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コロナではなく人ではないのか

世界的に感染者が増え続けている新型コロナウィルス。毎日「どこどこで初の感染者が〜」「どこどこの国は渡航禁止〜」というニュースが否が応でも入ってくる。

 

「未知のウィルス」

 

これほど大多数の人間にとって恐れられる二つ名はそう多くはないと思う。

 

確かに、感染力も高く、学校は休みになり、自宅勤務やら、世界経済の混乱やら、恐ろしいことこの上ないとは思う。

と同時に、果たしてこれはコロナが怖いのだろうか、と思う場面が多い。

 

マスクの買い占め、アジア系人種に対する差別、コロナハラスメント(これは一般的な言葉なのかは分からないが)、デマによるトイレットペーパーの買い占め等々。

 

これらの原因は絶対的にコロナにあるとは思う。しかし、コロナだけがそうさせるものではないはずだ。一番恐ろしいのは群衆心理だと日に日に強く感じている。先ほど挙げたものは全て強い群衆心理が働いているために起きているものであると思う。

 

特に恐いのは''無意識''の'群衆心理。

ある目的に一直線に向かっていく集団の心理というのはとても恐ろしい。何しろブレーキの掛けようがないからだ。

 

そして誰もが正しいと思っていることだ。一部はそう思っていないとしても、分母が大きければ多いほど少数派の思考は無視されてしまう。

いわば数の暴力。絶対的に肯定された組織の恐ろしさは新興宗教と同じかそれ以上の不気味さと威圧感があるように思う。

 

そういう群衆を構成する一人に自分自身も容易になり得る不安と危機感を最近のコロナ関連の報道を見聞きして感じる事が多い。視野を広くして生きていきたい。

「頑張らないこと」を頑張ってしまう

自分自身をとてもテキトーな人間だと思っている。

 

周りのマジメに頑張る人間を見て、何であんなに頑張っているのだろう、といつも心の中で思っているし、心の中で嘲笑したりもする。

 

そのくせ、アウトローにはなれず、他人の目をいつも気にして頑張っているように見せようとしている。

 

アウトローとまで行かないまでも、周りから『いつも大体な人、ある程度な人』くらいには思われたいし、そう思われるようにしているつもりが、ついついいい格好をしようとしてしまう。自分の思惑とは全く逆方向の行動をとってしまう。

 

いつもそう。心の中では、

「頑張らない。頑張らないようにするんだ。だって頑張らないほうが楽だし疲れないんだから。よし、頑張らないぞ」となっている。

 

いやいや、

頑張らないぞの''ぞ“は頑張る時の語尾だからおかしいんだって…

 

私の中の「頑張らない」の基準が私自身でももう皆目見当がつかない。

 

「頑張らないこと」を頑張らないようにしようと頑張っている。

 

大した学もないくせに気分はさながら哲学者。けれども似非哲学者なので、そこから何か思い至ったり閃いたりすることはなく、いつもそこで終わり。そんなことをいつからか毎日毎日繰り返しているような気がする。

 

かといって、たまには気が変わって、思いっきり頑張る側に全振りしようと思ったりする時もある。

けれども、ベースが頑張らない側なので、本当の頑張り方というものが分からない。だからいつもどっちつかずの中途半端。

 

だから結局、じゃあ頑張らない方でいいやと半ば諦めて頑張らないようにしている。

 

これでいいんだ。これから先もより一層頑張らないようにするぞ。

 

また、''ぞ''が出てきてしまった。

金に縛られたくないのに。

金は不思議だ。

 

無ければ当然欲しいし、いくらあっても足りないと感じる。

 

これまた不思議なもんで、欲しい欲しいと思う気持ちが強くなればなるほど支出が増えていく。

しかしこれは実際に支出が増えているのではなく、支出が増えていると精神的に感じているのだろう。

 

出ていくお金を減らさなければいけないと思い焦るからひとつひとつの支出がボクサーのパンチのように私を追い詰めてくる。私はいつも防戦一方なのである。情けない。

 

日常生活を送っていて自分自身の情けなさを感じる事がこのごろ多い。

例えば、食料品を買おうとする時。

「…(今日は肉食いたいなあ)」なんて思って手に取ってまず見るのが100グラムあたりいくらなのか。

大体、「…(537円、これ高いな)」なんて思いつつ手に取った肉を元の場所に戻している。

 

そもそも私の肉の購入基準は100g100円前後なのだからそんな5倍もするものを買うはずがない(そもそも豚肉の価格と牛肉の価格を天秤にかけている時点でナンセンスなのだが)。

 

そのくせ、ガソリンのℓ/円に関しては、「たかだか数円上がったところで100円、200円の違いだろ」と無頓着であり、なんなら、そんなことを気にする人々を少し自分よりも下の人間だと思ったりしている。

