横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

「フロンティア 恐竜王国 繁栄の秘密」を観て

「フロンティア 恐竜王国 繁栄の秘密」を観て考えた話です。

竜王国 繁栄の秘密

 NHK BSの番組「フロンティア」の「恐竜王国 繁栄の秘密」という回を観ました。

恐竜は、約2億年の長きに渡って地上に君臨したわけですが、その繁栄がどのように始まったのかという話でした。

具体的は、どのようにして地上全ての地域に広がったのかという問題です。

結論的には、恐竜が出現したとされている三畳紀後期の気候変動と恐竜の二足歩行という特徴によるのではないかという内容でした。

三畳紀後期の気候変動

 三畳紀の地層を調べることにより、中期の一時期に降雨量が10倍ほどに激増した気候が100万年程続いた、CPEと呼ばれる時代があったことが分かりました。

CPEの間の降雨量は年間1500ミリ程度と考えられており、これは現在の日本と同程度の量となります。

つまり、この時期には現在の日本がそうであるように植物なども繁茂し、動物も生きやすい環境になったと考えられます。

これにより、恐竜がその生息域を拡大して、その後の繁栄につながったのではないかというわけです。

実際に足跡の化石では、CPEの前後で恐竜のものが全体の10%から90%に激増しているようです。

なぜ恐竜が

 しかし、気候変動によるのならば、恐竜以外の生物が反映してもよさそうなものです。

何しろ、CPEまでは90%が恐竜以外だったわけですから、それがそのまま増えてもいいわけです。

なのに実際には恐竜が激増することになりました。

その理由について番組では、初期の恐竜が二足歩行で速く動けたことや、二足で立ち上がることにより高い位置の植物を食べることが出来たことなどが、要因だったのではないかという内容でした。

木の上で夢を見ていたから

 確かにそういった面もあったのかもしれませんが、私としては、他にも理由があったのではと考えます。

本ブログでは、恐竜について、木の上で進化したのではと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

三畳紀の前の時代であるペルム紀末の大絶滅を生き延びた主竜類の祖先が、三畳紀に復活した樹上に進出して進化したのが恐竜で、木の上で夢を見ていました。

そんな恐竜ですが、10%という足跡の量からわかるように、その一部がCPE前から地上に戻っていましたが、多くは気の上に留まっていたと考えられます。

その原因は、ひとえに食料となる植物が少なかったからでしょう。

それが、CPEにより一変します。

それによる、鳥盤類、竜脚類、獣脚類の3類全ての恐竜の地上への進出が、この時期に起こったのではないでしょうか。

これこそが、三畳紀のCPEにより恐竜が勢力を急拡大させた最大の要因ではないかと思うのです。


 ところで「フロンティア」の外国人研究者の発言が全て字幕処理なんですが、基本的にながら視聴の私としては、話のポイントが理解し辛いのです。まあ、ちゃんと観ろよという事なんですが。


ではでは

「紅麹」問題考

「紅麹」問題で考えた話です。

 今回被害に遭われた方々の早期のご回復と、不幸にも亡くなられてしまわれた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

今回の問題

 小林製薬の「紅麹」問題では、まだまだ全貌と原因が解明されていません。

事象的には、「紅麹」を主原料とするサプリメントを使用した人の一部に健康被害が発生したというものです。

そのため、一時は「紅麹」関連のものすべての安全性が懸念される事態になりました。

ところが「紅麹」に関しては、昔から様々な形態で食品に使用されており、少なくとも今回のような危険は無いことが確認されているといっていいでしょう。

そんな安全だと思われるものでも、サプリメントのような形にして、通常は食べないような量を毎日とり続けるのは、いいことばかりではないという事なのかもしれません。

プベルル酸

 ここまでのニュースを見ていると、現状問題となった製品から検出された「プベルル酸」というものが原因ではないかとみられているようです。

あまり聞いたことのない「プベルル酸」ですが、カビの一種が作り出すものだそうです。

そのため、そのカビが「紅麹」の製造工程のどこかで入り込んで、「プベルル酸」を作ってしまったのではないかと考えられています。

この辺りは、ぜひはっきりとさせていただきたいと思います。

これまでもあったはず

 ところで「紅麹」も菌の一種で、発酵させることで利用するものです。

その過程で、それ以外のカビなどが入り込むことは、十分考えられること。

特に、現在ほど管理された製造環境ではなかった時代には、完全に排除は出来なかったでしょう。

それでも、今回のような問題が生じることもなく、利用されてきたわけです。

サプリメントだから

 もし「プぺベル酸」が原因だとすれば、それが今回顕在化したのは、サプリメントだったからという事なのではないでしょうか。

これまでも「紅麹」を利用したものに「プペベル酸」が含まれていることがあったと考えられます。

ただこれまでは、それが健康に問題を生じさせるほどの、頻度と量で摂取されることは無かったのです。

サプリメントという、いわば濃縮した形で、長期間に渡って摂取したことが仇となってしまったという事ではないでしょうか。

そんなうまい話ならば

 自然由来で昔から利用されているからといって、サプリメントにして大量かつ長期的に摂取すればより効果的というのは、よく考えた方が良いのかもしれません。

色々と試行錯誤したうえでの昔からの利用法だから、安全なのかもしれないのです。

何かを食べるだけで健康になるのならば、既に日々の生活の中に取り入れられているはずなのですから。

とは言いながら、太らないとか、痩せるとか、くびれが出来るとか、脂肪が燃えるとか言われると、ついつい試したくなるんですよね。


 過ぎたるは及ばざるが如し、という事なのでしょうか。


ではでは

クフ王ピラミッドの新たに見つかった空間

クフ王ピラミッドの新たに見つかった空間について考えた話です。

 

