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ゴトウユキコ/水色の部屋


水色の部屋<上>

水色の部屋<上>

水色の部屋<下>

水色の部屋<下>

Amazonに投稿しようと思ったが、長くなりすぎたためブログに投稿。

最初に- 今作は近親相姦ものでは決してない

他のレビュアーも書いている通り、あらすじは「陰キャ男子高校生の周囲の女性達が、イケメンDQNなクラスメイトによって踏みにじられる話」である。
煽りにもある実母への屈折した劣情といった近親相姦的な、アブノーマルな雰囲気は読めば分かるが全くといっていいほど「ない」。


高校生の主人公は、雪見だいふくみたいな若い母親と二人暮らしをしている。実母への思いは純粋な思慕であり、愛情に見える。作者や出版側がいうほど倒錯した近親相姦的劣情は垣間見れない。


冒頭のDQNによる母親のレイプシーンは本作のつかみではあるが、該当シーンに至るまでの過程は、やはりそうなったか的展開で、母親がレイプされているのを見ながら、主人公がオナニーするのも、ストーリー全体の主旨というより、とりあえず手持ち無沙汰なのでオナニーさせてみたといった印象だった。

もう一人の幼馴染みヒロイン

同時に、Wヒロインのもう一人である、幼馴染みの女子も、DQNと付き合いながら、常に主人公を気遣ってくれる。幼馴染みは、見た目もかわいく、性格もよい。
しかし、DQNに流されるまま、ハメ撮りされたり、ブルセラに行ってしまう。


……。


ブルセラ??とツッコんでしまったが、まだあるのか?
いつの時代の話をしているのだ。。

僕の優しい世界が壊される物語

DQNが母親に接触するまで、主人公は陰キャながらも異性に恵まれ、母親が懇意にしている再婚候補の男性も優しい。
つつましくも幸福に生きていた周辺の優しい人々が、DQNの悪意により無残に傷つけられていく。


その過程に、幼馴染みのハメ撮り動画の流出や、母親をレイプされたりするわけだが、主人公はDQNに復讐するも、殺すまでに至らなかった。


この後は後日談となり、DQNは主人公をあっさり恐れるようになり、主人公は自首し、のちに幼馴染みと共に町を離れ同棲している。母親はどうやら例の男性と再婚する様子だ。


母親への屈折した劣情()はどこへいった?

主人公の性別置き換えが可能な本作

そもそも本作は近親相姦がテーマというのは大嘘で、もしくは意図したかったが、作者の力量が足りず力及ばずなだけである。


読了後、さらに気がつくのは、この作品、主人公を女子に置き換えても違和感なく成立してしまうということだ。


レイプシーンで主人公は止めに入らない。止められる自信がないからであり、母親への性愛が本物なら、飛び込み修羅場を繰り広げたはずだ。そうでなくても、後日の復讐では確実にDQNを殺したであろう。
しかし、主人公を女子に代替できると、主人公の行動に説明がつき、腑に落ちる。

鬱屈した思春期の性欲がテーマではない

母親がレイプされてる間、手持ち無沙汰なので、とりあえずオナニーさせたに過ぎず、母と息子の近親相姦ものとフューチャーされ、作品に接すると、読者は大いな肩透かしを食らう。


本作は若い母親と年頃の息子を、近親相姦的に擬態してみただけで、本筋は至って普遍的である。
極めて普遍的なテーマが実は作中にはっきりと示されている場面があるのだが、物語序盤、母親が父親であろうか?男性に暴行されている回想と共に、
「神様お願いですから 誰もお母さんを傷つけないでほしい」
と主人公のモノローグが語られる。


主人公の最も大切なこととは、母親に対する劣情ではないし、幼馴染みへのDQNへの仕打ちにしても、純粋な気持ちで、「かわいそうだから、そんなことしないでくれ」といった哀願でしかない。


