イノベーションのジレンマの誤解を解く

クリステン教授の処女作である「イノベーションのジレンマ」は、「破壊的イノベーション」という言葉とともに、出版から25年ほど経ちたいていのビジネスパーソンなら名前だけは聞いたことあるくらいに知れ渡っているのではないだろうか。私は15年前くらいに手に取ったのだが、学士の卒業論文と重なるところもあり、非常に感銘を受けた思い出深い一冊である。当時からベストセラーだったとはいえ、さすがに真実過ぎたので単年で流れるようなことはなく、時を経るにつれリンディ効果が発揮されますます古典の位置付けを固めてきたという印象である。

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 Harvard business school press

誤解

とはいえ、「イノベーション」という言葉も「ジレンマ」という言葉も一般名詞で馴染みのあるもののためか、本書で解き明かされている法則とはズレた解釈で語られている場面もよく目にする。例えば典型的なのは、自社内の商品同士が同じ顧客を取り合っていることを指す「カニバリ」との混同である。あるいは、たとえ事業領域が違っていても組織内の既存事業部と新規事業部の予算や待遇の争いに「ジレンマ」という言葉を宛てがったり、市場規模の観点から大企業で求められる事業水準に達していないため新興市場に参入できない構造を説明するために「ジレンマ」が宛てがわれたりとか。

ややこしいのだがこれらも間違いではない。というのも「イノベーションのジレンマ」の構成は前半は論文集だが後半は一般論に拡大したビジネス書になっている。その後半で上述のような話が一般法則としてまとめられているからだ。また、本書では「敗れる側」の大企業の視点が中心になるのだが、続編では破壊的イノベーションを起こす側の視点にたった指南書となる。そこでは上述のような問題を如何に打破するかが解説されているからだ。

しかし、1作目の本書のコアとなる、論文でモデル化されているイノベーションのジレンマとはもう少し焦点を絞ったものとなる。実はWikipediaも上述のような内容になっているため、イノジレに一家言ある身としては常々どこかで書いておこうと思っていたので今回筆を取った次第である。

イノベーションのジレンマの核心

論文のモデルでジレンマが指している対象は、多機能で高性能な製品が少機能で低性能な製品に打ち負かされることである。そして、これが起こる理由に顧客の要求水準を当てはめたのが下記のイノベーションのジレンマ図である。

引用: https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/070600096/070600001/

多機能で高性能な製品が少機能で低性能な製品に打ち負かされる理由は、顧客の要望が少機能で低性能な製品で十分に満たされるからである。(2)の破壊的イノベーションが市場のローエンド要求に達するとキャズムを超えた市場形成が行われ、ハイエンドに達し始めた(3)の地点で市場のリーダー交代が起こる。その間も(1)は上昇し続け、多くの顧客にとっては満足する水準を遙かに超えた「過剰」品質になっていく。

(1)が決して無能な経営だから起こるわけではなく、むしろ優良な経営だからこそそのような結果に至る。そのことを前半の論文集ではハードディスクやフラッシュメモリ、添削機といった業界事例を上記チャートに当てはめながら分析している。

すぐれた経営こそが業界リーダーの座を失った最大の理由である。(中略) 顧客の意見に耳を傾け、顧客が求める製品を増産し、改良するために新技術に積極的に投資したからこそ、市場の動向を注意深く調査し、システマティックに最も収益率の高そうなイノベーションに投資配分したからこそ、リーダーの地位を失ったのだ。

イノベーションのジレンマ本文からの引用となるが、優秀だから失敗する、これこそがジレンマと名付けられた核心となる。

綺麗にイノベーションのジレンマが起こっているウェブフロントエンドの話

これは2023年現在も変わらず見られる事象である。イノベーションのジレンマの誤解を見る機会以上に常々体験していることが、フロントエンド周辺の技術群で綺麗にこの図式を踏襲していることである。ヒットすると多機能で高性能なフルスタック化に進み、見事に少機能で低性能なものへと世代交代が起こるのである。ビルド系のbrowserify→webpack→rollup/viteでもその傾向が見られるが、フレームワークが実に見事にこの法則を踏襲する。

