小澤征爾の音楽人生と評価

戦後大衆文化の担い手、日本が世界に誇る音楽家、“世界のオザワ”であったところの小澤征爾について思い出の形で語る文章はWebの上でもたくさん読むことができる。「Yahoo!ニュース」なんかでも取り上げられるし、誰に対しても温かく、人を分け隔てしない性格で、音楽を勉強することに対する情熱を持った指揮者、後半生にあっては若い世代を導く教育者としての小澤さんへの万雷のブラヴォーが鳴り響ている感じ。

そうした、小澤さんの人柄を前面に出して個人を称賛する記事はたくさんあるが、指揮者としての業績をフラットに、つまり批判的な面を語ることを恐れずに口にするテキストは、こうした「Yahoo!ニュース」みたいな土俵には登ってこない。小澤征爾という日本人にとっての偉人の物語にしか関心がない一般的な日本人=我々にはそれ以上のものは望まれていないのだから、それでよろし、という訳ではあるが、音楽家としての小澤征爾は毀誉褒貶に塗れていたことは言っておいてよいはずだ。小澤さん=よい人は、それとして。

とくにアメリカにおいては小澤さんの音楽には一定のアンチ派が根強く存在していて、ボストン時代後半の小澤さんは批判を受けるために演奏会をやっているのかねと思いかねないほどの新聞評を容易に読むことができた。僕が知っているのは、90年代のことだ。そういう話も日本人は覚えておいてよい。

批判は妥当だろうと思えるのは、昔からクラシック音楽なるものを聴いている層にとって、小澤さんの解釈が、とくにベートーヴェンブラームスなどのドイツ音楽において、かの地の伝統を踏まえていないものだったからだ。カラヤンだって、バーンスタインだって、あるいはセルだって、ライトナーだって、常に新しい何かを解釈に盛り込んでいる点が聴衆を引き付けていたのだから、小澤さんにも同じように新しい要素があって、それが評価されるということでよいのではないか、と思われるところ、小澤さんは「彼の解釈は違う」という風に声高に言われてしまう。そういうところが強くあったのが小澤征爾だった。とくにアメリカで、もっと言えば、アメリカの小澤さんのお膝元であったボストンを中心とした音楽コミュニティ、その周辺で彼への風当たりはとても強かった。
小澤さんの訃報がNHKの夜7時のニュースで流れてから、2時間後、PCを開くと、すでにニューヨーク・タイムズワシントン・ポストはいずれも長い、また内容的にも情報が豊富な訃報を掲載していた。つまり、予定稿がかなり前から組まれていたということになるだろう。

それらの記事のうち、ワシントン・ポストの記事はまだしも、ニューヨーク・タイムズの記事は、天国に上ったばかりの小澤さんが苦笑せんばかりの内容で、常に批判が存在した小澤の音楽について伝えていたし、ニューヨーク・タイムズに比べて穏当なものの言い方を優先したワシントン・ポストでも、「彼は相変わらず指揮台の上でダンスを続けているが、その姿は彼のオケの音よりはずっとよい」などと批判的な批評家に言われていたと書かれていた。一方で、ベルリンなどでは若い頃から客演に来れば喜ばれていたし、そのように悪い風な書き方はされていなかった。フランスで、僕は20代前半に、パリのオペラ座で彼が指揮する『トスカ』を観たが、周囲のフランス人は「セイジ!」とすごく喜んでいたのが印象的だった。これは80年代前半の話だが、だから、欧州と米国では小澤さんへの受け止め方はかなり違っていたと言えるかもしれない。

「欧州からのホンモノが欲しい!」とコンサートホールに向かい、レコードを聴く米国人のクラシック音楽への欲求を考えれば分からないことではない。小澤さんの音楽は欧州から来たホンモノでは決してありえなかったから。そうした逆風も吹く中で30年以上ボストン交響楽団音楽監督を続けた小澤さんの実力、胆力、政治力、人間力には恐れ入る。でも、音楽監督を続けることと、音楽をやることとは別のことだ。小澤さんの音楽をどのように評価するかをもう少し聞きたい、読みたいという気がしているので、これから少し情報を集めてみようかと思っていたりする。