「僕の周りの優しい人たち、優しい世界を壊さないで」


これこそが主人公の最たる願いであり、そこには肉親に抱く変態的性欲など微塵も垣間見れないのは当然ではないか。

DQNが主人公に目をつけた動機

DQNがなぜ、陰キャ主人公に目をつけたのか、その動機はDQNの口から説明されてもいるが、小物臭が抜けないせいか、主人公を真に脅かす邪悪さがないせいか、説得力に欠ける。言ってしまえば、攻略しやすそうだっただけ。


それにもしても、DQNのいやらしくも気持ち悪い笑顔は、作者がこういう表情しか描けないからか、意図して描いているのか見極めがつかない。というのは、ゴトウユキコはよくこういういやらしい笑顔を他の場面でも描くからだ。

ゴトウユキコという作家

ゴトウユキコの作品は『R中学生』の冒頭を少し読んだだけだが、「これって変態っぽくね?」といった押し付けがましさがあり、当時、全く面白いと思わなかった。


あれから数年、数作を経て描かれた本作も近親相姦の触れ込みで読んだが肩透かしを食らった。


本物の変態は間違っても自分がおかしいと思っていないし、本人にとっては、それがスタンダードで、普通のことだ。その異常性が真の変態の証ではある。


翻って、ゴトウユキコはデビューの頃から、変態やフェチに憧れるファッションフェチ作家だっただけだと思う。変態を名乗るには、なにもかも中途半端なのだ。
本来は至ってノーマルな作家であり、奇をてらった作風をやめれば、二宮ひかるや、その二番煎じ的『楽園』系の女性作家に落ち着くだろう。


他のレビュアーが「山本直樹浅野いにおが評価してる理由が理解できん」としていたが、自分には全くよく理解できた。
本作は意図してようがいまいが、たまらなく女性作家的な作品であり、彼らのように尖った男性マンガ家から見たら、安全圏の、全く脅かされないマンガでしかないからだ。


古谷実だったら、ここまで賛辞しなかっただろうと無粋なことを考えてしまうほどに。

DQNの名前が「河野洋平」に意図はあるのか

最後に、DQNのフルネームが「河野洋平」だが、名付けの理由に深い意味はあるのだろうか?


DQN人間性を考えると、某政治家へのリスペクトには見えないし、偶然この名前になってしまったとしても、本物の河野洋平がいささか気の毒ではある(笑)。

零落/浅野いにお

叙情とは何か


おやすみプンプン』の記事を書いた時、浅野作品を叙情的だと述べたところ、叙情を「(誉め言葉として)便利な言葉」と記していたツイ主がいたが、単に叙情の具体的意味が分からないだけだろう。


戦場のメリークリスマス』公開時に、大島渚が映画の説明で「伝わることの嬉しさ、伝わらないことの悲しみ」とギャグかネタみたいなことを言ったが、叙情とは実はこれである。


何気ない日常や場面だけで情感を描写し尽くすこと、説明抜きに見るものの感情を強く揺さぶること、否応なく感情移入させられること。
端的に言えばこれらが「叙情的表現」である。


浅野作品について言えば、「忘れたくないのに忘れてしまえること」「伝えたくないのに伝わってしまうこと」が『うみべの女の子』なり『おやすみプンプン』を構成していた。そのため、叙情という言葉で表したが、今作の『零落』も実に叙情的完成度の高い作品のため、先に前置きさせてもらった。

現代版『漫画家残酷物語

浅野いにおにしろ花沢健吾にしろ、売れない中年漫画家の悲哀を描くことに実に長けていると思う。
花沢健吾は言わずもがな『アイアムアヒーロー』の1巻であり、これまでの浅野いにおなら『世界の終わりと夜明け前』収録の『東京』だった。


そして本作は、永島慎二の『漫画家残酷物語』の分厚い三冊を束にしても、あるいはつげ義春の『ある無名作家』に匹敵するかもしれない傑作だ。
永島慎二つげ義春は貸し本漫画時代の漫画家たちの貧困と理解されないことの苦しみを描いていたが、『零落』はその現代版ともいえる。