引用: https://qiita.com/yasusun/items/02ab309c7fab4c0c65b9

今もそれなりのシェアを持っているAngularから始めると、2016年にTypeScriptネイティブで書き直した2.0がリリースされたあたりがハイエンドの要求水準に到達したタイミングだっただろう。堅牢な開発ができることとすべて純正品で丸抱えしてもらえる”easy”さが売りとなった一方で、フレームワーク独自の記法への学習コストの高さやビルドツールやライブラリに純正品以外の活用が難しく最先端のJavaScriptエコシステムへの遅れが目立つようになり、多くのユーザーが離れていった。

変わって市場リーダーになったのがviewライブラリのみの"simple"さを打ち出していたreactである。しかしジレンマ図通りに、市場リーダーの交代時点でreactもハイエンド要求水準に片足掛けていた。継続的に強化が進みcreate-react-appを代表的にAngularと似たようなフルスタックの”easy”さが当たり前の姿となっていったのである。

reactに不満なユーザーの受け皿として、react互換でありつつ当初の軽量viewライブラリに立ち戻ったpreactなどがカウンターとして登場する中、バニラHTML/JavaScriptをそのままコピペできる範囲が大きいvue2.0が"simple"のポジションを取り破壊的イノベーションとなった。日本でのポジションがreactに並び出したのが2019年くらいだったろうか。SEO/OGPに加えモバイルでの速度がフォーカスされたこともあり、SSRフレームワークを採用するところが増え、それぞれnext/nuxtという代表例を擁しているreact/vueの二強が確立した。しかし、これと並行してAngular2.0と同じくTypeScriptネイティブで書き直すvue3.0の開発が始まっていた。この答え合わせが出たのは去年今年あたりの感覚だが、vue3.0は多くのユーザーが離れる機会となっている。

変わってローエンド市場からシェアを増やし現在勢い出ているのが、いつものように"simple"なviewライブラリのみを打ち出しているsvelteとなろう。しかし、svelteもすでにsveltekitという"easy"なフルスタックを持っている。

完全自由市場だとイノベーションのジレンマが起こりやすいという仮説

ヒットすると多機能なフルスタック化に進み、 不満をもったユーザーが"simple"を売りにした少機能なものへ流れ、世代交代が起こる。なぜこんなに見事なイノベーションのジレンマがウェブフロントエンドでは起こるのだろうか?

2010年代のウェブフロントはHTML5以降JavaScript言語自身の進化が加速したこともあり、毎年「○○は死んだ」と言われるような技術変遷が激しい土俵であった。reactが定着した2010年代後半ごろにだいぶ落ち着き始め、フレームワークと同じく長らく激動を続けていたビルド関連も最適化やエコシステムを踏まえればES Moduleに切り替わった後もwebpackが当面使われるだろうとなっていたが、そのwebpackは去年開発終了になった。

私見ではこうなる理由として5つ挙げられると思う。

  1. 基盤技術の革新が続いていること
  2. webにモートが無いこと
  3. フロントエンドのスイッチングコストが低いこと
  4. プレーヤーが多いこと
  5. 費用が小さいこと

1はすでに述べているが、HTML5以降のJavaScirpt言語自身の進化のことが主になる。2については、ウェブはソフトウェアの中でも、ブラウザでソースが見られることもあり、特にオープンでフリーダムが強いと思っている。国の規制はほぼなく、2000年代のMicrosoftOracleが敷いてきたような、いわゆる「モート」も嫌厭される。OSSの文化が強く、標準化が盛んで、とくにビルドやフレームワークのようなものはほぼビジネス的な独占手法が行われていない。reactのライセンスがFacebook社全体の規則により強めのものだった時期もあるが、大きな反発が起こり現在はMITに変わっている。その上で3以降となるが、フロントエンドは永続層のデータがなくアプリケーションファイルだけになるので、比較的リプレースしやすい。また技術的にもはじめに学習する人が多く開発者の裾野も広い上にソフトウェアも比較的小さく開発コストが低いため、新しいものが生まれやすい。つまり代替手段に変えやすく、その代替手段が豊富に生まれる。それらが合わさってこのような状態を発生させていると考えている。要は、限りなく完全自由市場に近いのである。

しかしそれにしてもどうしてユーザーの満足水準に達したところで止まれないのだろうか?競争の激しいレッドオーシャンだとこれだけこのモデルが一般的になった今でも、持続的イノベーションの当事者たちは多機能/高性能化を止めることができないのだろうか?もしかしたらOSSばかりでビジネス色が薄いためユーザー数の増大などは優先事項ではないため、構造を知ったところで止めるだけの動機が無いからだろうか?それとも土俵そのものの基盤変化が起こっていることが決定的であり、これが新規開発を続ける理由となり、そのついでにユーザーの満足水準を超えた多機能/高性能化もやってしまうのだろうか?

