「暑い……」

気付けば本日三本目のアイスを口にしていた。
りんごのすっきりとした甘さが口中に広がると同時にとびきりの冷たさが頭にキンと響く。

こんな日でもいそいそと畑仕事やら馬当番、はたまた道場で手合わせに勤しむ刀剣男士のなんと強いことか。
かく言う私は夏に入って直ぐに畑仕事を手伝っている矢先、うっかり熱中症に倒れた。
とうもろこし畑の真ん中でばたり、と倒れた私を三人掛かりで本丸まで運ばれたのはまだ記憶に新しい。

あぁ、とうもろこしで思い出した。
もうそろそろ畑番が帰ってくる。

夏は流石というべきか、苗を植えれば植えただけ育ち、買うよりも沢山実った。食べ盛りの男が四十余人生活する我が本丸では実りすぎた野菜も途端に消えてしまうのでそこら辺は気にしていない。
今日は奥の畑に行くと言っていたのでおそらく茄子とオクラが沢山やってくるだろう。
額に汗が伝う。それを私は気だるく拭う。

「でも茄子とオクラだけじゃ飯は食えんよ。飯は」

ぼそり、と一言。
他の季節よりも格段に食料の消費が早いのは当たり前だった。
毎日真っ白だったはずの肌を少しずつ小麦色にしながら仕事に挑む彼らが今日採れた分だけの茄子とオクラで満足するはずはない。
ましてや茄子とオクラだけで何を作ろうというのか。

「和え物……?いや、それお腹いっぱいにならない」

少しの間自問自答。
そしてここで思い出す。確か今朝米櫃の底が見えていた。

「やばいぞ、米。あの量じゃ昼と夜賄えない」

もって一食。
それくらいしか今我が家には米がなかった。今から注文するにも届くのは明日の早朝になろうか。不覚だった。

「どうしようか。パンじゃ絶対無理だし…」
「おや、またアイス食べてる」

頭上から声が掛かった。聞き慣れた声は私が手に持つ溶け掛けのアイスを見た途端、少しだけ鋭くなる。

光忠だ」
「さっきもオレンジ味食べてたのに、次はりんごかい」
「この暑さだ。ちょっとばかしは許して欲しいね」

振り返ればシャツの袖を捲くり、今にも畑に出ようとしているような身なりの光忠がそこにいた。下はジャージだが上はいつものシャツだったのでおそらく離れの隅に拓いた畑にでも行くのだろうか。

「そう言って、体冷やしても僕は知らないからね」
「この熱気でどう冷やせ、と」
「……はぁ」
「さっきの江雪みたい。もう一回」
「そこまで怒られたいのかい」

何気なく揶揄えば、ぽふり、と案の定頭を小突かれた。

「なにさなにさ」
「いや、巫山戯るのはかっこよくないな」
「ふん……で、今日のお昼どうする?お米足りない」
「え、ほんとかい?!そういうのは前もって言ってくれないと……」
「朝の残りと今お櫃にあるだけじゃ夜まで持たないし。まぁ今から注文かけるけどさぁ」

「あ〜」と頭を抱える光忠は眉間に皺を寄せた。同じタイミングで溜め息が溢れるあたり、少しばかり怒らせてしまったに違いない。

「歌仙くんなら今頃君の頭をスリッパあたりで叩いてると思ってくれよ」
「そりゃ痛てぇや」
「……反省してる?」
「次からは無くなったらちゃんと言う」
「無くなってからじゃ遅い!!」


次こそは小突く、どころではない一撃が頭にお見舞いされた。
食事にはとびきりうるさい男を怒らせてしまった、その罪は案外重かったようだ。


「……で、どうするんだい」
「……う、うどん」
「そんなに沢山ないよ」
「う、うぐぅ……」


すっかり呆れた光忠は、畑仕事どころではない、と私の横に座した。まだこの本丸が少人数だった頃は一食抜いたくらいでは何も無かったものの、こうも大所帯になった今では食事は必ず三食無ければ回転しなくなってしまう。