あれは1997年だったと思うが(98年だったかもしれない)、小澤さんがカーネギーホールマーラーの復活をやった際、たまたま小澤さんにつながりのある方との縁で終演後の楽屋に入れてもらえたことがある。小澤さんは、かのセイジ柄の浴衣姿で私たち夫婦を紹介するNさんの声に反応し、笑顔でうやうやしく手を出し握手をしてくれた。楽屋には人が溢れて熱気が渦巻いており、すぐ横にはキーシンがいて、誰かと一所懸命に話をしていた。今思い出しても、その場所のテンションの高さと、その空気の真ん中で汗だくになりながらもくつろぐ小澤さんの柔らかい眼差しは心に残る。有名人のサインをもらったのは後にも先にもこの時だけだ。こういう風に小澤さんとなると、音楽とは違う方向に話が流れていく。それを含めて小澤征爾の音楽だと言えば、まあそうかもしれないけれど、身びいきのない小澤評が日本語で流通することも必要ではないか。

小澤さんが亡くなった

小澤征爾さんがあちら側に旅立たれた。
戦後日本のインテリ、大衆に及ぼした息の長い影響力という点で、小澤征爾に比肩する個人は数えるほどしかいないんじゃないかと、おそらく影響を受けた砂の真砂の一粒である自分などは思ってしまうのだが、もう時代はそんな感慨を抱く人間も過去の淵に流し込むところまで来ている。人の一生は長くてせいぜい百年。終わりは誰にとっても思いの外近くにある。

マスコミが小澤さんに奉った形容句に“世界の小澤”というのがあり、これはおそらく戦後日本に現れた“世界の”族の嚆矢ではなかったか。世界のアオキ、世界の王、世界のサカモト、世界のナントカ。小澤さんが日本の音楽界、ひいては大衆の寵児となる契機となった『ボクの音楽武者修行』の旅が1959年。私の生まれた年だ。私より上の、存命の世代で小澤さんについて知らない日本人はおそらくいないだろう。というものの言い方自体に誇張が含まれているとすると、小澤さんはそうした誇張の世界を現実のものとして生きてきた稀有の人ということになる。

でも、誇張が生きる時間と空間は実はそれほど大きくはない。もう、私らの後ろの世代で、小澤征爾の巨大な影響力を実感できる人々、想像できる人たちには限りがあるはずだし、その数は世代とともにどんどん薄まっているに違いない。クラシック音楽自体が、高級大衆文化としての魅力と産業としての強さを失いつつあるいま、平均的な若者に向かって「小澤征爾という人がいて、その当時には“世界のオザワ”と言われていたんだよ」と語ったとしても、「その世界のナントカってなに?」と首を傾げられるのが落ちではないか。“世界のナントカ”のような面白恥ずかしい形容句が日本語世界から消えていくのは大変気分がせいせいする変化ではあるが、天井桟敷からは別の声が「だからどうした!?」と返してくるかもしれない。なにも変わっちゃいないことに気がついて坂の途中で立ち止まるということになるんだろう。立ち止まる坂は変わらずとも、立ち止まる主体は例外なく影のようなものだ。威張っているあなたたちもせいぜい影にすぎないのよ。違うかね。違わないだろう。

梅野記念絵画館で「All is vanity. 虚無と孤独の画家――山本弘の芸術」を見る

  山本弘という絵描きさんを知っている人は多くはないはずです。よほどの絵画好きでもない限り、知りようがない存在ですが、『mmpoloの日記』の曽根原正好さんとの縁で知ることになり、切っても切れない間柄になったという意味では、私にとってのブログの仲間の一人と言ってよいような存在です。と言っても山本弘は存命の方ではなく昭和40年代に亡くなった方なのですが。
  曽根原さんは山本弘の絵を描かない弟子を名乗るブロガーで、長野県飯田市で活動し、全国的には無名の存在だった山本の名声を広めることに一生を費やしてきた(とおそらく言ってよい)方です。東京の画廊で作品展示の機会があると、都度お知らせを頂いていましたので、それなりに山本弘の絵は見てきたのですが、生まれ故郷の長野県で、これまでにない規模で回顧展を催すと曾根原さんからお知らせを頂き、先週足を運んできた次第です。

 

 

  最初に見た時から山本弘の絵に惹かれるものを感じたのは、私が好きな佐伯祐三と画風に似たところがあったからだと思います。パレットナイフを使った大胆な筆遣いと、描かれた対象を超えたフォルム、あるいはそのフォルムを超えて色と絵の具そのものを生ある生き物のように描き出す山本弘には天才の技を感じずにはいられません。まずは、そこに惹かれ、この天才が実生活では十代から自殺願望に取りつかれ、ついには家族を残し縊死を選んだと知ると、今度は絵を見るたびに、その事実のいたたまれなさが常に降り注いできて、その作品を見る目に特別なフィルターをかけられるようになります。それは、やっぱりね、というべき感想なのですが、死につつ生きる思いを抱えた者が描く絵が山本弘の作品であるということです。

