yamachanのメモ

日々の雑感や文献のメモ等

目的プログラム/条件プログラムについて-小室直樹から学ぶべきもの(宮台真司 荒野塾メモ)

宮台真司 荒野塾・特別編で示された普遍的な二つの構え、

主意主義主知主義

ギリシャ的(イエス的)/エジプト的(セム族的)

・目的プログラム(価値合理性)/条件プログラム(if-then)(目的合理性)

・神感染的/神強制的

・万物学/メタ万物学

について、この相互の関係性を質問したところ、小室直樹先生のお話をもとに、宮台先生は以下のように説明された。

・「過剰さ」は必ず目的プログラムにおいて追求・擁護される摂理がある。

・両者は「過剰さ」という回路を通じて繫がっている。

この説明を理解するために、宮台先生が小室直樹についてどのように語っていたかを、橋爪大三郎[編著]『小室直樹の世界-社会科学の復興をめざして』にて復習。

「日本を戦争に負けない国にすること」が最終目標で、「米国以上に近代の本質を理解すること」がそのための手段です。最終目標が不条理とも言うべき「情念」で、手段が近代的な「合理性」ということになります。情念と合理性の、奇異にも見える組み合わせが、小室先生の本質で、三島由紀夫にも通じるものです。

情念が目標を与え、合理性が手段をなす。古くは「和魂洋才」と呼ばれ、思想的洗練は岡倉天心に遡ります。(226

小室先生にとって、学問は大きな目的に対する手段という関係にあると思います。大きな目的、すなわち出発点にある動機は、日本は戦争に負けたので、「二度と戦争に負けたくない、もういちど戦争するのであれば、是非勝ちたい」という非常に強い想いだと思います。

そうした大目的に従った「失敗学」ないし「失敗の研究」として、近代の理念系に準拠しながら日本的近代の非合理性や、敗戦したのに近代を理解しようとしない日本人の自堕落を、徹底して照射されたのだと思います。(296)

どんなステートメントも社会的文脈を前提として遂行的意味を持ち、その社会的文脈も別の社会的文脈を前提として実効的な(=他に前提を供給できるような)意味を持つので、前提を遡れば、初発的前提が見出されようが、前提循環が見出されようが、必ず端的な事実性(factuality)に至ります。

端的な事実性は論理的な根拠付けによっては意味を与えられません。小室先生は論理を突き詰めた結果そこに思い至られました。(299)

小室先生は僕に「人が凄まじく合理的であろうとする動機が合理的であるはずがない」とおっしゃったことがあります。小室先生は社会学者でただ一人、僕の援助交際研究を全面支持して下さったけど、僕に不条理な動機が強烈に存在することを理解して下さいました。

こうした議論は、山ノ内靖氏が指摘するようにニーチェの強い影響を受けたウェーバーが、目的合理性(目的に対する手段としての合理性)における目的手段系列を目的方向に辿っていくと、端点に、目的合理性に還元できない価値合理性(価値コミットメントだけが正当化事由になること)が見つかると述べたことと同じです。(301)

小室先生がパーソンズの下で学んだ理由も、橋爪さんがおっしゃった、端的動機と厳密学問的手法の「狭間に耐える」学問を、小室先生がパーソンズ社会学に見出したからだと思います。…

パーソンズの端的動機と、小室先生の端的動機は、当然異なります。でも。社会の存続可能性をエートス-価値セット-にまで遡って探索する理論的手つきは、全く同一です。(307)

小室先生の場合は、文体的なハイコンテクストさはなく、むしろ学問的なユニバーサリティに満ちていると見えます。でも、実際には、情念と論理との「狭間に耐える」学問であるというハイコンテクストさを抱えていて、それゆえに深く深く傾倒するようになりました。それは哲学者の廣松渉先生に傾倒した理由と同じです。(318)

「実践としての社会理論」は、社会的実践ですから、社会的文脈を前提にします。ここに、社会理論が普遍を志向するのに、社会理論の背後にある社会的文脈が特殊だ、という矛盾があります。一九七〇年のハーバーマスルーマン論争でも「普遍理論への志向の特殊性(を説明する普遍理論への志向の特殊性……)が主題になります。

このように思想史的ないし知識社会学的に文脈を補ってみると、「社会的文脈に拘束された動機づけの強烈さゆえに壮大な普遍理論が構想されるものの、逆に社会的文脈に拘束された動機付けの強烈さゆえにカルト的に閉じてしまい、挙句は継承戦線の樹立に失敗する」という逆説の普遍性が明らかになり、小室先生や廣松先生の立論も諒解できるようになります。