 

ピラミッドの内部空間

 ギザのピラミッドの内部構造については、しばらく前から日本の研究機関などが、宇宙線を用いてレントゲン写真のように内部を撮影する方法で調べています。

その成果の一環で、これまで大回廊として知られていた構造の上部に、新たに空間らしきものがありそうだと、2017年に報告されました。

これについて本ブログでは、大回廊と同じ機能を持ったものが、上部にもう一つあるのではないかと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

同じ方法で発見されていた別の空間の存在を、マイクロスコープを使って実際に確認したという発表がありました。

新たに見つかった空間

 その新たに発見された空間は、入り口とされている部分の内側に存在しました。

引用元:新たなる謎。ギザの大ピラミッドの部屋の内部に電磁波エネルギーが集められていたことが判明(ロシア研究) : カラパイア

図の1入り口の左側から、6上昇通路と書いてある方向に向かって水平に、何もない空間が存在していることが確認されたという事です。

引用元:「クフ王のピラミッドに隠された空間」を宇宙線で正確にマッピングすることに名古屋大などのチームが成功、スコープによる内部空間の撮影も - GIGAZINE

 

形状としは、縦横2メートル、奥行き9メートルの通路状のものでした。

どこかにつながるということは無く、奥は行き止まりとなっています。

この空間は何なのか

 この空間は何なのでしょうか。

一般的には、ピラミッドはファラオの墓だと考えられています。

そうだとすれば、この通路状の構造は分かりやすいものになります。

墓であるという事は、そこに埋葬される人物(この場合はクフ王)が亡くなってから、その遺体(ミイラ)を運びこむ必要があります。

現在のクフ王のピラミッドには、盗掘のために掘られたものを除き、内部につながる通路は存在しません。

これは盗掘を恐れて、最後に内部に通じる通路を塞いだからだと考えていいでしょう。

つまり、ピラミッドを造った時点では、1入口から。8水平通路や9大回廊につながる通路があったはずなのです。

そして、クフ王が葬られた後で、その途中までを残して塞がれたのだと思われます。

どうしてその一部が残されたのかは分かりませんが(行き止まりを見せることで、間違った場所だと思わせるためでしょうか)。

何も見つかっていない

 という事なんですが、それにしてはクフ王のピラミッドからは、ミイラどころか何も埋葬された証拠は見つかっていません。

本当に墓なのかという事になりますが、そのあたりについては、以前の記事で検討しています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

簡単に言うと、現在見つかっている構造を含めてピラミッド全てが巨大なダミーであり、本当の墓室はピラミッドの直下または周辺の地下に隠されているのではないかと考えています。

いまだに発見されていないわけですから、思う壺にはまっているという事でしょうか。


 結構最近だと思っていたのですが、1年以上も前のニュースでした。相変わらず、時の流れは容赦がないですね。


ではでは

ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡から・その後

ジェイムス・ウェッブ望遠鏡から考えた話の、その後の話です

 

 

以前の記事の話

 以前に、ジェイムス・ウェッブ望遠鏡に絡んだ記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ハッブルの数十倍と言われる性能のジェイムス・ウェッブ望遠鏡ですが、性能がいいという事はより遠くまで見えるという事です。

天文学で、宇宙の遠くまで見えるという事は、より昔の姿を見ることが出来るという事になります。

そんな中で、地球から131億光年離れた銀河が観測され、それが物議を醸しているという話でした。

何が物議を醸したのか

 131億光年離れているという事は、131億年目の姿を見ているという事になります。

ビックバンで生まれた宇宙の年齢は、137億年とされています。

131億年前という事は、ビックバンから6億年という事になります。

ところが現在の理論では、今回観測されたような銀河は、6億年では出来るはずがないらしいのです。

さあ困りました。

解決策は

 記事では、「聖と魔の戦い」というバカ話で逃げたのですが、最近これに関して面白い記事を見かけました。

nazology.net

タイトルを見れば一目瞭然です。

「宇宙の年齢は267億歳とする理論」という事ですから、131億年前の銀河でも、それが出来るまでに136億年あるので、なんの問題も無いことになります。

どんな理論なのか

 詳しいことは分からないのですが、理解した限りでは、重力や光のエネルギーなどのように、時間がたっても変わらないと考えられてきた値を、時間とともに変化すると考えるというもののようです。

そう仮定すると、様々な観測結果を説明出来ましたというわけです。

ところで、タイトルには「暗黒物質が存在せず」という言葉も入っています。

暗黒物質というのは、例のダークマターといわれているものです。

従来の理論では説明出来ない観測結果を説明するために、存在していると考えられている、「質量を持つが、物質とはほとんど相互作用せず、光学的に直接観測できない」というにわかには信じられないものです。

世界中でその発見を競っていますが、いまだ見つかっていません。

そのダークマターの存在を仮定しなくても、観測結果は説明出来ると言っているのです。

ダークマターの記事

 このダークマターについても、記事を書いています。

 

 

yokositu.hatenablog.com

この記事の中では、「重力は距離によって変化する」というアイデアを中心に、ダークマターは無くてもいいのではないかと考えたのですが、今回の理論では「時間で」変化すると考えたという事になります。

