閉鎖病棟、ふたたび

事情があって家電を買い替えることになった。お金が減る不安、まだ壊れていない家電を買い替えないといけない葛藤、失敗は許されないというプレッシャー。体調を崩してひきこもっていた。

ちょっとした文章を書きませんかと誘われた。書くためには過去の自分と対峙しなければならない。見たくない、考えたくない。本格的に眠れなくなった。睡眠薬を飲んでも夜中に何度も目が醒めて2時に起きる。それ以上眠ることができない。昼間は頭がボーっとするけれど横になっても眠れない。周囲の人たちに「それを書く義務はあなたにはありません。断りましょう」と何度も説明されたが、一度引き受けたことを撤回するのは自分が許せない。罪悪感に首まで漬かりながらなんとか文章を書き上げ、提出した。

薬剤師さんに相談して手元にある別の睡眠薬を足してみた。一晩だけ眠れたけど、すぐに早朝覚醒が再開した。レオパレス並みに音が伝わるアパートなので、音をたてずに過ごす。トイレを使用しても朝6時まで流さない。早朝4時、ネットサーフィンしてオンラインショップで次々と買い物をした。これはまずい。浪費が酷いのは双極性障害ではないかと不安になった。主治医に相談すると後から足した睡眠薬の影響で気が大きくなっているだけでしょうとのことだった。そんな副作用があるなら初めに言って欲しい。

眠れないと言っても少なくとも3時間以上はなんとか寝ているのだが、日中の眠気が強い。集中力、判断力、記憶力が低下して大好きだった本が読めなくなった。読めないのにセール中だからと電子書籍を何冊も購入した。衝動性が制御できずフリマアプリやネットショップでも文庫本を購入したが、何を買ったのかおぼえていない。

漢字がいつもより書けなくなった。
計算ができなくなった。
文章を理解できなくなった。
もしかしたら私は知的な障害があるのかもしれないと疑い始めた。

主治医に伝えたいことはスマホのメモアプリに入力して、スマホを見せることで診療がなりたっていた。でも口頭で伝える方が今の自分の状態を理解してもらえるのではないかと思いチャレンジしてみた。
「調子はどうですか」
「…ちょうし…」
「様子はどうですか」
「…ようす…」
相手の言葉の意味はわかるのだけど、答え方がわからない。
「し…し…し…指摘…じゃなくて、指導…じゃなくて、指定…してい?」言葉が出てこない。指定ってなんだっけ。
異変に気付いた主治医が薬をもう少し強くするかと問う。
「薬…たくさん飲んだら眠れる。お酒も一緒に飲んだら眠れる」会話が噛み合っていない。精神科の医師に向かって大量服薬を宣言するほど、頭のネジが緩んでいるらしい。実行してはダメだとわかっているから我慢しているがいつまで我慢できるか自信がない。
「薬はたくさん飲んじゃダメだよ。お酒もダメだ」いつもより真剣な様子で主治医が言う。
「死にたいんじゃない、眠りたい。胃洗浄は嫌だ。救急搬送も嫌だ。一晩でいい、眠らせて欲しい。周りの人が私の言動を笑う。なんで笑う?私は真剣なのに。みんなが私のことを迷惑だと思っている…」
何が悲しくて泣いているのか自分でもわからない。
「入院しよう」と主治医が言った。

4回めの閉鎖病棟生活が始まるまで残り10日。

ある日のカウンセリング

以前、カウンセリングで楽しかったことについて話した。
ネットの無料動画で大好きなアニメを観たこと。
日本語版は違法で、すぐに削除されてしまうから英語版だった。
セリフを覚えるほど好きなアニメだから英語でも十分に楽しめた。

カウンセリングが終わって扉を閉める時。
「そういえば、アニメにはこんなセリフもありました。
 『Son of a bitch! Don't make me laugh!』
 それでは失礼します」
カウンセラーの顔がいつもと違うような気がした。

私は意味を知らずに聞き取れたフレーズを口にしたつもりだった。
カウンセラーの顔が曇るような言葉だったのか、確認のためスマホで「サノバビッチ」を検索して蒼白になった。
なんてことを言ってしまったのだろう。
すぐに「先程は意味も知らずにたいへん失礼な発言をしました。申し訳ありません。」と謝罪のメールを送った。

カウンセラーはどう受け取っただろうか。
次回の面接も相変わらずにこやかに迎えてくださった。

あの日のやりとりを思い出す。
私は『本当に』意味を知らずに言ったのか。
アニメを見ていればそのセリフをどんな状況で誰が言ったのか、わかっていたはず。
それは聞き取れた程度ではなく「まさにこの言葉を使いたかった」であり「しかし日本語で言えば角が立つからとても言えない言葉」だった。
そして、もしもその言葉を使って相手を怒らせてしまったとしても「英語だから意味を知らなかった」と言い訳ができる。