小室先生にとっては、初期の社会指標を研究を見ても分かるように、「実践としての社会理論」であると同時に「実践としての社会調査」なんですね。この構えは、第一次大戦直後の戦間期前期、そして第二次大戦直後の戦後復興期、加えて言えば、公民権闘争と学園闘争の時代に、反復的に立ち上がり、反復的に忘却されました。

その歴史的事実を踏まえると、小室先生が「人が徹底的に合理的であろうとするときは非合理な情念に支配されている」というおっしゃる意味が、特殊ならざる普遍のものになり、私的ならざる公的なものになります。同時にパーソンズが、価値コミットメントなしには資本制社会が存続しないと述べた意味も、よく分かります。

僕は、社会的文脈に拘束された特殊な動機で普遍の枠組みを志向する「実践としての社会理論」を引き継ぎたいと思います。「実践としての社会理論」が壮大ながらカルト的に閉じるという両義性を帯びざるを得ない普遍的理由を語り継ぎたいと思います。(322)

思考停止的〇〇主義に陥らずに、手段主義的〇〇主義に踏み留まるためには、初発的な動機づけの強烈さが不可欠です。そう。またもや動機づけ問題です。初発の動機づけが弱ければ、或いは動機づけの継承に失敗すれば、手段主義的〇〇主義は思考停止的〇〇主義に頽落してしまいます。現に頽落の歴史が反復しているんです。(327)

小室先生は「何が敗戦を可能にしたか(機能的前提)」「何を日本的エートスが可能にするか(機能的帰結)」の考察を通じ、「戦争に負けない国を何が可能とするか(機能的前提)」について答えを出そうとされ、方法の今日性と、伝統との接続を確保された。(380)

小室先生は、公理系という車輪と、宗教社会学的(エートス論的)考察という車輪を、両輪としておられた。前者は、うまく回っているシステムの記述に使われ、後者は、うまく回らなくなったシステムの変更の可能性条件の記述に使われてきた。…

機能的な前提と帰結を考察する際に、ウェーバー流の宗教社会学エートス論)が用いられた。これを「公理系から、宗教社会学へ」と表現せず、敢えて「両輪」と述べるには、訳がある。機能的な前提と帰結への敏感さは、公理系の徹底訓練によって育まれるからだ。(383-4)

 

ピーター・サモン『ジャック・デリダ-その哲学と人生、出来事、ひょっとすると』

ジャック・デリダの入門書ともなる伝記の翻訳である。「ジャック・デリダの知的な展開過程を順序だてて述べていく」(12)と著者が言うように、デリダの論文や著作が生みだされた背景とその影響が描かれている。そのため、デリダのテクストを読む前に、本書の該当箇所を導入として読んでも参考になる。論文や著作のタイトルが含まれている索引は、そういった読み方をサポートしてくれる。訳者による用語解説もありがたい。
また、著者は「私的な出来事と公的な出来事の双方のなかにデリダの知的展開を位置づけ、哲学史や広く思想史におけるひとつの出来事としての重要性を論じていきたい」(12)とも述べている。この「私的な出来事と公的な出来事」の描かれ方が本書に躍動感を与え、デリダの「生」を追体験できる。「デリダの戦いは全く終わっていない。我々はもう一度デリダのように緊張しなければならない。この本を読みながら、緊張することを学ぶのだ」(國分功一郎氏による帯文)。
では、「デリダの戦い」において、私たちが学ぶべき「構え」とは何か。著者の次の指摘がヒントになる。

デリダは深く集中的にテクストを読み込み、そこから脱構築のターゲットとなるような非一貫性や隠れた前提、論理の破綻などを手に入れたのである。(21)

脱構築主義者としてデリダを批判する者だけではなく、デリダの擁護者や支持者にも欠けているのは、この精密さ-「デリダの哲学的企てがもつ厳密さ」(20)や「慎重さ」(241)-ではないだろうか。脱構築という哲学的企ては、「何でもあり」ということではなく、「ある一定地点でのこのヒエラルキー(二項対立における暴力的なヒエラルキー)を宙吊りにし、対立する二項を両義的にするような仕方でこのヒエラルキーを分析し、批判すること」(132)なのである。そのためには、精密な読みと精緻な分析が必要となる。
訳者あとがきで伊藤潤一郎氏が述べているように、「本書はアカデミックな研究書ではない」(445)が、デリダの思想の形成過程をわかりやすく、そして魅力的に描いている。読み進むにつれ、デリダを-デリダが生きた時代を-より身近に感じるようなる。デリダの悪戦苦闘は他人事ではありえない。私たちは、本書を通じてデリダから大きな課題を手渡されたことなる。そう、「デリダの戦いは全く終わっていない」のである。

 

