人生の意味について

意味は、人が解釈することで初めて存在する。

人が持つある目的に対して、その事象が寄与するとき、人はその事象に意味があると解釈する。

ここでいう目的は、事前に明示的に決定されている必要はない。目的として形成可能であればよい。

目的とは、人が想定することができる到達地点のことである。自身のことでも、他者に関わることであっても、何か到達する地点を想定し、目的とする。

 

人生が意味を持つには、その人生が寄与する目的が必要である。ただし、一人の一生の目的は、その人生の中に置くことができない。そのため、人生の目的は必然的に個を超えた外部に存在する必要がある。しかし、個人を尊重し、集団としての目的を設定しないことを美徳とする社会では、一人の個の外に目的を置くことが難しい。

 

人生の意味には、人生の目的が必要であり、その目的は自分の外にある必要がある。

 

しかし、人生の意味が個の外につながるように、集団の目的もまたその集団の外につながっていくことは必然である。よって、人生のうちにある小さな意味たちもまた、外部に繋がっていく。こうした、漸化式的なつながりの行きつく果ては、人類を超えて、宇宙を超えて、この世界自体やその外につながっていく。そのため、すべての目的の行きつく先である究極の目的というものを想像することはできない。そして、想定できない目的を逆にたどるとまた、すべての目的も、その目的の妥当性自体が疑われてしまう。

 

目的が存在しなくなれば、意味も存在しなくなる。

大きな目的と内なるエネルギー

人生の目的を持つことは難しい。

人生の終着点が無であることを疑っていないためである。

何かの目的を持てば、その目的の目的を問い、漸化式的に死へとつながり、無に帰す。

それは、目的を他者に預けても同様である。

その他者もいずれ死に、世界はただ自然の法則のまま動いていくのだから、そこに意味を見出すことはできない。

外部に目的を見出すことができなければ、内から生まれるエネルギーで動くしかない。

それは、欲である。

しかし、欲にのみ動かされているのはあまりに動物的である。

これを受け付けない自分もまた存在する。

羞恥心、嫉妬心、人間が社会性獲得の過程で手に入れてきた特有の欲は、自分を動物的でなくする。

しかし、それは他の動物に類似しないという意味に過ぎず、結局は動物と同じ構造を持っている点で、動物的である。

動物的に生きることを受け入れた場合、やはりそのエネルギーは途絶えてしまう。

ただ、だらだら生きることが正解となってしまうのだ。

内なるエネルギーを利用しようと思っても、その利用することの目的を問う必要が生まれる。

また、無へとつながる道が始まるのだ。

やはり、人生に意味などないということを受け入れなければならない。

しかし、やっかいなのは、それを受け入れたうえで、生きる道を自分で選ぶ必要があるところである。

そして、その幅は非常に広く、選択によって様々な可能性がありうるのである。

考える段階は終わった。悩むことは無駄だ。

あとは、決めるだけである。