その力学はケースバイケースかもしれないが、結果としてイノベーションのジレンマが綺麗に起こっていることは事実となっている。イノベーションのジレンマが起こるために不可欠なことは、新規参入が起こることと既存側が多機能化・高性能化を続けることだけでなく、法規制といった「強制」やブランドのような「愛好」によりユーザー選択に条件がかからず、製品そのものの「価格」と「品質」でユーザーが選択していることである。ウェブフロントにおいてはまさにこのタイプの自由市場になっていることが主な要因だと考えている。

[魚拓] 肩をすくめるアトラス

肩をすくめるアトラス 第三部 (AはAである)

「なぜインターネットやソフトウェアではアメリカからばかり発生確率が0.1%のような傑出したイノベーションが生まれるのだろうか?」という問いを持っていた。

本ブログでも繰り返し取り上げていたが、新卒時代から長年疑問に思っていたことで、会社では上司にいいからタスク達成しろと怒られたり、社会人大学院で研究テーマにしようとして教授からもっと問いを小さくしろと指導されたりしながら、なにかの折にふれ断片を集め、それでもまだしっくりとこないところがありつつも、少しずつ理解を深めてきたのだが、ビットコイン文脈から存在を知った本書「肩をすくめるアトラス」を読んでようやく一通りの解に辿り着いた気分になった。それは本書でも記述されている「自由の国として建国されたから」といった再現性もなく定性的な上にこの国の歴史や風土に根ざした価値観にNOを突きつけるどうしようもない話になるのでここでは触れずに(修士論文のテーマにしなくてよかったです!)、電子版がなく紙の本だけだったため読みながらスマホで記録していた引用箇所を、魚拓しておく。

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[翻訳] Self Sovereign Identity, TBD, and Web5

Web5のソフトウェアにおけるビジョンや開発手法を説明する記事を翻訳しました。 developer.tbd.website

翻訳の原本はこちらに置いています。誤訳などありましたらコメントください。 https://gist.github.com/studioTeaTwo/7aead51aa7f3341eb96cc64ff87bd816

本記事はGabe Cohen氏がポストしています。いつもの(?)Daniel Buchner氏ではないですが、実にビジョナリーかつピュアなウェブ像で(個人的にはMozillaだなと思いました)、TBDのタレント揃い振りが伺えます。特に「open-by-default」モデルの徹底が印象的でした。

以下、翻訳です。


Self Sovereign Identity(SSI)とは、2016年にクリストファー・アレン氏がそれまでアイデンティティコミュニティの人々の間で話し合われていたことから着想してブログ記事「Self-Sovereign Identityへの道」で詳細をまとめた、包括的な用語です。そのブログではSelf-Sovereign Identityの10の原則が定義されています。

  1. Existence ユーザーは独立した存在でなければならない。
  2. Control ユーザーは自分のアイデンティティをコントロールできなければならない。
  3. Access ユーザーは自分のデータにアクセスできなければならない。
  4. Transparency システムやアルゴリズムは透明でなければならない。
  5. Persistence アイデンティティは永続的なものでなければならない。
  6. Portability IDに関する情報およびサービスは持ち運び可能でなければならない。
  7. Interoperability IDは可能な限り広く使用できなければならない。
  8. Consent IDを使用するときに本人が同意しなければならない。
  9. Minimalization クレームの開示は最小限にとどめなければならない。
  10. Protection ユーザーの権利は保護されなければならない。

2016年以降、いろいろなことが起こりました!SSIの原則に基づいて、カンファレンス、議論、論文、標準規格、ソフトウェア、そして技術の業界全体での採用が相次ぎました。この領域は成熟過程にあり、成長する一方です。

