●;平和堂靴店の話から

●;駿河台下、靖国通りに面して「平和堂靴店」という専門靴店?があった。バブル期に建てられたと思われるそこそこ洒落たビルだすが、目立つほどではない。1〜2Fの靴屋商売は、客が入っている感じはなかった。ブランドものの商品は華やかに陳列されていたけど、人の気配というものが立っていない店だった。いつのまにか、廃業したらしくビルの一階にテナントに「洋服のコナカ」が入っていた。そんな話をある会合の前に雑談で披露する。お互いに見慣れた風景が変わることは、何かあったのかなと怪訝に思ってしまうものだ。「平和堂」という屋号でショーバイを続けている会社や商店が日本各地でどれほどあるのか知らないが、「平和」という屋号を付けるには、経営者のそれなりの戦後的な意識が反映してのネーミングかなぁなどと呟いたら、同席していた物知り氏が「<平和>というのは、戦後的なものではなく、大正期に受け入れられた思潮ですよ。第一次世界大戦の余波ですね」と言われて「ヘェー」。こっちは、「平和」=<戦後的なもの>の所産という意識が強い。原水禁運動などに代表される「平和運動」が色濃く、意識形成されたと思っていた。同靴店のhpを覗いたら大正12年創業とあった。戦後企業ではなく、大正期に企業の店であることがわかった。「大正期の思潮」については疎く「昭和初期に影響を与えた大正的な思潮」について本を紐解きたくなり、柄谷行人浅田彰蓮実重彦らの「共同討議」(全三冊…講談社文芸文庫)を引っ張り出したくなる。
●;そんな意識があってか、家近くのブックオフで『田中清玄自伝』(93年・文藝春秋)を見つける。100円本である。毎日新聞の政治部記者が何年もかかってインタビューした分厚い本。大正期の清玄氏を垣間見たかったからだ。松岡正剛氏も「千夜千冊」で取り上げている。悪く言えば清玄氏の自慢話めいたところがないではなく、出版当時、特に話題にならなかった本だと思う。「歴史の証言書」という性格の本ではない。そこそこ面白い人物批評や彼らとのエピソードに惹かれて、寒い日曜日、コタツの中で読み終えた。二年ほど前に亡くなったが、尊敬していた宮坂謹一先生という元一高生の(元)左翼氏が、戦後すぐ、田中清玄が社長の時、専務だかをやっていて、清玄が金庫の中の金を洗いざらい持っていってしまうんだよなみたいな話を聞いたことがある。文中に出て来る神中組か後の三幸建設(四元義隆氏の会社)の話だったかを確かめなかったが。
●;清玄氏の糟糠の妻・小宮山ひで氏が信州・八千穂村の小宮山家の出身とあった。元・読売政治部記者の小宮山氏と縁戚関係かな。奥様の西清子氏とは親しくさせてもらった…婦人労働問題評論家、早大初めての女子学生とか。石橋湛山に見出され、東洋経済新報社記者として上海に赴任。尾崎秀実やアグネス・スメドレーと親交があったとかのホントのような話は「現代史」そのもの…西さんも数年前に亡くなられたが、早く亡くなった小宮山氏の形見分けとかで氏が使っていた机とか(樫の木製のごっつい)本棚を貰った。佐久の八千穂村のご夫妻の小さな別荘を一回だけ訪ねたことなど、横道の記憶が蘇る。