売れない作品は不良債権なのか

かつて大塚英志が、「不良債権としての文学」と称して、「売れない純文学など滅んでしまえ」とばかりに文壇を糾弾し、笙野頼子と論争したことがあった。


確かに「下らなく、さらに売れない作品」は世に出てもムダでしかない。
しかし、大塚はここで決定的なミスを犯した。「売れないこと」の一点にだけ的を絞ったために、作品の「質」については問わなかった。
結果、「質は悪いが売れればよい作品」が増え、今のラノベや「なろう系」に繋がっていく素地を作った。大塚の功罪は計り知れない。


『零落』は、まるで大塚の主張を丸ごと飲み込み、そうした漫画家の苦渋を描ききった現代版の『漫画家残酷物語』である。


数だけが正義であるとするならば、そんな文化は不幸しかない。
『零落』も暗にそのことを示している。

「漫画」の縦軸と「女たち」の横軸

本作は縦軸に「漫画家残酷物語」としての、長期連載を終えたものの、新作を描けなくなってしまった主人公である漫画家・深澤がおり、横軸にはメタファーとしての「猫」と深澤を取り巻く様々な立場の女たちがいる。


配分としては、デリヘル嬢の「ちふゆ」との出会いから、彼女と過ごすエピソードが多いが、主眼となるのはやはり主人公にとって最大の理解者であり、なんの落ち度もなかった「妻」との別れだ。

「子供」のメタファーとしての猫

飼い猫の存在は、子供のいない主人公夫婦にとって子供と同等だ。
猫はほんの数コマしか登場しないが、作中の、始終張りつめた緊張感と息の詰まりそうな空気の中で唯一の安らぎを与えてくれている。


鳴くことすらしない愛猫は、おとなしく無垢で、夫婦のことなど何も分からない子供のようだ。


しかし、主人公夫婦が口論すれば、最初にアップされるのは驚いた猫の表情であり、二人の会話の合間も、階段からそっと覗き、出て行く深澤を黙って見送る。まるで父親が出ていくのを止めることすらしらない子供のように。


主人公夫婦は離婚を前提とした別居という道を辿るが、猫は妻に引き取られる。深澤が一番悲しむのは、猫と会えなくなったことだった。

「猫」のメタファーと子供

深澤は連載終了後から、歓楽街へ足を運ぶようになる。現実と理想の挟み撃ちのせいか、最初からデリヘル嬢に甘え、子供のように抱きつく。(もっとも、この嬢に関しては、頭の悪そうなバカな女性なのに、彼女の腕にある無数のリストカットの痕に気づいた直後の出来事だったが)


そんな中で、過去に付き合った猫顔の女性と同じ猫顔の嬢「ちふゆ」と出会う。ここでも深澤は甘える子供のように彼女に抱きつく。

猫の死と離婚

別居からかなり経たあと、愛猫が病死したことで、夫婦の絆が消えたように、深澤は妻と正式に離婚する。


猫は二人にとって大切な「子供」であり家族だった。

漫画を愛しすぎた漫画家

深澤は誰よりも漫画を愛し、愛しすぎた故に、自身まで追い込み、大切な人=妻を傷つけていく。
自分のことしか考えていない発言や行動が目立つが、主人公を取り巻く女性たちもまた、自分自身のことしか考えていない。


特に顕著なのはアシスタントであった女性が、何度も深澤のもとに訪れては、理不尽なことを言っては、深澤を苛立たせる場面だ。
彼女は主人公の身勝手さをなじるが、これ以上にないほど身勝手な主張をする。


蛇足だが、現実にもこういう人物は普通にいるので、自分は読んでいて頭が痛くなった。


両者の間に横たわる圧倒的な断絶感と距離感。通じ合えることは永遠にない。


浅野作品の登場人物は、現在のコンテンツ産業に蔓延する「何の努力もせずに幸福を手に入れている(あるいは手に入れてしまう)」主人公らとは違い、いくら努力しあがいても(あるいは努力していなくても)絶対に幸福になれない。

内省と感傷

作中には深澤の内省が貫かれてはいるものの、感傷については、時折見せる叙情的なカットの挿入---終盤、自宅の前で雨が降り出し、若く幸せだった頃の主人公と妻が、それはまるで『ソラニン』の主役の二人---の姿がフラッシュバックで登場する。

