ある足つぼ師は話す。
足つぼ師としてお仕事をしていると、技術もさることながら会話をどうやってしていくかがとても大切であることを感じます。
そしてそれは絶対的な正解はなく、その人の個性を活かせばうまく会話できるのだと思うんです。
僕が人と話すとき、大切にしている事を今回は書きたいと思います。
みんなの気持ちを言語化する。
まず人と話すとき、僕は毎回自分が何を感じているのかを頭の中で言語化します。
僕は色んな分野をまたいで話したり、一見関係のないことに関係性を見出すと興奮します。
でもそれは自分への決めつけです。いろんな場所で色んな人と話すと、もしかしたら違うかもしれない。
だから毎回自分や相手の事を確認するんです。同じ人と話をしていても今日は別人かもしれないし、それは自分に対しても言える事だからです。
そしてその気持ちを感じ取りながら素直にその感情を表現する。
相手は話している内容(情報)ではなく僕の感情を読み取っているからです。
だから流暢にペラペラ話せる必要はないんだと思います。
話し方はとても大切ですが、長いお付き合いをする場合はやはり気持ちの言語化を地道にすることが大切になって来るのではないでしょうか。
それは相手の気持ちを言語化することにも繋がり、そうなるとさらに会話はしやすくなるんじゃないかと。
リズム
僕は毎回、人とお話をする時。話す内容や細かいテクニックなどを意識しているわけではないです。そんな色んなことをいちいち考えているほど、器用じゃないw
でも強く、大切にしていることはリズムです。
例えば初対面の人。お互い何を話せばいいかわからない。ボクシングのジャブのように話題をお互いが出したり受けたり。あるいはジャズの始まりの様に。もしかすると漫才のように「どうもー!」とテンションを上げてから入るかもしれない。
それらすべては音という情報が重要な位置を占めています。
そしてその音とは音と音の間、つまり「間」という概念も大切です。
その人がどういうリズムで話す人なのか。あるいは今会って僕との間にどんなリズムがあるのか。それに合わせて話すだけ。
そのリズムが不快な場合は、それが緩和する自分なりのアイデアを放り込む。
気持ちの良い場合はその輪が広がるように、周りの人に広がるようにするにはどうすれば良いかを、同様に考える。
理屈ではなく、身体が反応することに従って話す。だから僕は話すとき、実際は頭をほぼ使っていないです。
ゴールは??
あと意識しているのはゴール(目的)です。これは打算的に聞こえるかもしれませんが、自分の話していることに感情を乗せるための工夫です。
だって相手の時間はとても大切なんだもの。
だからこそその時間を使ってくれていることには、自分が伝えたいということ以上に応えたいからです。
そういう気持ちがあれば、異なる考えを持っていても仲良くなれるのではないでしょうか。
つまりゴールを設定する意味とは相手に感謝するためです。
そして、僕は毎回ゴールできたなと思うと、とても嬉しいんです。
だから毎回会いたくなる。
そして会いたくなる回数が多いほど、それは自分にとって会うべき人、必要な人なのだと思います。
この循環が、本当の意味での「話し上手」なんじゃないかなぁと。
だから僕は、まだまだ話下手だと思うし毎回反省ばかり。
でも毎回オモシロいなと感じるし改善もしていきたいです。
下手な足つぼ師
少し前の話になりますが、印象深い経験をしたのでシェアしたいと思います。
それは我流と模倣について。
自分で考えて仕事にあたれ
言われたことをまずはやってみろ
と相反する考えが、社会人をしているとよく言われます。
足つぼはお客様の足に合わせ行うので、言われた通りにやってどうにかなるものではないです。
そう思ったので「自分なりに考えて」施術を行っていました。
その時のお話しです。
ちょっとオリジナルすぎるかな・・・?
