ダメなあいうえお

ダメダメなんです

ろくでなし

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私がこの辺鄙な温泉街に来たのは、もちろん死ぬためだ。

誰にも見つからず、静かに一人きりで、死にたかった。

最後くらいは、好きにしたっていいはずだ。

質素な民宿に三日間泊まり、毎日街外れにある温泉へ通って現世での疲れを癒し、ゆっくりと身支度を整えた。

明日、旅立ちである。

部屋に広げていた荷物が一通り片付いてしまうと、私はふいに名残惜しさを感じて、夕方を迎えようとしている温泉街へ散歩に出た。

昼間騒いでいた蝉たちはすっかり黙り込んで、山々からはヒグラシの声が滲み出している。

明日の今、自分がもうこの世にはいないことを考えるとついついぼーっとしてしまって、知らず知らず見覚えのない石段を上っていた。

山肌にしんみりと続く草深い石段を上りきると、そこにはお稲荷様の小さなお社があった。

私はなんとなく、導かれてここに来たように感じた。

しかし残念なことに持ち合わせがないので、最期だというのにお賽銭を投げることもできない。

そう思い、立ち尽くしてポケットに手を突っ込んだら、150円だけがポケットに入っていた。

それを賽銭箱へ投げ入れ、願いも望みも祈りもなにも無い私はただただ深く頭を下げて、もと来た石段を下った。

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石段を半分くらい下りたところには踊り場があって、すみっこで寂しい足湯のちょぽちょぽと音を立てているのが目に付いた。

あれっ、と思った。

私はこの寂しさを、体を温めることによって紛らわせることは出来まいか、と考えて、お湯に足をつっこんでみた。

最初は熱くてしびれたが、じきに体が慣れると、なんだかよい心持ちがしてきた。

しばらくは両足でちゃぷちゃぷと懸命にお湯を掻いていたが、はっとして顔を上げると老いた男女が向かいの椅子に座って何か話している。

その会話の内容はハッキリとは聞き取れなかったが、老爺は老婆に頼みごとをしているようであった。

老婆は迷惑そうだったが、どこかまんざらでもないように見えた。

そうして老爺はついに彼女からいくらかの小遣いを手渡され、嬉しそうに階段を下りて行った。

その時にちらと見た、取り残された老婆の寂しげな横顔が瞼の裏に焼きついて離れなかった。

よけいに心細くなった私は湯からあがり、街に戻ろうとしたが、下り階段の脇にもう一つ別の上りの石段があることに気が付いた。

空は真っ赤に燃えて、あと15分で陽は落ちるだろう。

それでも私はこの石段をのぼることにした。

進んでみるとさっきの石段とは比べ物にならない長さで、登っていくうちに日は沈んで真っ暗になってしまった。

不思議と怖くなくて、ただただ無我夢中に上るだけで、この時の自分が何を考えていたのか未だに分からない。

そうやって、暗くておぼつかない自分の足元を見つめながら影の中をひたすら無心に一段ずつ踏みしめて行くうちに、上の方からひらひらと木の葉が落ちてきた。

驚いて見上げると、この孤独で暗い石段を囲む7月の森はいつの間にか見事に紅葉していて、赤色黄色の無数の木の葉がざわめくその先に石段の終わりが見える。

私はそこを目指して駆け上がった。

息せき切って最上段に到達してみると、そこには紅葉の森に守られた広場があった。

森の奥は残忍なほどに真黒く、ごうごうと唸りを上げて冷たい風を広場に吹き込んでいたが、やがて雲が退き月明かりが差し込むと、暗い森は赤と金の市松絨毯へと変貌した。

私はしばらくの間あっけに取られていたが、ふと見ると、広場の奥に微かな光がちらついている。

仕方なくその方へ向かって歩いていくと小さな岩が見えてきて、それに寄り添いひざまずく人影も確認できたが、私はそのまま距離を縮め、なおも近付き、いつの間にか岩に手の届くところまで来てしまっていた。

