アクイ6


誰もいない教室を見渡して、一人ため息。


まったくどうかしている。


俺を除いた全員が幹男の家に向かった。幹男の家に行くことを頑なに断わる俺を、害虫でも見るような目をしてクラスメートは教室から出ていった。

まったくどうかしている。


それでも幹男のあの気持ち悪い部屋を見れば、あいつらのあのよくわからない熱も冷めることだろう。

思い出すことだろう。ああ、そうか、幹男というこの男はこういう奴だったなと。


それ以前にそもそもあいつの転校って引っ越すから転校するんじゃないのか。あの豪奢な家はまだ残ってるのだろうか。

無惨に取り壊されていればいいのに。ついでに幹男も死んじまえばいいのに。



このままここに残っていても仕方ない。なんかむかつくけど帰ろう。

なんだかひどくイライラする。頭の中でシゲキックスがパチパチしてる感じ。パチパチパチパチ。


なにをそんなにイライラしているんだ。本当にあの気持ち悪い【アクイ】ってのに毒されたのか。


これまで感じたことがないほどの理由のない激しい怒りに脅えた。自分の中から感情だけがドパアと溢れ出そうな感じ。
その日は怒りと恐怖がごちゃ混ぜになる中、震えながら眠った。



翌日教室に入ると、また流れる空気に違和感を覚えた。昨日とは違う空気。

この不穏な空気の問題は俺か。


クラスが妙によそよそしい。
みんな俺のことを見ているが、俺と目が合いそうになるとすぐに目を逸らす。なんだよ、これ。


クラスでも特に人気のないワラジ顏をした女がひそひそと俺の方をチラチラ見ながらなにかを隣に座るこれまた人気のない樹木みたいな女の耳元に囁いている。

うるせーよワラジと樹木。炙るぞ、と思ったけど口には出さない。

お前らにひそひそされてもなんにも嬉しくない。


もうめんどくさくなったからヘッドフォンをカバンから取り出し、音楽を大音量で流してくそどもの騒音をシャットダウンし、机に突っ伏した。


あれ?そういえば、幹男もいつもヘッドフォンして机に突っ伏してたよな。

今の俺って幹男と同じってことか。それはまずい。それはまずいけど、突っ伏したばかりでいきなり顔を上げるのもなんか恥ずかしいし、負けた感じがして嫌だ。


幹男。あいつはいつからクラスで孤立し始めたのか。よく憶えていない。

初めから孤立していたような気もするし、初めはクラスに溶け込んでいたようにも思える。


俺もこのまま、孤立して、陰湿なイジメとか受けたりするんだろうか。


それは困る。だけどどうしたらいいのかもうわからない。夢なら覚めてほしいなんて、頭の中で呟いたりしたが、夢じゃないことは重々わかっている。


とりあえず周りにばれないように音楽を止めてみた。初めからこんなことしなければよかった。


顔を上げなくても席のほとんどか埋まっていると雰囲気でわかる。

そしてクラスの話題の対象は俺だ。


寝たフリしてるぜ。なにあの態度。気持ち悪い奴。ありえないわ。


なんか色々と聞こえてくる。普段はまとまりのないクラスなのにこういうときだけ一致団結するから困る。


なんか涙が出てきた。悔しい。なんで俺がこんな目に遭わなくてはならないのか。もう一線を越えてしまったのか。もう戻れないのか。

100人くらいの幹男が手を繋いで横一列に並び、「お前はもうこっちには入れない」と言っている。


あいつを殺そう。もう俺にはそうする以外に逃げる場所はない。

アクイ5

学校へ着くと、なにやら教室がガヤガヤしていた。

この時間だとまだ登校しているのはクラスの三分の二程度だが、みんなが一致団結してガヤガヤしてる。

こういったことはたまにある。転入生が来るとか、誰かが死んだとかそういうときに。

でもまだ転入生は来たことないし、死人が出たこともない。

まあ、今日はきっとなにかあったんだろう。


そういえば幹男はこういうときも決して話の輪の中に加わって来ることはなかった。

我関せずの幹男。お前は部屋でネルネルネールとでもやっとけばいいんだ、あんなクソ野郎は。

しかしなにを浮ついてやがんだ。


