鈴木ユートピア

31歳、写真、キャンプ、バイク、旅

第3のビール

 

 

金曜日の仕事終わりに第3のビールを飲む。(便宜上以後ビールと呼称する。第3のビールの略称である)

 

いつもビールを2ダースずつAmazonで注文していて、残り2本くらいになったら

次の2ダースを頼む。飽き性なのかそれともビールの味なんかわかっちゃいないのか、毎回違うビールを頼む。正直金麦だろうが麦とホップだろうが、あるいはプレミアムモルツだろうが違いはよくわからない。だから安いのでいいだなと思う。

 

さすがに居酒屋とかにいって生ビールを飲むと「うおおー、やっぱり生は違うぜー!」というのはわかるのだけれど、まぁ、缶になってしまえばどんぐりの背比べだ。

 

今は「HOLLAND IMOPORT」というビールを飲んでいる。

Amazonのレビューを見たら「薄味だけどだからこそグビグビ飲める」「ハイネケンみたいな感じ」などと評価されていたので買ってみた。確かにアルコールは4.6%と控えめで飲みやすい。フェスとかで売ってそう。知らんけど。

 

側面の文字を読んでみたら本当に原産国:オランダになっていた。

ということはこれはオランダの味なのかもしれない。

オランダの味というか、オランダの味のひとつ、か。

 

大学生の時は無理してビールを飲んでいた。本当はカシオレの方が飲みたかったのに。大人になってからは自ら好んでビールを飲む。苦さがいい。労働の苦痛に効いてる感じがする。労働の苦痛は、甘ったるいリキュールでは癒えないというのが自論だ。

 

しかし大人になったのに、焼酎やらウイスキーやら日本酒とか、結局良さはわからなかった。とにかくそれが残念だ。元々酒に強くないというのはあるけれど、酒が弱いながら日本酒が大好きという人もいるだろう。ビールばかり飲んで、焼酎もウイスキーもやらないのではそれこそ大学生みたいじゃないだろうか。別にいいか、大学生でも。

 

それでも、赤ワインがどうこうとか、日本酒を熱燗でどうこうとか、そういうことをこだわったり、質の良い酒が巡ってきた時に「おお、これはいい酒だね」とかなんとか言いながら喜ぶ一幕というのは、人生にとってなかなか良い瞬間だと思うので、願わくばもっと大人になった時に楽しめたらいいなー...と思うなら今から飲みなよという話に戻ってきてしまうのだけれど、酔っ払うばかりでちっともおいしくないんだなーこれが。

 

別に酔っ払ってわけわかんなくなりたいわけじゃないんだよな。

ビールを喉で味わいたいんだ。そんだけ!

 

 

 

 

おしまい

わざわざカメラで写真を撮る意義

 

 

スマホに十分優秀なカメラがついて、旅先とかでも別に無理してカメラを持ち出す必要がなくなったあたりから割と(何かがどことなく)つまらなくなったな、という予感がある。

 

 

音楽プレーヤーやゲーム機、電卓、本、ラジオとか。ひとつひとつプロダクトとして愛でていたプロダクトたちが全部スマホに入ってしまって、それぞれの機能がそれなりに出来がいいからこれでいいやという話になってしまう。

 

振り返って、今更それが残念でならない。出来るなら(できやしないのだけれど)スマホに吸収されてしまった機能をひとつひとつ取り出して、昔のように並べてあげたとすら思ったりもする。

 

 

 

 

その時に読みたい本

 

どうして本はさくさく読めないんだろう。

買う本の量が読むスピードを追い越してしまった時に積読は始まる。

 

いつか読めばいい...のは、それはそうかもしれないけれど、

その本を読みたいのは(読むべきなのは)あくまで買った時なのだ。

 

本当にやばい時なんかは、たとえば旅行先でどうしてもその本が読みたくなった時は仮に家に同じ本があったとしても躊躇なく買うことがある。

それはビタミンとかと同じで、その時に接種しなくてはならない物なのだと思う。

 

おしまい

ストレスを溜めない方法

 

 

 

 

 

ストレス解消法の為にどうのっていうのをまるっきり辞めようと思って。

 

酒を飲むとか、ドカ食いするとか、大声で歌うとか、高い買い物をするとか、そういうふうに無理に一発逆転の「よかったこと」を無理くり作るのはマジで辞めようって。

 