「ではパンでどうでしょう……」
「パンでうちの男共が満足するとでも?」
「思いませんな」
「ならどうするの」
「…そ、そうだ…そうめんがある。うちには膨大な量のそうめんが…!」
「…なんだって」

 かくして本日の昼食は決定したのだった。

「またあなたと言う人は!」
「まぁまぁ、いいじゃん」
「よくありません!」

広間中に長谷部の怒鳴り声が響く。
ぐでん、と畳の上に寝転がり、携帯ゲーム機を片手に持つ私の目の前で、へし切長谷部は相変わらず仁王立ちしている。

「ちょっと長谷部〜、今バトル中なんだから〜」
「関係ありません!何ですかその格好は」

もちろん、私の視線は長谷部には向いていない。私の視線は今も変わらず、画面の中のピ〇チュウに注がれている。

「あぁー!主、今までピ〇チュウ隠してたの!?」

反対方向に寝転ぶ蛍丸がバッと身を起こして私に近づいた。

「はっはっは!読めなかった君より私の方が上手だったのさ!!」
「ずーるーいー!」

切り札のピ〇チュウを

「あ〜?さにわ?」
「はい。審神者です」

世の中には私の知らない職業がごまんとある。ふとテレビの変わった企画を見れば、『まさかこんな職業まであったのか』なんて思ったこともあるけれど、まさか自分がその変わった職業に就く事になるとは誰が想像できるだろう。
現在私が働いているのはごくごく普通の商社。ウン百年前とは違って就職率は安定しているのでこんな凡庸な私でもやすやすと就職できたのが今の会社。
なのに。なのに。
普通、変わった職業に従事する人と言えば、それなりに優れた能力があって、それを十分に活かしている印象があったからこそ、私とは関係ない世界と思っていたのに。

「えっと、その、さにわ?だっけ。それはどういう職業……なんでしょうか」
「簡潔に言いますと、歴史の改変を防ぐべく刀剣の付喪神、これを刀剣男士と言いますが、彼らを使役していただく、ということになります」

昼下がり。どこにでもあるようなちょいボロビルの会議室。フクロウの形をした壁掛け時計が間抜けに『ホー』と鳴く。

「……ちょっと理解できないです」
「……もう少し噛み砕いて説明します」
「あっ、ありがとうございます」

学生時代に読んだ本にちらりと出てきた付喪神、というワード。あの時は確か古屋敷の物置に眠っていたお椀か何かだった。
その付喪神を使役して歴史の改変を食い止める、なんて何の冗談だろう。
わざわざ平日、それも忙しい時期に会社に押しかけてきて話す内容ではない気がした。けれど、受け答えをした受付嬢も、上司も、やって来た相手が政府の人間と聞けば、すぐに対応したのはそれくらい、政府が大きい存在だという事を思い知らされる。
……いや、もしかしたら政府に知られちゃまずい事でもしてたから慌ててたのかも、と思ったけれど、いざ政府の人間の口から出てきた言葉が『付喪神』やら『審神者』なら、拍子抜けも良いところだ。

「これは表向きには口にできないのですが、現在、歴史改変主義者、と呼ばれる集団が居りまして」
「あ、はい」
「文字通り、タイムトリップを利用して過去を改変しようとしている集団です。ここまでで分からないことは」
「まず根本からわからん」
「へぁっ?」

目の前のお兄さんが突拍子もない変な声を出す。いかんせんこのご時世、時空間移動機能が発達しているとはいえ、そんな集団がいるとは理解に苦しむ。そもそも時空間移動機能は一般人には現在でも程遠い存在なのだから。

「そんな非現実的なこと信じませんよ」
「それが本当に居るから政府が動いているんです…」
「えぇ…」
「もう何を言っても信用できない感じですよね」
「生まれて此の方、幽霊とか神頼みとかを信じたことがないもので」

