銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

沖縄県編   その4

〇嶺井妙美  (1949~2013)

 社会運動家沖縄県島尻郡玉城村(現沖縄県南城市)生まれ。金城あゆみとも。高校卒業後東京に出て、専修大学に入学して社会運動に目覚める。沖縄日雇労働組合を結成して、ホームレス支援を始め、共産主義運動を展開した。

<嶺井妙美像>

場所:百十踏場の墓の奥(沖縄県南城市玉城富里222)

竣工:2015年12月

像高:

作者:金城実

撮影時:2024年1月6日

説明:この場所は、嶺井家の門中墓であるが、百十踏場(ももとふみあがり。琉球王朝の王女)の墓の奥である。またすぐ前が南城市陸上競技場の奥の駐車場から階段を上がったところになる。なんでも、彫刻家が場所から像の設置方向まで決めたそうである。摩文仁の方を見下ろせる方角だそうだ。

 

尚巴志 (1372~1439)

 琉球王国の創設者。1429年に三山(中山・北山・南山)を統一し、琉球王国をつくった。南山国佐敷城(現沖縄県南城市)生まれ。首里城那覇港を整備し、琉球の繁栄の基礎をもたらした。ちなみ「尚巴志」は当て字とされるが、通説はまだない。

尚巴志像>

場所:佐敷小学校(沖縄県南城市佐敷1193)

竣工:2013年3月

像高:184㎝

作者: 目島興速

撮影時:2024年1月6日

説明:佐敷小学校130周年、佐敷幼稚園40周年の記念事業として立てられた。琉球王国の建国者ながら、沖縄にはここ以外に尚巴志像はない。小学生の野球大会の中、写真を撮らせてもらった。

 

〇末次一郎 (1922~2001)

 民間の活動家。佐賀県生まれ。戦後処理の活動をし、日本健青会を創設に参画し、海外抑留者引揚げの援護・促進、留守家族への支援、戦犯家族の世話などをおこなった。さらに朝鮮半島や台湾出身の戦犯への支援をする。その後青少年の健全育成を目指し、青年海外協力隊を創設した(この組織はJICAの実施する海外ボランティア派遣制度である)。晩年は北方領土返還運動に取り組んだ。

<末次一郎像>

場所:JICA沖縄国際センター(沖縄県浦添市前田1143)

竣工:2003年10月

像高:

作者:西村貞

撮影時:2024年1月8日

説明:沖縄は、氏の活動ポイントの重要な場所であったようだ。像の撮影を受付に依頼したところ、たまたま偉い方と遭遇し、特別に許可を得た。偉い方は熱く末次氏の功績を語ってくれた。そこからも氏の功績の高さを知ることができるだろう。

 

大濱信泉(おおはまのぶもと) (1891~1976)

 法学者、教育者。専門は商法。沖縄県石垣島生まれ。旧姓は大濱信陪。沖縄師範学校を退学後、早稲田大学を卒業、弁護士となるが大学に戻り、教授となる。戦後は大学の総長(第7代)ともなる。沖縄復帰運動にも携わり、「核抜き本土並み」の実現に尽力した。また日本野球機構コミッショナーにもなった。妻は評論家の大浜英子。

大濱信泉像>

場所:沖縄国際大学沖縄県宜野湾市宜野湾2-6-1)

竣工:1983年5月  

像高:

作者: 西村貞

撮影時:2024年1月6日

説明:沖縄大学国際大学の統合に際し、氏が文部省の基準に合うように、統合を提案した。出身の石垣島には、「大濱信泉資料館」があり、銅像も立つ(資料館内にも銅像はあるようだ)。

 

〇安里源秀(あさとげんしゅう) (1903~1988)

 教育者。沖縄県中頭郡北中城村生まれ。鹿児島県や台湾、沖縄県の学校の教諭を歴任し、戦後琉球大学の創設に尽力し、学長(3期)となる。その後沖縄国際大学の初代理事長兼学長(3期)となった。

<安里源秀像>

場所:沖縄国際大学沖縄県宜野湾市宜野湾2-6-1)

竣工:1983年5月

像高:

作者: 米治一

撮影時:2024年1月6日

説明:できた当初は寿像であった。沖縄国際大学は、沖縄大学国際大学が沖縄の日本返還時に統合してできたもの。像は大学創設10周年で立てられた。米軍の普天間飛行場(移設問題があり、辺野古への移設が図られている)がすぐ近くにあり、2004年には米海軍のヘリコプターが沖縄国際大学の構内に墜落し、大きな社会問題となった。

 

〇大城立裕(おおしろたつひろ) (1925~2020)

 小説家。沖縄県中城村出身。高校卒業後、上海の東亜同文書院大学に入学も敗戦により中退。高校教師を経て沖縄県庁職員となる。1967年『カクテル・パーティ』で芥川賞を受賞、その後は多くの戯曲やエッセイを書いた。1983年から沖縄県立博物館の館長を務めた。

<大城立裕像>

場所:護佐丸歴史資料図書館(沖縄県中頭郡中城村安里215)

竣工:2022年11月

像高:

作者: 喜多敏勝(四津井工房)

撮影時:2024年1月6日

説明:護佐丸歴史資料図書館は、吉の浦公園西側の住宅と農地の点在する地域にあり、何か明るい感じがした。

沖縄県編   その3

〇奏寿院天龍 (?~?)