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知的好奇心の対象を世の中で既知か未知かで分類する

知的好奇心とは物事に興味・関心を抱きもっと知りたいという欲求のことだが、その対象により2種類に分かれるなとふと思った。

  1. 誰かが解き明かしているけど自分がまだ知らないもの
  2. まだ世の中で解き明かされていない未知のこと

1は、小学生以降の勉強のようなもの。すでに世の中では既知のことなので教科書やお手本といった答えがあるが、自分自身はまだ知らないので学ぶことで知的好奇心を満たせる。大学以降のように高度で専門的になってくるとわかる人も少なくなるので、調べたり習得できることがすごいとなる。生活の知恵とかニュースを日々追いかけるのが好きなタイプなんかも当てはまる。これが強くて得意だと学習能力が高いと言い換えもできる。学校や仕事と噛み合えば成果を出しやすいという点から成長欲求や達成欲求とも重なってくる。

2は、学問の発見のようなもの。世の中ではまだ解明されていないのでほんとうに答えがあるかもわからないようなものだが、もし真理が見つかれば知的好奇心を満たせる。教科書やお手本がないので、一次情報を観察するなり自ら調査や実験で一次情報を作成して洞察することになる。研究論文とかプロダクトの新規性にあたるものだし、一般化できなくても例えばとあるお店で客の入りと気圧が相関することを発見するようなことも当てはまる。答えがあるかわからないし時間がどれだけかかるかもわからないので、強い理解欲求や挑戦欲求が必要だ。

1の高難度のものや2について外面的な利得を求めて挑むものも多いが、即興的な成果は期待できなくなるので天才というような自然に優秀なものは内面的な知的好奇心が芯になるだろう。1と2は知的好奇心の対象を世の中で既知か未知かで分けただけなので根源は同じ欲求だと解釈している。一方で、学び方は変わるので、1が優秀でも2に詰まるものも多く、論文が書けずに中退するタイプは2の学び方がわからないのだろう。

また、1と2はグラデーションになっていて、2をするにもまずは既知のものを調査したり学習することから入る。1の高難度のものがわからないとたいてい2も難しい。1のものでもわかる人が少なくなると周りの人からしたら2と区別がつかなくなる。逆に周りの人は答えがあることを知っているが本人は知らないので2のつもりになっていることも往々にしてある。

1を一足飛びにして2をやりたがる者も少なからずいる。この一足飛びは問題を起こしがちで、既知の1を知り尽くしてからでないと未知の2をやらせない環境は多い。論文で先行研究と重なっていたら話にならないが、人生の時間は限られているので限度があると思う。よく炎上するケースが2つ思い浮かぶ。1つ目は、エンジニア起業家が書いたソースがその後に入ってきた専門家のエンジニアたちにクソコードと罵倒される光景だ。エンジニア起業家はプログラミングそのものへの関心は一定レベルで満足していて世の中に新しいプロダクトを問いかけること、つまり1を切り上げて2にフォーカスしているからと言えるかもしれない。2つ目は、問いが大きい研究家だ。クレイトン・クリステンセン、トマ・ピケティ、ユヴァル・ノア・ハラリといった人たちはこの意味で同じタイプに思える。長い時間軸の歴史を分析対象にして、大きな問いに対する真理に挑んだ学者たちだ。問いが大きいので細部の反証事例はいくらでも挙げられるので批判が簡単だ。本人たちも何本も査読論文を書いてきてそういった批判は百も承知だろうが、それでも問いに対する知的好奇心が優っているので挑むのではないだろうか。

1と2に優劣をつけるなら、1の方が社会的には適合しやすいと思う。2に比べれば充足しやすいし、テストの成績が良いとか、生活の質が高まるとか、業務のキャッチアップが早いとか、希少な職に就けるなどの実利に繋がりやすいからだ。一方で、2は成果が出るかわからないので本人も挫折しやすいし、特に学問以外の学校とか事業とか生活では周りの人も勧めづらいので、険しい道になる。私も過去を振り返って2が難しいのでしょっちゅう1で代償してきたなと振り返る。しかし、世の中で未知のことに挑戦する人たちは、本人だけでなく周りの人、場合によっては人類にとっての進歩となる資産を生み出す可能性にチャレンジしていることを思い返し誇りを持つべきだし、2をもっと支えて裾野を広げていく努力を社会全体でするべきだと思う。

GO BOLD!