いずれにしても、重力は一定の値ではない、というのがキーポイントなのかもしれません。

何しろ我々人類が直接調べた重力の値は、たかだか太陽系内でのものなので、面白いと思うのですが。


 やっぱり、存在しても見ることも触ることも出来ない、などというラノベ顔負けのご都合主義的設定には無理があると思うのです。


ではでは

国造考

国造について考えた話です。

 

 

国造

 『日本書紀』を見ていると、国造というものが出て来ます。

その実態は、はっきりと分かっているわけでは無いようですが、概ね地域の豪族が支配した領域が国として扱われ、その国の長を意味していると考えられています。

軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められた、とされているようです。

古くは、神武天皇が、神武東征の論功行賞として、珍彦という人物を倭国造に任じたという記述があります。

その後も、崇神天皇景行天皇成務天皇などの記述に任命の記述が出て来ます。

大和政権による全国平定?

 通常は、こういったことを踏まえて、大和政権が全国を平定して行く活動の中で設置されていったと考えられています。

この考え方について個人的な感想としては、それ以降の時代、特に鎌倉時代以降の幕府と地方の勢力の関係からの類推が剛夫いのではないかと思っています。

幕府のような中央集権的な組織が大和朝廷であり、それが全国を平定する中で各地に設置した行政組織が、国造だというわけです。

全国平定は無かった

 本ブログでは、一般的に考えられているような大和政権による全国平定は、少なくとも白村江の戦いまでは行われていないとの立場を取っています。

それまでは、邪馬台国から分かれた畿内の大和政権と、北部九州の勢力が並立していたと考えます。

そしてそれ以外の地域の勢力との関係は、一種の冊封体制のようなものではなかったかと考えています。

これには、大和政権と九州の勢力が、いずれもその成立、発展の過程で、大陸からの集団の力を取り込んだことで、それ以外の勢力に対して優位性を持ったことが背景にあるというのが、仮設の骨子となります。

その優位性を享受したくて、中国の王朝との間で行われていた、冊封的な関係が形成されたのではないかというわけです。

決して軍事的に各地を平定して行ったわけでは無いのです。

日本書紀』にある、ヤマトタケルを始めとした各地の平定ともとれる記述は、一貫して大和政権が全国に対する覇権を取り続けて来たという建前で造られた歴史書であるために、必要なものだったのでしょう。

勿論、並立する九州の勢力などは無かったことにされているわけです。

国造とはなんだったのか

 以上のように考えると、国造がどういったものか見えてきます。

それは冊封的な関係になった、各地の勢力に与えた「爵号」の一種だったと考えると、納得がいきそうです。

中国に朝貢をして授けられた、「漢委奴国王」や「安東将軍」などの「王」とか「将軍」といったもののようなものということになります。

別に、大和政権が地方に行政機関を設置していったわけでは無く、各地域を支配していた勢力に「国造」という名称を授けただけなのです。

ただ、中国王朝内にも「王」や「将軍」がいたように、大和政権内にも元々「国造」という地位があったはずで、神武朝の倭国造などはこれにあたると思います。


 最終的には全国にかなりの国造がいたようなので、大和政権は大盤振る舞いしたようです。


ではでは

壬申の乱背景考・後編

壬申の乱の背景について考えた話・後編です。

 

 

前編の話

 前編の記事では、壬申の乱の直前までの背景について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

乙巳の変で、渡来系を背景とした旧主派と考えられる蘇我氏を排した後の天智天皇は、当時に状況を変えたいとする立場だったと考えました。

その後、百済が滅ぼされたことをきっかけに、九州の勢力を倒します。

そのまま、百済の復興を図りますが、白村江の戦いで一敗地に塗れることになります。

その敗れた相手の唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて、大宰、総領、城の防衛施設の造営、近江大津宮への遷都などを行います。

それに見合う兵力の確保のために「庚午年籍」を作った、というのが壬申の乱の起こった当時の状況という事になります。

恐怖から

 上のような動きに対して、各地の勢力がどのように反応したのかが、壬申の乱に関係しているのではないかと考えています。

先ず「庚午年籍」の作成の背景ついては、各地の勢力も程度差こそあれ分かっていたと思われます。

明らかに大和政権への権力集中を許すことになるので、当然反発もあったと思われます。

しかしながら、それを上回る唐・新羅連合軍の侵攻への恐怖があったのではないでしょうか。

そのため、「庚午年籍」の作成や、防衛施設の造成などにも一定の理解を示して協力したのでしょう。

9年経つ間に

 朝鮮半島の白村江で敗れ、そのまま唐・新羅の連合軍が九州から攻め込んでくるのではないかという恐怖から、様々な方策を矢継ぎ早に採り、緊張感をもって待ち受けていたはずです。

その緊張感も、1年経つごとに次第に薄れて来たと考えられます。

そして、「庚午年籍」の完成は、白村江の戦いから7年後の670年です。

その後の『日本書紀』の記述を見る限り、各地から兵力を徴用するというところまではいかなかったようです。

すでに、唐・新羅連合軍の脅威を理由に各地の勢力を動かすことは出来なくなっていたのです。

大和政権への権力集中の試みへの反発も強くなっていったでしょう。

そんな中でその2年後、白村江の戦いから9年後の672年に起きたのが壬申の乱でした。

その流れを見極めた

 その各地の勢力の動向を見極めていたのが、大海人皇子中大兄皇子天武天皇)だったのでしょう。

大友皇子側への援軍は無いと見た上で、乱を起こしたという事になります。

危機感の薄れた各地の勢力の多くは、大和政権内の権力争いに巻き込まれる気は無かったのです。


 皮肉にも、恐れていた唐・新羅連合軍の侵攻が無かったために、天智朝は天武朝にとってかわられることになってしまったのです。


ではでは

壬申の乱背景考・前編

壬申の乱の背景について考えた話・前編です。

 