無意識にそこまで考えたうえで、私はカウンセラーに向かってその言葉を吐いたのか。

全てを承知のうえで、普段通りに笑顔でクライエントを迎え入れてくださるカウンセラーを「あの人には勝てない」と思う。

猫とリード

実家では母が猫を飼っている。

父が他界して気落ちしている母の慰めにと弟がもらってきた。
まだてのひらに乗るほど小さなその猫は、部屋が汚れるのを嫌った母によりずっとカゴに入れらていたと聞いた。

大きくなってからは室内でも常にリードで繋がれている。
リードの長さと同じ高さの釘に繋がれて、餌、水、トイレだけが猫の動ける範囲内にある。
水の皿が乾いていたので私は水を足した。
「トイレの回数が増えるからやめろ」と母に叱られた。

「これは動物虐待だ」と言った私に「こどもを置いてきたあんたが動物愛護とは笑わせる」と母は答えた。

赤いリードを見ていると、自分自身がそのリードにつながれている気分になる。
どこへも行けず誰も助けに来ない状況は見ている方も苦しくなる。

母が留守にするわずかな時間、私は猫のリードを外した。
猫は何が起きたのかわからない様子でぼんやりしている。
猫を抱いて日向へ連れて行き、おひさまの光にあてる。
それを何日か続けると猫は自分が動けることを理解して廊下をドタドタと走り回る。
ぼんやりしている猫にそっと近づいて軽くタッチしてから逃げる。
猫はその遊びをすぐに覚えた。
物陰に隠れて待ち伏せし、飛び出してきて前脚で私の脚に触れ、ニャーとないて逃げる。

廊下を走り回り玄関の下に隠れてないている。
覗き込むと満足げに「見つかった!」という表情で反対側の端に隠れて私を呼ぶ。
探しに行くまで呼び続ける。

「猫を連れてあの家から逃げたかった」とカウンセラーに話した。
しかし私が猫を攫ってもまた別の猫をリードにつなぐのはわかっている。

箱庭療法の時、実家の周辺を作りあげて猫を置きしばらく眺めた。
「こんなところやってられるか! と猫が逃げ出しました」と私は猫を逃がした。
そして猫の横に別の猫を置いた。
「おともだちですか?」とカウンセラーが聞いた。
「そうです。猫のともだちです」
人間ではなく猫には猫のともだちがいた方がいい。

私があの家と断絶して5年近く経過した。
今でも猫はつながれたままだろうか。

入院記録 01

まずは入院した経緯を。

自宅の近くのアパートで学生が毎日のように友達と騒ぎ、警察官を呼んで注意してもらうも効果はなかった。
家主に直談判したご近所の男性もいたが現在も退去などの対策はとられていない。
朝から深夜まで延々と続く笑い声、叫び声。
耳栓をして頓服の抗不安薬を飲んで布団をかぶる日々を過ごし限界を超えた。

「火炎瓶投げていいですか?」と精神科の主治医に聞いた。
火炎瓶を投げてはいけないとわかっているから実行はしていない。それでもこれ以上我慢し続けるぐらいなら警察沙汰になってもいい。
火炎瓶投げたい。

火炎瓶 作り方 で検索するとマニアックな物から簡単に作れる方法まで表示される。
「ガソリンや灯油の入手は難しいからキッチンのオリーブオイルでもいいかな」と笑顔で話したが主治医は渋い顔をして「投げちゃダメ」と言った。
「水を入れて凍らせたペットボトルは? 生卵は? 」私の質問に「物を投げたらダメ。あなたが警察に捕まるよ」
捕まってもいい。留置場の方が今よりマシだ。

私は留置場を見たこともなく、刑事さんがカツ丼を出してくれるぐらいの認識しかない。カツ丼は刑事ドラマで見ただけなので実際はどうか知らない。そもそもカツ丼は取調べ室で提供される物なので留置場にカツ丼はない、多分。
そんなに食べたいか、カツ丼。
この時点で私は相当思い詰めていたと思う。

いくつかの相談機関に「火炎瓶投げていいですか?」と聞いてショートステイに入る手続きを始めた。

ショートステイを利用するには精神科主治医の診療情報提供書が必要と言われ、それをもらうために受診した。
「知らない所へショートステイするのはあなたには向かないと思うよ。一度入院経験がある僕の勤務先に入院しようか?」
安心して涙があふれた。
これで騒音トラブルから逃げられる。

入院準備に慌ただしく動き回り疲れ果てて病院に到着。
過換気発作を起こしかけて外来の待合室で頓服を飲んだ。薬は自己管理にならないと前回の入院で学んだので手元にあるうちに鎮痛剤も飲む。