 

 

  しかし、この山本弘という人は、作品を見た限りは昭和初期の絵描きさんだとしか思えません。想像するに、ご本人は表現主義とか、フォービズムとか、そうした絵画史上のスタイルから影響を大きく受け、そうした様式を自らに取り込み、自ら自在に扱えるのものに昇華して山本弘ならではの作品を残したのでしょうが、絵画を売り物として見た場合、それはあまりに時代錯誤的で、理解者を得るのが難しかったのは致し方がなかったと思えてしまいます。時代を語る、時代に賞賛される絵ではない。時を超越した、人の感情に訴える類の絵です。

 



 

  展覧会は油彩画が60点ほど、素描が20点ほどありましたでしょうか。それらを10の“章”に分けて展覧する試みは、山本弘を紹介し、理解してもらうための要約の仕組みとして大変よく出来たものであったと思います。絵にほんのりとスポットライトを当てるライティングも素敵でした。

 



 

  梅野記念絵画館というところは、しなの鉄道の田中駅から5キロ少々。車がないと、タクシーか、あらかじめ個人名を登録して使う乗り合いタクシーでしかアクセスできない場所にあり、それはそれは不便なところでした。だいたいしなの鉄道ってどこよと思う方がほとんどでしょうし、地元の人以外来なくてもよいよと言っているような施設ですから、面倒ではありましたが、行ってよかったと思います。

 

 

  北風が冷たいけれど、秋の日が燦燦と降り注ぐ日で、美術館からは浅間山の方面がくっきりと見えました。

 

 

mmpolo.hatenadiary.com

その日、柏手を打って

瓦礫があちこちに積み重なった戦後のウィーンに知人を訪ねたら、当人は先日なくなったと伝えられ途方に暮れる。金沢赴任の夫が行方知れずになって東京から調査に出向く女性。そんな小説が今の時代に描けるかと問われたたら、できなくはないが相当の筆力が著者に必要とされると答えるしかない。インターネットや監視カメラの網の目をかいくぐって一般人が不意に姿を隠すのが容易ではない時代に我々は生きている。と思いきや、ある日、突然に行方をくらます人の数は少なくないとテレビや新聞の報道は言う。夜逃げ、駆け落ち、神隠し。どこか、言葉の届かない薄暮の闇の向こうに落ちていくような、神様や妖怪との道連れを選ぶような、昔ながらの逃避のイメージとは異なり、自分の意志で誰かがいなくなることは、デジタルの時代のこの社会に仕組まれた負の機能がもたらす乾いた必然のように感じられ、そこで思考が止まる。

間瀬の伊豆みかん

  数十年来お世話になり続けているYさんから伊豆の銘菓を頂きました。熱海の山と海の境目にちょこんと鎮座している網代駅の、改札口を出ですぐにお店がある間瀬は、かつて水まんじゅうをYさんからご馳走になったことがあり、そのおいしさにほれぼれとなったお菓子屋さんです。なんでも出来て150年だそうで、こんな小さなお店が、それなりに小さなままで残り続けるのは日本のフシギかもしれません。そのおいしさを知ると、あと50年、100年と続いてほしいと思います。そういうお店が、まだ日本にはありますけれど、そういう存在の一つだと思います。

  で、このたび頂いた「伊豆みかん」というお菓子ですが、名前そのままにみかんを寒天に包んできれに仕上げられています。その見た目は、パッケージも含めて伊豆のミカンというしかない出来上がり。冷蔵庫で冷やして頂くと、ひなびた網代の駅を思い出します。ネットで取り寄せることもできるようですが、できたらあそこまで足を運んでおみやげにしたい。そんなことを思ったりしますが、でもネットで買えるなら、それに越したことないですね。これを読んでいる数少ない読者の皆様にはもれなくお勧めします。

www.mase-jp.com

WBCはダルビッシュの大会でしょう

WBCは天邪鬼ではない、ほとんどの野球好き日本人にとってハッピーな時間でしたね。で、大会が終わって数日が経った今もテレビを付けると大谷さんの話一色なんですけど、本当はもっとダルビッシュさんの貢献とメッセージについて語るべきだと思いますけどね。

ネットのニュースやテレビを見る限り、「楽しむ」を掲げたダルビッシュさんは日本代表チームに大いなる影響を与えたようです。でも「楽しむ」ことをできないのは、日本人のあらゆる活動について足りない部分だから、話はそこにまで届く必要がある。ダルビッシュは、そこまで影響を及ぼしたかったのではないのかな。少なくとも、高校野球だとか、少年野球だとか、そういうところまではね。