その代わりに、お気に入りの匂いのルームフレグランスを常用したり、ちょっとお高いハンドクリームを使ったり、スマホの壁紙を変えてみたりして、何気ない小さいハッピーを積み重ねることによって、むしろ長期的に揺るがない「ゴキゲン」を手に入れようと思ったのである。

 

あとは、もう、結局は十分な睡眠・バランスの取れた食事・適度な運動なのだ。

こんなことは当たり前のことで。半身浴するとか、起きた後に白湯を飲むとか、サプリメントでビタミンBを取るとか、いろいろ細かいことを言われるけれど、その辺りは前述の3つに比べれば瑣末な問題で、とにかく寝ろと。

 

疲れやすいとかメンタル終わりやすいことに対して、なんとかしたいというのなら、まず8時間寝てから文句を言えと。

 

そんなわけなので、僕もそろそろ寝ます。皆さんも今日は8時間寝てくださいね。

なかなか気分がスッキリするよ。

 

 

おしまい

SNSは連鎖して、結果バカになる。

 

SNSをだらだら見る習慣がついてしまったんだよーーーー!

 

おーーーーい誰か助けてくれーーーーーーー!!!

 

あーもうやばい、

とにかくやばい。instagram→X→YouTubeの無限ループで数時間が簡単に溶ける。

寝る前とか、歯を磨いている時とか、トイレとか、スマホを持たずに行くとかありえない、みたいな。完全にスマホ中毒者だなあ。

 

 

 

普通に歩道でスマホをガン見しながら歩いている人とか、スマホに支配されているみたいで「ああいうのはSNSの奴隷だよな」とか思いながら冷笑していたけれど、もはや僕に彼らを笑う権利はないのだ。これ、よくないよな!

 

で、SNS中毒、やめましょうと!いうことになった。

単純にキリがないので自分の大切な時間を食われてしまうっていうのが最大の弊害なんだけど、それだけじゃなくて、あ、整理するとSNSの弊害って大きく4つあると思うのね?挙げてみると

 

1際限なく時間を食われる

2承認欲求の奴隷になる

3キュレーションでバカになる

SNSを見ることでSNS中毒が加速する

 

1は前述の通り、1つショート動画を見たつもりが、次の動画が始まってしまう。しかもその次の動画は勝手に始まるから自分が見たくて見ているわけではない。「これくだらねーなー」って思って切ろうと思ったらちょうど終わって次の動画が始まるー結果としてキリがない。

 

2は、今の僕にはないんだけど、バズったり絵を描いていたりするとハマりそう。もっと評価されたい、もっといいねが欲しいっていうのは本当にキリがなくて、100いいね貰ったら1000いいねもらいたくなるし、1000いいね貰ったら10000いいね貰いたくなる。さらに、評価されると評価が落ちるのが恐ろしくなるから投稿がやめられなくなる。この中毒も、なかなかに恐ろしいと思う。

 

3は、要はXは特にその傾向が強くなったけど、特定のジャンルのツイートを見ているとその傾向のリコメンドでキュレーションされるようになるから、気づけばタイムラインが自分にとって都合の良い情報で固められて(=ユートピア化)しまい、たとえば原発反対だったら、自分のタイムラインは原発反対のツイートばかりになってしまい、「なあんだ、世間はみんな原発反対なんだ!」と思うようになってしまったりする。自分の都合の良い情報しか集まって来なくなるのは、怖い。

あと、都合の良い情報だけ集まってくるならまだ良くて、あとは「ムカつくけどつい見ちゃう」という、不快で刺激が強い投稿。これは前者よりもはるかにタチが悪くて、交通違反動画とか、毒親の愚痴ツイート炎上とか、ついつい見ちゃう。見なければいいのに、バカだから見ちゃう。見ちゃってることをXは知っていて「好きなんでしょ、、、、ほら、、、、、」みたいな感じでまた寄越す。そしてそれを見てしまう。負のスパイラルだ。それで、結果として自分が気持ちの良いツイートと、ムカつくけど見ちゃう刺激的な投稿が織り混ざったタイムラインが完成して、それは究極の中毒物質なわけだ。

 

4はそのままだけど、SNSを見るという習慣が結果としてSNSを見る人間を育てているわけで、風呂にも、トイレにも、歯を磨いているときも、寝る前も、起きた直後もSNSを見ているのに、結局のところ一昨日どんな投稿を見たのか1つも思い出せないんじゃあ、見ている意味ってないよね...。ということ。

さらに言えば、見ていないと、何か時間を無駄にしているような(実際にはSNSを見ていることで時間を無駄にしているのだが)気持ちになってしまい、イライラソワソワした気持ちになってしまう。でもこれってニコチンが切れてしまった喫煙者と挙動が同じなので、これもまた中毒だよな...とは思うのである。

 

以上4つの弊害を理由に、ちょっとSNSは計画的に、というか、せめて目的的に使わないとダメだなと。思った!