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Web5 ファーストインプレッション

もう10日以上経つが6/10の深夜に電撃的にWeb5が発表された。Twitterで「Web5」の文字やミーム画像がぞろぞろ流れ始めてきたときは冗談だと思ったが、スライド資料*1を読み進めるといったいどこで笑えばいいんだろうと困惑が大きくなる一方だったくらいに、本気の内容で驚いた。

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OSSのもう一歩先

OSS(オープン・ソース・ソフトウェア)のもう一歩先とは、ソースコードの共有だけでなく、ネットワークで今実行されているコードまで公開されるようになったことを指している。そのようなサービスは、OSS開発やWikipediaと同じように、「御伽とバザール」で「目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない」と描かれている、国や企業を超えた世界中の不特定多数の集合知で品質を保証し高めていくことができる。OSSは「ソースコード」が対象である。Wikipediaは「データ」が対象である。今度は「サービス」が対象になる。

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「ビットコイン・スタンダード」と「財政赤字の神話」にショックを受けた話

去年事業に失敗した。原因は力不足という一言だが、去年から今年は幻想を取り今ここに向き合う期間だった。

事業の失敗とパンデミックの顕在化は同時期でありどちらが先だったかはもう忘れたが、関心はどんどん「社会」の方へ向いていった。 特に息を呑んで動向に釘付けになっていたのが、世界各国が取る政策の違いだった。中国やロシアのような国が取った強権発動はもとより、フランスでドローンが監視のために飛び、韓国が感染者のトラッキングをインターネットで公開した。 同じ「西」側でも、国の成立起源や憲法による建て付けの違いがブワッと表面化し、国家という存在が剥き出しになっていた。 「経済か、人命か」という究極の二択的な論争は、あまりに大量の変数が複雑に絡み合っている上に、その意思決定の重さ、影響の甚大さは言うも及ばずだった。

これらを目の当たりにし、自分の中で大きく価値観が変わっていった。 子どもの頃から物語や歴史や生物や音楽やゲームが好きで、これまで軽視していたというか意図的に線を引いてきた数学や経済や金融、そして政治といったものの意味がようやく肌身で実感しその重要性がわかった(まじで人生で初めてという感じ)。 また、疫病で自分自身も含め身近な人たちが続々と死亡する未来も見える中で幸福の意味も考え直し、流行り出したウェル・ビーイングからもたくさんの知識を得て、これまで軽視してきた自身の健康や資産や交友といったものもようやく肌身で実感しその重要性がわかった(まじで人生で初めてという感じ、パート2)。 高校数学から復習し直し、経済の本も簡単そうなものから手に取り長年疑問に思い続けていた「なぜ成長し続けないといけないのか?」についても答えがわかり、生活習慣のチェンジもいろいろ試し始め、これまで無頓着だった個人の資産についても一から構築し直した。 そうやって過ごしていたなか、ちょうど一年前の今ごろから始まったクリプトバブル(開始時期は諸説ある)では、バブルがどのように起こるかの内幕が透けて見えるかのようなものだった。

パンデミックやクリプトバブルで世の中ってこういう仕組みだったんだということを思い知ったが、世の中は広いというか複雑というか最近二冊の本を読み、またこれまでの自分の常識が吹っ飛ぶ衝撃を受けたので簡単にまとめてみたい。二冊の本とは「ビットコイン・スタンダード」と「財政赤字の神話」で、どちらも最近日本語訳が出ている。

余計なことを言うようだが、経済や金融の分野は本当にこれまで無頓着だったので、読む前は、ビットコインマキシマリストが言っていることは論理的・科学的ではないという意味で新興宗教の信者のように見えていたし、貨幣創造や信用創造の意味もよくわかっていなかった。

ビットコイン・スタンダード」

ビットコイナーたちがなぜ貨幣の発行上限が定まっていることを絶対視するのか、個人で資産を持つことを根底の価値観としているかが、経済や金融の構造からその言い分を理解できる。なお、タイトルから受ける印象に反してビットコインの話は全10章のうち最後の3章だけで、初めから後半まで貨幣や経済・金融の話である。

衝撃的だったのは以下の点。「原因」と「結果」が逆転している。

  • バブルや恐慌が起こるのは金本位制を辞めて貨幣創造をするから。
  • 失業やインフレが起こるのも貨幣創造をするから。
  • 貨幣創造するから、銀行預金の(額面ではなく物価調整後の)価値が減り長年の労働の貯蓄が報われない。
  • 20世紀になって戦争が増え長期化して紛争犠牲者が桁違いに増えた理由も、兵器の発展だけでなくそれを支える貨幣創造をするようになったこと。
  • 各国ごとの金利政策や為替レートが必要になるのも金本位制を辞めて貨幣創造をするようになったから。