 

かと思えば、2割引のシールが付いている食品を内心とても喜んで買っていたりもする。

 

自分の中での価値基準がブレにブレまくっている。

肉や割引に対する自分を情けなく思い、ガソリンに対する考え方を誇らしいとさえ思っている。

 

金に縛られたくないと思えば思うほど、金が金の偉大さを押し付けてくる。金から解放される日はまだまだ遠そうだ。

 

 

 

他人の間違いに寛大でありたい

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人は多かれ少なかれミスをする。

 

機械であればミスは許されないが、人間には感情がある。

 

ミスは精神状態や心理状況に左右される部分が大いにあるので情状酌量の余地がある。

 

しかし、その余地は人によってサイズが異なる。

 

ある程度のミスであれば許してくれる人もいれば、少しであれば許してくれる人もいる。

ミスなんか一つも許さないという人もたくさんいる。

 

もっとも、そのミスがどの程度周囲に影響を及ぼすかということや、仕事であれば業種や職種によっても全然許容範囲が変わってくるだろう。

 

私の理想は、たとえどんな大きな間違いであっても、寛大に受け止めることができるようになることだ。

 

常に仏のような心持ちでいたい。

全てのことを許せるようになりたい。

 

もちろん、全てを許すというのは現実味に欠けるかもしれないが、理想は理想として持っていたい。

 

ここで補足すると、私の言う「許す」ということは、自分の感情を押し殺して許容するということではない。

 

感情自体を平穏に保ったまま、本当に心の底から許容できることだ。

 

正直なところ、今現在は日常生活を送る中で、些細なことにいちいち苛ついたりすることが多い。

 

運転中、横から入りたがっている車を前に入れてやったのにお辞儀やパッシングの一つも無かったら苛つく。

 

電車に乗っていて他人と目が合ったら、何見てんだよと苛つく。

 

コンビニで弁当を買ったのに箸がついていなかったらもう怒髪天ものだ。

 

そんなことでイライラしているような人間が仏のような心持ちで人を許したいなんて馬鹿げた話か。

 

歳をとるにつれて丸くなっていくなんてよく言うが、歳をとってからではなく今そうなりたいんだよな。

 

なんて、時間の流れに対してもイライラしている今日この頃。

 

道のりは果てしなく遠そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初対面でタメ口ってどうなんだ

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日々生活をしていると時々、初対面なのにタメ口を使ってくる人間に出くわす。

 

特に仕事中にそういう人間と相対する確率が高い。

 

初対面の人と話すときは敬語を使うことが常識だと思っている私は一瞬ひるんでしまう。というか、あっけにとられる。

 

あれ?私たち知り合いでしたっけ?と問いかけてしまいそうになる(ここでもあくまで敬語)。

 

人にはそれぞれの距離感があるので、一概には言えない部分があるが、初対面からタメ口というのはどうかしている。

確実に距離感を間違えている。

 

例えるなら、外野の深いところに飛んできた打球なのにどんどん前進していくようなものだ。

距離感なんてまるで掴めていない。むしろ見えてるのか?と思うほどだ。

 

というか、大前提として、失礼だ。

 

失礼を「フランクな性格」という一言だけで片付けてしまって良いのだろうか、いや、良くない(反語)

 

タメ口でも許せるタメ口と許せないタメ口がある。

 

許せるのは、主に敬語を使っている中にたまにタメ口が混ざるタイプだ。

 

敬語:タメ口の割合が、8:2くらいが一番良い。それくらいだと可愛げがあるし、タメ口にも少し愛くるしさが感じられる。

 

逆に許せないのは、お分かりかもしれないが終始タメ口のタイプ。

 

敬語:タメ口の割合は0:10だ。想像しただけで眉間に皺がよる。

その中でも最上級に印象が悪いのが、タメ口が強すぎる人間だ。

 

タメ口が「〜でしょ」とか「〜だよね」等であれば、まあ、みぞおちを一発殴る程度で怒りはおさまる。

 

しかし、これが「〜だろ」や「〜じゃねえか」等ぶっきらぼうさに拍車がかかったものだと、顔面タコ殴りレベルであるし、少し不機嫌さが表に出てしまっているかもしれない。

 

おそらくそういう人間と話している時の私は、少し態度が悪くなっているし、相槌もろくに打たなくなっている(それでもなるべく最小限に抑えているつもり)。

 

「馬鹿」って言うと「馬鹿」って言う。

こだまでしょうか、いいえ、誰でも

 

なんて金子みすゞも言ってるくらいだから私は正常だと思うんです(という自己弁護をしてみたり)。

 