●;人間ドックに

●;毎年、キチッと行くべきなのだろうが、忙しさを理由にサボっていたのだが、ようやく重い腰を上げて(半日コース)の「人間ドック」に行くことにした。前夜は、飯抜き、水分抜きが決まり。夕方まである打ち合わせがあり(もっとも私の役割は大したことはない)、普段なら終わった後に「軽く一杯でも」と進むところなのだが「明日はドック行きなんで」と断る。「どこか悪いんですか?」と訝られる。ま、永年、不規則な生活を続けているが、若い時の体力的なスポーツの経験を自慢して「オレは(いつも)健康だ!」みたいな自信過剰性分。しかし、どこかは必ず痛んでいるはず…というのが「ドック行き」の理由。9時以降は、一切口に入れてはいけないらしいので、人と別れて、一二度行ったことがある程度の「天ぷら屋」に入る。急に天丼を食いたくなった。注文すると「天丼はランチだけです」とあっさり断られる。夜は酒飲みの店なのだ。しかたなしに少し高い「天重」を頼む。天つゆのかかった米の飯を食べたかったのだ。腰回りの大きい中国人と思われる年嵩のお姐さんから「飲み物は?」と二度ほど催促される。「いゃぁ、飯だけ食べたいんで〜、お茶だけでいい」と断る。売上促進係のような役割を担わされているのだろうか。お茶のお代わりを頼むと「飲み物注文してよ」みたいなそれでいて少しぱかり媚びるような目つきを加えての仕草。「風俗店じゃねぇだろう」と言いたくなる。店のなかでの彼女のポジションがそうさせるのだろう。そそくさと飯をかっこんで店を出る。感慨なし。
●;先週だったか、時々行く中華料理店の店長ママから「今週いっぱいでこの店辞めます」と挨拶された。単なるお客にすぎないのに律儀なこった。「どこかへ移るの?」と聞いた。マネージャーとして引き抜かれたのか、店を持つのかのどちらかだと思ったからだ。「子育てに集中します」との答え。確か、一年ほど前に女のお子さんが生まれたんですよ、と店のウェイトレス嬢から教えられた。3月生まれだと思う(旦那さんのことは知らない)。母子に幸いあれ!
どこ出身?といつか聞いたことがあるが「香港です」と言った時にちょっと疑った。彼女の導きなのだろうか、吉林省出身の若い女性たちがウェイトレスを占めていたからだ。店長ママの日本語は片言だったが、所作振る舞いに品の良さが漂っていた。楚々とした奥ゆかしさが保たれており、凜ともしていた。店のファンになった友人たちもそれを認めていた。彼女の引きで入るのか数人の吉林省出身の若い中国人ウェイトレスは、店長たる彼女のマネジメントが(教育が)しっかりしているのか、最初の頃は注文しても日本語もおぼつかない感じの幼さが、いつのまにか毅然とした態度を取る大人の女性っぽくなって行くのが、なかなかに気持ちがよかった。

●;中国から帰国した人と会う

●;知り合いのデザイナー事務所で簡単な打ち合わせの後、近くの珈琲店に寄る。有田芳生氏の「ブログ」で神保町の「エリカ」主人が亡くなったのを知った。80いくつかまでカウンターに立っていた主人に見覚えがある。ちょっと怖い顔をしている人だった。200円のトーストと珈琲の取り合わせで、店に置いてあるスポーツ紙、日刊紙と週刊誌を拾い読みするのが、さぼりタイムの悦楽であった。「エリカ」は神保町周辺(飯田橋にも一軒)にいくつかあり、店のスタイルは各店同じ。岩波書店「PR誌・図書」の元編集長が言っていたが、西神田の「エリカ」は、梁山泊的な飲み屋(出版関係の人々…たぶん、左翼系?が集まっていたのか)が変わったのだという。白山通りには、幾星霜、栄枯盛衰、小さな出版社が見え隠れして軒を並べている。「エリカ」のことなどは「本の街」というタウン誌が誰かに書かせてもいいネタではないかな?
読みたい記事があった訳ではないが「週刊文春」をさっと読み。地下鉄駅に向かう道端で旧知のFさんと何年かぶりでバッタリ。「おう、おう!」と声を出す。連れ立っている業界仲間のY社のF氏に「これから飲みに行くのだけど〜」と誘われる。朝から体調が悪く、エスケープしたいところだが、Fさんが中国で何かを教えていることを聞かされていたし、何年ぶりかなのでついていく。
●;Fさんは、中国東北部遼寧省で現地中高校の生徒〜教師に「日本語」を教えている。地理的に無知なので彼の説明に「ハハーン」と頷くのみ。単身赴任で4ヶ月ほど滞在していたが一時的な帰国らしい。酒を飲みながらの話は、もっぱら「本」周辺の与太話。お互いにエピソード記憶の連発。一日中?本屋を歩いていたらしく、四方田犬彦「先生とわたし」(新潮3月号)の由良君美の話。Fさんと一緒に仕事をしたことがあるが、彼の由良君美評価がわからなかった。著作家としての四方田犬彦氏は好き。映画評論は読んでいないけれど、ニューアカの「GS誌」に掲載された論文は(全く)手がつかなかった。<映画の中の月島>から起こしていく『月島物語』(集英社)…最近、その増補版も出た。教駒時代を描いた『ハイスクール1968』(新潮社)にもリリシズムがある。Fさんは、私のようなミーハーではなく、四方田氏には冷ややか。先週、同じ神保町ですれ違った石川九楊氏のことを短絡的に語る。その壮士的な文体に惹かれているところがあるのだが、Fさんはケチョン、ケチョン。ま、吉本隆明『言語にとって美とは何か』の方法を敷衍して筆触論を展開する石川九楊氏の批判は、よく聞く。ただ、神保町のアトリエ(=研究室)で見た谷川雁の詩を書にした石川氏の作品は、「フーム、こういう書き方があるのか?」と、驚きがあった。Fさんは「雁が好き」ということで同質感を得る。「サークル村」の石牟礼道子をインタビューした時の同席した上野英信氏からの屈辱的?な体験があるらしい。
60年代〜の京大生の谷川雁好きは連綿としてある。京大OBの石川氏の友人・八木俊樹氏(故人)は、私家版の『谷川雁未公刊集』を身銭切って編集刊行をやり遂げた。ほんのちょっとだけ資料収集の「手伝いの手伝い」をしたせいで一冊貰ったことなど思い出す。Y社のFさんは石川九楊氏の存在を知らなかったという(それは問題だな)。石川氏がタイトル文字を書いた「本」を集めている神保町の古本屋がある。
●;とめどもない無駄話が続く。「吉本隆明の「<老いもの>はいい」とFさん。(読んでいないなぁ)。「次のノーベル賞古井由吉で納得するねぇ」には一致。慎太郎が、早く辞めるべきなのは「芥川賞の選考委員」と、Fさん(だよな)。Fさんに知り合いの燕山大学の中国人教授のことを喋る。京劇俳優の息子で、文革では芸能者一家は、排除の対象であったと聞いたことがある。「そんな人にお会いしたいですね」と。その人と会えるような計らいをすることにした。