 

 

それで、とにかくYouTubeは1日に1本しか見ないと決めてみた。

これなら実行できるし、だらだらと次の動画は見ずに(つまりショート動画は金輪際、見ない)済むので、もっと意識的に「よーし、今日はこの動画を1本見るぞ」と意識的に動画を楽しむことができる。

 

Xやinstagramはとりあえずはそのままにするとして、とにかく今はYouTubeに時間を吸われ過ぎているので、ここから直していこうかなと。思っています。

 

年始の決め事は結局守れないので、結局のところは思いついた側から、試しに実行してみるスタイルで頑張ってみようかなと思っています。

 

 

おしまい

 

実家の犬が死んだ 前編

 

 

 

実家の犬が死んだ。19歳だった。

 

先週あたりから「トミー(実家の犬の名)が立てなくなった」「時折痙攣するようになったから動物病院に連れていく」という実家からの連絡があり、いわゆる峠というものが来ているということをお医者様から言われたので、もう長くないということが家族間の共通認識として横たわっていた。

 

そもそも19歳といえば、トミーが小型犬であるということを差し引いても長寿だ。人間で言えばとっくに90歳を超えている。正直、いつ死んでもおかしくない。十分大往生だし、むしろよくぞここまで、大病もせずにお疲れ様でした、という具合である。そういう経緯もあって、ショックはなかった。来るべき時が来たか、と思った。

 

 

トミーが危篤だという連絡の翌日、両親がそれぞれ用事があって家を空けざるを得ないことが判明し、さすがに危篤の犬を置き去りにするわけにもいかず(そしていつ死ぬかもわからない時限爆弾のような犬をペットホテルに預けるわけにもいかず)1日家にいてくれないか、と両親から要請があった。それで僕は日曜日、丸一日実家にいて犬を見守ることになった。

 

YouTubeを見たり本を読んだりしながら好きに過ごそうと最初は思っていたが、当のトミーは割と頻繁に嘔吐するし、苦しそうだし、突然痙攣し始めたりするしでせわしくなく、文字通りいつ死ぬかわからない状況だったので想像以上につきっきりだった。

もう耳も遠いし、目なんかほとんど見えていないのだけれど体を優しく撫でると安心している雰囲気が伝わってきて愛おしかった。

結局その日の夕方になって母が帰ってきたので安心してバトンタッチして家に帰った。

 

母曰く翌日の9時に動物病院に連れて行って点滴を打つというので、あとは急遽来ることになった妹と父含めて3人体制で犬を看病して明日に備える、という段取りだった。

 

それから家に帰って寝た。

翌日起きたら「トミーが死んじゃったよ」というLINEが届いていた。

 

 

 

 

僕が帰ったその晩に痙攣を起こして、そのまま死んでしまったのだ。

 

僕はすぐさま会社に行く支度を最低限整えて、バイクを飛ばして実家に顔を出した。実家には父と母と妹がいて、全員さめざめと泣いていた。すんごい泣いていた。お通夜だった。

 

トミーはもしもの時にと母が買っていたペット用の棺に入れられて長い眠りについていた。足を軽く折り曲げられていて、安らかな寝顔だった。耳毛とかがやけに痩せ細っていて、昨日見たはずなのに、こんなに老けていたっけかな、と思った。

昨日撫でたみたいに身体を撫でると、身体がすごく冷たかった。昨日はすごくあったかくて、毛もふわふわで、息をするたびに身体が動いていたのに。

身体はすごく冷たいのに、毛は生きていた時と同じようにふわふわなのが悲しかった。

 

トミーはもうここにはいないのだ。

ここにあるのは入れ物で、中身はもう全然ここにはなくて、もう二度と帰ってこない遠いところにいるのだということがわかった。見た目は全然、寝ているように見えるのだけれど、トミーは二度と目を覚さないし、呼んでも寄ってこないし、頭を撫でても笑ったりもしないし、散歩の時に身体をブルブルして喜びを体で表現することもしないのだ。それは寝ているのとは全然違う、取り返しのつかないことだった。