 

前回の話から

 前回の記事では、壬申の乱の経過とその戦域について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

特に、その戦域が畿内と近江にほぼ限定されていること、加えて多くの地域の存在感がほとんどないことから、九州の勢力を倒す前の大和政権は畿内+近江だったのではないかという話でした。

今回は、壬申の乱の背景、特に畿内と近江以外の多くの地域の存在感がほとんどない理由について考えて見たいと思います。

乙巳の変から始まった

 始まりは、乙巳の変だったと思います。

乙巳の変中大兄皇子天智天皇)は、蘇我氏を滅ぼします。

以前の記事でも書きましたが、蘇我氏は渡来系の人々を背景とした一族だったと考えられています。

大和政権は、その渡来系の人々の知識、能力を使って国づくりをしてきたと考えているので、蘇我氏はその体制の維持を望む勢力だったと思われます。

それを倒した天智天皇は、その当時の状況に満足していない立場だったという事になります。

そのことは、その後の九州勢力白村江の戦いまでの流れを見れば、間違い無さそうです。

白村江の戦いで負けて

 百済が滅ぼされたことをきっかけに、九州の勢力を滅ぼし、それまでの二極体制を打ち破ります。

その後、国内の体制をどこまで変えようとしていたのかは分かりませんが、白村江で負けることは考えていなかったはずです。

残念ながら、実際には大敗を喫してしまうわけです。

そのため、その後の体制は、新羅・唐連合軍の侵攻を想定したものへと一気に舵が切られました。

早急に防衛体制を造り上げる必要性が出た来たわけです。

防衛体制に必要なもの

 防衛のために先ず考えられたのが、防衛拠点の構築でした。

そのために造られたのが、大宰、総領、城です。

さらに、都をより内陸で、いざというときに琵琶湖に逃れることの出来る、近江大津宮に移しました。

このように、箱ものは色々と作っていますが、そうなると問題は、それに対応した兵力の確保という事になります。

そのために作られたのが「庚午年籍」だったのかもしれません。

これで、各地から招集できる兵力を見積もることが出来ます。

これが、壬申の乱の起こった当時の状況だったと思われます。

上のようなことだったとして、それに対する各地の勢力の反応がどうだったのかが、壬申の乱に関係していると考えています。


 というところで、次回に続きます。


ではでは

壬申の乱戦場考

壬申の乱の戦場について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事は、壬申の乱の開戦についての話でした。

リンク:壬申の乱開戦考

日本書紀』における壬申の乱が開戦するまでの経緯は、大海人皇子天智天皇からの譲位を辞退し、出家の後吉野に下ったにもかかわらず、天皇側に攻める意図が見られたために、兵を挙げたとなっています。

つまり、大海人皇子側が共有の意を示したのにも関わらず、攻められたのでやむを得ず反撃した、という立て付けになっているわけです。

とはいうものの、天智側の行動に対して、打てば響くような挙兵だったことから、実際には最初から大海人皇子側も、やる気満々だったのは明らかだという話でした。

壬申の乱経過

 そんなことで始まった壬申の乱の経過を、簡単に見てみたと思います。

引用元:壬申の乱|関ケ原町歴史民俗学習館

大海人皇子側は、一部難波方面にも進みますが、主力は吉野から北上して直接近江大津宮を目指すのではなく、伊賀、鈴鹿関を経由して、伊勢、美濃の東方面を目指し、不破関に布陣します。

これにより美濃、伊勢、伊賀、熊野等の勢力の協力を得ます。

ところで、美濃は前回の記事で見たように、天智天皇の墓をつくと称して兵を準備していることが、大海人皇子挙兵の重要な根拠だったはずなのですが。

というようなことはあるのですが、この一連の動きで、大海人皇子側は、東側を抑えることになりました。

その後、不破関から侵攻し琵琶湖に沿うように攻めこみ、最後は大友皇子を自殺に追い込み勝利します。

意外と狭い範囲で

 経過を示した上の図を改めて見ると、その戦いが行われた範囲が意外と狭いように思うのですが、どうでしょう。

戦闘はほぼ畿内と近江でしか行われていませんし、それ以外には伊勢と美濃が出てくるだけです。

前回の記事でも書きましたが、大友皇子については、壬申の乱の起こった時に天皇に即位していた可能性があります。

だとすれば、大海人皇子は兵を起こした時点で、天皇に対して反乱を起こしたことになります。

最終的には大海人皇子が勝利したわけで、これは国を2分する出来事だったはずです。

それにしては、上にあげた地域以外は、ほぼ存在感がありません。

東の地域に関しては、大海人皇子側が不破の関を抑えたので、情報を遮断できたと書かれていますが、それにしても乱後にも特に動きが見られません。

西側に至っては、筑紫の大宰府に応援を依頼したが、断られたという話があるだけで、それ以外の地域は全く存在感がありません。

どうして他の地域が出てこないのか

 なぜ他の地域がこれほどまでに出てこないのか。

先ず考えられるのは、乱自体が短期間に収束したから、というのが考えられます。

大海人皇子が挙兵したのが6月24日で、大友皇子が自殺したのが7月23日でその間約1か月です。

この1か月は、確かに長くはないですが、それでも周辺の地域が動くには十分な期間ともいえます。

それでも、周囲の地域の存在感が全くと言っていいほどないことを考えると、もう一つの可能性が出て来ます。

それは、この乱で戦いの行われた、畿内と近江こそが大和政権の勢力範囲だったのではないかというものです。

勿論この時点では、筑紫大宰府も大和政権の勢力下だったのですが、九州の勢力を倒す前の大和政権は畿内+近江だったのではないかと思うのです。


それにしても、西側は見事なまでになんの動きもないんですよね。


ではでは

壬申の乱開戦考

壬申の乱の開戦について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、壬申の乱前夜の大海人皇子の行動の疑問点についての記事でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