ある時店長に言われました。
「ちょっと施術がオリジナルすぎるかな?研修の時と内容がずいぶん違うようだけど・・・?」
しかもそれは会社の数名の方に指摘がされていたようです。結構前から。
その時頭をよぎったのは
「最近施術が上手くいった気がしない。なんでだろうとモヤモヤしていたのはこのことだったのかな?」
でした。
我流でやっていたせいで僕の技術はゆっくりとゆっくりと死んでいたのでした。
ものの数か月での話です。
色んなものから学べぬものは死ぬ
僕は常日頃から年下の方や年上の方など一切関係なく学ぶものは学び、怒る時は怒るという態度を取り続けていました。
でも気づかぬうちにすぐに独りよがりになってしまうことがあります。
最近は色んな方が色んなことを言ってくださることで「ハッ」とすることが多くなっております。その都度修正で来ているような気がします。
僕の足つぼを求めてくれる方の反応を見るたびに
上手い足つぼ師と下手な足つぼ師の最大の違いは
「どんな方に囲まれているのか」
つまり環境なのだと思い知らされます。
その環境を活かし感謝し還元する志が無ければ、技術は死んでいく。
どれだけ技術があっても知識があっても、独善的になり傲慢になればやがてその技術はゆっくりと死んでいく。
下手な我流より徹底した模倣
僕は翌日から改善をしてみました。
と言ってもやったことはとてもシンプル。
隣で同時に施術に入った先輩セラピストの足つぼをそっくりそのまま真似るということでした。
我流に陥り過ぎて教えられたことをすっかり忘れていたので
呼吸の取り方や指の動かし方、姿勢の傾きに至るまで真似ることができることは徹底的に真似ました。
真似すぎて施術終了の「ありがとうございました~!」のタイミングまで全く一緒という(笑)
一秒の狂いもないくらい本当に完全コピー。
するとどうでしょう。
お客様の足の様子は不思議と赤ーく変色していったのでした(良い傾向)。
お客様の足は全然違うしその日のコンディションによって全く感じ方も違います。
だからやり方も変えないといけません。
でも基本ができていない僕は、まさかの模倣をした方がよっぽど良かったという。
今の僕の我流のレベルの低さがはっきりとわかった瞬間でした。
お前程度の技術、お客様の足の違いを一切無視して模倣してた方がよっぽどましだということです。
いやぁまじかぁw
最近はだから、模倣しっぱなし。
我流は死ぬ間際まで取っておいて問題はなさそうです。
健康という概念じゃあかん!?
僕は最近、「健康」ってなんだろうと考えるようになりました。違和感を感じたり、自分は「元気」とか「活力」という言葉をよく使うようになっていたからです。今回はそんな「健康」という概念について考えてみました。
健康経営?
僕はざっくりと健康業界という業界で働いています。そう人を健康にするのが役割です。でも健康と言う言葉が僕には合わなくなってきている、違和感を感じる。そう思うようになっていました。
決定的だったのは、「企業の働く環境をもっと健康的にする」、「健康経営っていいな!」ということで色々動いているのですが、ある時、健康経営を担当する部署に移ったという女性とのやり取りでした。
例えば「働くのが楽しくない」という問題については人事制度の問題になっていくかもしれないし
欠勤率の問題に関しては労働環境(つまりハード面)の問題なので総務の問題かもしれないし
上層部とのミスコミュニケーションに関してはミーティングの設定の仕方に問題があり秘書課や経営企画部の問題かもしれません。
健康と言うワードでくくってみたのはいいものの、問題の設定の仕方からその解決の仕方まで飛散しまくっていて収拾がつきそうにない予感がぷんぷんしております。そんな感想を抱くやり取りをしたんです。
大企業であればなおさらですし、かけた費用に対して効果があがったのか測定するのはもはや不可能に近い。
そこで僕は思いました。そもそも「健康」という概念が曖昧すぎる。この概念の特徴は何か、ということでした。
健康という概念の最大の欠陥
この言葉の意味は広く羅列していくことは可能ですがある共通点に気づきました。それは「個人を立脚点にしている」ということです。その人の心と体が平穏に保たれていることを指すのですが、ここの最大の問題は「個からスタートする危険性」です。
その人の心と体をどう整えるかという発想で「健康業界」は研鑽を積んできました。しかしすげえええええ当たり前の話をしますが「人は社会を作って」生きています。
端的にってしまえば人間関係や自然との関係、未知の世界との関係でその人の体調なんぞ簡単に変化するという事です。心理学や法律学など近代以降に積み上げてきた知識のほとんどがこの「個」から出発していて全体の構造が見えないままになっています。
その人の身体をどれだけ切り刻んでも心を研究しても社会の構造や歴史をガン無視してたらじぇんじぇんわかんないことなんていくらでもあると思うのですが、、、。
だから「学問がどんどん細分化して言ってもはやその研究はその人しかしてないんじゃねえの?」という分野が出てくることになります。健康分野でも「初めて聞きました的な肩書の専門家」がどんどん増えております。
健康と言う言葉、例えば「会社の健康」とか「チームの健康」とは言いません。「会社の人達の健康」、「チームメンバーの健康」という風に常にバラバラの個に分解しないと使えないんです。相互の複雑な構造を貫通できる概念でない以上、チームのパフォーマンスをあげようとするときに一気に焦点が合わなくなってしまう。
じゃあ昔はなんやってん?