 

 

家族は全員、一生分泣いたくらい泣いていて、父は「人が死ぬより悲しい」みたいなことを言っていた。言わんとすることはわかる気がする。人が死ぬのと、犬が死ぬのは割と出来事として別ものだ。それはどっちが上とかではなく、ペットという、いわば100%我々を信頼していて、そういう自分たちに寄り添ってきた動物が死ぬというのは、相当に衝撃的なことなのだ。ペットを失った人にしかわからない悲しみの種類だった。

 

 

僕は泣かなかった。

だってもう危篤だったわけだし。19歳生きたのなら、「悲しい」よりも「今までありがとう、お疲れ様」って感じだ。昨日もずっと一緒にいたから、そういう時間があって良かった。死ぬ瞬間も妹とかが付き添っていて、死に目に会えて良かった。

これからやけに苦しむ時間が長引いたりしたら、人間も疲弊してしまうし、犬だって辛いだろうし、立てなくなってからあまり苦しまずに天国に行けたのは良かったー。

 

などと良かったことばかり探してしまう自分がいた。

 

 

それでも「トミーが死んじゃった」と言いながら泣きじゃくる家族を見ていると「でも良かったこともあるよ」みたいなことを言える空気でもなくて、とにかく父も母も妹も泣いていて、自分だけが泣いていないと、ひょっとして自分には心がないのかしら、と不安になった。自分はとんでもなく冷たい人間で、トミーのことをなんとも思っていなかったんじゃないかと自分に対して疑わざるを得なかった。居心地が悪かったし、申し訳なかった。気まずそうに僕は俯いていた。「残念だね」とか「トミーも頑張ったよね」なんて差し障りのないことを言いながら。

 

 

それから目が真っ赤になった家族と一緒に今後について話をした。

 

トミーが入っている棺はアイスノンで引き続き冷やす。

トミーは火葬する。墓は作らず、骨は骨壷に入れて持って帰って、家で弔う。

火葬する日を決めて、ペット霊園に予約を入れる。それから火葬する時に添える花を買うなどー。

 

とにかく早いほうがいいということで、その翌日火曜日に火葬する話になった。

僕は会社に正直に「実家の犬が死んだので午前休をいただきます」と連絡を入れた。

そうして実家の犬が死んで、火葬することになった。

 

翌日、支度を整えて家族でペットの火葬場へ。

両親は下見で来たことがあるとのことだったが、僕は初見だったので珍しかった。待合室では死んだペットに関する様々な商品がディスプレイされていて、可愛い感じの骨壷とか、写真立てとかはまだわかるんだけど、レーザーで掘ってあるクリスタルスタンドやペットの毛が組み込まれている指輪とか、もうなんでもありじゃんっていうか、商売気がちょっと強過ぎるなあと思った。向こうも当然商売なのは理解するけれど、こちらは動物相手とはいえ喪に服してるわけで、要は物事には節度があると思うのだ。

 

 

いよいよトミーを燃やす準備ができたということで、火葬場の建物に入った。

最後のお別れをしてくださいとのことで、家族で棺に入ったトミーの体の周りにお花を添えていった。棺がお花畑みたいになると、さすがに「天国に行きます!」という感じになってよかった。母は「さ、さ、最後のお別れだから」みたいなことを言いながらたくさん写真を撮っていた。

 

これが本当の最後なのでペットの毛を取るのであれば、今カットしてくださいと促された。正直お骨を自分の部屋に置いておくのも重いから、毛であれば何か容器に入れておけば飾って置けるなと思っていたので、切ることにする。家族が順番にトミーの毛をハサミでちょきんとカットしていく。首の周りの毛とか、あと自慢の耳毛とか。

僕は耳毛を切ることにした。トミーはパピヨンなので若い時の毛先はそりゃもう立派だった。年老いたら耳毛はかなり痩せ細ってしまったけれど、それでもクルクルとカールした毛先は非常にキュートで、僕はそれを触るのが好きだったのだ。

デザイナーと百姓

 

「1つのスキルしか持っていないのはこれからの時代、リスキーだ」みたいなことをホリエモンだか、ひろゆきが言っていたような気がする。

 

例えばタクシーの運転手は、お客さんを安全に効率的に目的地に運ぶことに関しては熟練したスキルを持っているが、自動車が完全に自動化されれば職を失ってしまうし、転職しようにも仕事がない、という状態になりかねない。

