黒板を爪先でえぐるような消せない不快感を押し込めている。
薄い殻でギリギリのところで耐えていたそれに罅が入って、中からドロドロした汚い感情が溢れだしてきて、そうして私に見える世界というものをあっという間に濁らせてしまった。
それがもう十数年も前の話。
子供の頃、なりたくないと思っていたような人間になったと思う。
それは誰かの責任ではなくて、自分がそう望んで、なりたくない自分を目指したのだ。
それがこの軌道上で比較的に効率的な人生であると思ったから。
効率とか、コスパとか、合理性とか、そんなことばかり考えている。ロジカルな人間で在りたい。
かと言って道徳心とか倫理観とか他者の感情とか、そういうものを切り捨てて生きていくのは逆に非効率的だと思うし〜なんて言い訳をして
それゆえ、適当に人間の真似事をしながら、極力遠いところに置いておきたいなんて姿勢で生きている。だってそうでないと疲れるから。
全部いい訳。どれも自分で引き起こしたことなのに、孤独や存在価値や肯定感に苛まれているわけ?
なんだかそれって優柔不断で、矛盾している。
それこそ、そういう筋の通らない思考の人間だけにはなりたくなかったよな、って思ったりする。でもそれだってもはや「優柔不断な私」という役に入り込んでいるからで、本当の所は答えなんで分かっているでしょう。
私はいつも自分を信じていないだけ。
「貴方は自分で思っているより価値のある人間だよ」なんて言われても、目にも見えない、数値でも計れないものへの実感はゼロで、証明の出来ないものは無いことと等しいのだ。
ある意味、だからこそ、裏側では目に見えない信頼関係なんてものに縋っている。
信頼関係を求めていながら、目に見えない物を信用出来ない、ルールの書かれた紙切れやDNAやそういう無機質なものでしか関係を肯定できない。
そのくせ実際のところ、そんな物にはなんの意味もないとも思っていて、つまり、自ら希望を見出した物を、もう片方の自分がひとつずつ叩き割っていく。
私の繰り返してきたこの十数年ってずっとそうで、ただ先に片足を差し出したから仕方なくもう片方の足を差し出さずには終われなかったみたいな、堕落の延命措置みたいなもの。
人に穴を掘らせる作業をして、次にその穴を埋める作業をさせ続ける、そういう無意味なことの繰り返しは、精神を壊すらしいよ。
ああ、だから壊れてんのか、私。
デモデモ ダッテ いい訳ばっかでクソダサ。