●;「セカンドライフ」のセミナー

●;年下の友人に誘われ、雨の中、渋谷のバーに出かける。最近、その友人に「こんなものがありますよ」と《セカンドライフ》なるメディア?WEB3.0?的なものを教えられたのだが、聞きかじりでわかったような顔するより、はまっている?連中の場に出かけたほうがてっとり早い。センター街の奥まった小さなビルの何階かにそのバーがあった。酒瓶よりもスピーカーなどAV機器とPCがからまった接続線が店の特徴を現している。店の真ん中には大きなガラステーブルと深紅のソファと椅子。映し出されるであろう小さなスクリーンが穴蔵の壁画のように架けられている。ま、同じような匂い?を持った連中が集まりそうな雰囲気の店の一つだろう。毎週だかに定例的に「セカンドライフセミナー」が店の営業的イベントの一つとして開かれているらしい。連れてきてくれた友人は常連らしく、オーナー氏と名刺交換したが、2月のJAGATのシンポジウムの出演者らしい。ここに集まる連中だけの「mixi」があるらしい。大昔、新宿あたりのジャズ喫茶にもこんな性的隠喩に満ちた洞窟のような穴蔵があって、カッコつけて出入りしていた、な。ほとんどは「女」とやりたくて街中を彷徨ったあげくに探し当てた「悪場所」の一つだったけど、今はネットがあるのは大違いで、お互いに顔を背けてブスッとしていて、簡単には繋がろうとはしなかったな、とも。「60年代は《肉体の時代》」とか語っていた人がいたけど、今は「脳化している身体(養老孟司)」という訳か、てなことを過去のどうでもいい記憶が瞬時によぎる。
●;セミナーでは、饒舌なディスクジョッキー風の司会者も言っていたが「セカンド・ライフ」というネーミングが悪い。よくある(何も新しくない)「シニア向けライフ}かと思ったりする。「〜セミナー」と聞くだけで一時流行った宗教系団体の主宰している(今もどこかにあるだろう?)洗脳セミナーのたぐい想起してしまう。だが、司会者にせかされてマイクを握っての出席者の自己紹介からすると、当たり前だけど「セカンドライフというメディア」に近寄って商売を企む?そういったメディア業界の連中が多かった。

●;情報について(1)