日本書紀』によれば、天智天皇から後継の打診を固辞し、出家した上で吉野に下ったという事になっています。

東宮すなわち皇太子であったとされる大海人皇子が、天皇位を辞退するという謎の行動をとったことになります。

これは、天智天皇かなの話は、実際には大友皇子への後継指名であり、自らの身の危険を感じた大海人皇子が吉野に逃れたのだと考えました。

それを、さも天智天皇からの禅譲を固辞したという、天武系から見ればいい話にしているわけです。

開戦理由

 出家して吉野に下った大海人皇子ですが、翌年には反旗を掲げ壬申の乱を起こすことになります。

その発端について『日本書紀』によると、朝廷が美濃・尾張の二つの国司に、天智天皇の墓を作るための人夫集めさせていたのを、兵を集めているようだと知らせたものがいた、という話になっています。

それを聞いた大海人皇子が、調べさせた結果、どうも本当のようだという事で、挙兵することを決めます。

反応が過敏ではないか

 この話、よく考えると大海人皇子側の反応が、いささか過敏ではないかと思えます。

美濃・尾張で墓造りのために集められている人たちが、兵隊のようだというだけで、別に吉野に向かって進軍してきているわけでも何でもないのです。

上の話の続きとして、知らせた人物の、「これは大事が起こるに違いない」、という意見のようなものがありますが、それにしてもです。

それで様子を見るならともかく、いきなり挙兵するというのは、条件反射にすぎるような気がするのですが。

影法師に驚く

 これは、宮本武蔵宝蔵院流の日観の話に似ているような気がします。

宮本武蔵が、日韓が畑仕事をしている横を通りかかった時に、畑仕事の鎌が自分に向かってくるように感じて、思わず九尺(3メートル弱)あまりも飛んで通り抜けたのです。

それを日観は、「あの殺気は影法師じゃよ。つまり、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたことになる。」と看破します。

大海人皇子も、やる気満々だったから、美濃、尾張の集団が自らを攻める兵に見えてしまったのです。

やはり美談ではなかった

 やはり、大海人皇子天皇禅譲の固辞と吉野下野は、美談でも何でもなく、『日本書紀』編纂のシナリオに沿った話だったのです。

身の危険を感じ吉野に逃げたものの、折あらばと虎視眈々と狙っていたところに、美濃、尾張の話が飛び込んで来ます。

それに対して、打てば響くように挙兵をしたという事なのでしょう。


 禅譲を蹴って出家した翌年に反乱の挙兵という話は、無理筋ですよね。


ではでは

大海人皇子の行動の謎

大海人皇子の行動について考えた話です。

 

 

後継争い

 大海人皇子は、前回まで見て来た天智天皇の同母弟になります。

その大海人皇子は、天智天皇の亡き後に、その皇子の大友皇子壬申の乱で倒し、天武天皇となります。

こう書くと、ありがちな後継争いという感じがします。

しかし、『日本書紀』でのその記述をみると、奇妙な点もみられます。

今回は、そのあたりを考えて見たいと思います。

後継指名を蹴った

 『日本書紀』の天武天皇紀によると、天智天皇が病床に大海人皇子を呼び、鴻業(天皇の仕事)を託そうとします。

これは実質的に後継指名の意思を示したと取ってもいいでしょう。

それに対して大海人皇子は固辞し、皇后への譲位と大友皇子を皇太子にすることを進言し、自らは出家して功徳を修めると答えました。

天智天皇はそれを聞き入れ、大海人皇子は即日に出家をし吉野に下ります。

皇太子なのに

 このような経緯で大海人皇子は、出家して吉野に下ることになるのですが、この話には奇妙な点があります。

天智天皇の病床に呼ばれた時点で、大海人皇子東宮と書かれています。

東宮というのは皇太子のことです。

という事は、大海人皇子は皇太子でありながら天皇位を蹴ったことになります。

その内容は、自らその任にあらずと考えて身を引いたとも取れる記述となっています。

しかし、現実には、その翌年に壬申の乱を起こしているのです。

そのまま天皇になっても良かったのではないでしょうか。

大友皇子が後継だった

 天智天皇の病床での話は、実際には、後継を大友皇子にするからよろしく頼むという話ではなかったかと思います。

それを聞いて大海人皇子は、身の危険を感じたのでしょう。

このあたりのことが、蘇賀臣安麻侶に「発言に気をつけろ」と密かに伝えられた、という記述に反映されているのかもしれません。

その場で出家することを申し出ることで、身の安全を図ったのだと思います。

そして吉野へ下り、機会をうかがったという事になります。

出家して功徳を修める気など無かったのです。

これも『日本書記』だからか

 これも、やはり徳のない天智系から有徳の天武系への継承というシナリオで造られたものなのではないでしょうか。

大海人皇子は皇太子であったにもかかわらず、大友皇子に後継の地位を奪われることになり、野に下って壬申の乱を起こします。

天智天皇崩御後に、記録はありませんが実際には大友皇子が即位していたのかもしれません(明治時代に弘文天皇を贈られています)。

そうなると、壬申の乱は、単なる後継争いではなく、天皇に対して反旗を翻したものと言うことになります。

大海人皇子は、簒奪者ということになります。

それを、さも天智天皇からの禅譲を固辞したという、天武系から見ればいい話にしているわけです。


 血族が争うと、なかなかに血生臭いですよね。


ではでは

庚午年籍考

庚午年籍について考えた話です。

 