いつか本で読んだ例のお椀付喪神も、未だに『寝ぼけてたんだろ』と理解している。
そのことを告げれば、「こりゃ大変だ」とお兄さんは小さく漏らした。いい歳して付喪神なり非現実的な組織を信用しろという方が大変な気もする。

「っ、じゃあ、もういいです。これから僕が言うことは全部本当の事ですから、自己解決でもして聞き入れてください」
「えっ」



それからお兄さんの口から出た言葉はまるで絵本の世界みたいな話だった。やや血なまぐさいけれど。
だって、付喪神と言えば物体に手足と瞳が付いたものとしか思ったことがなかったからだ。お兄さんの言っていた人型をした肉体を持つ刀剣の付喪神が過去の修正を防ぐため身を持って戦う、なんてぱっと聞かされたくらいじゃあ到底理解もできない。

すっかり冷えきった湯呑の中のお茶を一口でごくりと飲み干したお兄さんは「どうかご理解ください」と息切れしながら懇願する。

「…新手の詐欺か何かじゃないですよね」
「公式な政府からの勅命です」
「えぇ…それ拒否するとか辞退するとかは」
審神者候補は全国を探しても数えられる程しか居ません。故に…」
「うわ、あの裁判員制度的な…」
「そうなりますね。しかし危険もそれなりに伴いますから、政府から給金も出ます。福利厚生、衛生面、住居から諸費用全て国が保証致します」
「えっそんな特別待遇アリですか」
「一応国家認可済の職業ですから」
「お、お給金は…」
「月末に支払われます。大体額はこれくらいでしょうか…」




所詮世の中金と知恵。
あの時お兄さんが提示した電卓に示された月給の桁の多さは人を狂わせるには十分な額だった。「えっ、これ手取りで?」「はい。手取り額です」「よろしくお願いします」これまでのやり取りも全部忘れた様に、私はお兄さんに頭を下げていた。
政府公認で、お給金良くて、住居までついてくる。加えて生活に必要なものは全部国の保証付き。怪しい、と思ってしまいそうだけど、二十代前半社員寮に一人暮らし、そんでもって奨学金絶賛返済中の私には願ってもみない話だった。

あれから数日後、会社を退職になった私の元に、黒塗りの車と先日のお兄さんがやって来た。社員寮の荷物を後から来たトラックに載せられて、私も同時に黒塗りの車に乗り込む。これ傍からみたらヤのつく自由業だね、と今更笑い飛ばす。

それから少しだけ車に揺られてやってきたのは、お兄さん曰く、政府持ちの施設だった。
ここで私は審神者としての基礎知識を聞かなければならないらしい。なんでもこれを怠ったせいで過去にとんでもないことをやらかした人もいるとか。肝心のとんでもないことについて、私はお兄さんに聞いたけれど、そこまでは流石に教えてくれなかった。

講習が始まっても、私はまるで理解できずにいた。あの日会社でお兄さんが話してくれた内容をもっと専門的な用語を交えながらノンストップで進められる講習は、大学時代を思い出す。
あぁ、あの教授早口過ぎて聞き取れなかったなぁ、と懐かしい気持ちに浸る。
時々耳に入ってくる単語はこぞって『付喪神』『審神者』『歴史改変主義者』ばかり。多分ここらへんはお兄さんが噛み砕いて説明してくれた所だと思う。
はい。はい。と相槌をうっていれば、知らない間に講習会は終わっていて、講師の女の人に国語辞典並の分厚さがある本を手渡されていた。
ちなみに最後の最後まで話は聞いていなかったので、この本も何の本か実際のところわかっていなかったりする。


「えっほとんど聞いてなかったんですか」
「えぇ、まぁ。お兄さんが言ってた事と同じっぽかったので」
「あぁぁ…まぁ大体向こうで困ったらさっきのガイドを見ればどうにかなりますし」
「やっぱりそうですよね」
「まぁだからと言ってくれぐれも!変な事したりしないように」