はっとした。

これは岩でなく、砕けて崩れ落ち、すっかり苔むした墓石である。

先程ちらと見えたのはこの墓石に立てられた二本のろうそくの炎だった。

そして今私の左隣には、何者かがひざまずいて墓に黙祷している。

私は思い切って真横を向いてみた。

瞼の裏に焼きついたあの光景、あの寂しい横顔が極めて鮮明に蘇り、それがいま見ているものと完璧に一致した。

そのとき私は物音のひとつも立てず、息さえも止めていた。

しかし老婆は眼を見開き、ばっと私の方を見た。

その一瞬は久遠にも感ぜられた。

老婆は、はあ、と長い溜息をつくと、重い口を開いた。

「ろくでなしだったわ。若い頃から酒と女が好きで、幼馴染だった私はいつも振り回されてた。定職にも就かずふらふらして、午前中から湯屋に行っては昼過ぎにはすっかり酔っぱらって帰ってくる。酔って女の人に手を出したりなんかして、横面を引っぱたかれていたのなんて、今にして思えば笑えるわ。本当にこの人はろくでなしだった。ろくでなしだったけれど。でもね、良い人だったのよ」

彼女は墓石に立て掛けられた写真たてを、涙ぐんだ目で見つめた。

写真たてには、先の踊り場の足湯で見た老爺の写真が収められており、そこへ並べるように一枚の封筒が添えられていた。

「この人に、もうこれは必要ないわ。あなたが使ってちょうだい」

老爺の写真から封筒を取り上げると、老婆はそれを私に押しつけた。

中をあらためると、数枚の一万円札が入っていた。

「実を言うとね、あなたは少しだけ、この人の若い頃に似ているわ。だからね、いいのよ。さあ、お行きなさい」

断る隙を与えられずに私は追い返され、もと来た階段以外に行ける道もなく、もうこの石段を下っていく他なくなった。

無限に暗い地の底へ続いていく階段を前にすると、なんだか急に足がすくみ、ここまでに蓄えてきた全ての恐怖が堰を切って私に畏怖の念を抱かせた。

どうしようもなく怖くなって、私はそれはもう一心不乱にこの暗い石段を飛ぶようにして駆け下りていった。

一度として振り返らなかった。

 

 

追録

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目覚めると、ここ数日で見慣れた鶉木の天井であった。

なにがどうなったのか分からないが、私は何事もなかったように民宿に戻って、自分の部屋の布団で寝ていた。

荷物は全て、昨日の日暮れ前までにまとめておいた通りだ。

判然としない。

何はともあれ朝食のために民宿の一階にある食堂へ出ると、女将が私の顔を見るなり料理の手を止めて話し掛けてきた。

「おはようございます、昨晩は眠れましたか」

「ええ、まあ」

「それはようござんした。あまり帰りが遅いので、心配したのですよ」

「ああ、ごめんなさい、昨日はつい。ところであの。私は昨日、何時頃に帰りましたっけ」

「はい?」

「すみません。何も覚えてなくて。その、どうやってというか、私はどんな感じで帰ってきましたか」

その質問に、女将は少々押し黙ったが、すぐにこう答えた。

「私はもう寝ておりましたが、お帰りは午前2時ごろだったと記憶しています。そのとき私は偶然お手洗いに起きていて、そこへお客様がお帰りになられました。それで、その、何と申したらよいのでしょう。お客様のご様子が、尋常でないように見えたので、私は声を掛けるのをためらってしまいました。ひどく緊張しているというか、鬼気迫る表情をしておいでで、大変な勢いで飛び込んできたと思ったら、慌ててお部屋に戻られていましたから」

 まるで覚えていないが、私はたしかに自分の脚で帰ってきたようだ。

それにしたって、私は昨日、一体どこから帰って来たのだろう。

「もう一つ聞きたいんですが。この辺りの山に、稲荷神社がありませんか。生い茂った石段を上った先にある、小さなお社です」

「はい、ございますよ。うちの前の通りを登山道の入り口に突き当たるまで進んで左に曲がり、豆腐屋さんの向かいあたりで山に入って少し進むと、その石段に続きます」

「その石段の途中には踊り場があって、小さな足湯がありますね」

「ええ、ございます」

「踊り場からは、街へ下る階段、稲荷神社へ上る階段の他に、もうひとつ長い上りの石段がありますね」

「それは、存じ上げません」

「...」

「そういえば。今朝、これがお客様のお部屋の前に落ちていましたよ」

そう言うと女将は割烹着の大きなポケットからぼろぼろの封筒を取り出して、私に差し出した。

受け取って中をあらためると、そこには確かに数枚の一万円札が入っていた。

 

 

末筆

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7月の東京は暑苦しくて、うるさくて、小汚くて、相変わらずろくでもない町である。