 僧侶。修験道修験本宗(吉野の金峯山寺が本山)。ほかはわからないが、道心寺の初代(1986年建立)であろう。

<奏寿院天龍像>

場所:道心寺(沖縄県豊見城市翁長207)

竣工:1990年2月

像高:

作者:辻志郎か?

撮影時:2024年1月6日

説明:仏教ではなく、修験道の「金峯山修験本宗」の寺院。像は本堂の左手に座す。天気がよくて、写真は真っ黒です…。

 

〇宮城好太郎(みやぎよしたろう) (1924~)

 自治功労者。琉球政府時代の糸満町助役で糸満町合併(1961)、糸満市発足(1971)に尽力。糸満市土地開発公社初代理事長として西崎町などの埋立てにも携わった。

<宮城好太郎像>

場所:西崎運動公園(沖縄県糸満市西崎町3-1)

竣工:1991年11月

像高:

作者:喜多敏勝(四津井工房)

撮影時:2024年1月6日

説明:像が立ったときは、氏はまだご存命だった(寿像なので)。埋立ての西崎区にこの西崎公園はある。ここはプールからテニスコート、体育館、野球場などある総合運動公園である。その真ん中に像は立っている。

 

〇金城和信(きんじょうわしん) (1898~1978)

 教育者、社会事業家。沖縄県出身。戦前は沖縄の小学校校長を歴任。戦後真和志村村長に任命された。真和志村は太平洋線の沖縄戦の激戦地、摩文仁があり、村長として遺骨の収集をおこない、1946年、3万5千余の遺骨を納めた「魂魄之塔」を建立した。また1954年に沖縄戦没学徒援護会を設立した。

<金城和信像>

場所:魂魄之塔(沖縄県糸満市米須)

竣工:1980年10月

像高:

作者:北村西望

撮影時:2024年1月6日

説明:魂魄之塔は、沖縄本島最南端の荒埼近くにあり、「平和創造の森公園」の北端に位置する。沖縄戦で亡くなられた人の名を刻んだ「平和の礎」のある「沖縄平和祈念公園」はもう少し北の方になる。魂魄之塔の周りには道府県別の慰霊碑が建ち並ぶが、すぐ下の海岸がサーフィンの好地であるようで、駐車場にはそうした車が止まっていた。やはりこのあたりは切ない気持ちになる。

 

〇ジョン万次郎  (1827~1898)

 江戸末期から明治期の武士、教育者、翻訳家。土佐国幡多郡中ノ浜村(現高知県土佐清水市)生まれ。漁師として乗った船が遭難し、鳥島アメリカ船に救出され、アメリカでさまざまなことを学び、1851年沖縄に上陸し、薩摩藩から長崎を経て土佐に帰国した。その後は幕府に採用され、通訳や翻訳などに従事し、日米修好通商条約の批准のために咸臨丸に乗船し活躍した。明治維新後は開成学校(後の東京大学)の英語教授となった。

<ジョン万次郎像>

場所:大度海岸(沖縄県糸満市大度337)

竣工:2018年2月

像高: 1.8㍍

作者: 四津井工房

撮影時:2024年1月6日

説明:大度海岸は、魂魄之塔のある平和創造の森公園と平和祈念公園の間で、沖縄本島の最南端に近い。記念碑のあるところに入る道がわかりにくく、迷ってしまった。住宅街には入らず、その下の農地の中を海に向かっていくこととなる。ここのサーフビーチのようで、多くのサーファーの車が駐車場に止まっていた。このあたりではにわかにかき曇り、風がものすごく強くなった。

 

謝花昇(じゃはなのぼる) (1865~1908)

 官僚、社会運動家。沖縄民権運動の父。琉球の東風平(現沖縄県八重瀬町)の農家に生まれる。沖縄師範学校から帝国農科大学に進み、近代農業を学ぶ。卒業後沖縄県庁に勤めるが、奈良原繁知事が就任すると対立し、退職して「沖縄倶楽部」を作り、沖縄の自治県参政権獲得のために活動するが、反対運動も激しく、運動は行き詰まった。運動の再起を図ろうと本土に渡ったが兵庫県の神戸で倒れ、1908年に病死した。

謝花昇像>

場所:東風平(こちんだ)運動公園(沖縄県島尻郡八重瀬町東風平1076)

竣工:1964年 (当初像は1935年立てられたが、金属供出で無くなった)。当初は八重瀬中央公民館(旧八重瀬町役場)前に立っていたが、2009年運動公園の整備により移転した。)

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:像は東風平運動公園という丘の上にあるが、その中でも小高い丘の上に立ち、最後は氏の生涯に因んだ44段の階段を登ることになる。そして八重瀬岳の方を臨んでいる。この写真も思ったよりも顔が黒いですね。

 

〇大城幸之一 (1879~1932)

 政治家、医師。沖縄県島尻郡玉城村(現沖縄県南城市)生まれ。医師となり、県病院に勤務後、郷里に医院を開業した。その後玉城村議会議員、沖縄県議会議員。県議会議長となった。1925年から衆議院議員となった。

<大城幸之一像>

場所:奥武島観音堂沖縄県南城市玉城奥武108)

竣工:1982年10月

像高:

作者:西村貞雄か?

