宮台真司 荒野塾・特別編で示された普遍的な二つの構え、
・目的プログラム(価値合理性)/条件プログラム(if-then)(目的合理性)
・神感染的/神強制的
・万物学/メタ万物学
について、この相互の関係性を質問したところ、小室直樹先生のお話をもとに、宮台先生は以下のように説明された。
・「過剰さ」は必ず目的プログラムにおいて追求・擁護される摂理がある。
・両者は「過剰さ」という回路を通じて繫がっている。
この説明を理解するために、宮台先生が小室直樹についてどのように語っていたかを、橋爪大三郎[編著]『小室直樹の世界-社会科学の復興をめざして』にて復習。
「日本を戦争に負けない国にすること」が最終目標で、「米国以上に近代の本質を理解すること」がそのための手段です。最終目標が不条理とも言うべき「情念」で、手段が近代的な「合理性」ということになります。情念と合理性の、奇異にも見える組み合わせが、小室先生の本質で、三島由紀夫にも通じるものです。
小室先生にとって、学問は大きな目的に対する手段という関係にあると思います。大きな目的、すなわち出発点にある動機は、日本は戦争に負けたので、「二度と戦争に負けたくない、もういちど戦争するのであれば、是非勝ちたい」という非常に強い想いだと思います。
そうした大目的に従った「失敗学」ないし「失敗の研究」として、近代の理念系に準拠しながら日本的近代の非合理性や、敗戦したのに近代を理解しようとしない日本人の自堕落を、徹底して照射されたのだと思います。(296)
どんなステートメントも社会的文脈を前提として遂行的意味を持ち、その社会的文脈も別の社会的文脈を前提として実効的な(=他に前提を供給できるような)意味を持つので、前提を遡れば、初発的前提が見出されようが、前提循環が見出されようが、必ず端的な事実性(factuality)に至ります。
端的な事実性は論理的な根拠付けによっては意味を与えられません。小室先生は論理を突き詰めた結果そこに思い至られました。(299)
小室先生は僕に「人が凄まじく合理的であろうとする動機が合理的であるはずがない」とおっしゃったことがあります。小室先生は社会学者でただ一人、僕の援助交際研究を全面支持して下さったけど、僕に不条理な動機が強烈に存在することを理解して下さいました。
こうした議論は、山ノ内靖氏が指摘するようにニーチェの強い影響を受けたウェーバーが、目的合理性(目的に対する手段としての合理性)における目的手段系列を目的方向に辿っていくと、端点に、目的合理性に還元できない価値合理性(価値コミットメントだけが正当化事由になること)が見つかると述べたことと同じです。(301)
小室先生がパーソンズの下で学んだ理由も、橋爪さんがおっしゃった、端的動機と厳密学問的手法の「狭間に耐える」学問を、小室先生がパーソンズの社会学に見出したからだと思います。…
パーソンズの端的動機と、小室先生の端的動機は、当然異なります。でも。社会の存続可能性をエートス-価値セット-にまで遡って探索する理論的手つきは、全く同一です。(307)
小室先生の場合は、文体的なハイコンテクストさはなく、むしろ学問的なユニバーサリティに満ちていると見えます。でも、実際には、情念と論理との「狭間に耐える」学問であるというハイコンテクストさを抱えていて、それゆえに深く深く傾倒するようになりました。それは哲学者の廣松渉先生に傾倒した理由と同じです。(318)
「実践としての社会理論」は、社会的実践ですから、社会的文脈を前提にします。ここに、社会理論が普遍を志向するのに、社会理論の背後にある社会的文脈が特殊だ、という矛盾があります。一九七〇年のハーバーマス・ルーマン論争でも「普遍理論への志向の特殊性(を説明する普遍理論への志向の特殊性……)が主題になります。
このように思想史的ないし知識社会学的に文脈を補ってみると、「社会的文脈に拘束された動機づけの強烈さゆえに壮大な普遍理論が構想されるものの、逆に社会的文脈に拘束された動機付けの強烈さゆえにカルト的に閉じてしまい、挙句は継承戦線の樹立に失敗する」という逆説の普遍性が明らかになり、小室先生や廣松先生の立論も諒解できるようになります。
小室先生にとっては、初期の社会指標を研究を見ても分かるように、「実践としての社会理論」であると同時に「実践としての社会調査」なんですね。この構えは、第一次大戦直後の戦間期前期、そして第二次大戦直後の戦後復興期、加えて言えば、公民権闘争と学園闘争の時代に、反復的に立ち上がり、反復的に忘却されました。
その歴史的事実を踏まえると、小室先生が「人が徹底的に合理的であろうとするときは非合理な情念に支配されている」というおっしゃる意味が、特殊ならざる普遍のものになり、私的ならざる公的なものになります。同時にパーソンズが、価値コミットメントなしには資本制社会が存続しないと述べた意味も、よく分かります。
僕は、社会的文脈に拘束された特殊な動機で普遍の枠組みを志向する「実践としての社会理論」を引き継ぎたいと思います。「実践としての社会理論」が壮大ながらカルト的に閉じるという両義性を帯びざるを得ない普遍的理由を語り継ぎたいと思います。(322)
思考停止的〇〇主義に陥らずに、手段主義的〇〇主義に踏み留まるためには、初発的な動機づけの強烈さが不可欠です。そう。またもや動機づけ問題です。初発の動機づけが弱ければ、或いは動機づけの継承に失敗すれば、手段主義的〇〇主義は思考停止的〇〇主義に頽落してしまいます。現に頽落の歴史が反復しているんです。(327)
小室先生は「何が敗戦を可能にしたか(機能的前提)」「何を日本的エートスが可能にするか(機能的帰結)」の考察を通じ、「戦争に負けない国を何が可能とするか(機能的前提)」について答えを出そうとされ、方法の今日性と、伝統との接続を確保された。(380)
小室先生は、公理系という車輪と、宗教社会学的(エートス論的)考察という車輪を、両輪としておられた。前者は、うまく回っているシステムの記述に使われ、後者は、うまく回らなくなったシステムの変更の可能性条件の記述に使われてきた。…
機能的な前提と帰結を考察する際に、ウェーバー流の宗教社会学(エートス論)が用いられた。これを「公理系から、宗教社会学へ」と表現せず、敢えて「両輪」と述べるには、訳がある。機能的な前提と帰結への敏感さは、公理系の徹底訓練によって育まれるからだ。(383-4)