では昔の人はどう考え生きてきたのでしょうか。はい、有名な言葉ですが「養生」ですね。結構難しい概念で歴史を見ても意味に変遷があるので「こういう意味です」とは言いきれないのが歯がゆいところ。
でもその背景には「自然からどう体に入れるのがいいか」という自然との関係が前提にあります。
だとすると地域や集団の文化に合わせた「養生」というのがあるはずでこれが時代を下ると「おばあちゃんの知恵」的なモノになっていくのかなと。
これがさらに具体的になると「郷土料理」とか「町の伝統祭り」とか「伝統産業」などというものに分化していくのだと思います。
健康という言葉はどこかに「普遍的な回答」があるようでどこにもない。適切な運動と適切な食事と適切な睡眠なんていう、もしかしたら何かを言っているようで何も言ってない概念に陥りがちです。
それは自然から切り離されたある種、理想化された個が言葉の意味に交じっているからだと思います。
夜行性が向いている人はだから不健康というレッテルが張られ、研究によってそれが覆されると「人それぞれ健康の在り方って違うよね」とお茶を濁し、だからチームとして健康を考えると何の方針も出ないという目も当てられない状況となります。
むむむ。
どうなんだろうこの仮説・・・。
足つぼの旅【log:鳥取】
足つぼで実現したいことの為、大阪在住の僕は呼ばれたところへ色々と旅へ行っています。
今回はその記録記事。
鳥取の記録。
ハレとケの国、鳥取
三朝橋
鳥取にはとある方に足つぼがさせてもらえるということで向かいました。大阪からだいたい三時間半。意外と近い。
鳥取市にあるゲストハウス「しゃん亭」にお邪魔してこんな感じで集まって頂き。
足つぼをしたよ。
翌日は温泉好きの僕は超有名温泉街、三朝温泉へ。
シンプルな温泉で、日本屈指の泉質だなぁと。感動してしまった。
僕はここの温泉街で色々な事を感じたんです。
普段僕たちが生活している「都会」ってハレとケでいうとハレが多すぎるなぁと。毎日祝い事のように美味しいごはん、光、刺激で溢れていて心休まると気が無いなと。みんながもてなそうと癒そうと興奮させようと気張っている。
でも鳥取にはそんな気配が無いw
温泉街だけど、住宅も混在していて静かに日常が過ぎ去っているような。
だから外部の客は気を遣わないといけない。当たり前ですよね。
でもそういう場でこそ気が休まる時があるなと。
都会で疲れたら鳥取の人に会いに行きたい。足つぼにわざわざ鳥取に行ったというより足つぼ師として大切なことを学んだ二日間でした!