撮影時:2024年1月6日

説明:奥武島のど真ん中、奥武島観音堂の前に立つ。島の中の道は狭いので注意だが、観音堂の前には駐車スペースがある。このあたりでは少し雨が降ってきた。島の入り口の中本鮮魚天ぷら店はいつでも並んでいる。魚の天ぷらが美味しいらしい。そこの2階(まる天)で食事をしたが、1階とはちょっと違うようで、天ぷらは油濃かった。

沖縄県編   その2

〇長嶺秋夫  (1908~2002)

 政治家。小禄村村長、沖縄統治下の沖縄立法院議員(7期)、立法院副議長、議長を歴任した。沖縄の本土復帰で沖縄県議会議員にもなった。沖縄県小禄村生まれ。

<長嶺秋夫像>

場所:フチミンガー(沖縄県那覇市田原206-1)

竣工:1994年3月

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:小禄の住宅地の中にいるが、小禄のあたりは戦後、米軍の施設隣接地であったため、元の住民に返還されにくかった。氏などの努力で崖地であったが、このあたりが返還され、宅地造成をしたところだそうだ。像が立ったとき氏は存命で、寿像であった。

 

明治天皇 (1852~1912)

 略

明治天皇像>

場所:波上宮沖縄県那覇市若狭1-25-11)

竣工:1970年 10月

像高:

作者:小金丸歳久

撮影時:2024年1月6日

説明:沖縄に明治天皇像は、矛盾している気もしたが、この像の造立が沖縄の本土復帰の2年前、前年に佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領との間で、沖縄返還が約束されたときである。沖縄の有志が、沖縄の本土復帰と明治期の「近代国家の指導者」である明治天皇を結びつけたものとする。台座の銘板には「五箇条の誓文」が彫り込まれている。

 

孔子 (BC552または551~BC479)

 古代中国の思想家、哲学者。儒教の祖。諱は丘、字は仲尼。古代中国の周末、魯の国生まれ、周初めへの復古により、身分秩序の再編と仁道政治を唱えた。

孔子像>

場所:那覇商工会議所沖縄県那覇市久米2-2-10)

竣工:1981年9月

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:この地は、1676年に孔子廟の「久米至聖廟」があり、1718年に琉球王国程順則名護親方により「明倫堂」が建てられたところである。像は中華民国蒋介石から贈られたものである。

 

親鸞 (1173~1263)

 鎌倉時代の僧侶。浄土真宗の祖。

親鸞像>

場所:大典寺(沖縄県那覇市松山1-9-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2024年1月6日

説明:沖縄の寺は珍しい感じで、調べてみた。琉球王国は江戸時代に薩摩藩により侵攻されたが、薩摩藩が仏教を軽視しており、江戸時代の日本では普通の檀家制度がとられていない(各家の墓地は「御嶽」と呼ばれる拝所に祀られる)。しかも浄土真宗琉球王国により禁制が取られており、1879年から布教が許されたそうだ。

ちなみに時間の関係で撮れなかったのだが、恩納ビーチの近く(沖縄県国頭郡恩納村真栄田)には、巨大な親鸞像がある。この像は(株)ミツトヨの創業者の沼田恵範が2006年に立てたものだそうだ。

 

 

〇城間徳太郎 (1933~)

 琉球伝統芸能家。沖縄県那覇生まれ。奥浜思樽(おくはまおもたる)、真境名由康(まじきなゆうこう)に琉球伝統の音楽劇、組踊を学ぶ。重要無形文化財(1986)、人間国宝(2005)(いずれも「組踊音楽歌三線」)。

<城間徳太郎像>

場所:与儀八三会館(沖縄県那覇市与儀1-15-10)

竣工:2017年12月

像高:

作者:喜多敏勝

撮影時:2024年1月6日

説明:那覇市与儀地区の自治団体「与儀八三会」と城間徳太郎門下会の共同で立てた。まだご存命で、このあたりにお住まいのようだ。

 

〇宮里春行 (1911~1992)

 琉球楽家沖縄県島尻郡知念生まれ。農林技師の傍ら、歌三線を古堅盛保に師事し、戦後音楽に専念、1962年には安富祖隆絃声会会長となった。

<宮里春行像>

場所:那覇市立中央図書館(旧沖縄県立図書館)(沖縄県那覇市寄宮1-2)

竣工:2002年 10月

像高:

作者:喜多敏勝

撮影時:2024年1月6日

説明:旧沖縄県立図書館は移転され、廃墟化している。そこと与儀公園およびタウンプラザかねひで与儀公園市場、沖縄県建設技術センターとの交差点の角に立つ(座っている?)。今回の旅で気づいたが、琉球古典芸能の関係者の像が多い。