豊富な時間

GWは宴会に次ぐ宴会、パーティーに次ぐパーティーと遊び歩いているが、実は普段よりも規則正しい生活を送っている。総体的な酒量はむしろ少ない。こんなに社交をしていていいのか、と思うが、この人々の交わりが私の存在を支えているので、感謝しかない。昨日は音楽家の友人のお母さんに、神の三位一体について解説した。

22時に寝て1時に起きる。そして作業をする。睡眠時間は3時間だが、特に異常なことだと思わない。珈琲を飲んで、たまに煙草を吸う。深夜、酒を飲むことを控えるようになったが、かといって、珈琲を美味いと思って飲んでいない。仕事と勉強のために仕方なく飲んでいる。昔のように砂糖とミルクを入れればいいのだろうか。作業中、坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」を聴く。

来年から文学と正面から向き合うので、そのために準備をしている。一方、神学の勉強もしなければならないので、けっこう忙しい。会社の仕事と教会の仕事、あと個人の諸々の生活があるけれど、一つも落とすことなく、今の時を丁寧に取り組みたい。

ルポライター

来年の生活をどうしよう、と連休に入って毎日思うのだが、人の職業というものは、己の意志と神の召命との対話で決まるほど単純ではなく、それを心棒にして社会との交渉によって決まると改めて思う。誰しも需要がまったくない職業を選択することはできないし、労働によって生み出す価値の多寡に関わらず、誰かの為になっているという実感は必ず必要なのである。

たとえば、私が新聞記者ニュースライターを辞めて、明日から小説家ライターになると宣言したら、生活が困窮することは目に見えているだろう。勝算がないのに己の立場を危うくすることは社会人のやるべきことではない。ましてや妻子がいる場合は尚更である。多少、賭けに出たとしても、きちんと勝算は見据えて置くべきである。

私の場合、記録文学者ルポライターに転身するのは難しくはないと思う。この1年間、新聞の6面、8面に市井の人々の伝記を書き続けてきた。それが業界新聞の記者の仕事として正しいのかは疑問だが、記録文学者ルポライターの仕事としては正道を行っていると自信をもって言える。出版不況で掲載できる媒体は確実に減っているが、まだまだ社会的に必要とされているし、ビジネスとも親和性が高い。

キリスト教文学を書くのはその後でよろしい。まずは自分の記者としての経験と経歴を存分に活かすべきだ。

晩餐

厚生労働省でひと仕事終えると、竹橋で働いている友達と合流した。近頃、私がブログで気弱なことを書いているので、心配してイッパイ付き合ってくれるというのだ。生きていれば、特に一芸に生きている人間は、時に自信を失くす時がある。駆け出しの頃がまさにそうで、世間の毀誉褒貶と、自身の絶望/希望の連鎖に打ち克つには、手と足を動かすこと、自分の才能を信じること、そして、友達を大切にする他にないのだ。

竹橋から小岩に移動すると、〆にラーメンを食べることになった。名店 若竹の暖簾をくぐる。煮卵とワンタン、牛筋煮込みを頼む。旨い。その後、明日、朝食を食べないでしょう、ということで、塩スタミナラーメンの特盛を頼み、二人で分かち合った。晩餐と呼ぶにふさわしい夜だった。

ramendb.supleks.jp

電子書籍

紙の本を中心とする本格的な出版社は作れなくても、電子書籍を中心にすれば可能なのではないか、という思いがよぎる。Kindleならばそれができるし、少部数・低予算のオンデマンド印刷にも対応している。

電子書籍の標準的なフォーマットのEPUBならば、少しcssを覚えれば扱えるので、学習の障壁が低い。InDesignなどと違って、基本的にテキストデータで作業が完結する所がよい。 \LaTeXで培った組版への関心と、テキストベースの執筆・編集方法を両方実現することができる1

そして、最後に肝心なのは、自分が文学者ライターとして作品を書くことである。本当の自信、本当の満足はその他の事では得ることはできない。編集者ジャーナリストとして、他人の作品の完成を支援するのは楽しいし、出版に携わる者の醍醐味であるが、私が自身を賭して書くことに比べれば二の次の事に過ぎないのである。


  1. 私はもうWordを使えない身体になってしまった。

聖イグナチオ教会

昨日、四ツ谷の聖イグナチオ教会に行った。あいにく、用事があり、夕の礼拝は出られなかったが、聖堂には私の他に黙想をしている人の姿を見かけた。

この頃、傷つくことが多くあり、明日の生活はどうしよう?と呆然としてしまうことが屡々である。聖書の行く当てのない労働者はたらきびとの譬えは紛れもない私自身の姿だ。

「主よ。この世に居場所を持たない私を憐み、世界から救い出してください」

聖イグナチオ教会 聖堂

キリスト教出版の可能性

前回、キリスト教文学の志望とその可能性について書いたが、今度は出版の可能性について考えてみたい。

将来、個人事業主として独立した後、私は一種の編集プロダクションの設立を考えている。雑誌、書籍、電子書籍の発行を主な事業とするが、企業の広報の請負もやる。自分が今まで培ってきた知見、経験を存分に生かすことができるだろう。

そこで出てきたのが、キリスト教出版社の設立の可能性である。個人の編集企画はやがて、出版社に成長する。一人でやるかチームでやるか悩む所であるが、出版部門は私一人の責任でやる方が潔いかもしれない。広報(広告)部門は軌道に乗った後は、できれば誰かに任せたい所である。

キリスト者ないしキリスト教会は一般的に精神的なものを尊ぶと思われがちだが、実際にはパンとぶどう酒という肉体的なものを志向する個人と社会の集まりである。私はそこに信頼を置いているのだが、これは出版にも言えて、キリスト教徒は基本的に紙の書籍と雑誌を大事にしている。出版を通じて、個人と社会の才能タラントをいかに伸ばすか。この頃はそんなことばかり考えている。

キリスト教文学の可能性

もう一度、小説家を目指してみないか。朝、総武線の揺れる車内で本を読みながらふと思った。

もし、私が腰を据えて、物を書くとしたら、キリスト教文学がいい。私が今まで勉強してきた聖書の知識や、教会の活動の経験などがすべて使えるからだ。

「物書きになりたければ、専門を持たなければ駄目だ」私が今の会社に就職した時に上司がそのようにアドバイスを呉れたが、私はそれは凡人の言として軽く受け止めていた。しかし、己が凡人だと悟った今、この忠告は真面目に実行する必要がある。

「立教をあなたの人生の柱に」。私の母校のスローガンだが、もう少し精確に解き明かせば「キリスト教をあなたの人生の柱に」である。私の人生の中心には主イエス・キリストの福音が鳴り響いているが、ようやく仕事の中心にまで響き渡り始めた。仕事と人生が福音に満たされているということは、キリストの御言葉と御業を世界に伝える証人あかしびとになることを意味する。

とまれ、新聞記者ジャーナリストを引退した後は、キリスト教文学者クリスチャンライターとして身を立てたいこの頃である。