後ろの席に座る近藤君に、なにがあったのか聞くと幹男が転校するらしいと言う。

なるほど、幹男が転校ね。



いやいや、待てよ、困るよ。こっちゃあ意味わかんない気味悪いもん食わされて困ってんだから。心底。ふざけんじゃねーよ、殺すぞ。マジで。


沸々と湧き上がる誰を対象としたかも漠然とした殺意を腹に抱え、近藤君に詳しく聞くも、近藤君も詳しく知らないらしい。使えない奴。


担任から朝のホームルームで幹男転校の話が出た。

「ご家庭の事情で三木田君が転校することになりました。急な転校で先生も驚いています。それと残念なことに急を要するとのこで転校の挨拶もできないようです。」



俺はどうすればよいのか。このまま腹によくわからない一物を抱えて生きるのか。それって、どうしよう。



「…みがあります」



担任の話を聞いていなかったが、まだ幹男の話が続いているらしかった。なにがあるって?



「3年2組のみんなへ。突然の転校でごめん。本当はみんなの前でさよならの挨拶をしたかったけど、こんな形でさよならする僕を許してほしい。2年のときの鎌倉の修学旅行を憶えているかな?ぼくはあの日の出来事、空の色、みんなの笑顔とかが今も目を閉じると瞼の裏に鮮明に甦ってきます。中でも一番楽しかったのが夜のまくら投げ大会。誰からとなく隣の寝てるやつに枕を叩きつけてということをしていたらなんだか妙に笑えてきて、妙にテンションが上がっちゃって大騒ぎしていたら、部屋のドアがバーンと開いて先生が仁王立ちで立って「うるせー!」って怒鳴られました。今この手紙はきっと先生が読んでくれているんだろうから、ごめんなさいだけど、あの後もぼくらは笑いをかみ殺して夜のまくら投げ大会を続行していました。ごめんなさい、先生」



ここでクラスに笑いが弾ける。は?



「なんか読み返してみてもなにが言いたいのかよくわからない手紙になってしまったけど、ぼくは本当に3年2組の一員で嬉しかったです。新しい学校のクラスも同じ3年2組になります。だけど、みんなと過ごした3年2組とは違う。みんなだったから楽しかった、嬉しかった、本当に本当に淋しいです。でも淋しい気持ち以上に楽しかった思い出の方がすごい多いからぼくはこれからも前を向いて歩いていける。こんな3年の一学期にみんなと離れ離れになるなんてすごく悲しいけど、この思い出があるからぼくはがんばっていきたい。いや、がんばっていける。
みんな、本当に本当にありがとう。ありがとうという言葉しか出て来ません。本当にありがとう。最期に先生。こんなあまり言うことも聞かないようなぼくに暖かく、ときに厳しく接してくれてありがとございました。先生が担任でよかった。本当に3年2組でよかった。みんな、またいつか会おうね」



クラスの女子のほとんどがハンカチを目に当てて泣いている。担任も少し涙ぐんでいる。男子もなんかを我慢している。


え?



まくら投げ?3年間の思い出?あいつは修学旅行に来てはいたけど、いつもどおり一人で行動していたし、夜もあいつのことなんかほっておいて女子の部屋に遊びにいったじゃねーか。そこで担任に仁王立ちで怒られたのは同じだ。

でもまくら投げってなんだ?俺らそのとき中二の男だぜ。誰がまくら投げなんかやるんだよ。やるわけねーじゃねーか。気持ち悪い。


あの手紙の差出人はいったい誰だ?

あまりにも幹男というあのいつもつまらなさそうな顔をしていた男と今の手紙の差出人とがかけ離れ過ぎていて、なんだか、なんかよくわからない。混乱した。


手紙はそれで終わったらしく、教室からは女子の鼻をすすりあげる音しか聞こえない。


「なあ、幹男にさよならを言いに行こうぜ!」


クラス一やんちゃな山田君が急に変なこと言い出した。


取り巻き達が、口々にいいね、いいね、なんて言ってる。なんか女子も乗り気だ。担任は俺は聞いてないからな、みたいなむかつくスカし顔をしてる。


お前らなんなんだよ。幹男なんか完全な空気だったじゃねえか。なんで今の手紙に疑問を持たない。なんで幹男と手紙が一致する。


クラスを見渡す。

背筋がぬるりとした。

俺だけなのか?