金井利之『行政学講説』まえがき

行政学を学ぶ意義は、行政職員になるためではない。医学を学んで医師になり、法律学を学んで弁護士なることはあっても、行政学を学んだことは行政職員なることには、ほとんど繋がらない。勿論、行政学を学んだ人が行政職員になることはあるかもしれない。しかし、それはたまたまの関係に近い。(3)

行政学を学んだことは行政職員になることにほとんど繋がらない」。なるほど。つい先日に両親と話したことだが、公務員には絶対なりたくないと思っていた僕が、大学で西尾勝行政学の講義を受講し、地方公務員の道を選んだことは例外的なことなのかもしれない。

自分側に権力へ繋がる方策を身につけても、「他人の身を切る改革」だけにのみ使われるかもしれないし、中途半端な権力を持つことで支配者の下僕として使役されるかもしれない。さらにいえば、権力の獲得・維持自体が、それが自己目的化することもあろう。行政の奉仕するべき目的を見失っては、効果は空振りしてしまう。(4)

「行政の奉仕するべき目的を見失う」、この言葉は重い。周囲の職員や組織を批判(非難)して距離を置いているようで、無意識的に行政の論理にべったりになってしまう人間は少なくない。

まずはこの「無意識」に気づき、「行政の奉仕するべき目的」を再考するために、本書を読み進めようと思う。

 

 

予算の繰越しについて

「未契約の工事費を次年度に繰り越すことはおかしいので、増額予定があるなら変更契約してから繰り越してください」-ある年度末の手続きの中で、財政担当課からこのように言われたことがある。「そもそも『繰越し』ということ自体が例外的なもので、変更契約が想定できるからといってその想定額まで繰り越しするというのは不可」であると。つまり、繰越しするのは「契約額(の内、未執行のもの)」に限るという論理である。年度末から年度当初の事務処理の中で、この出来事を思い出したのでメモ。

まず、繰越明許費は地方自治法第215条にて規定されている予算の内容の一つである*1。また、地方自治法第208条第2項では、「自治体の歳出は、その年度の歳入をもって充てなければならない」という「会計年度独立の原則」が定められている。繰越明許費は、この会計年度独立の原則の例外である*2

繰越明許費の説明は、塩浜克也・米津孝成『「なぜ?」からわかる地方自治のなるほど・たとえば・これ大事』の以下の説明がわかりやすい*3

繰越明許費とは、歳出予算に計上した経費のうち、その性質や予算成立後の事由により年度内に支出が終わらない見込みがあるものについて、予算として定めることにより、翌年度に繰り越して使用することができる制度です(自治法213条)

結果として事業は複数年度にわたりますが、当初の予算設定は単年度であり、また、翌年度までの繰越しにとどまる点で、継続費とはことなります。対象となるは、「道路や公共施設を建設するための予算を準備したが、用地買収が難航した」などの場合です。(90)

では、財政担当課が指摘するとおり、未契約分を繰り越すことはできないのか?もちろん、執行見込みがないものを繰り越すことには問題がある。しかし、そうでない場合でも「未契約」という理由で繰越しできないのか。定野司『自治体の財政担当になったら読む本』では、「繰越明許費に計上すれば、未契約の仕事を翌年度に契約することもできます」(82)とある。だが、これは国の補正予算を受けた3月補正、いわゆる15か月予算*4のような例外的な扱いであり、そうでないものについては認めることができないというのが財政担当課の論理であった。

以上のことから、翌年度で変更契約が想定できるものは繰り越しすることができないのか。松木茂弘『自治体財務の12か月<第1次改訂版>』には、次のような説明がある。

繰越明許費の繰越ですが、すべて予算の議決の範囲内で繰越額を決定することになります。予算の議決は限度額ですので、全額を繰り越すか一部にするかの判断が必要となります。この場合、翌年度で変更契約が想定できるものは不用額を含めて繰り越すかどうかの判断が必要となります。…なお、景気対策で国の補助金を財源として前年度に前倒して予算を計上した場合は、未契約の状態で全額を翌年度へ繰り越すことになります。(39)

これらの資料を提示しつつ、土木工事の性質を説明することで、変更契約が想定できるものも繰り越しすることができたが、「これはあくまでも例外的な扱いだから、できるだけこのようなことが生じないように」ということであった。