なぜそうなるかはぜひ本書を手に取って欲しいが、私の所感を一言でまとめると「貨幣創造は全ての要因が"変数"になるのでコントロールが難しい」だろうか。

では、貨幣創造をやめるとどうなるかも大変考えさせられるものだった。貯金が熱心に行われ競争より調和が尊ばれる世界観は昭和の日本の風景を思い出させられる。それ以上に強く想起したのは、トマ・ピケティが「21世紀の資本」で立証していたr > gが、貨幣創造をやめたことでr < gに逆転した世界観だった。しかし、今読み返していると銀行預金の預入期間と投資期間が一致するといったような話からしてr = gの世界と考える方が合っているのかもしれない。

  • 人類史上もっとも経済が安定していた時期は、完全な金本位制で世界が動いていた19世紀である。
  • バブルや金融危機もなく、貿易もシンプルな構造で、富の生産や商取引を安定して積み重ねることができた。
  • 貨幣創造をしなくても投資(≒信用創造)はできる。数が限られているので投資先を吟味することになり、誤投資や詐欺が減り社会の資本ストックを増やすものに投資が集まる。
  • 貨幣の供給が一定で貨幣創造をしなければ、資産は目減りせずに時間の経過に伴い(額面ではなく物価調整後の)価値が増え続ける。
  • 資産が目減りしないなら貯蓄するメリットも増え、近視眼的で享楽的な消費が減る。
  • 現在よりも将来を重んじ長期的な視点で経済判断を下せるようになると、利己的な行動や争いが減るしフリーランチも消える。
  • 要するに、争うよりも争いを避けた方が双方の利益最大化する社会になる。

ずらずら書き連ねたが、何に一番衝撃を受けたかというと、現代の財政や金融の仕組みの根底にあると思っていたケインズマネタリズムを完全否定するところ。 経済や金融には線を引いてきたと初めに言ったが、そうは言っても大学の取得単位には一般教養科目の「マクロ経済学」や「財政学」が並んでいる。そこではマネーサプライや公定歩合などが空気のように当然のものとして存在していて、どうやってそれらがコントロールされているかとかのメカニズムが講義されていたわけである。 そんな遠い昔ながら長年頭の片隅に常識として置かれていたものを否定されているどころか、むしろそれらがあるから金融危機や失業が起こるという「原因」と「結果」が逆転されていたのである。最近の大学がどうなのかは知らないが、教育というものの影響の強さも考えさせられる。

財政赤字の神話」

ビットコイン・スタンダード」を読んで感化させられたのだが、少し時間が経った後にふと疑問に思ったのが「では、貨幣創造を基底に置いているMMTはいったい何を根拠に主張しているんだろう?」であった。 ちょうどベストセラーになっていた「財政赤字の神話」が読みやすいという評判だったので手に取ったのだが、これがビットコイン・スタンダードで頭を右にぶん殴られたと思ったら今度は真逆の左にぶん殴られるものだった。というか、長年世間で当たり前のこととして言われていたこと、政治家や経済家の名のある人たちまでが長年語ってきたことを覆すという衝撃度の点では、こちらの方が上だと思う。「ひとたびMMTを理解すると世の中の見方がそれまでとは一変する」とは本書の中の文章だが、まさしくそんな感じ。

家計や企業のように財政を考えて、支出と収入のバランスを取る財政均衡やそのための財政緊縮はとてもわかりやすいレトリックだしこの30年はずっと言われ続けていたことだと思うが、財政は家計や企業とは決定的に前提が違うので誤りであるという。家計や企業は貨幣の「利用者」であるが、財政は貨幣の「発行者」であるからだ。

同じようにわかりやすいレトリックで、MMTがネガティブなニュアンスで嘲笑される例で「札束刷っても一円あたりの価値が下がるだけで馬鹿しか騙されない」というものがあるが、貨幣創造と課税が両輪に置かれている点を理解するところがまず一歩目だろうか。要は、発行するだけでなく回収するいわゆるmint & burn式で、人々が財やサービスを作り出す動機を捻出するために回収=税金を設計しているという話なわけである。