 

最初の戸籍

 「庚午年籍」は、古代日本で最初に造られた戸籍とされています。

日本書紀』の天智9年(670年)二月に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」との記述があります。

天智9年(670年)が庚午の年であることから、この時造られたものが「庚午年籍」という事のようです。

日本書紀』には上の記述しかないので、天智天皇が「庚午年籍」と呼んだのかどうかは定かではありません。

その後の幾つかの記録の中で、「庚午年籍」という名称が使われている例があるようです。

何が造られたのか

 いずれにしても、戸籍を造ったのは確かなようですが、問題は何の戸籍が造られたかです。

何しろ、二月にいきなり「戸籍を造り」ですよ。

これが全国の戸籍を造ったとするならば、そんなに簡単に出来るのかという疑問が生じます。

これが「作成を命じた」のようなことであれば納得できそうですが、いきなり「造った」というのはどうなんでしょう。

作成を命じても、全国にそれを伝えるだけでも二月が終わりそうです。

しかもその続きが「盗賊と浮浪とを断ず」です。

全国の戸籍を造る目的が、盗賊と浮浪者の取り締まりというのは、ちぐはぐな気もします。

近江大津宮の戸籍?

 という事で、『日本書紀』のこの記述を読んだ時には、これは全国の戸籍などではなく、この三年前に移った近江大津宮の戸籍を造ったのではないかと思ったのです。

であれば、「盗賊と浮浪とを断ず」という記述も、出来たばかりの都の治安を維持するためと考えれば、違和感のないものになります。

最初の戸籍などという大げさなものではないんじゃないかなと、妄想していました。

それなりのものが

 ところが調べてみると、それなりの根拠のあるものでした。

戸籍に関しては、全国的なものがこの後の持統天皇四年(690年)から造られ始めます。

それ以降6年ごとに作成されるようになります。

その造られたものの取り扱いについて、律令の令についての解釈がまとめられた『令義解』に、直近5回分を残すように書かれ、加えて「近江大津宮庚午年籍は廃棄しない」とあるのです。

つまり、「庚午年籍」はその後の全国的な戸籍と同列に扱われ、なおかつ永久保存とされていたという事になります。

近江大津宮だけの戸籍を、永久保存するのは意味がなさそうです。

前回の話と同じ

 実際には、その後の全国的な戸籍と同列に扱われるようなものが造られていたにも関わらず、『日本書紀』での扱いはあまりにもそっけないものと言えるでしょう。

これも、前回の記事で考えた、『日本書紀』を編集した天武系からの天智天皇の不当な取り上げ方の一環なのかもしれません。

 

yokositu.hatenablog.com

 

なぜ永久保存?

 それなりなものが造られたという事のようですが、どうして永久保存なのでしょう。

これについては一般的には、「氏姓を確認する基本資料とされた」ためと考えられています。

始めて纏められたから、最も遡れる基本資料というわけです。

これを、本ブログで採っている、邪馬台国が分裂して大和政権と九州の勢力に分かれたという立場から考えるとどうでしょう。

その九州の勢力を倒したのが天智天皇だと考えています。

という事は、その天智天皇が造った戸籍は、全国的な規模のものだったとすると、初めて旧九州勢力の勢力範囲を網羅したものだったことになります。

これこそが、永久保存とされた理由だったのではないでしょうか。


 とはいいながら、「庚午年籍」は、現在では影も形もなくて確認できないのが残念です。


ではでは

天智天皇考

天智天皇について考えた話です。

 

乙巳の変の勝者

 前々回は、乙巳の変の影響についての話でした。

 

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乙巳の変蘇我氏の力が削がれたことが、九州勢力との戦い、ひいては白村江の戦いへと向かう遠因になったのではないかという事でした。

渡来系の勢力との関係が深かったと考えられている蘇我氏は、その関係から、九州の勢力ともパイプをもっていたと考えられます。

それを、乙巳の変蘇我氏が排除されることにより、失ってしまったことが、九州勢力を脅威と考えることになったのではないかというわけです。

その乙巳の変の勝者と言っていいのか、首謀者が中大兄皇子後の天智天皇です。

蘇我氏は穏健派

 ところで、乙巳の変で敗れ去った蘇我氏ですが、上にも書いたように渡来系の勢力と関係が深かかったと考えられています。

本ブログでは、大和政権が渡来系の勢力を国づくりに採り入れるりいれることにより、その優位性を確立したと考えています。

その渡来系の勢力と関係性が深かった蘇我氏は、権力を握った時点では、どちらかと言えば現状肯定的な穏健派であったと思われます。

それまで国を発展させてきた状況に上手く乗って来ているわけで、それを自ら否定するという事は考えにくいですから。

天智天皇は急進派?