補足だが、繰越処理のスケジュールについても、『自治体財務の12か月<第1次改訂版>』の以下の記述が参考になる。

タイムスケジュールとしては概ね4月の第1週ぐらいまでに終わらせるようにしますが、事業の内容によっては、4月1日から支出負担行為などの財務執行手続きが必要なものがあり、新年度スタート時点ですぐに予算の繰越手続きが必要なものがあり、新年度スタート時点ですぐに予算の繰越手続きが必要なケースがあります。一方で、道路事業などの公共事業の場合、工事検査の関係によって繰越事業費の確定が遅れるため、4月下旬ぐらいまで手続きがずれ込むものもあります。したがって、一斉に事務処理が行えるものではありませんので、ここの事業内容によって個別に対応する必要がでてきます。(38)

財政担当課と事業担当課、それぞれの経験の範囲内でのみ思考・判断するのではなく、それぞれの事務手続きや事業の性質を理解しあって、スムーズかつ適正に事務処理を行っていきたい。

 

*1:地方自治法第215条にて、予算の内容は、①歳入歳出予算、②継続費、③繰越明許費、④債務負担行為、⑤地方債、⑥一時借入金、⑦歳出予算の各項の経費の金額の流用、からなると定められている

*2:定野司『自治体の財政担当になったら読む本』では、会計年度独立の原則の例外として、繰越明許費のほか、継続費の逓次繰越、事故繰越、翌年度歳入の繰上げ充用、決算剰余金の繰越しなどをあげている(99)。一方、小西砂千夫『地方財政学-機能・制度・歴史』では、「会計年度独立の原則の例外として、継続費、繰越明許費、債務負担行為の3つの予算が設けられている」(431)と説明されている。なお、定野司『自治体の財政担当になったら読む本』では、継続費と債務負担行為は、予算単年度主義の例外として扱われている。

*3:塩浜克也『月別解説で要所をおさえる!原課職員のための自治体財務』128頁以降も参照。

*4:3月補正・15か月予算については、松木茂弘『自治体予算編成の実務』70頁以降、同『自治体財政Q&Aなんでも質問室』20頁以降が参考になる。

伊藤潤一郎『「誰でもよいあなたへ」-投壜通信』

「特定の二人称以外に言葉が流れつく先は、誰でもよい誰かだけでなく、誰でもよいあなたでもありうるのではないか」(71)-タイトルにもなっているこの「誰でもよいあなた」という「不定の二人称」について、多数の固有名と日常の出来事を折り込みながら言葉にする試みである。「日常のモヤモヤを手がかりにするような哲学風エッセイ」(126)と思われるかもしれないが、本書はそのようなエッセイとは一線を画している。
では、本書の特異性とは何か。それは、「哲学風エッセイ」とは異なる「時間」が、テクストの中に流れていることである。例えば、「庭付きの言葉」のなかで、「ゆだねる」という時間のあり方について次のように語られている。

重要なのは「ゆだねる」という時間との関わり方である。それは、人間によるコントロールを制限したような時間のあり方だといってもよい。人間が庭に流れる時間をすべて支配し、そこに生きるものを管理するのではなく、別のところから風に乗って運ばれてきたり、鳥の糞のなかに入ってきたりした種が、偶然そこで芽吹くような余白をつねに残しておくのが「ゆだねる」という時間のあり方にほかならない。(26-7)

そして、この「ゆだねる」という時間は、「「あなた」を待ちながら」に出てくる「待ちながら」という言葉にも関係する。これらは、「意味の内部から意味の外部への通路を開こうという困難な企て」(16)であり、「新たな意味が生成してくるのを待つという時間のプロセス」(28)なのである。
また、「岸辺のアーカイヴ」では、「蔵書やアーカイヴとは潜勢力なのである」(43)として、現前・現在という尺度ではない、「いつか役に立つかもしれない(ということは、役に立たないかもしれない)という可能性」(36)が示されている。そして、「その可能性を信じることは、私自身の変容を肯定すること」(45)でもあると著者は述べる。
これら「誰でもよいあなたへ」が有する時間性を描く試みは、現代社会における「現在中心主義」(36)、「即効性」や「量的思考」(118)への批判にもなっている。「細切れになった時間」(97)を生きている私たちに対して著者はこう述べる。

岸辺で壜を拾い上げる者に必要なのは、私にしか聴き取れない声を聴き取る耳なのである。この耳をもってさえいれば、細切れにされた時間のなかで拾い上げた断片であっても、おのずと他の言葉へと結びつき、新たな意味が生まれていくことだろう。(108)

このようなやり取りのなかで立ち現れる共同体への「信」が宿った一冊である*1

 

*1:「「誰でもよいあなた」に言葉が届くことを信じて、このやり取りとも言えないようなやり取りをつづけていくときに立ち現れるものこそ、おそらくナンシーが「共同体」という言葉で語ろうとしていたことにちがいない」(伊藤潤一郎「誰でもよいあなたへ-ジャン=リュック・ナンシーからの投壜通信」『群像2021.11』271)