「君は…何にもわかってない…」

主人公はラスト、遂にある結論に達するが、それは自身の理想とかけ離れた、相容れない現実を受け入れることだった。


描きたいものより売れるものを描くこと。
冒頭で「描き手が読者を馬鹿にしたらおしまいだ」と言い放った深澤は、最後はそちらを選択する。つまり「読者をバカにする描き手」になるのだ。
若かった頃の野心に燃える自身の理想を望みえることなど二度とできないと悟りながら。


主人公はいささかも幸福になってはいないが、新連載の単行本発売記念のサイン会で、一人の女性読者の言葉によって激しく心を動かされる。

先生は私の神様です……!
これからもずっとずっと素敵な作品を描き続けてくださいね!!

それと同時に、過去、猫顔の恋人から言われた言葉を思い出す。

漫画に対していつも真剣で、ひたむきで、それが正しいことだと思ってる。


…だからあなたはいつだってそう。周りの人間を当然のようにないがしろにしてしまう。


あなたが漫画を描き続ける限り、あなたが漫画家の夢を諦めない限り、あなたは誰かを傷つける。


だって先輩はこの世の中で、漫画家が一番偉いと思ってるから

「漫画家が一番偉いと思っている」と言われ、主人公は恋人に殺意のような感情すら抱く。


深澤がこの世で一番偉いと思っているのは漫画家ではなく漫画である。「たかが漫画」にそこまで熱くなる深澤を「化け物=変わり者=まともじゃない」と言いきったからだ。


深澤の言動は自己愛というより、漫画を愛しすぎた故に拘りが強くなりすぎ、自分にも他人にも厳しくなった結果の産物だ。
しかし、往々にしてそうした作家は、肥大した自己顕示の塊だと誤解されてしまう。

作り手はもっと受け手を信じろ

数年前に他界した『旅芸人の記録』の映画監督・アンゲロプロスは、自身の作品の難解さについて「作り手はもっと観衆を信じるべきだ」とし、自分は観衆を信頼しているし、届く人がいると信じているから作風を変えないと生前に述べていた。


これは言うほど容易なことではない。こだわりが強く、表現そのものの可能性を信じ、個性の強い作家ほど、数字の前で敗北を味わうことが多く、受け手との溝に落胆する。けれども、元から受け手を信じていない作家など一人もいないのだ。


作家は受け手を信じたくても信じ切れない現実に直面し、自身の表現に苦悩する。
本作の主人公もそうした葛藤から作品を描けなくなるわけだが、最後はそうした拘りを完全に捨て去ってしまう。

浅野いにおの芸術性

深澤の設定が、『おやすみプンプン』の長期連載を終えた直後の浅野いにおのそれに被るのは言うまでもない。
前ほど売れなくなってきていることへの落胆と苛立ち、燃えつきてしまったような瞳の主人公。
しかし、実際の浅野は現在連載を抱えているし、それは『おやすみプンプン』からそれほどブランクを経ていなかったはずだ。


直近のインタビューを読む限り、本作は実話でありつつ実話でないような、半々の印象を受ける。
仮に自伝的要素があるとしたら、よくここまで自身を被写体化し、私情を交えずに描ききったと思うし、逆に全てが作り話だとしたら、鬼気迫る作家の切羽詰まった生き様のリアリティの描き方に驚くしかない。
どちらにしても、独りよがりにならず、自律した作品として完成度の高いものになっている。

有能な編集者と幸福な漫画家

それにしても浅野にこのような作品を描くことを許し、魅力を最大限に引き出し、浅野の持つ個性的な表現を許した担当編集者は優秀だと言わざるをえない。
その意味で浅野いにおは、作中主人公・深澤よりずっと幸福なのだ。