リラクゼーション業界満足度ナンバーワンの企業にはどんなクレームが来るか。
僕が所属しているマッサージ屋さんはそれなりの規模を持つ企業で、とある覆面調査では大手を押さえ、満足度一位を獲得しました。
でもそんな企業でも大人数のスタッフで構成されているので、クレームもメールなどで頂きます。僕はあからさまなクレームは頂いたことはありませんが、それでも反省することは毎日あります。
毎週、お客様から頂くご指摘が社内で共有されるのですが、そこで気づいた事があるので共有をしたいと思います。
技術職なのに、、、
リラクゼーション業界で求められているのは「癒し」だと思われています。僕の所属する会社の優れているところはそのニーズが「癒し」ではないことに気付いているところなのですが、今回は一旦、お客様のニーズは「癒し」だと仮定しておきます。
ではその癒しには何が必要かと言うと、技術と接客です。
ある程度規模のある会社に勤めているとメリットはたくさんあるのですが、そのうちの一つがクレーム一つとっても傾向が掴みやすい、ということです。
ではそのクレーム。技術と接客ではどちらが多いかと言うと超絶圧倒的に「接客」なんです。
飲食店でもないし、技術がちゃんとしてないと話にならないはずのマッサージ屋さんであるにも関わらず集まるご指摘は接客について。
技術に関するクレームもよくよく読んでみると接客中のカウンセリングミスや不信感を持たれたことによるものが多いです。
嫌だなと思われた時点で人は触られるとストレスに感じます。実はマッサージ屋さんは接客が命なんですねぇ。
お客様はどこで不快に思うのか
お客様が不安に思ったり不快に思う時はどんな時か。色々読んでいると、メニューを決定する際のご要望をどう拾うのか。それが一方的なコミュニケーションではないかどうかが重要だと感じました。
接客に関して言うと社内でトップクラスの技術を持っているスタッフでもクレームが来るほど、リラクゼーションにおける接客は難しいです。肌と肌なので。
コミュニケーションを取る時間が非常に長いので、少しでも思い込みのある会話をすると苦痛を感じるんだと思います。高いお金を払っているだけにお客様も余計に敏感です。
要約すると、つまりはご来店時の瞬間からお客様の判断は始まっているということで、、、。電話対応からお迎え、ファーストタッチなど全プロセスの「最初」が肝心なのだと思いました。
接客こそ全て。技術は接客が作る。
この気づきや経験を通して学んだのは、リラクゼーション業界の人は技術を習得したがるのですが、お客様の満足度は接客にある、ということでした。さらに言うなら接客で見に付いた感覚が、施術中のお客様に対する観察眼を持たせるので、結果的に技術力が向上する、ということです。
そう考えたら、リラクゼーション業界で生き残る術は接客にあるということです。
技術、知識はその手段なんじゃないかと。
では医療業界の方とのかかわり合いはどうしていけば面白いのか。そういうのが次に気になるなぁ。
医療・リラクゼーション業界は根本からおかしい??
僕はマッサージ屋さんで働いていますが、複雑な気持ちになることがあります。
それは「お客様が何度も何度も、来れば来るほど儲かる」ということです。
言い方が嫌味ったらしいかもしれません。でもお客様が来なければ生活が出来ないわけですし、逆にたくさんくれば施術者は儲かる訳で。
よく腕の良いセラピストさんはすぐに治してしまうので仕事に困る、というお話を聞きます。
反対に宣伝が上手いだけで実はそこまで上手ではないとささやかれる方もいらっしゃいます。
そもそも昔の、特に東洋での医療は病気になった時の手術は無料。元気な時は医療者のご飯などを周りの人が面倒を見る、というのが基本でした。
ですから腕の良い医者などは貴族などがお抱えにしますし、今でのヨーロッパ貴族達はそれぞれお抱えの医者がいます(ちなみにそういったお医者さんは現代医療の真反対、古代医療だったりしますう)。
僕はそういうお金のもらい方も変えたいと思っています。
元気にするのが医療者、その周辺のリラクゼーション業の人間の役目なら、そうでない状態にさせてしまった時には無料でやる。元気にできてるんだからお金や対価ちょうだい、というのはかなり筋が通っていると思うんです。
だから月額制のコミュニティスペースを医療業界やリラクゼーション業界の人間が作るというのは凄い可能性があるんじゃないかと。
月額お金を払えば、施術は無料だよっていう。医療行為はその辺り法的にはどうなるのか課題はたくさんありそうですが。
ある足つぼ師の恐怖
足つぼをしていると、違和感を感じることが時々あります。
人間の足を触っている感じがしないというか、足つぼをしていても中々ほぐれていかないなぁというか。
何かしらの違和感です。それは若い人ほど言えることで、僕は一旦これを「人工添加物問題」と名付け仮説として持っています。
この人工添加物問題は長らく「健康系の話題が好きな人」の間では忌避され、「そういうことに興味のない人」からも体に悪いと思いながらしぶしぶ受け入れられてきた経緯があります。
ちょっと今日は人工添加物について書いていきます。
本当に怖いのは人工添加物?