外来での診察、検査、看護師さんからの既往歴の聞き取り、精神保健福祉士さんからの再度の聞き取り。
ぐったりと疲れたところへ裁縫道具、編み針、爪切り、針金ハンガーまで没収された。

入院当日の日記。
「退院したい。」

(続く)

報告 【フィクション】

「あなたが探していた方を発見致しました。
そんなに喜んでいただけるとは私共も光栄です。ええ、かなり骨を折りました。ほんの少し法に触れていますが、まあ誤差の範囲でしょう。

さあ涙を拭いてください。ええ、とても喜ばしいことです。
娘さんは怪我もないですし、危険な仕事にも就いていない。手を切らせなければならないような組織ともつながっていません。

ひとつ確認しておきたいのですが…もしも娘さんがあなたに会うのを拒否した場合は…落ち着いてください、もちろんあなたは母親ですし、お気持ちはわかります。
ええ、そうですね、育てるのもたいへんだったのですね。娘さんは被害妄想があって、あなたから暴力を受けたと嘘をつくと、はい、伺っております。
私どもとしてはお客様を信頼しているからこそ法に触れることをしてでも居所を掴んだのです。娘さんの言葉を信じたりはしません。安心してください。

ただ、ちょっと困ったことになりまして…いえ、大丈夫です。娘さんの居所は掴んでいますから、会えないとは言っておりません。

困ったことというのは、娘さんはお母様のおっしゃるように被害妄想が激しいらしく、警察署に被害を相談しており、警察は娘さんを被害者として保護している状態です。

娘さんが警察官をだまして嘘の被害届を出したと仮定しましょう。警察がこの被害届は虚偽だと判断した場合ですが、娘さんは法をおかしたことになります。偽証罪です。
初犯ですし、執行猶予はつくでしょう。せいぜい罰金10万円と言ったところでしょうか。

被害届なんですよね、問題なのは。
加害者は誰かって? それは答えられません。

ええ、ですから、お願いします、落ち着いて聞いてください。
我々が車を出して嫌がる娘さんを連れ去ると犯罪になるんです。しかしお母様、あなたがご自身で車を用意して娘さんを押し込んで連れ戻せばいいんです。だって娘さん、被害妄想という病気ですよね? 本当に暴力があったわけないですよね?
だったら病気の娘さんを病院に連れて行く義務がお母様にあるのではないですか? 入院が必要になるかもしれません。

病院には行かせない? …おっしゃるとおり世間体は大切です。でも考えてみてもらえないでしょうか。
せっかく連れ戻したとしても被害妄想がひどかったら何度でも逃げ出すのではないですか?
いえ、私は娘さんをそんな差別的な言葉で侮辱しているわけではありません。お母様がお心を痛めていらっしゃるのも私共は十分理解しております。

はい、報酬については高額であると承知しております。申し訳ありませんがそれは最初の契約時にご了承いただいたものと認識しておりますし、お返しするわけにもまいりません。

ええ、娘さんの写真は揃っております。
はい、それでは事務所でお待ちしております。」

部屋と片付けと私

部屋の片づけができない、と言うと「それくらいで人は死なない」と笑って済まされることが多い。
実際、ハウスダスト・アレルギーがよほどひどくなければ、生死には関わらないだろう。
しかしリビングを占拠して家族の入室さえ拒む倉庫部屋で生活している人を身近で見てきて、肉体は死なないかもしれないが社会的に死ぬのではないかと思う。

8畳部屋の真ん中にコタツを置き、布団が合体している。
それ以外の部分は雑誌、新聞、洋服などが無秩序に積み重なって地層を作り、当然床は見えない。
タツの天板の上にはレシート、メモ用紙、新聞、ボールペンなどが積み重なって山を築いており、湯飲みひとつ置くスペースもない。
半年前のレシート1枚でも捨てると「私の大事な物は全部捨てられる」と大騒ぎになる。
一度、この山を分類して積み直したところ地層の下の方から未使用の電子辞書が箱のまま出てきてあっけにとられた。
箱から出してみると設定ができず諦めたようなので電池を入れて初期設定を済ませ、すぐに使えるようにして目立つところに置いた。
「あ り が と う」と物凄い勢いで睨まれたので二度とやらない。

部屋を外から見られたくないため障子とカーテンを閉め切って換気をすることもない。
電球が壊れたが工事の人を呼びたくないので自分で適当に配線し薄暗い明りの下で同じ形のアクリルたわしを100個近く編んでいる。
孫の幼稚園バザーで喜ばれたとアクリルたわしを編み続けている。