●;《コンテンツな人々》が蝟集している「わいがや;②」なる小さな集まりで、理工書に100冊以上タッチしたという元編集者の大学教師を捉えて、つきあいの長かった人が「彼は唯物論者なんです」と、回りに紹介した。「唯物論者」というタームが<旧いもの>に感じられる。戦前戦後、非合法左翼が存在してた頃、あるいは福本イズムなどが風靡した昭和初期には「唯物論者」と名乗る人もいたかな。「マルクスボーイ」と「モガ・モボ」が同席していた頃には。元編集者が「唯物論者」と名乗ったかどうかは知らないが「左翼」とか「右翼」という一般的なターム(=通俗的という意味で使っているのだが)で「人」の特質を「何々派とか○○世代とか」で強調する意味あいがよくわからない。ま、レッテル付けが好きな種族としかいいようがない。あるいは、世代体験の違いを事細かく(その差異)を言い当てて自己確認したがる(安心する)人がいる。
「俺は団塊だ!」と一括りにしてその世代の特質を強く語る人が周囲にいたけれども、「おいおい、あんたの言う団塊世代といっても、60年代末〜70年代初頭に「会社」に潜り込んだ大卒サラリーマンたちのことしか言っていないじゃないか」と混ぜっ返したことがある。「世代的特質」が彼の「共同意識」であった。それが所属感になり、安心している。「情報通」と称する輩がこの手のレッテル付けを好んで使う。彼らは、切れ端のような情報を所有しているのが誇らしげになる。《カテゴリーを異にする「情報(単位)と情報(単位)の関係性》を発見するような想像力を発揮する方向には向かわない。「噂の真相」(という雑誌があったが)レベルの噂話で止まってしまう。こういった連中の口癖は「ねぇ、ねぇ知ってる?」。
唯物論者」と紹介された元編集者が、若い時にマルクス主義文献(レーニン全集など)を学習して(されて)たかもしれない。出身大学やサークル、専攻学科によっては影響を与えた学者や評論家がいて、彼が政治党派に直接、または遠くからコミットしたことがあったとしても、今さら「ロシア・マルクス主義」を奉じている人とはとても思えない。むしろ「唯物論者」という紹介が事大主義的な物言いにしか過ぎない。彼がコミットした「党派政治の論理」をどう乗り越えて現在に至っているかにしか関心がない。(学生に限ってだが)三派全学連の時代にブンド、中核、青解、革マル、構改〜などの諸党派が大学毎に入り乱れて色分けされていたから、ものの言い方ひとつで「やつは……派だ」と勘ぐり「差異」の比べあいに興じたものだが、もはや何の意味もない。

正月の葬儀(3)

●;今週は多忙を極めた。見知らぬ人と話をすることが三日続く。疲れたというよりもウケようと思って「演劇性」に事借りてつまらぬ「演技」をしでかしたことの恥ずかしさが募る。街でバッタリ会ったとしてもプイと顔を背けるだろう。
ふだん、行ったこともないコンサート会場で人と人を繋ぐ約束あるも、すれ違い。別の会合とバツティングしていたのだ。二次会にはタクシーを飛ばす。ある会社のためのプレ打ち合わせ(シナリオ通り、うまく行くかな?)とか、「ある企画の構成案」を作る約束が頭をかすめている。そんなことが重なって、頭と気分があっちこっちと漂流していたのだが、「ある葬儀」に出られなかったことの「申し訳なさ気分」の残滓感がのしかっていて、歩きながら言い訳まじりの電話を携帯で。一人は、その会社に潜り込んだ時の事業責任者(=受け入れを認めてくれた人)。もう一人は、その会社で親切にいろいろ教えてくれた男(ワープロや、PCの使い方も)。もう一人はその会社の新卒一期生の女性。その会社ではある意味で「倫理的な存在」という点で<中心>であった人(ずっと、そのように見ていた)。亡くなった社長のマネジメント面での補佐役の人だった(と思われる)。電話をかけたら会議中であった。トップがいきなり(つまりある意味では暴力的に理不尽に)去った後の処理やら体制なりを思案しなければいけない頃だから、煩わしい私的な電話は迷惑というもの。「告別式に出ることが出来ませんで、失礼しました」と、電話に出た人に申し述べる。「申し訳なさ」の感情は、亡くなった人へというよりは、一時、世話になったその会社を構成していた社員(たち)に対してである。「共同性」というものがあるならば、彼らとの関係意識である。怠って遊んでばかりいた連中との「親和性」もある。葬儀には彼らが来ていたそうな。
●;その会社での「受け入れ」が決まった時、報告がてら尊敬するある作家に「転職先」のことなど話をしたら「助っ人に行くのですな」と言われた。平手御酒かよ。<助っ人>という言葉が極めて倫理的な意味合いに感じられ、以降、<行動規範のようなもの>になっていた(実体は別として)。

●;正月の葬儀(2)

●;身内の葬儀の後始末は一段落、後は2月末の納骨式の手配。幼くして死んだ弟の何周忌だかの計算を忘れているのを妹に指摘される。先週、亡くなったばかりの最初の職場の同僚の葬儀には、有志一同で供花を添えた。その面倒を見てくれた友人が、同窓会的な催しをやろうと提起される。お茶の水の喫茶店で軽い打ち合わせ。場所と日取りは仮決定する。趣旨のところ、集まりの大義名分のところで若干の意見の食い違いが起こる。要するに集まりの<中心>の問題だ。近々、議論しようということになった。
●;月曜日、1月に亡くなった元居た会社の年下の男の告別式をエスケープする。理由は、よんどころのない仕事が、突如入ったため。告別式に参加した男から報告の電話あり。いろんな懐かしい人がたくさん、来ていた、と。そうだろうと思う。本当に失礼した。