〇嶺井妙美 (1949~2013)
社会運動家。沖縄県島尻郡玉城村(現沖縄県南城市)生まれ。金城あゆみとも。高校卒業後東京に出て、専修大学に入学して社会運動に目覚める。沖縄日雇労働組合を結成して、ホームレス支援を始め、共産主義運動を展開した。
<嶺井妙美像>
竣工:2015年12月
像高:
作者:金城実
撮影時:2024年1月6日
説明:この場所は、嶺井家の門中墓であるが、百十踏場(ももとふみあがり。琉球王朝の王女)の墓の奥である。またすぐ前が南城市陸上競技場の奥の駐車場から階段を上がったところになる。なんでも、彫刻家が場所から像の設置方向まで決めたそうである。摩文仁の方を見下ろせる方角だそうだ。
〇尚巴志 (1372~1439)
琉球王国の創設者。1429年に三山(中山・北山・南山)を統一し、琉球王国をつくった。南山国佐敷城(現沖縄県南城市)生まれ。首里城や那覇港を整備し、琉球の繁栄の基礎をもたらした。ちなみ「尚巴志」は当て字とされるが、通説はまだない。
<尚巴志像>
竣工:2013年3月
像高:184㎝
作者: 目島興速
撮影時:2024年1月6日
説明:佐敷小学校130周年、佐敷幼稚園40周年の記念事業として立てられた。琉球王国の建国者ながら、沖縄にはここ以外に尚巴志像はない。小学生の野球大会の中、写真を撮らせてもらった。
〇末次一郎 (1922~2001)
民間の活動家。佐賀県生まれ。戦後処理の活動をし、日本健青会を創設に参画し、海外抑留者引揚げの援護・促進、留守家族への支援、戦犯家族の世話などをおこなった。さらに朝鮮半島や台湾出身の戦犯への支援をする。その後青少年の健全育成を目指し、青年海外協力隊を創設した(この組織はJICAの実施する海外ボランティア派遣制度である)。晩年は北方領土返還運動に取り組んだ。
<末次一郎像>
竣工:2003年10月
像高:
作者:西村貞雄
撮影時:2024年1月8日
説明:沖縄は、氏の活動ポイントの重要な場所であったようだ。像の撮影を受付に依頼したところ、たまたま偉い方と遭遇し、特別に許可を得た。偉い方は熱く末次氏の功績を語ってくれた。そこからも氏の功績の高さを知ることができるだろう。
〇大濱信泉(おおはまのぶもと) (1891~1976)
法学者、教育者。専門は商法。沖縄県石垣島生まれ。旧姓は大濱信陪。沖縄師範学校を退学後、早稲田大学を卒業、弁護士となるが大学に戻り、教授となる。戦後は大学の総長(第7代)ともなる。沖縄復帰運動にも携わり、「核抜き本土並み」の実現に尽力した。また日本野球機構コミッショナーにもなった。妻は評論家の大浜英子。
<大濱信泉像>
竣工:1983年5月
像高:
作者: 西村貞雄
撮影時:2024年1月6日
説明:沖縄大学と国際大学の統合に際し、氏が文部省の基準に合うように、統合を提案した。出身の石垣島には、「大濱信泉資料館」があり、銅像も立つ(資料館内にも銅像はあるようだ)。
〇安里源秀(あさとげんしゅう) (1903~1988)
教育者。沖縄県中頭郡北中城村生まれ。鹿児島県や台湾、沖縄県の学校の教諭を歴任し、戦後琉球大学の創設に尽力し、学長(3期)となる。その後沖縄国際大学の初代理事長兼学長(3期)となった。
<安里源秀像>
竣工:1983年5月
像高:
作者: 米治一
撮影時:2024年1月6日
説明:できた当初は寿像であった。沖縄国際大学は、沖縄大学と国際大学が沖縄の日本返還時に統合してできたもの。像は大学創設10周年で立てられた。米軍の普天間飛行場(移設問題があり、辺野古への移設が図られている)がすぐ近くにあり、2004年には米海軍のヘリコプターが沖縄国際大学の構内に墜落し、大きな社会問題となった。
〇大城立裕(おおしろたつひろ) (1925~2020)
小説家。沖縄県中城村出身。高校卒業後、上海の東亜同文書院大学に入学も敗戦により中退。高校教師を経て沖縄県庁職員となる。1967年『カクテル・パーティ』で芥川賞を受賞、その後は多くの戯曲やエッセイを書いた。1983年から沖縄県立博物館の館長を務めた。
<大城立裕像>
竣工:2022年11月
像高:
作者: 喜多敏勝(四津井工房)
撮影時:2024年1月6日
説明:護佐丸歴史資料図書館は、吉の浦公園西側の住宅と農地の点在する地域にあり、何か明るい感じがした。