願わくば、こうした有能かつ優秀な編集者に守られながら、浅野が作品を描き続けてくれることを願うのみだ。

自分への差別だけ許さないレイシスト

だいぶ前の話だが、とあるモメサオタクから、発達障害について馬鹿にされ差別発言を受けて憤怒していたオタクがいた。
周囲も加勢し、差別発言は許せないと息巻いた。
自分も味方し、差別発言をしたモメサオタを心底軽蔑した。が、被害者であるオタクは、以前からネトウヨであることを公言し、特に隣国についてはいつも誹謗中傷しているのだった。


そこにいささか疑問を持ちながらも、被害者オタの見える場所で「自分は反差別主義者であり、レイシストは嫌いだ。特に対象を貶めるためなら手段を選ばず、捏造やデマすらでっちあげる」と発言したところブロックされた(ツイッターでのできごとだ)。


被害オタクの言い分は「ツイッターでは楽しく萌える話題だけがしたいため、政治絡みの話をする人は苦手なので切らせていただいた」とのことだった。
しかし、今やその被害者オタのツイッターは、差別発言をしたモメサオタク個人への怨嗟と呪詛ばかりで、萌語りの一つも無く、ひたすらあいつだけは許せない、自分より相手の方が劣ってるだのといった内容しかない。


そこで自分はこう質問を返した。
「差別されたことで悔しい思いをしたのであれば、差別されることの辛さは分かるはずだ。ならば何故、レイシストであることに疑問を持てないのか。主張に矛盾はないのか。
咎めているわけではなく、ただ純粋に理由を教えて欲しい」と。
もちろん返事はなかった。恐らく永劫、ないだろう。


この件に関し自分は1年前から、モメサオタから被害者オタが差別攻撃を受ける度に励ましていた。その都度、差別は絶対に許せない、モメサは許せないとしてきた。
しかし、どうやら相手にとっては「自分への差別は許せないが、国や国籍、人種差別は構わない」という考えを変えることはできないらしい。


差別発言を平気でぶっぱなす、そのモメサと本質が似ているからこそ、攻撃されているのではないかという気がした。
矛盾しているものは、矛盾しているものを攻撃しやすい。正論を貫けないからだ。


オタクが世間から疎んじられる理由はここにもある気がした。

アニメアイコンとレイシスト

ひさしぶりだなあ。何年ぶりの更新か。
ところで、同人板にある某スレのコピペ

今当たり前に晒しといたずらと誹謗中傷が蔓延してるけど、ネットが無かった時代って明確にやってはいけない犯罪だと常識として共有されてたよな
今じゃ悪いとも思ってない、手段の一つとしてしか捉えてない若い世代とか多すぎて、こいつら人としてやばすぎるでしょ


それとオタクブームにより一般からの当たりが弱くなったと言うけど、オタクの人間性のまずさを皆知ってるから、当たり障りなく静かにフェードアウトして関わりを持たないようにしてるだけなんだよな


昔はオタの発言なんて全く汲み取られなかったけど、それでよかったと思う
その頃から非常識な奴らばっかだったし
今はそれより遥かに悪化してる
昔みたいに発言権は一切なくていいよ


サブカル・オタク界隈自体に嫌気の差した同人者5 [無断転載禁止]©2ch.net

2段落目が真理すぎる。ヤバいと認識されてるからオタクは倦厭されてるのが本当なのに、オタ友しかいない連中はそうした一般の視線に対し、ことごとく鈍い、もしくは都合のいいように解釈するだけ。


オタクは昔からヤバかったし今もヤバい。社会不適合者の拠り所みたいになってる。

ちなみにネトウヨや保守は、必ず貧民層に多いのは何故なのか。弱者であるなら、革新になるのが普通なのに、それらは昔から決してない。
いくら考えてもわからない。

「恥の文化」こそ「恥じるべき文化」

またも最近話題になっているこのテーマ。


こちらの記事はかなり前のものだが、同じことをテーマにしている。

アニメとかドラマにおける「恥をかくシーン」がすごく苦手:ろぼ速VIP

キャラがすべってる姿がどうして見るに忍びないと思う人が一定数いるのか。自分には全然、理解も共有もできない話だったので、個々人の感情移入の問題かと最初こそ思ったが、恐らくそれ以上に日本人特有の「恥の文化」が影響してるだけじゃないのかと思った。