 

じゃあ将来性のある、且つ汎用性のある職業に就こう!ということでwebデザイナーシステムエンジニアの仕事が注目を集め、そういう学校への斡旋の広告が驚くほど増えた。特定の職業への斡旋にリソースが集中している様をみると何だか気持ちが不安になる。

 

 

さて、僕はデザイナーとして一貫して働いている。

デザイナーという仕事のイメージは結構面白くて、そういうクリエイティブな職種とは遠い(と自負している)人たちから「すごい!」という感想をもらうことが非常に多い。僕は全然すごくないと思うので、その差異が面白いと思う。

僕からすれば消防士や会計士や大工や農家のように世間から認められている資格なりスキルがある人のほうが遥かにすごいと思うのだけれど、そういう職業の人に限って「デザイナーなんてすごい!」と思うようだ。

絵を描いたり、芸術的なことを発想したりして、それをアウトプットして社会に影響を与える感じが、誰にできるわけでもないわけだから、一握りの人しかなれない才能の職業だ胸を張りなはれ、ということなんだと思う。

 

 

 

 

まぁ、デザイナーといってもピンキリだ。

 

要は、名乗ればその日からデザイナーなわけで。

コメディアンやカメラマンもそう。

 

誰も思いつかないようなすんごいアイデアを出して具現化するデザイナーや、一度見たら忘れられないような洗練されたデザインを生み出す気鋭のデザイナーもいるだろうが、一方で与えられたデータをいじって下に流すだけのデザイナーもいるし、デジタル土方みたいな感じでひたすら同じような作業を繰り返すデザイナーも多いだろう。

だからピンキリなのだ。そのピンキリ具合は弁護士や看護師のピンキリ具合とは比べものにならないんじゃないかと想像している。

 

そもそもデザイナーという職業がカバーする範囲は海のように広い。

ポスターを作っている人も、イベントを企画している人も、車のサイドミラーの形を考えている人も、花器の色合いを検討する人もデザイナーだ。だからデザイナーではない人は「すごい!」で済むけれど、デザイナーがいる仕事圏にいる人は「え、なんの?」という話になる。

 

 

僕は空間デザイナーで、やはりその仕事圏にいる人は「何の、空間?」という質問をしてくることになる。僕は一つのジャンルに尖っているわけではなくて、とにかくありとあらゆるジャンルの空間デザインを手がけているので「色々やってる」としか言いようがない。それは結構器用なことだと思うので、冒頭の文脈でいえばどこかの業界が斜陽になったとしても、他の業界で生きていくことができる(何といっても世界がどれだけ進歩しても空間は無くならないわけだから)はずなのだけれど、

一方で器用貧乏というか、どれも中途半端みたいなところは大いにある。

その不安はずっとある。

 

どこかのジャンルを突き詰めているデザイナーは大勢いるけれど、その人たちにはどうやっても敵わない。絶対に敵わない。一つのことにかけた時間が違いすぎるからだ。どうやっても本職には敵いませんよ、という態度は気楽であると同時に少し虚しい。

 

 

 

 

思えば百姓(昔はヒャクセイと読んだ)という言葉は読んで字の如く、色々な仕事を兼任しているという意味だ。農作業だけでなく、物を運搬したり、草鞋を作ったり傘を売り歩いたりする。シーズンごとにできることをして報酬を得るわけだ。そういう生活の中では別に傘を作るクオリティが抜きん出ている必要はないから、ちょっとくらい傘の骨が歪だったりしても良かったんだと思う。おおらかな感じだ。

 

 

デザイナーの中では僕は百姓だと言えよう。何でも80点目指しまっせって感じだ。

 

 

百姓デザイナーは何か抜きん出ているわけではないから、どんな相談でも請け負うことができるけれど、インターネッツで世界中が繋がった今、120点出します!みたいな人に簡単に相談ができるようになったので、ひょっとしたらこれからむしろ仕事は減っていくことになるかもしれない。

 

一方で、やってみればわかることだけれど、優秀だとしても取引のしたことのない相手と仕事をするというのは非常にリスキーかつストレスがかかる動作なので、とりあえず百姓デザイナーに依頼して、別に百姓デザイナーが仕事を最後まで収めなかったとしても他の誰かにさらに依頼してそのクオリティを管理する、という方法が生き残るかもしれない。

それは未来がやってこないとなかなかわからない。