お兄さんは私にすっかり呆れているようで、最後の最後まで審神者についての説明をしてくれた。『相手も感情を持っているので、そこらへんは蔑ろにしないようにしてくださいね』という言葉は特にキツめに言われたような気がした。
ちなみに、私の中での刀剣男士は未だに『物体に手足と瞳がついたやつ』というイメージなので、きっと私が刀剣男士達を犬の様な扱いをすると踏んでいるんだろう。
「一応付喪“神”ですし、蔑ろになんかはしませんよ」と言えば、少し疑いの目を向けたけれど、了承してくれた。無神論者が付喪神と共に暮らす、なんて滑稽だと自嘲的になってみるけれど、これも仕事、と割り切れば出来ない事もないだろう。

「では、本丸へ移送致します。こちらへの連絡は向こうの書斎にPCを設置していますのでそれを御利用下さい」
「お、PCとかあるの」
「はい。審神者業務の一環として書類作成もあります故」
「はぁ。んで向こうについたら案内役の誘導に従って指定に部屋に行けばいいんだっけ」
「そうです」

「では、いってらっしゃいませ」と声が掛かる。流石政府。ワープゲートの一つや二つ簡単に使用できるとは。んでもってついこの間まで一般人だった私が利用できるとは。
何 の変哲もないドアを開けば、そこにはおどろおどろしいくらいの真っ暗闇が広がっている。これが所謂四次元らしい。

「…じゃあ、また」



赤い隈取りをした狐、もとい、こんのすけは私の話を聞くやいなや盛大にため息を吐いた。
「主様、もしや今の今までずぅっと付喪神が『物体に手足と瞳がついたやつ』と?」
「え、そうじゃないの?」
「刀剣男士は肉体を持っております!」
「てっきり刀に細っこい手足がついたアレかと」

私の脳内ではずっと、刀に細っこい手足と小さな目がついた生き物がちょこちょこと動いている様子がエンドレスで流れ続ける。
しかしこのタイミングで。新たな職場に到着してからようやく、刀剣男士とはいかなるものか、その全容を聞かされた私は動揺していた。まさか、刀剣男士とは聞いたけれど刀です付喪神の“男”と共に暮らすとは。
「え、刀剣に性別とかあるの」と素っ頓狂な質問に対し、こんのすけが「はぁっ!?」とその可愛らしい成りに似合わない声を上げたのが事の始まりなのだけれど。

若干引き気味な私を他所に、こんのすけは私を奥の部屋へと連れていく。「は!や!く!」と後ろから足をぐいぐい押され、板張りの床を小走りに駆けた。

やっぱり講習会の時、ちゃんと聞いとくんだった。

こんのすけが「ここでございます」とふと、私を押すのをやめれば、目の前には今では滅多に見ない襖があった。

「この中にいるわけ?」
「主様がこちらにいらっしゃる前に五口の中からお一つ選ばれた刀剣男士がいらっしゃいますよ」
「ほえ〜」

ちなみに選ばされた時に見せられたのは刀の写真。その時の私はすっかり『やっぱり物体に手足と瞳がついたアレじゃん』と決めつけていた。だがしかし、どうだろう。これまでの話を聞く限り、この襖の向こうにいるには人型をした付喪神なのだという。

「ちゃんと言葉通じるよね…?」
「心配するところはそこですか」

未だに現実を受け止められない私にこんのすけは至極冷静に応える。

「え〜何か今更緊張してきた。人型してるとか〜」
「何を今更!さっさと入ってくださいっ!!」

襖の前でうじうじする私。その横でいかにも苛立ったこんのすけ。
ついに限界だったのかこんのすけはぴょんと飛び上がると私をドンっと後ろから押した。
「うえぇっ」とカエルが潰れたような声を出して私はその瞬間、咄嗟に襖を開く。流石に襖ごと部屋にダイブするのは怖かった。