未だにこの町を好きにはなれないが、山手線の電車に乗り込む私の足取りはいつもより軽い。

持ち合わせた金を全て使い果たしていた私は、あの後、封筒の中の一万円札で東京へのチケットを買った。

温泉街を去る間際、私はもう一度だけあの階段を上ってみた。

そこには踊り場と小さい足湯があって、その先には稲荷神社もあった。

しかし、いくら必死になって探してもあの長い長い石段はどこにも見当たらず、私は汗をかきながらただいたずらに蚊にくわれるだけだった。

バスの時間が迫りやむなく諦めた私は、街に戻り、山に背を向けて温泉街を通り抜けた。

その途中で一度だけ山の方を振り向いてみた。

稲荷神社から大分登ったところの山肌の、ごく一部の木々だけが7月だというのに、不可思議にも赤と金の市松模様に色付き、輝いていた。

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殺された友人

これは、4年前の冬、とある温泉街で暮らしていた時の話である。

 

日の出前の仄暗い街を散歩するのは、僕の日課だった。

温泉街の終わりにある登山道の入り口をくぐり、小高くなって街が一望できるところまで登ると、引き返して家に戻る。

その日は散歩帰りで偶然、友人の一人に出くわした。

鹿目(かなめ)という昔馴染みで、いつも頭に付けている立派な三つ又のツノの髪飾りが特徴的だ。

彼には大切な家族があり、日頃、山菜を採って暮らしている。

「今日はずいぶんと早いね」と声を掛けると、鹿目は「実は今日、息子の誕生日なんだ。でかい舞茸の一つでも採って、喜ばしてやりたくてさ」とか嬉しそうに喋っては、そそくさと山奥へ消えていった。

普段はなかなか調子の良い奴だが、ああいう家族思いだから好感が持てる。

舞茸が見つかればいいと思った。

 

 

僕は無類の散歩好きだから、他にやることがなければ直ぐ散歩に出る。

その日は生憎暇が有り余るもんで、昼過ぎにまた街へ出た。

湯屋のある通りを香辛料店の前まで歩いた時、その店先に珍しく蜂蜜の小瓶が光っているのを見た。

それに見入っていると、向かいから黒い毛皮を羽織った大男がのそのそと寄って来た。

「調子はどうだい。」と唸るような声で話しかけてきたこの大男は僕の友人で、友達思いの熊本である。

友のためなら危険を顧みずに闘う勇敢な奴で、僕も何度か助けられたことがある。

熊本は春夏秋冬昼夜問わず、真っ黒く豪悍(ごうかん)なる毛皮を身にまとう猟師だが、その日は珍しく三つ又のツノの髪飾りを付けていた。

僕はそれとなく「やあ、素敵な髪飾りを買ったね」と聞いた。

すると彼はこう言った。

「これは買ったんじゃない。今朝、山で大きな鹿を討ったが、これはそのツノだ。おまけに見ろ、そいつはこんなにデカい舞茸を咥えていやがった。今日は鹿肉と舞茸で御馳走だ。」

熊本はゴツゴツの大きな手に舞茸を握って、大分ご機嫌だ。

ちょうど、友達をみんな誘って宴をやるつもりだった、キミもどうだ、と熊本は提案してくれたが、僕は夜の先約を反故には出来ないので、やむなく断った。

熊本は「残念だ。しかし今日一日じゃ食べきれないだろうから、また近いうちにぜひ来てくれ。俺は夜までもう一狩りやることにする」と言いながら山の方へどしどし歩いていった。

実に気前の良い男だ、仕方ない、明日明後日にでも遊びに行ってやろう、と思った。

 

 

その日の夜、約束通り、僕は行き付けの人見カフェを訪ねた。

マスターは人見さんと云う銃使いの腕利き猟師で、夜は酒なども出して小ぢんまりと居酒屋を営業する。

「いいところに来た。」

人見さんは僕の顔を見るなりそう言って、今日はおまかせでいいよな、是非おまかせにしてくれ、と強引な注文を取った。

「じゃあ、おまかせで。」

カウンター席に腰掛けて振り返ると、部屋の隅に、三つ又のツノと剛毛の黒毛皮が乱雑に置かれているのが目に留まった。

ツノと毛皮をしげしげ観察していると、「中々いいだろう」と自慢気なマスターが、湯気の立つ鍋を僕の前に置いた。

僕は「立派な毛皮を買ったね」と聞いた。

マスターの答えはこうだった。

「いや、あれは買ったんじゃない。実は今日の昼下がり、山で大きな熊を討った。恐らく山の主だ。すぐに三人がかりで捌いて、今はこの通りの鍋の具だ。新鮮だから旨いぞ。そこに置いてあるのは、この熊の毛皮だ。」