アクイ4

「あれだろ。他人に害を与えるようなことだろ。そんぐらい知ってるっつーの」

そう言うと、二木男はそうだよな、と呟き、また黙ってしまった。

もうこれは「悪意」じゃない。間違いなく【アクイ】のことを言っている。たぶん。

どうしたもんか。暫し逡巡。

でもなんて言えばいいんだ。なあ、お前の言う【アクイ】ってのはひょっとして羊羹のことか?とでも聞けばいいのか。バカらしい。

あれって食べちゃいけないもんだった?と聞けばいいのか。


でもなんか恥ずかしくないか、それ。もしも、もしも二木男の言う悪意ってのが、本当の意味で悪意であるとしたら、それお前ひどい悪意だよ、なんて悶々としていたら、もう二木男の家の傍にいて、二木男は「じゃあ」と手を上げて帰っていった。


結局なにも聞けないまま、家に帰り昨日と同様布団の中で悶え苦しんだ。

しかしどういうことだ。

【アクイ】を知ってるか?なんて普通聞かないだろ。それが悪意であるなら。

だから二木男が言っていたのは、悪意じゃなくて【アクイ】だろう。

それはわかった。わかったよ。
だけどなんで二木男も知ってんの?なんで?そんなにポピュラーらもんなの、【アクイ】って。

段々腹が立ってきた。元凶は幹男だ。あいつが変な羊羹を食わせたりしなければ俺はなにも問題なかった。

こんな風に悩んでなんかいないけど気にすることもなかったのに。



夢を見ている。わかる。これは夢だ。

だって私は人間じゃなくてクジラになって海を泳いでいるのだもの。

底の見える黒い海。真っ黒なのに透き通っている。でも底は恐ろしく深そう、そんなイメージ。

なんで私がクジラなんぞにならなければならないのか、どうか私に足を寄こしてください、と願ったらにょきにょきお腹の辺りから足が生えてくるのがわかった。

痛い!痛いなんてもんじゃない。でも痛いとしか表現しようがない。痛い。

身体の内側辺りから生えてきているようで、皮に引っ掛かって皮が破裂しそうだけど、そこは私はクジラ。鋼鉄の皮膚が足のにょきにょき侵攻を許さない。皮膚の内側で外に出ようともがいてる足がぽきぽきぽきぽき小気味いい音を立て折れていく。
まいった。本当にまいった。痛い。

もう仕方ないから皮を手でひっぺがして帝王切開にしよう、と思ったけど手がない。

足はもういいから手をください、と願ったら今度は胸の辺りの皮膚に激烈な痛みが。もう足の痛みはなくなっていた。


もう手も足もいいから本来の姿に戻してくださいと願ったら、その瞬間私が破裂。皮も肉も臓器も跡形もなく弾け飛び、私は液体だけになった。

どす黒いうんこみたいな色の液体。

黒い海に飛び散ったわたしことうんこみたいな液は、液体の一滴一滴が独立した思考能力を持ち、合体しようと願う意思と、合体を拒む意思とが攻めぎあい、ああ、これが個性と、喜びやら哀しみ。