どたり、と部屋に倒れ込む。

「ちょっとこんのすけ!いきなり何すんの…よ…」

私は目を疑った。
だって、目の前には白い布を頭からすっぽりと被った男の子が居たんだから。

「え、えっと」
「あっ…」
「あ、あはは。よろしく。君の主?です」




……終われ


瞼の上のキスはいつも優しい。

王は二人きりの時は私に非常に優しく接する。それはもう、触れる手の柔らかさと言えば、既に割れた硝子片を拾い上げる時のようで、その度に私は“全力の愛”を感じる。

髪をひと房、王の指に取られれば、その先で王は私の髪を弄んでは儚く微笑んでくださる。「時臣、好きだ」と決して人前では口にしない言葉を次から次に投げかけるものだから、私はいつも心臓が痛いのだ。
綺礼が見れば何と言うだろう。
きっと、「こいつは本当にあのギルガメッシュですか?」と問うに違いない。それもそうだ。出来の良い弟子の前では私達は完全に主従関係にある者同士で通っているのだから。

「王よ、私も王をお慕いしております」
「…そうか」

いつも通りに愛の言葉を返せば、王はまた誘惑するような顔で笑む。目を合わせ、王の方へ向き直れば、もう私の目には彼しか映らない。弱々しく丁重に手を取れば、王は甘く指を絡め返してくださる。恋仲の者同士がする、所謂“恋人つなぎ”が彼は大好きなのだ。

「その言葉に他意は無いな?」
「はい…。私が王を裏切るなどあってはなりません」
「それで良い…」

もう片方の手が私の頬に伸びれば、優しく撫ぜられる。こそばゆい、あぁ、愛おしい。
少しだけ彼の手に頬を寄せて身じろげば、王は目を細めた。その目に冷酷さはない。ただ一心に、愛しいものを見つめる目だ、と思った。
自分が偉大なる英雄王を満足し得る存在であることは、もちろんだが初めは信じられなかった。だが、二人きりの時にのみ私に寄せる眼差しは色恋に染まったそれにそっくりなのだ。妄信的で煽情的。この言葉がぴったりに似合う。
人間味の無い存在である王の色香は、もちろん人とはかけ離れているものの、情を通わせることに於いては人間とさほど変わらないのだ、と私は思った。

初めて王に抱き竦められた時に感じた温度は確かにそこにあったのだから。

「生きている」

素直に思った。
仮初の体といえども私の腰に回されたしなやかな手と耳に微かに当てられる心地よい息遣いはたまらなく愛おしいと感じたのだから。

その日、その瞬間、彼らの体を電流のようにナニカが流れていった。
 束縛には慣れているつもりでも、こればかりは破らずにはいられない背徳。手に持ったキャリーの取っ手がきゅっ、と軋む感覚を彼らは味わう。
 今回ばかりは少し違うのだ。後ろで今にも自分を見つめる恋人の眼差しは寂寥に溢れ返っているのだが…。
 ドアノブに手をかけると、ひと思いに開け放った。朝の光がまた、どきりと心臓を鳴らしたのがわかる。