私より何十倍何百倍もそういう人間に接しているのに、笑顔を絶やさず接客するような、バリバリのサービス業の人ってやっぱりすごい。

 

見習いたい。

 

でも意外と私のような人間より、バリバリのサービス業の人の方が、そういう人間をゴミを扱うように見ているのかもしれないな。

 

そう考えると、自分の感情を必死に押し殺しつつもそういう人間と接している自分が、少し誇らしく感じられる。

 

 

 

 

 

 

東京の資本主義の縮図のようなところが好き

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東京という都市が好きだ。

 

地方在住である私は子供の頃から都市部への憧れを強く持っていた。その代表的な場所が東京だった。

 

欲しいものが何でも手に入る。

見たいものが何でも見られる。

やりたいことが何でもできる。

 

東京に対する私のイメージは大まかに言うとそんなものだ。昔から変わらない。

 

上記三つのイメージに共通しているのは、(金があれば)という前提が付いて回ることだ。

 

(金があれば)欲しいものが何でも手に入る。
(金があれば)見たいものが何でも見られる。
(金があれば)やりたいことが何でもできる。

 

一聴すれば、とても下衆で冷たいように思えるかもしれない。

しかし、これほど誰でも理解できる前提が他にあるだろうか。

 

サービスの対価として、それに釣り合うだけの報酬を要求する。

至極真っ当なことだ。

 

対価が支払えないのであればサービスを受ける権利はそもそも発生しないのは仕方がない。

慈善事業であれば話は別だが、会社は、そして社会全体はほとんどが営利で成り立っているのだから。

 

物心がついてそれをはっきりと理解してから益々東京が好きになった。

 

社会人になってからはその思いは強さを増している。その理由は単純で、金を稼げるようになったからだ。

 

金を稼げるようになったことで、ある程度の宿に泊まることができるようになった。食事にもある程度金をかけられるようになった。そして、ある程度のものは買えるようになった。マッサージだって金のことを気にせずに、行きたい時にふらっと行けるようになった。

 

持っている金が多いほど、活動範囲が広がっていく。とても明確で実に素晴らしい。

 

東京は言わずもがな、エンターテイメントが充実している。駅の近くで全てが事足りるような事もしばしばある。

 

これが地方だと、そもそもそういった商業施設が極端に少なくなる。行くにしても車は必須になってくる距離だ。

 

だからこそ、東京が好きだ。

年齢や職業、地位に関わらず、対価としての金を持っているかどうかでサービスの提供の有無が決まる。とても明確に。

東京こそが、等身大の自分を確認できる場所なのかもしれない。

 

 

 

 

人が「死ぬ」とはどういうことなのか

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人の死。

 

それは避けては通ることができない事象だ。

 

遅かれ早かれ、この世に生を受けた命は、産み落とされた瞬間から「死」という不変のゴールに向かって一心不乱に進んでいく。

 

どんなに才能があっても、頭が良くても、運動神経が良くても、格好良くても、どんなに過ちを犯しても、性格が悪くても、みすぼらしくても、死は必ず全員に訪れる。

 

この世で「死」だけが生命にとって唯一平等なものであるように思える。

 

しかし、「死」という事象は不変ではあるが、その解釈は人によって異なる。

 

ある人は、「心臓が止まることが死だ」と言い、またある人は、「寝たきりになっているのであればそれは死んでいるのと同じだ」と言う。

 

正解は分からない。

 

興味深いことは、「本当の死」を誰も知らないということだ。

 

今生きている人間は当然ながら、死んだことはない。

 

哲学的な観点や科学的な観点など、様々な切り口から死を語る人はいるが、一括りにしてしまえば、それは全て想像や予測だ。

 

死人に口なしとはよくいったものだ。

 

もっと興味深いのは、死者は生前よりも高く評価されるということだ。

 

同じ作品でも、生きている間より死後の方が高値がつくし、死んだ人は大体生きている間よりも「いい人さ」が格上げされている。

 

そして、死を「明」と「暗」のどちらで捉えるか、ということについても人それぞれだ。

 

「明」で捉える人は、「死んだら何もできない」や「まだまだこの世に未練がある」というように、現世に対して何らかの希望を見出している。

 

「暗」で捉える人は、「死ねば楽になる」とか「死んだら天国に行ける」といったように、現世ではなく、いわゆるあの世や来世に対して希望を抱いている。

 

これらはどちらが良いとか悪いとか、そういう単純な話ではない。

各人の性格や環境などが複雑に精神に作用して形成されるものだ。

 

この世にいる誰もが到達したことがない「死」という地点。

 

必ず誰しもが到達できるのに、人は我先にと死に向かって歩を進めている。

 

 

「死」って、そんなに尊いものか?