個々の独立した思考は、同じ思考を持つもの同士で固まり、飲み込み、吸収され、何億とあった個々は10種類くらいだけになった。

その10種はみんな黒っぽい色をしているが、その中でも一際黒い固まりが他の固まりを飲み込みだした。

あれよあれよという間にどんどん食べられ、養分とされ、気が付けば残ったのは一際黒い一種だけとなった。

でかい。黒い。あれはどこかで見たことがある気がする。
ああ、そうか、あれは水羊羹だ。


その時肩をポンと叩かれ振り向くと知らないおじさんがいて、「あれが【アクイ】だよ」と教えてくれた。

やっぱりあれは羊羹じゃなくて、【アクイ】だったんだ。
嫌だなあ嫌だなあ。

あれを食べてしまったんだなぁ。



あんな夢を見たせいで、土日は気分が晴れなかった。最悪だ。
月曜日には幹男も登校するだろうから、あいつに聞くしかないな。俺になにを食べさせたのか。

アクイ3

翌日も幹男は登校してこなかった。顔を合わせたくなかったから好都合だったが、机の中に溜まっていくプリントが気になる。

おねだり当番はあと二日。どうか今日と明日はプリントが少ないようにと祈った。


放課後、担任に幹男の状態を聞かれ、元気そうでしたよ、と答えたら、じゃあなんで登校してこないんだ?と言われた。そんなもん俺だって知らん。

なにか変わった様子はなかったかと聞かれ、答えに窮した。

昨日の光景が頭をよぎる。

病的な部屋、【アクイ】だと言って羊羹を自慢する。羊羹を食べたら狂った。

間違いなくあれは変人だ。これまでの人生の中で一番の変人だ。

だが、担任に説明するのもめんどくさいし、なんて説明をしたらいいのか言葉にできなかったから、普通でしたよ、と言っておいた。


教室に戻ると二木男は既に帰った後だった。最近付き合いが悪い。昨日の幹男のことを話したかったのに。


家に帰って、机の奥にしまわれ、滅多に開かない国語辞書を開いてみた。

「あ」の項を探す。あった。悪意。

(1)他人に害を与えようとする心。他人を憎む心。わるぎ。わるげ。

(2)わるい意味。意地のわるい見方。

(3)〔法〕
(ア)一定の事実を知っていること。法律上の効果に影響する場合がある。例えば、ある取引について存在する特殊の事情を知っている第三者を「悪意の第三者」という。道徳的善悪とは別のもの。
(イ)他人を害する意思。

概ねなんとなく思っていたことと大差ない。

なら幹男の言っていた【アクイ】とはなんだったのか。

目に見える【アクイ】とか言っていたけど、明らかにただの羊羹だったし、味も完全に羊羹だった。


くだらない、と笑い飛ばすようなことだ。羊羹を羊羹と思わない奴から羊羹を奪って食ってやった。くだらない話だ。

だが、だがと思う。なんで食ったんだ、俺は。

あのときの自分の精神状態が思い出せない。思い返せば思い返すほど混乱する。


普通だったら笑ってお終いだろ。若しくは気持ち悪いから無視するだろ。奪って食べるなんて選択肢を自分が選ぶなんて俺には信じられなかった。

あれは本当に羊羹だったのか。羊羹だったと記憶はしているが、本当に羊羹の味がしたのかはもう覚えていない。

【アクイ】って食べたらどうなってしまうのか。もう幹男の妄想を笑い飛ばせなくなっていた。


翌日も幹男は来なかった。ホッとする。顔を合わせてどういうスタンスを取ればいいのかわからない。

だけどこれでまた家に行けと言われたら終わりだ。

今日は金曜だからまずないとは思うが全身全霊で祈った。担任からお呼びがかからないことを。

祈りが通じたのか、担任からはなにも話はなかった。胸を撫で下ろしたが、来週からどうすればいいのか。ちょっと恥ずかしいけど、二木男に話をすることにした。
こんな気持ち悪い問題を一人で抱えていたくなかった。

「二木男、一緒に帰ろうぜ」

二木男を誘うと、やはり相変わらず元気がない。コクンと頷いただけだった。なんなのよ、もう。

帰り道もなんか元気がない。こっちはさもあまり気にしていない風な感で相談したいのに、こうもテンションが低いとなんか真剣に受け取られそうでなかなか本題に入れない。いや、真剣なんだけどさ。



「なあ、【アクイ】って知ってるか?」


会話が途切れたときに、二木男がそう切り出した。なんの冗談だ。

アクイ2

気持ち程度にノックしてドアを開けた。

幹男の部屋はひどかった。窓に隙間なく貼られた黒い紙、テーブルの上のゲームに出てきそうなランプ、よくわからない髑髏の置物等々。

外からの陽光は完全に遮断されていて、明かりはテーブルの上のランプだけだから、昼間だというのに部屋の中だけ真っ暗だった。


ああ、これがこないだ二木男が言っていた「中二病をこじらせた」って症状なのか。気持ち悪い。


「誰?」

部屋の異質さに心奪われ、この部屋の主の存在を忘れていた。
幹男の声は部屋の奥から聞こえてきた。

「市来だよ。今週おねだり係だからプリント届けに来た」

「ああそう、親に渡しといて」

興味なさそうな声になんかムカついた。お前の俺に対する興味より、俺のお前に対する興味の方が少ないっつーの。バカが。

「おい。電気点けろよ。担任にお前の状態伝えないとならないんだからよ」

暗闇でもそもそ音がして、パチっと音がして灯りが付いた。



部屋は想像していたより遥かに広かったし、酷かった。
なんだろう、黒魔術とか魔女とかそんなんに使われてそうなでかいツボみたいなのがあるし、なんかキョンシーのおでこに貼るお札みたいなのが壁一面に貼ってあった。