 「いってきます」

 この日ばかりは誰もが笑顔で外出できなかった。

 「案外、予定してた集合時間より早く集まれたね」
 「…なんか一刻も早く出たかった」
 「私も一緒だ」

 空港の待合室で、彼らは数ヶ月ぶりの邂逅を果たした。

燃費が悪い 3

身体の治療が完了して以来、いそいそとホテルの一室を引き払ったケイネスは早々に俺を追い出した。聖杯戦争が中止にはなったがもう少しの間日本には滞在するらしく、単身赴任をする者向けのマンスリーマンションを借りるようだった。
そして、時を同じくして俺は久々に自宅に帰宅したのだった。出奔し、聖杯戦争開始の折に爺さんに会いに行ったきり録に帰っていない自宅は、もはや自宅とは呼べない。郊外に建てられた大きな屋敷がやけに憎たらしかった。
まだ動きにくい足を引き摺り、ゆるりゆるりと身を揺らす。すっかり容姿が以前とは似ても似つかなくなってしまった俺を見た人々は不審な視線を向ける。それは俺だけではなく、ホテルを出て以来俺の横に沿って歩くバーサーカーも同じだった。
平日の昼間から気味の悪い男と外国人が歩いている、なんて不気味としか思えない。だが、次々と向けられる好奇の目が、俺は嫌なわけではない。勿論、髪の色といい、引き攣った痕が残る顔も、今後のコンプレックスにしかならないものだが、これは俺が自ら選んだ結果だ。今更悔やむこともない。そして後悔も今更感じることはなかった。
「…そろそろ着くぞ」
「……」
教会の一件から、コイツは全く言葉を発さなくなった。恐らく、喋ることはできるのだろうが、敢えて話すことを拒んでいるようだ。だからとはいえ、俺はコイツに会話を要求するわけではない。これまでも。今からも。
ただ単純な命令だけを聞く狂戦士の扱いは若干掴みにくい。無表情が板についた顔ももう慣れたものだ。
敷地に入ると、雰囲気だけでもひしひしと拒絶の念を感じる。家に篭ってばかりの爺さんも聖杯戦争が打ち切られた事くらい、とっくのとうに伝達済みなのだろう。きっとご立腹の筈だ。

「靴、脱いで上がれよ」

やはり返答はない。俺の後ろでひょろりとした長身が慣れない仕草で靴を脱いだ。
ケイネス達に必要最低限の衣服を与えられたコイツはやけに情景には馴染まない。元よりコイツは英霊である以前に外国人だ。いくら近所に英国風の作りの家屋が建ち並ぼうと、順応する事はないのだろう。

「…話すことがある。着いてきてくれ」
玄関で振り返った時に言いかけた。声に反応して顔を上げ、目を一瞬見開いたところを見ると、恐らく話す内容は薄々悟っているのだろう。
家に上がり、後ろをとぼとぼと着いてくるバーサーカーは、一見するとサーヴァントには見えない。やけに整った顔も、深海のように深い色をした長い髪も。少しだけ憂いを帯びている表情は、過去にどれくらいの女性を魅了してきたのだろう。やや不健康気味の痩けた頬が痛々しい。

居間に入ると予想通りと言えばそうになるが、がらんどうになったその部屋にバーサーカーを誘導する。ソファに掛けるよう催促すれば、細身の体がちょこん、とソファの隅に身を下ろした。
対岸に掛ける俺の顔を見ようとしないのは何故だろう。狂化が解けて以来、やけに態度がしおらしくなったものだ。
「そこまで気張らなくていい」
「…」
会話の成り立たないこの空間に存在するのは沈黙と時計の秒針の音だけだ。

それから幾ら位時間が過ぎたのだろう。俺が口を開いたのは最初の沈黙からしばらく経った時だった。

「もしかしたらお前も分かってるのかも知れない。もし分かってなかったとしても、どうせ話さなきゃならない事だ」
ごくり、と俺が息を呑む。
「俺の治療が済んだ後、お前、一度消えかかっただろう。今から話すのはそれについてでもあるし、これからの事にも関係している」
実際、バーサーカーが消えかかった事は、目が覚めてから聞いた話だ。 バーサーカーは消えかかった時、俺はまだ相変わらず眠りこけていたのだという。その瞬間を見たケイネスはとっさに俺に魔力を注ぎ込み、バーサーカーの消滅を食い止めたらしい。いつもホテルの部屋の隅で俺をじっと見つめていたというコイツは、消えかかった瞬間、声は出さないもののひどく悲しそうな顔をしたそうだ。
その時ケイネスは気付いたらしい。蟲を取り除いた事で、俺の体内の魔術回路が既に完全に機能していない事に。そのせいでただでさえ燃費が悪いバーサーカーだ。ほんの少しの供給が無いだけでも、ほのかに残った俺の魔力がすぐに燃え尽き、一時的ではあるが消滅しかかってしまったのだ、と。
目を覚ました時、ケイネスに必要最低限の量の魔力を流し込まれ、ただでさえ血の気が引いた顔を更に悪くさせ部屋の隅に佇んでいたコイツには、そのような事情があったのだった。