人工添加物が何なのか。それが本当に危険なのか。それらについては色んな方が色んな事を言っていて、僕が今更偉そうに言う事ではないのかと思います。
でも一つここで感じたのは、本当に怖いのは人工添加物そのものなのかということです。
海外でももちろん人工添加物は使われていますが、今や世界一の使用量を誇るのは日本です。オーガニック万歳♪とブームになって久しいのにも関わらず日本が一番遅れているとも言われています。
ではなぜそうなってしまったのか。そこまで言及している記事があまりにも少なく「日本も追いつかなければ!」と言うだけの人が多いなぁと。
これ凄い難しい分析だと思っていて今だに僕もよく分かっていません。
いくつか仮説を書いておこうと思います。
自己防衛説
人工添加物の技術は50年前から存在し、本格的に使用されたのは40年ほど前。お客様の要望に応える様にして普及していきました。
この「応えて」というのがポイントで、保存が効くとか安価だとか色々な理由があります。
でも一番の原因は「コミュニティの解体」だと思うんです。
元々日本は戦争がほとんどなくあっても皆殺しを逃れてきた民族で構成されています。だから現在の日本になっていく過程でも皆殺しではなく「従属」を基本としていました。西洋では皆殺しが基本です。
そして西洋では命からがら逃げた残党が、山賊や海賊となり現在のイギリスのような国を形成していきます。
そういう地域では国の形成においてもともと「人と人とがバラバラ」なので作られた物語や「契約」というのが必要不可欠。文字が人類史上早期に生み出され書物が必要とされた背景は「文明として優れていた」わけでは決してなく、民族としてはるか昔から破壊されてしまった人々の、いわば諸刃の剣でした。
日本を含め東洋諸国の多くに書物が残されるタイミングが遅いのは「残す必要が無い」くらい共有できるものが多かったからです。
何の話かというと、現在の日本は明治維新以降、西洋化を頑張ってやってきたわけで「個」というのを大切にしてきたわけです。自由・平等・博愛(友愛)。
そしてその思想の名のもと、村の掟とか古い、人権の抑圧だ!などと言い次々とコミュニティが解体されていきます。
そうして僕たちはたくさんの人権(笑)を獲得し、そうして本当に自由にできることがめちゃくちゃ増えました。
同時に文字や言葉にしなければ分かり合えないほどバックボーンが異なる人たちが生まれました。自由は格差を生むので、金持ちと貧乏人が阿吽の呼吸で分かり合えますか?という話で。生まれも育ちもしばらくすれば全然違う人も増えますしね。
すると西洋で起きている事と似たような構造が起きます。つまり作られた物語と契約がなければ集団として協力できない社会の登場です。
日本ではそれが天皇(万世一系)であるし実は(日本人)だってそうです。明治維新の時に「これが日本人です!みんなこうしましょう!」と強制された経緯があるんです。
そして互いが互いの腹の探り合いをし、損得勘定・敵味方感情が前面に出てきます。企業単位で見ても今までの信頼関係というのは前提にできず訴訟リスクや技術をごく一部の人間で独占できる仕組みが必要になっていきます。
そこで求められたのが人工添加物...?
大量に生産出来て、でも技術は独占しやすく、クレームは起きにくく個として解体された客に売りやすい。
見るべきは人工添加物そのものではなくそれが普及した背景や構造そのものなのは確かです。
もしその原因の一つがコミュニティの解体なのだとしたら、人工添加物に対する接し方や捉え方を修正するべきではないかと思います。
長くなったので次回の記事に続きますw
なんでこういうことを書いたのか。
世の中を良くしていくために足つぼをしていますが、じゃあその「世の中」ってなんやんねんということを考え行動を修正していけないと、あらぬ方向でがんばっちゃってるということが起きかねません。
そしてこうやって言葉や文字にしなければ分かり合えない(ていうかそうしても分かり合えないw)世の中になってしまった以上、それを積極的に発信していくことがこの世の中で生きていく上では合っているんだとうと感じています。
だからブログを書くし、足つぼに少しでも関係するならそれを起点として考えていたい。
そう思って書いたよ~。