「怖いのか?」

キョロキョロしてる俺を見てなにを勘違いしてか、にたにたしながら幹男は言った。

「ハァー?気持ち悪いんだよ、この部屋。バカじゃねーのお前」

なんか本気でムカついてきた。

「市来。今まで生きてきてこんな部屋見たことないだろ。お前らはいつもそうだ。大事なことを見落としながらもさも見落としていないかのように振舞う。本質を見極められていないんだ。よく見ろ!これが世界のあるべき形だ!」

本当に気持ち悪いな、こいつ。風邪で頭がイカれたのか。話してて疲れる。もう早く帰ろう。

「まあ、元気そうだったから担任にはそう言っとくわ。あとお前病気だと思うから心の病院いけよ」

幹男はゲラゲラ笑い出した。やばい。怖いわ。

「ほんとになにも分かっちゃいねえな。なあ、市来。お前【アクイ】って知ってるか?」

「悪意ぐらい知ってんよ。じゃあ俺帰るから」

背を向け、ドアから出ようとしても幹男は依然話し続ける。

「まあ、逃げるなよ。俺の言ってる【アクイ】ってのは、たぶんお前の思ってる悪意とは別物だ。目に見える【アクイ】のことだ」

ほんとめんどくせえ。たぶん風邪ってのも嘘くさいから、一発ぶん殴ってやろうかと、幹男を振返ると、幹男の手の中にいつの間にか水羊羹があった。



「これが【アクイ】だ」



それはただの水羊羹だろ。まじでいかれてやがる。ぶつぶつと見ろよこの美しさ、この輝きとか言っている。水羊羹一つであそこまで自分の世界に入り込めるものなのか。
こいつを困らせてやりたい。完膚なきまでに叩きのめしたい。猛烈にそう思った。

近寄ると幹男は鼻の穴を膨らまし、得意気に【アクイ】もとい水羊羹を見せてきた。
近くで見てもやはりただの水羊羹でしかない。あのよく分からない透明なフィルムもちゃんと付いている。

俺は幹男の手から水羊羹もとい【アクイ】を奪い取ると、ぱくっと口に放り込んだ。
幹男は口を開けて俺の口元を見ていた。俺はわざとくちゃくちゃ音を出して水羊羹を食ってやった。味もやはりただの水羊羹だ。

食べ終わると幹男は両の目を北海道と沖縄くらい離して俺の口元に指を突っ込んできた。汚え。

幹男は【アクイ】を返せ!とか俺の口をどうにか指で掻き分け、来い!とか言っていた。血走った赤い目をして。

なんか鬼気迫る感じが怖くて、俺も抑止する言葉を発したかったが、少しでも口を開けようものなら、幹男の指に口腔を侵食されそうだったから、幹男の部屋から走って逃げた。

アクイ1

「なあ、お前【アクイ】って見たことあるか?」



うちの中学は最近【アクイ】の話題でもちきりだ。こないだ入学したばかりの一年も廊下で【アクイ】の話をしていた。どうせ嘘だろうが、「昨日【アクイ】を見た!」なんて得意気に喋ってるチビがいた。

これだけ全校的に話題になっているが、本当に【アクイ】のことを知ってる奴はきっと全校の一割にも満たないのではないか。
まず騒いでる奴は間違いなく知らない。誰かが話してるのを聞いて、取り残されないために知った風を装っているだけだろう。
試しに「【アクイ】ってなに?」って聞いてみればすぐにわかる。答えられる奴はいないから。
俺はどうかって?俺も答えられないよ。よくわかんないもん。だけど騒いでる奴と違うのは【アクイ】を見たことがあるってことと、こないだ【アクイ】を食べたってことだ。



教室で前の席に座る三木田幹男が、風邪で三日連続で学校を休んでいた。三日間分のプリントが机の中にたまっている。
まずいな。今週の「おねだり係」は俺だった。
うちの中学では週交代で「おねだり係」というクソめんどくさい当番が回ってくる。
当番の仕事はとりあえずなんでもだ。黒板拭き、号令、教師からの伝達を伝える等となんでもありで、その中には休んでいるクラスメートにプリントを届けることと病状確認をするというのも含まれている。
要は教師が生徒にめんどくさいこと全部おねだりして押し付けているだけ。「おねだり係」の週はクソ最悪な一週間となる。