 「お前、あの時どう思った」
 「……」
 「これだけは答えてくれ。俺はお前に無理を強いているのかもしれないからな」
 「…ただ」

 教会で聞いた以来の声はひどく寂寥感に溢れていた。
 口を開くのさえ嫌がるようなその仕草を、俺は“らしくない”と思った。

 「…ただひらすらに恐ろしかった」
 「恐ろしかった…か」
 「元よりバーサーカーとして召喚された以上、マスターに一方的な苦労をかけることは重々承知でした。それでもこの私を残してくれたことが何より嬉しかった」
 口には出さずとも、コイツがこんなことを考えていたとは。元が騎士であるが故に、主人への念を決して忘れないその姿勢に、少しむず痒くなる。真名をランスロットと言っただろうか。その生き様は壮絶なものだったと聞く。だがしかし、根源に持つのは騎士の精神そのものなのだ。
 「だからこそ、魔術回路からの魔力供給が完全に絶たれ、この身が消えかかったときは言葉も出ないほど、ただただ辛いだけでした」
 「…そうか。ようやく口を開いてくれて助かったよ。それにお前の気持ちが聞けてよかった」
 「故に、これまで主にかけてきた迷惑、苦労、苦痛を忘れたわけではありません。本当ならばこの身は協会であの時消滅しても可笑しくなかったはずだ」
 眉を顰めて悲観的な表情を作るたびに、俺には言いようのない怒りがじわじわとこみ上げてくるのがわかった。テーブルを無意識に指で突き、爪を弾く音が次第に顕著になってくる。
 「…なのに俺はお前を現界させる事を選んだ」
 「…はい。こんな私を置いておく必要など、本来無いはずなのに」
 どんどんと卑屈を並べる目の前の男がどうしようもなく鬱陶しいと感じた。どうせなら、狂化していた時のような傍若無人な態度の方が対応しやすいというものだ。俺も相当な根暗の部類に入るが、ここまで次々と弱々しい言葉を吐かれると、どんな人間でも腹は立つ。
 「…っ」
 「主がお怒りになるのも無理はありません。全て私のせいです」
 まるで“構うな”と言わんばかりの態度に益々嫌気が差した。
 「お前…現界し続けられるって聞いて、嬉しかったのになんで消えたがってるんだよ」
 つい本音が出てしまう。まだ完全に戻りきらない体調を制御しつつ、激昂すると、案の定目をそらされた。悲観的なこの男はどうしようもないらしい。
 「それじゃ矛盾してるだろ」
 「…」
 「現界し続けられて嬉しいなら素直に喜べ。魔力に関しては気にするな。ちゃんと俺がお前を支える、ってあの時言っただろ」
 「だがしかし、私はバーサーカーです。狂化が解けても主にかかるリスクが減るわけでは…」
 「うるさい!」

 年甲斐にもなく怒鳴り声を張り上げる。聖杯戦争中は怒りに身を任せ、幾度か声の出ない喉から必死に声を絞り出したが、今ははっきりと以前のように声を出すことができた。バーサーカーは俺の怒鳴り声に少しだけ肩を竦めると、次こそ完全に目線を床に落とす。
 「…しかし、どうするのです。主の回路が完全に機能しなくなった今、私は魔力を摂取する術を持っていない」
 「……はっきり言えば、そのことについて話がしたかったんだ。それが、これからの事、なんだ」