菊と刀 (講談社学術文庫)

菊と刀 (講談社学術文庫)

菊と刀』では日本人を支える精神を「恥の文化」として紹介している。

西欧文化は自律的な『罪の文化』であるとし日本文化は他律的な『恥の文化』であると定義した。
禁欲的で勤勉なイギリスのピューリタン清教徒)が植民して建国したアメリカ合衆国では、キリスト教文明圏に特有の『人間は生まれながらに罪深い』という「罪の文化」が根付いていた。


キリスト教文明圏に生きる西欧人の行動規律が『罪の文化』にあるとすれば、儒教文明圏に生きる日本人の行動規律は『恥の文化』にある。西欧人は神と一対一で向かい合って『内面的な罪悪感(罪を恐れる去勢不安)』によって自律的(自発的)に善悪を判断するが、日本人は社会(世間)の人々の視線を感じ取り『外面的な世間体(恥を恐れるプライド)』によって他律的(強制的)に善悪を判断する。日本人にとって最も重要なのは、自分がその行為を悪いと思うか否かではなく、社会生活を営む周囲の他者が『自分のことをどう評価しているか?自分のことを軽蔑したり批判していないか?』である。


日本の恥の文化集団主義の文化(村社会の論理)では、他人がどう判断(評価)するかによって自分の行動の是非を決められてしまう人が多く、日本人は恥辱を感じないで済むように世間体に強く配慮しながら自分の身の処し方を決めるのである。西欧の罪の文化個人主義の文化では、他人が自分をどう評価するかよりも、自分の良心や道徳観に照らしてどう判断するかが重視される。


ルース・ベネディクトは『日本人の矛盾した二面性』を象徴的に表現するために菊と刀というシンボルを選択したわけだが、『日本人は類例のないほど礼儀正しいが、同時に、この上なく不遜で尊大である』という風に日本人の二面性を文章化している。


[ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』]: Keyword Project+Psychology

キャラが恥をかかされる原因・理由は外的なものによって生じる。これに苦痛を覚えるのは、日本人は常に内的思考より外的反応を優先させるからで、本人の気持ち以上に周囲の反応が大事なのだ。『菊と刀』でもそれは見事に指摘されている。

引用させていただいた上記ブログでは、それを日本独自の文化として好意的に紹介しているが、むしろ『菊と刀』は「自身の判断よりも、他人の反応ばかり気にする。故に日本人は欧米諸国の個人主義が根付かず幼稚なままなのだ」と批判的だったように自分は記憶している。
自分が『菊と刀』を読んだのは10年ほど前だし、この辺の感想は読んだ人の受けとめ方次第なのでズレが生じるのは仕方ないかもしれない。

これと似た話で思いあたるのが、東京五輪開催決定の時もツイッターで「7年後もコミケにいるお前ら自身の心配しろ」といったツイートが回ってきたが、どうしてオタクは自虐が好きなのか。本当はそんな風に思ってもいなければ、7年後だろうと参加する気満々な連中が大半だ。しかしそれを堂々とアピールすれば、世間やマスコミから嘲られる。だから表向き自己卑下することで、社会に対し体裁を取り繕っているのだろう。

オタクであることを選んだのは、最終的に自分自身なのだから、もっと自信をもてばいい。世間から見れば確かに威張れるような趣味ではないかもしれない。しかし、そうした世間を尊重することにどれほどの価値があるというのか。

だがそれは『菊と刀』が指摘した「恥の文化」がある限り、世間的・社会的反応を最優先する日本人の精神性に問題があるだけで、個人主義であれば周囲からどう思われようと、自分の好きなものや主張・思想に誇りを持てるようになるだろう。

自分を卑下することは一番楽だ。先にいうことによって世間からの免罪符を得るわけだから。
しかし、オタクがそれをどこに向けて披露してるかと言えば大概同じオタク界隈であり、単なるオタク同士の自己確認程度にしか機能していない。