 その蘇我氏を排除したという事ですから、その首謀者の天智天皇は、現状否定の急進派という事になります。

確かに、その後の出来事を見ていると、そうなのかもと思わせるものはあります。

百済からの要請に基づいて、いきなり九州へ侵攻をしていますし、その後白村江の戦いまで一気に突き進みわけですから。

ここまで見ると、急進的な現状否定のように思えます。

そのために、穏健路線の蘇我氏が邪魔だったから乙巳の変で排除したように見えます。

白村江の戦いで敗れた後は

 しかし、白村江の戦いに敗れた後はそうでもなくなります。

各地に大宰や城を造るとともに、都を近江大津宮に移します。

特に近江大津宮については、現在の大津市で琵琶湖の沿岸に位置し、明らかに攻められた時に水上に逃げることを意図していると考えられます。

つまり、唐、新羅の連合軍がせめて来ることへの対応がメインという事になります。

この対応を見ると、とにかく蘇我氏を排除たかっただけで、その後のことはあまり考えていなかったとも言えそうです。

たまたまその直後に百済が滅んでしまったために、白村江の戦いまで突っ走ってしまったのかもしれません。

日本書紀』の記述なので

 こう見てくると、天智天皇は勢いで白村江の戦いに負けてしまっただけの天皇のように見えます。

ただし、これは『日本書紀』の記述によるものだという事を考える必要もあります。

日本書紀』は、天智天皇のあとを受けた、天武天皇持統天皇2代の記述で終わりますが、持統天皇から文武天王への禅譲がその最後を飾ります。

明らかに天武系の天皇の正当性を示すのが、編纂された目的の一つだったわけです。

そのため、その天武系の前の天智天皇の取り上げ方が厳しくなったという可能性も排除できません。

天智天皇は徳が無かったが、それを継いだ天武系はこんなに優れているというわけです。


 乙巳の変を見ても、ここ一番の決断力はあったと思うのですが。


ではでは

Web小説で脳トレ

Web小説が脳トレに良いんじゃないかという話です。

 

 

相変わらずマイブーム中です

 以の記事の中で、Web小説がマイブームだと書いたことがあります。

アニメの原作を見つけて読んだのが始まりだったのですが、意外とそれ以降もブームが続いています。

久しぶりに、SFに出会った時の、のめり込んで読み散らかした感じを思いだしました。

よく考えると、それから半世紀以上もたっているわけで、ぞっとしますが。

さすがに、若い頃のようにほぼ徹夜で読み続けるというようなことは出来なくなりました。

それでも、他にやらなければいけないことがあるほど、読みたくなるというのは変わらないですね。

というわけで、このブログも含めて、様々なところに影響が出ているWeb小説読みなのですが、結構脳トレにもいいんじゃないかという話です。

そもそも読書は

 そもそも、Web小説に限らず読書という行為そのものが、脳の機能にいい影響があるといわれています。

少し調べてみても

 ・記憶力の向上
 ・集中力アップ
 ・言語能力の発達
 ・想像力と創造力の向上
 ・情報処理能力の強化

といったことが引っ掛かってきます。

さらに、そろそろ個人的に心配になって来た、加齢による認知力の低下を防ぐといった研究もあるようですし、ストレスレベルを低下させるという事もあるようです。

連載中が多いので

 さて、Web小説というと様々な特徴があると思いますが、最大の特徴だと思うのが、新聞に掲載される小説のように、そのほぼすべてが日々連載されていくものだという事です。

勿論、すでに完結しているものもあるのですが、日々更新されているものも数多くあります。

それらを興味に任せて読み散らかしていくと、連載しているものは、最新話まで追い付いてしまうものが多く出てくることになります。

そうなると、あとは新たな話が更新される都度読んでいくことになります。

個人的には、現時点で、そんなものが100以上になっています。

脳トレで考えると

 100以上の話について々、日々その中から更新されたものを読んでいくことになるわけです。

それぞれの登場人物、内容などを記憶していて、更新されるたびに思いだすという事を行うわけです。

これは、脳トレという点から見ると、結構いい線いっているんじゃないでしょうか。

元々の読書の効果を、強制的に強化していることになるような気がします。

読書自体が楽しい私としては、ついでに脳トレにもなるわで、いう事ないです。

しばらくは、やめられそうにないです。


 Web小説の特徴として、変換機能を使うためか、難しい漢字が使われがちで、その勉強にもなるというのもあります。


ではでは

乙巳の変の影響考

乙巳の変の影響について考えた話です。

 

 

乙巳の変もあった

 ここしばらく、白村江の戦いの前後辺りの歴史について考えています。

九州にあった邪馬台国が、大陸の動乱(五胡十六国時代)を避けて、畿内に東遷したグループと九州に残ったグループに分かれたという仮説がベースになっています。

畿内に移ったグループが大和政権となり、九州に残ったグループは、現状の日本史の教科書では出て来ませんが、白村江の戦いの直前まで一定の勢力として存在していたと考えています。

その好太王の碑文にある倭による侵攻、倭の五王、遣隋使、初期の遣唐使、は全て九州の勢力が行ったという事になります。

その九州の勢力を、白村江の戦いの直前に大和政権が攻め滅ぼしますが、その後、唐、新羅に白村江で敗れてしまうわけです。

ところでこの流れだと、日本史の教科書的には、大和政権側の大きな出来事が抜けています。

乙巳の変です。

乙巳の変大化の改新

 乙巳の変は、645年(この年が乙巳の年なのでこう呼ばれていいるようです。)に中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏を滅ぼした事件です。