燃費が悪い 番外編

風が服をすり抜けていく感覚が気持ち悪い。
秋の夜は意外に冷えるのだ。こうもやすやすと服を剥がれては明日の体調を今からでも気にしてしまいそうになる。この行為の途中はいつも、わざと他の事を考えるようにしてきた。勿論、俺が責任を取らなければならない問題なのは確かだが、こういう行為をする事で、人間という生き物は多少なりとも相手に情が移ってしまう何とも愚かな生き物だ。それに、今こうして俺の首筋に口付ける男、もとい、俺のサーヴァントであるバーサーカーは、俺の持つ役に立たない魔術回路からの魔力供給を諦め、こうして粘膜摂取として術者である俺から魔力を供給することになった。初めは互いに戸惑い、頑なに行為を拒否してきたバーサーカーではあったが、一度事が済めば、これまでに感じた事が無い位の魔力の充実感を得たらしい。お互い男色家ではないため、不安があったものの、今はこうして三、四日に一度のペースで体を重ねている。初めての行為の前に、バーサーカーには『これは欲とかそういうの意識しちゃいけない、あくまで事務的なことだ。気負わなくていい』と俺の口から直接伝えた。それでもどこか申し訳なさそうに怯えた表情を俺はいつも思い出すのだ。
「…んっ」
首筋を蛇に這われたようにそろりそろりとアイツの舌が蹂躙する。
俺としては、そういった戯れのような行為はあまり必要としたくはない。あくまでこれはバーサーカーにとっては生命維持活動の一環であり、変に意識されるととても気まずいのだ。俺は幸か不幸か、コイツを召喚するために爺さんに拷問に近い行為をかなり長い期間、付け焼刃状態で受けた経験があった。そのためか、無理矢理に挿れられたところで然程苦痛は感じない。今はこうして辛うじて健康体を取り戻してはいるが、精神的に受けた傷までは治るわけではなく、多少の痛みは我慢できた。
「…おい、言ったろ。そういうの必要ないんだ」
「しかし…ちゃんと慣らさないと貴方を苦しませてしまう」
あぁ、また妙に気を使っている。狂化が解けて以来いつもこうだ。どこか謙遜した態度が、狂乱していた頃とは似ても似つかない。
「俺は多少痛くても全然大丈夫なんだ。お前が変に気を使って無駄な行為しなくても…」
そうだ。これは性行為とはいえど、その間に愛は存在しない。むしろ、愛なんて持ってはいけないのだから。
制止の意を込めて掴んだ腕から伝わる体温が生々しい。先程まで俺の腹を撫ぜていた骨張った掌がゆっくりと離された。
「俺は女でもない、それに、お前も男を抱くなんて以ての外の筈だ」
「…それは」
「だから今だけは、この時だけは俺を忘れてくれ」
少し言い過ぎたと思いつつも率直な気持ちを口に出してみる。行為の時は後ろで束ねた アイツの長い髪がはらり、と垂れ下がる。
「…ならば、これだけはさせてください」
垂れ下がった髪をそのままにアイツはそう告げると、俺に口付けた。薄い唇の温さが今だけはとても熱い。まるで愛する恋人へ向けた、そんな口付けだった。

「…はぁ、お前どういう神経してるんだ」
「口付けだけはせめてお許しください、雁夜」
今日初めて名前を呼ばれた。その違和感が俺の凍りついたかのように冷えきった身体に電流を流すような錯覚を催す。なんだよ、これ。
そして、アイツは毎度のように申し訳ない表情をすると、ゆっくりと俺のナカに挿ってくる。ちっとも痛くない。ナカでアイツが動く度、蟲の這う感覚を思い出すのだけは、いつになっても慣れなかった。
「っ…はぁっ…んっ」
俺がこの行為で達する事はない。
俺の役目はただアイツを受け容れることだけだ。
「っ…雁夜っ…雁夜…」
名前を何度も呼ぶその行為に何の意味があるだろう。時々当たりどころが悪く、不意に声が漏れる度、アイツの動くスピードは少しだけ早くなった。
「ま、待て…そこばっかりやめろっ…」
ずん、と下腹部に来る圧迫感と、認めたくない快楽が押し寄せる。ぴん、と立てた爪先が微かに震え続けるのが解る。
「あっ…あぁっ…」
嬌声が次々と無意識に紡がれていく。自分で『意識するな』と言いながらも、当の本人がその禁忌を破っていた。

苦痛とはまた違った、“意識が飛びそうな感覚”に身が大きくしなる。
あぁ、俺はどうしようもない大馬鹿者だ。