危惧していた通り、帰り際に担任から幹男の家にプリントを届けるよう言われた。


幹男、あいつ苦手なんだよな。いっつもクソつまんねえみたいな顔してるし、話しかけても聞いてんだか聞いてないんだかポクポク頷いてるだけだし。あいつが笑っているところを見たことがない。ほんとにクソつまんねえ奴。


一人で行くのが嫌だったから、二木男を誘ったら「今日はちょっと…」なんて言葉を濁して断られた。
いつもだったらなんも考えないでぽーんと付いてくるのに。まったくどうかしている。
こうなったら仕方ない、さっと行って、ちょろっと顔だけ見てすぐに帰ろう。たいして親しくもないクラスメートの家に一人で行かないとならないなんてどんな罰ゲームよ。


幹男の家はとことんでかかった。そんじょそこらのでかい家じゃない。パルテノン神殿みたいな家だった。あいつ金持ちだったのかよ。入口はどこよ。
家の周りをぐるっと回りインターホンを見付けた。回っている途中に家の敷地内にでっかいプールとでっかいビニールハウスがあった。金持ちの考えることはよくわからん。


「はーい」
インターホンからそんじょそこらのおばさんの声が聞こえて一安心。
「幹男くんのクラスメートの市来ですが、プリント持ってきました」
「どうぞ入って」
と声がしたと同時に、ウィーン、と門が自動で開いた。すげー。


幹男の母親は声同様にそんじょそこらのおばさん顔だった。すぐに帰りたかったけど、羊羹とプリンとお茶が出てきたから取りあえずいただいた。うまい。やっぱり金持ちはうまいもん食ってやがる。おばさんは俺が食べてるのをニコニコしながら見ている。
プリントを渡して、幹男の風邪の容体を尋ねたら、さっきまでニコニコしてたのに急に神妙そうな顔をして「あの子と会ってくれない?」なんて言ってきた。
あー、やばいなこれは。あれだ。なんかのフラグだ。なんかこんなんテレビドラマで見たことある気がする。
だけどここで断ったらただの羊羹とプリンを食べただけの人で終わってしまって、なんかそれもいかがなものかと思ったから幹男の部屋へと顔を出すことにした。
幹男の部屋は二階の角の部屋にあった。「MikioのHeya」と木製のプラカードみたいのが、ドアにぶら下がっている。

第3章【伝説】第1話

4月。出会いと別れのシーズン。俺は世間の喧噪から離れ、一人部屋で金を数えていた。
それは季節外れの雪が関東一帯に降った夜。窓から外を見渡せば、舞い散る桜の花びらと雪が重なり、なんとも幻想的な光景だったことだろう。

数年前の俺なら、窓辺に椅子を引っ張り、ワイン片手にその光景を眺めて悦に浸っていたことだろう。
だが、今の俺にはそんな目に映るだけのわずかな喜びよりもはるかに大事なことがある。


金だ。金こそすべてだ。
お金で買えない価値もある、なんて昔CMで見たが、あんなものはある一定量の金を持っている奴だからこそ言えることだ。
本当に金がなくなると、お金で買ったわけではない小さな幸せもこの手からこぼれ落ちていく。
両親からは勘当された。父親の「金の切れ目が縁の切れ目っちゅうのはほんまやのー」と言ったときの哀しそうな表情が脳にこびりついて離れない。
「ニイニイはあたしの中で死んだから」と言った妹の声。
「………」母はなにも言わずに背を丸めていた。

あの日俺は本当の一匹狼になっちまった。


だが、その代償として得たこの金。この金は両親であり、かわいい妹、要は俺の新しい家族だ。
だから俺はこの新しい家族を増やそうと思う。大家族スペシャルみたいな感じに。



翌日午前8時30分。
昨日の雪はまだうっすらと残っていたが、空からは陽光が緑を照らし、俺の新しい門出に相応しい朝だった。

整理券の配付を待つ俺の心は、お釈迦様のように穏やかだった。
ここで負ければ死ぬしかない。比喩じゃなく死ぬしかない。
だがもう俺は恐れない。もう恐れることにも疲れた。そのジャッジメントタイムを心穏やかに待つのみ。グリーンマイルのあの体のでかい死刑囚もこんな気持ちだったのだろうか。

整理券の番号は3番。前後には男だけ。俺の心の平穏を乱す因子はない。目指す台は「花の慶次〜愛〜」今日の俺に抜かりはない。


命がけの大勝負が今始まる!