僕は目の前に置かれた熊鍋を見つめた。

で、毛皮と一緒に置いてあるあのツノは何か、と尋ねると、「珍しいことがあるもんで、熊が後生大事にそのツノを咥えていたんだ。そのうち壁掛けにでもするさ。……鍋、食わないのかい。冷めちまうよ」と言われた。

「ああ、食べるよ。」

僕は慇懃(いんぎん)に手を合わせ、いただきます、と深い感謝を示して箸を取った。

おかしな話「知らない女」

 我ながらおかしな話だが、彼女が出来て5年が経つ。

そうして遂に、世間で言うところの結婚をすることになった。

こういうことにはまるで疎いから、結婚するには式を挙げねばならないものだと思い込んでいたら、「そんなことないわよ」と彼女は笑いながら、婚姻届を出すのだと教えてくれた。

自分で言うのもなんだが、僕の彼女は実に良い女だと思う。

僕のために頻繁に料理を作ってくれて、それがとても美味しい。

何よりいつも優しくて、こんな間抜けな僕を責めることもしないし、彼女の怒っている姿を見たことがない。

時には、なぜ自分にこんないい女の彼女が出来たかと、不思議に思うことさえあった。

世の中は分からないから、君たちも諦めるんじゃないぞと高笑いしながら、周囲の無粋な友人たちを励ましたりもした。

その度に彼らは「お前に彼女が出来るなんて、全くおかしな話だ」と言った。

 

婚姻届けというのは地域の役所で出すのだと聞いた。

それで、ある日曜日に印鑑を携え、彼女を連れて近くの役所へ出掛けた。

どうせ田舎だから他に人も無く、すぐ窓口に案内された。

奥から変に愛想の良いおばさんが出てきた。

婚姻届けを出したいと言ったら「あらあらまあまあ、それはそれは御目出度いことでございます」とか余計なことを喋りながら、いくつかの書類を出した。

 

自分で言うのもなんだが、僕は達筆である。

他に人から褒められたことなど何一つ無いが、これだけは自信を持って誇れる。

だからこう、人前で書類なんかを書くのは好きだ。

舞台に立って楽器を演奏する人などが、自分の特技を披露するのは恐らくこういう気持ちなんだろうと想像した。

自分の名前を書いてから、ここが腕の見せ所と、彼女の名前を書こうとした。

書こうとしたが、彼女の苗字をどう漢字で書くか、思い出せなかった。

こんな大事な時に思い出せない奴がいるか、と粘ったが、考えれば考えるほど分からなくなった。

いや冷静になってみろ、僕はいま何を考えているかさえ、よく分かっていない。

彼女の苗字の漢字、その前に、そもそも苗字が思い出せない。

これはまずいと思った。

申し訳ないとは思ったが、彼女に「すまないが、漢字が思い出せないから苗字だけ書いてくれないか」と頼んだ。

彼女は「半町」と書いた。

こんな苗字だったろうか。

 

ありがとう、と言って急いでペンを取り返して、彼女の名を書こうとした。

しかし、これも書けなかった。

どうしたことか、自分の彼女の名前が書けない。

こんなにおかしな話はない。

5年も一緒にいた女の名前も漢字で書けないのだ。

だが少し考えると、今度は余計に嫌な汗が出てきた。

彼女の名前を漢字で書けない、それだけで済むならまだマシだと思った。

なぜなら、そもそも僕は、この女の名前を知らないような気がしてきたからだ。

僕は取り乱したまま、女の名前をああでもない、こうでもないと必死に吟味したが、どれも違う気がした。

すっかり混乱してしまって、ついに「やっぱり名前も自分で書いてくれ」と言ってしまった。

彼女は怒り出すでもなく「将利」と書いた。

 

「半町将利」。

僕はこんな奴を知らない。

「これは何と読むのか?」と咄嗟に尋ねると、彼女は「はんまちさとし」と言った。

聞かない名だ。

それに「さとし」なんて男らしい名前の女がいるのか?

だが今までにこの女を何と呼んできたか、まるで思い出せないから、この女は半町将利に違いない。

では、今僕の隣にいるこの女は一体何なのだ。

知らない女は僕の顔を覗き込みながら、いつまでもニタニタ笑っていた。