、あえてそういう括りをすると、女王陛下のお気に入りサスペリア、天才作家の妻、アリー、シュガーラッシュ、と上げきれないくらいあるわけです。この半年の中だけで。

 

ただ、こういう時代の流れに男はどうやって乗っていけばいいのか。それがあまり描かれてはいないような気がします。

 

なので、僕くらいの男性主義社会を見せられ続けてきて、社会に出てみればそんな時代は崩壊しつつあるという世代の男性陣は、結構悩んでんじゃあないかなと思ったりします。

 

男性主義社会を作ってきた爺さんたちは逃げ切っちまえばいいから楽だよなと思いつつ、今になって、ハリウッドなどでは、MeToo運動が起こったりと、過去の罪を償わなくてはならないようで、爺さんたちも大変だなと思うわけです。

 

まあ自業自得といえば、それまでですが、時代の価値観に縛られてきた人々、シェイプオブウォーターのストリックランドなんかは時代の被害者の一人として描かれてました。加害者が実は被害者だったみたいなのはよくある話で、だからこそ自分のこと(傷とか)をよく知らないといつの間にか加害者になってたりするので危ないわけです。Know Yourself。コントロールが大事なわけです。

 

歩けよ乙女、悩めよ男。

 

誰もが自由に生きていい時代なはずので、僕ももうちょっと自由に生きたいなと思います。

 

かっこいい女性のファッションをまねるとかしたいですね。女装ではなく。これはノエル(オアシス)がなんかのインタビューで女性の靴のほうがオシャレだから、女性ものの靴はいてるって言ってたのをマネしようって作戦です。もちろんサイズなどの問題もあるので色々解決策を探す必要はありそうですが、コーチ(クロエ・モレッツ、マイケル・B・ジョーダン)とかはそういうファッションも取り入れてそうなので、最近はSNSで色々研究中です。ルビー・ローズ姐さんなんか、男よりカッコよくて、キレイで自由でオシャレ。かくありたいものです。ゼンダヤのスーツ姿とかもとてもカッコよかった。

 

明日のアカデミーの参加者のファッションも楽しみです。