ところで、私が学生だった時に「乙巳の変」というのを習った記憶はありません。

そのころには、「大化の改新」と習いました。

調べてみると、現在では蘇我入鹿の暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、それ以降に行なわれた政治改革を「大化の改新」と呼び分けているようです。

どうやら最近は、「大化の改新」の実存性が疑われており、「大化の改新」が否定されても、蘇我入鹿の暗殺事件は残るため、その部分だけを「乙巳の変」と呼んでいる、という事のようです。

蘇我氏

 乙巳の変で滅ぼされた蘇我氏ですが、ウィキペディアによると、

王権の職業奴属民としての役割を担っていた氏族の管理や国外との外交に対する権益を持っていたとみられ、渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。
引用元:

蘇我氏 - Wikipedia

 

という事で、本ブログで考えている、大和政権が伸長する要因となった大陸からの渡来人を背景にして権力の座についていた氏族のようです。

暗殺された蘇我入鹿の頃に全盛期で、ほぼ一強状態だったとされています。

蘇我氏が滅亡して

 本ブログでは、九州の勢力が一貫して大陸に向かっていたと考えています。

これは見方を変えると、渡来系の勢力の影響力が強かったとも考えられます。

その九州の勢力と、大和政権の外交に対する権益を持ち、かつ渡来系を率いていたと考えられる蘇我氏は、陰に陽に繋がりがあったとしても可笑しくありません。

蘇我氏が滅亡することで、そのパイプが無くなってしまったと考えられます。

そんな状況の中で、百済が、唐・新羅によって滅ぼされてしまいます。

蘇我氏のパイプがなか無くなってしまったことで、その後の唐・新羅・九州の勢力連合の意向を確認することが出来なかったという事なのかもしれません。


 情報不足の疑心暗鬼からの過剰反応が、九州勢力を滅ぼし、その後の白村江の戦いでの敗戦の原因だったのかもしれません。

 
ではでは

白村江で敗れて

白村江の戦いで敗れた後の話です。

 

 

前回の話

 前回の話は、大和政権が九州の勢力に対して戦いを挑んだ背景についてでした。

 

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大和政権の勢力下にある勢力の関係は、これまで考えられてきたような中央集権的なものではなく、中国と周辺国との間の冊封体制のような関係だったのです。

その結果、百済が滅び、唐・新羅・九州勢力の連合軍による侵攻の可能性が出て来た時に、宗主国的な立場の大和政権としては、自ら戦う他は無かったというわけです。

その結果、伊勢王、斉明天皇の政権中枢部を失いながらも、九州勢力を滅ぼしたと考えられるのです。

大和政権の過剰反応?

 ところで九州の勢力は、中国側の歴史資料から見ると、その関心が一貫して大陸へと向かっていたと考えられます。

そう考えると、唐・新羅・九州勢力の連合軍による侵攻の可能性と書きましたが、九州の勢力は、実際には侵攻する気は無かったのかもしれません。

歴史的に見ても、白村江の戦いの後に、唐・新羅が攻めて来るという事も無かったわけですし。

このあたりは、中国との交流があまりなかった、大和政権の過剰反応だったのかもしれません。

敗れた後は

 ともあれ、大和政権は、九州の勢力の排除に成功しますが、その後の白村江の戦いで敗れてしまいます。

そうなると、あとは防衛モードへ一直線です。

連合軍は、九州、瀬戸内海と侵攻してくる可能性が高いことから、それを迎え討つための防御施設が造られました。

具体的には、筑紫大宰、吉備大宰、周防総領、伊予総領です。

この中では、のちの筑紫大宰の水城などの構造物が有名です。

大宰と総領

 筑紫大宰は、のちの大宰府であることは間違いないでしょうから、大宰というのは大和政権が作ったものという事になります。

そうなると、総領というのは大和政権以外の、冊封国が作ったっものではないかと考えられます。

造られた当時は、それぞれに違った名称だったと思われますが、『日本書紀』作成にあたって、大和政権が造ったものとして、律令制定により作られた官名を当てたのではないでしょうか。

その上で、大和政権が造ったものには大宰、そうでないものは総領としたのではないでしょうか。

全て大和政権が造った大宰とするのは、憚られたという事なのかもしれません。

2か所の大宰

 ここで注目したいのが、大和政権が造った大宰が、2か所しかないという点です。

畿内に無いのは、本拠地である以上、当然防衛体制は整っていたはずなので問題ないとしても、そこに至るまでに2か所というのは、いかにも少ないように思えます。

総領の2か所によって、一応の形が出来たとも言えそうです。

欲を言えば、四国にもう一か所あってもいいような気もします。

逆に言うと、大和政権には筑紫と吉備にしか造れなかったという事なのかもしれません。

筑紫は攻め滅ぼした地ですし、吉備は神武東征の時に三年留まったことからも分かるように、非常に緊密な関係を持った地域です。

近畿の周辺以外には、そのぐらいしか造れる場所が無かったのです。

それ以外は冊封的な関係の地域であり、その中でかろうじて周防と伊予が、侵攻経路になる恐怖感からか協力したという事なのかもしれません。

大和政権が全国に号令をかけて防衛体制をとる、というような立場では無かったのです。


 国内の覇権をねらうのはまだしも、なに唐と新羅なんかにちょっかいを出してるんだよ、と思っていた人達も多かったのではないでしょうか。


ではでは