また、国の借金、すなわち国債コペルニクス的転回を示し、企業や国民に利息を支給するための給付金なのだという。つまり、税金や国債は財源ではなく、それぞれ税金は「生産力」を、国債は「購買力」を生み出すための仕組みだということである。

貿易赤字についても同じように、国内の民間がモノを手に入れられるという意味で、貿易相手の海外はもちろん国内の民間にとっても黒字の便益として考える見方が提示される。国債や貿易のくだりは、読んでるときにリアルにお茶を吹きそうになった。

ビットコイン・スタンダード」のところでは「貨幣創造は全ての要因が"変数"になるのでコントロールが難しい」と一言でまとめたが、MMTの主張だとコントロールが難しくなるのは、中途半端な制限がかけられるから中途半端な結果になって問題を起こす、という主張になる。文中では「天井が250センチあるのにずっと背中を丸めて歩き回る180センチの男のように経済を運営している」と比喩されている。 年金や医療保険が破綻するのは、財源がないからではなく、政府や議会が勝手に縛りをかけて税収や借金を収入源にしたバランスシートを作ろうとするからである。インフレや失業率などをモニタする適切な管理指標を定めて、mint & burnを妨害なく回せればうまくいくのだと。紙幣発行量のキャップは、財政赤字額ではなく、インフレが決める。この辺のフィージビリティが私にはわからず、MMTの評価ができなくなる。

また、MMTで忘れてはならないことは通貨主権を持った国でしか通用しないという大前提である。この点については、貿易赤字で海外も潤うという点くらいしか本書の中で考慮されているところは確認できなかった。

Accidental Moderates〜「結果的に」中庸〜

ビットコインにしろMMTにしろそれぞれ強力なアンチがいるわけだが、十分に対象を理解している上で絶対に譲れないものがある的な人たちもいるが、馬鹿にするのはけっきょくのところ概念を知らないからだけであろうと思ったりする。私は老人が保守的になりがちな理由の一つは、気力や身体の衰えだけでなく多くの物事を知っていることだと考えていて、特に一つのものごとに対して多角的な視座を身に付けるが故に、決められなくなるのだろう。去年"The Two Kinds of Moderate"というエッセイを目にした。中庸にも2つのタイプがあって、元来そういう性格であるタイプだけでなく、両極端の振り子を行き来しながら「結果的に」中庸になるタイプがいるという話なのだが、まさしくそんな感じ。

この二冊はどちらも入門書のレベル感で「なにか?」と「なぜか?」という概念をわかりやすく説明しているものだ。それぞれ具体的な方策についてはいろいろな点から反証されているし、経済学にはもっと他にもいろいろな理論があるわけで、素人だからこそディテールではなく大筋だけ見て放言できるというところかもしれないが、この二つは振り子の両端のように真逆のものだが意外と共通点も多いという感想を抱いている。 まず、どちらもケインズを否定している。これはもう核だろうと思う。どちらもGDPや経済成長率よりも、インフレや失業の問題の方を重視していて、しかも無くせると主張している。実は「ビットコインスタンダード」の中でも貨幣の供給数はそこまで重要ではなく購買力こそが重要なのだという話が出てきたりするが、「財政赤字の神話」でも重要なのは紙幣の量ではなく、財やサービスを創出する力を維持することだと言っている。購買と生産の立場は変わるがまあ実体経済の話である。つまり、実体経済の活力を第一にしていて貨幣や金融を補助的な道具に据えているわけで、その点では同じ価値観だと感じる。 また、両書とも大衆迎合的なポピュリズムへのうんざり感を何度も記述しているのだが、それぞれ「初めは賛成する人がほとんどいない、真実」という類になるのではないだろうか。真実かどうかは歴史の勝者が決めることだろうが(そして、教育で増強される)、まだまだ主流ではないとはいえそれぞれ急激に広まり社会の認知を獲得している。

もちろん根底のところで決定的な違いがあるから両者は振り子の真逆になるわけだが、その決定的な違いについてはパンデミックにおける「経済か、人命か」のような社会の構造に対する究極の二択的なアレになるので、"The Two Kinds of Moderate"に倣って今回は語らないことにする。

Accidental Moderates are people THINKing in their brains rather than FEELing in their hearts.