それが私の母だ。

仕事はできるし周囲からの信頼もあるが日にちの感覚がずれていて時々無断欠勤する。

キッチンはさらにカオスだ。
食べ物を捨てることを母は絶対に許さない。
冷蔵庫の中に謎の液体が入ったビニール袋がある。
目の前で捨てると怒りだすので、母のいない時を見計らいビニール袋の中身を確認した。
余った野菜を醤油などで浅漬けにしてそのまま忘れたらしい。
溶けた野菜らしき物が浮いている液体。
同じようなビニール袋をどんどん捨てると奥の方から謎の液体が入った瓶が出てくる。
これも捨てる。

キッチンの床に列を作っている鍋が臭うので蓋を開けるとカビの生えた味噌汁や煮物が入っている。
捨てたことがバレたら大騒ぎになるはずなのだが、キッチンのカビた物、溶けた物が減ったことに母は気づかない。
存在自体を忘れているらしい。

テーブルに何日か出したままの煮物を私に「食べなさい」と言うのも日常だ。
その煮物の器の端に等間隔で並ぶ白い楕円形の粒はどう見てもハエの卵だった。
そう指摘すると指で卵を潰し何事もなかったように「食べなさい」と言う。
母自身はそれを食べない。
…失礼、ちょっと吐いてくる。

閑話休題

そのような家に妹夫婦は寄り付かなくなった。
こどもが喘息を起こして救急外来に飛びこむことが続いて、妹は無言で掃除機をかけたり部屋を片付けたりする。
母が拗ねたり嫌がったりすると妹は「掃除機くらいかけろ」と大声を出し、それを母が怖がる。

妹に電話がつながらない、と母に言われて私のケータイからかけるとつながる。
どうやら妹は母の番号を着信拒否にしているらしい。

「どうせ私が悪いんでしょ。全部私が悪いんでしょ。ええ、そうでしょうとも」が母の口癖だ。
拗ねた母は外に出て庭の雑草をブチブチとむしりながら「私の物は全部捨てられるんだ」と繰り返している。
その光景を生前の父は「母さんが宇宙と交信してる」と言った。
笑っている場合ではなく、しかるべき病院に連れていく必要があったのではないかと今は思う。

現在、私は実家を出て一人暮らしをしている。
部屋中に溢れる物に囲まれて。
このままでは母の二の舞になるという恐怖心があるのに物を減らすことができない。
テーブルの上は電卓、電子辞書、ノート類、スマホ、財布、飴、リモコン。
その隙間にノートパソコンを置いてこれを書いている。
気がむくとアクリルたわしを山のように編むところまで母に似ている。

一人で片付けようにも段取りができない。

手伝ってくれる人を探す勇気が欲しい。

 

プレイセラピー

 

印象深いセッションがあった。

恐竜博に行ったときに友達がくれたカプセル入りのおもちゃ、組み立て式のティラノサウルスの骨格を眼鏡ケースから取り出して「組み立ててください」とカウンセラーに差し出した。

自分で組み立てては壊しを繰り返していたから5分もあればできるだろうと余興のつもりだった。
精神科医としても働いているカウンセラーだから解剖生理はできて当然だし、どの骨から手をつけるか見てみたいと思った。

人間の骨とティラノサウルスの骨にはいくつか違いがある。
極端に小さな上肢(人間の腕にあたる)と長い尻尾、鎖骨にある烏口突起。

カウンセラーが最初に手にしたのは背骨だった。
分断された背骨を慎重に組み立てたのを見て「やはり背骨からですよね」と私はそこでもう満足していた。
真剣に慎重に背骨から頭骨、肋骨、腸骨と進んでいくのだが15分程で私は飽きてきた。
上肢を左右間違えてつけようとするから「違う」と言って手伝おうとするとするりと身をかわされた。

暇。
カウンセリングを受けにきて暇ですることがない、という状況にふと気が緩んだ。
「友達のAさんに『先生ってパートナーいるの?』って聞かれて、知らないって答えた。
 私も気にはなっていたんだけどカウンセラーの個人情報をクライエントが聞くのはあんまりよくないかなと思って聞かなかった。」
カウンセラーは何も答えず、顔もあげず、真剣に組み立てている。
聞いていないんじゃないかと思った。

「先生のパートナーはどんな人かなって考えたこと あって。

 …パートナー、日本人ではない。

 先生は『〇っしー』って呼ばれてる。」

カウンセラーは何の反応もせずティラノサウルスに集中しているように見えた。 

20分が経過しティラノサウルスがようやく完成した。
私はそれを分解せずに眼鏡ケースに収めた。

次回の予約をして挨拶をし玄関を閉めようとした時「台湾人に似ていると言われます」とカウンセラーが言った。
なにを言いたいのかわからなかった。
誰が台湾人に似ているのか、パートナーが言われるのか、カウンセラーが言われるのか、それとも別の誰かの話をしているのか。
その答えは今も謎のまま。

あれは一種のプレイセラピーだったのかと今にして思う。

今度のセッションにはトリケラトプスの骨格を持って行こう。