まことに。

さぼり癖というのは、一度つくとなかなか抜け出せない。

自分が対象をどの文脈に位置づけ、どの文脈でものを言っているかに気を配ること。それから通時的比較/共時的比較。それから、「研究の意義」。堂々巡りだなぁ。



映画を見る環境において、京都がいかに恵まれていたかということを思い知りつつある五月。おもに、街のサイズと集中度について。

そして、東京にはなんと坂が多いことか。

なんとか

やっています。

卒論関連のもろもろの通過儀礼も終わり、4月からの身の振り方も決定して、ちょっと落ち着いた感じの今日この頃です。

あと数年、学生を続けることにしました。

京都を離れて、東京に行きます。個人的には一大決心でした。


こちらも適当に続けていこうかと思っています。

12月中旬には

第1稿をあげたい、などと書いている12月5日の自分が憎たらしい12月中旬のわたしです。

卒論の話です。


論旨はちっとも進みやしないのに、字数だけがむだにふえていきます。性格がくどいんですねーきっと。

それから、結論として何にたどりついたら「あがり」なのかがはっきりしないので困りものです。


いや、内心では楽観的な自分がもっと困りものかもしれないです。

こんなこと書きつつ、今もどうにかなるに違いないと思っているあたり。

11月のできごと。

  • あいかわらず一月があっちゅう間。
  • 大風流という学生主催のイベントでキセルマイスティース見た。最近ただでしか見てません。ごめんなさい。
    • 辻村兄弟が「町医者」をやったのがとてもとても嬉しかった。
    • マイスティースは相変わらずすごーく楽しそうだった。彼らが。それもまた嬉しかった。
  • 11月下旬、紅葉を愛でる洛北の旅敢行。蓮華寺と宝泉院。
    • 蓮華寺はもうひとつ紅葉には早かった(五分くらい)けれども、相変わらず庭がお綺麗。フォトジェニック。
    • 宝泉院はライトアップに。絵よりも「絵画的」な額縁庭園。紅葉と、竹の緑のコントラストがライトアップに映えること。こっちもフォトジェニック。だけどもデジカメではいまいち写りが良くない。そして、恐ろしく底冷え。
    • 京都の寺はやっぱり「仏像」っていうより「庭」なのだなぁと実感。
  • おととい、周辺で用事を済ませたついでに三井寺。金堂の仏展示がものすごく面白い。わりとキワモノの仏がいっぱい。きっちり両肩に着物をきていて、さらにその着物に妙な文様が施された大日(どちらかというと中国の○○廟とかに祖霊として鎮座していそうな)とかすごく劇画調な炎を背負った不動明王とか北極星を神格化した尊星王とか。
  • 卒論書いてます。それはもう、どっぷりと書いてます。今のところ多分半分弱ぐらい。いろいろ後の予定があるので、12月中旬には第1稿あげたい。淡い希望。

結局

稲沢には行かなかった。12月までやっているらしいけど、行けそうにない。

ちょっと残念。


コピーしたはいいけどなんとなく敬遠していた論文が実家に持参したファイルの中にあって、なんとなーく読んでみたら意外に読みやすい英語でびっくり。
何語を使うにしろ、わかりやすく的確に書くのは思ったよりも難しい、ということを実感しているところだったので、ちょっと敬服。


明日はまた京都。

ちょっと訳あって、

実家に帰っている。

という書き方をすると、なんだかいやに深刻な匂いがするけれども、実際にはただの定期検診。

京都でだってどこでだってできるような検診であるし、実際一人暮らしを始めるにあたって紹介状を書いてもらったこともあったのだけれども、気心がしれているというそれだけで、いまだに高校までの掛かりつけのところでやってもらっているのである。


というよりは、進みのよろしくない卒論をうっちゃって実家に帰る正当性を、「検診」という言葉の響きでもって、自分に与えているだけである。

昨日は家族で母親の誕生日を祝い、今日は久しぶりに会った地元の友達とお互いの境遇やら進路やらのシンクロ具合に笑った。


稲沢の荻須高徳展に行こうかと思ったのだけれど、行けるかな、明日。

あっというまに11月。

10月中旬の大きなイベントが終わって、多少はのんびりできるかと思いきや、実は終わってからの方が精神的にはキツかった、というお話。たぶん、良くあることなのだろう。


物理的な忙しさはそれほどでもなくて、それが余計に私のチキン・ハートには耐えられなかったりして、ああでもないこうでもないと漂っていたら10月が終わっていた。


ただ、それなりに毎日楽しんでやっているので、なんというか、つまるところとんとんではある。

フラガールやら、カポーティやら、太陽やら、見たので、半分備忘録代わりに感想でも書いておこうかと。


 『フラガール』は、李相日監督の名人芸だなぁという感じで、松雪泰子蒼井優の踊りにもれなくうたれた。富司純子さんのきりっとした炭鉱の母にもうたれた。

炭鉱というところは、男も女もいっしょになって働くらしく、最近個人的に宗教的、あるいは職業的な「山」の女人禁制とか、その手のことをちらっとかじっていたせいで、ちょっと新鮮な発見。


 『カポーティ』は、フィリップ・シーモア・ホフマンと死刑囚ペリー役のクリフトン・コリンズ・Jrの「冷血」なふたりが非常に良かった。あの独特の声と喋り方、身のこなしが強烈な印象で、もちろん動くカポーティなんか一回も見たことないにもかかわらず、「あ、カポーティっぽい」と思ってしまった単純な私。
ペリー役の俳優さんも、多分はじめて見た人だったけれども、カポーティがはまってしまった赤子のような無防備さと、殺人犯の狡猾さと、どっちも見え隠れする感じがちょっと恐ろしいくらいだった。相棒の死刑囚と比べて感情移入しやすいと思って見ていたら、引き金を引いたのはペリーだった、という事実は象徴的だと思う。
ところどころはさまれるアメリカの田園風景がそれはもう美しかった。


『太陽』は、時系列が何回か飛んだりして戸惑っていたのもあって、あんまりよく分からなかった。分かろうと思ってみていたわけでもないけれど、最後の人間宣言の件が唐突すぎるきらいがあって、ぽん、と置き去りにされた感じがして。それまでが天皇「日常」をひとつずつ積み上げている印象だっただけになおさら。

写真撮影の場で、アメリカ人に「チャーリー(チャップリン)に似てる」と好き放題言われても甘んじてそれを受けるという描き方をされていたのが印象的だった。けっして悪い意味ではなく。それから、明治天皇が「オーロラが見えた」と大正天皇に言った、という話が結局「文学的霊性」に回収されてしまうエピソードも。
東京大空襲(おそらく)の回想とか、廃墟の東京とかの映像は、非常に美しかった。

それから、マッカーサーとの会食の場でろうそくを楽しげに消して回るところとか、皇后と再会して、肩に頭を寄せるところとかは、語弊があるかもしれないけれども可愛らしくて、好き。「あ、そう」はもうちょっと効果的に使うとなお良いと思った。