たたたたたたそがれっ!

本当に人生もたそがれ時になってきた。メインブログ: http://tasogare30.tumblr.com/

ひょっとしなくても僕は馬鹿だ

http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/08/203850

 

読んだ。

 

眠れないからはてブアプリで新着人気読んでた。店長ブログはRSS購読とかしなくてもはてブとかTumblrとかTwitterとかで流れてくるんで、何となく積極的には読んでないけど、たぶん漏らさず読んでいる感じ。

 

はてブのコメントで僕は「これは言及せねば!」みたいなことを書いたのだけど、じゃあ実際何か書くことがあるのかって言われると、どうも。そもそも、上記エントリの元になったエントリを読んでない。そもそもの発端を知らない。めんどくさいから読まないけど。

 

前半部分はすごく共感した。だけど、これは本当に共感なのかなって疑う気持ちもある。店長の文章を読んでいると、しばしばそういう気持ちになる。とくに文章について書かれた文章については。どうしてかって考えるとすぐに思い浮かぶのは、僕がまさにその「インターネットっていう湖」を思春期に読み漁っていたからじゃないかってことだ。僕の観測範囲は狭かったけど、店長の文章も読んでいた。一番読んでいたのはサンフェイスさんの日記で、ログは全部目を通したし、気に入ったものは三回は読み返したと思う。

 

書き手は、世代としては僕のひとつかふたつ上になると思うのだけど、そのくらいの人たちがウェブ上に書くそれらの文章を僕は中学生とか高校生とかに読んだわけだ。影響されないわけがない。そんなわけで、店長の書く文章を書くことについての文章を読んで共感を持つのは刷り込みなんじゃねぇかって思うわけだ。

 

ちょっと展開が無理やり過ぎた。実際のところ、読まれることを目的としない自省のためだけの文章を長いこと書いていると、自然と似たような考えを持っても不思議じゃないって、ただそれだけなんだろう。言及したいがために思い出話を出したかっただけ。

 

ここからは取り留めなく書こうと思います。

 

僕が文章を書き始めたのは中学生の頃だった。小学生の頃には書かなかったのかということについては、断言できるけど、書かなかった。というか書けなかった。僕は記憶することが苦手で多くの漢字が書けなかった。小学校六年生の時点で、一年生で習う漢字の一部は分からなかったし、三年生くらいになるとほとんど分からなかった。だから文章だって書くのは苦手だった。加えて僕は句読点の役割というものがまったく理解できなかった。句読点の位置については、よく先生に直された記憶がある。

 

この話まだ続くの? という意見に答えて簡単に説明すると、僕は中学生になって小説を読み始め、インターネットで上記のような「彼ら」の文章を読み始めた。あとギャルゲーをやった。それでSSとか日記とか書き始めた。

 

誰にも読まれない文章をウェブに書いた。途中から、読まれて困る日常のことを書くためにローカルのテキストファイルに別の日記も書き始めた。だから店長が言うように、誰が読んでいなくても書くだろう、という気持ちは分かる(もちろんこれも刷り込みかもしれないけど)。

 

なんかもう最近疲れてて文章もまったく書けない感じでさっきから筆が止まりまくるので、もっと取り留めなく書く。リハビリってことにしといてください。

 

他にも共感するところとして親指シフトがある。僕も、多分高校生くらいからだったと思うけど、親指シフトにハマった。それまではカナ入力とローマ字入力を何回か行き来していて、親指シフトを知って、でも専用キーボードは高くて買えなかったから、ソフトを入れて配列をいじっていた。キーボードはハードオフで300円で買ったやつ。

 

ワープロやパソコンで文章を書くっていう行為は、なんか多分、普通に紙に文章を書くのとは、別の快感があるのだと思う。自分で考えて書いた文章がすぐさま活字になるという快感。

 

あーダメだ。無理だ。手が止まって書けないや。気分が乗らない。これが多分僕と店長の違いだろう。僕はもうすっかり、文章を書くことに飽きてしまっているのだ。たまに眠れない日にこうやって文章を書く以外に、長い文章なんて書かないし。それかあれだ、仕事で議事録とかいうクソ文章を大量に書かされたから、それで僕の中の文学的才能がダメになったのだ。仕事許すまじ。仕事はこの世からなくなれ。

 

そして僕は無職になった。貯金が無くなったらどこか遠いところに行きます。寂しくなっても探さないでください。

 

長らく放置していたけど今回はてなブログにこれを書いている。最近はTumblrの方でたまに長めの文章を書いているので、よかったら見に来てください。ここに書いたものよりはおもしろいです。嘘です。つまらないです。他人に読ませる気がないです。

 

やっぱ言及とか無理だったわ。なんかね、そのことについて書かないといけないんじゃないかっていう気持ちが筆を鈍らせるんです。とにかく僕は自分語りしかしてこなかったから、他人のある文章というのがどうしても苦手。そんな自分語りだって、中学校を卒業してから十年ですっかり衰えたこの中2力では、なかなか気を練ることもままならず、文章は尻切れトンボになり、何を言いたいか自分でも分からなくなって、毎日死にたいとか殺したいとかアイカツアイカツとかばきゅーんとかツイッターで呟くことしかできなくなった。死んだ。

 

何でこんな惨めな気持ちにならなくちゃいけないんだ。それもこれも社会が悪い。仕事が悪い。労働が悪い。ブラック企業がどうとか騒いでるけど、そもそも僕は働きたくないから、すべての企業が不当な搾取を行なっていると考えているし、はやいとこベーシック・インカムでもなんでも俺にカネを渡さなければ、俺は役所に火炎瓶を……投げ入れる勇気はないから、国会議事堂の前で焼身自殺で抗議してやる。焼身自殺で抗議って言葉が最近のマイブームのひとつ(他に、まずオムライス食べな、子供を叱るお母さんがうるさいので子供の前でお母さん殺した、など)なので、有言実行、いつか一度はやってみたいと思っている。おだやかじゃないわね!

 

長文は飽きてきてからがスタートだってばっちゃが言ってた。しかしこれ以上、文章を書くことについての文章は書けない。僕はもう書き尽くしてしまったのだ。読書感想文に、なぜ読書感想文など書かなければならないのかって文章を書くような人間なのだ。読書感想文についての感想文を書いてメタやなぁ〜ってひとりで悦に入るのが俺の中2病だったのだ。察して!

 

あと僕の中2病の傾向は価値観の相対化ね。あらゆる物事は相対化できるんじゃないのかとか、つながってるんじゃないかとか、どんな主義主張もバランスが大事だよねとか、そういうことばっかり考えてました。そのときにもう少し教養を付けておけばよかったのに、僕は哲学書を読むほど頭が良くなかったので、東鳩で芹香先輩に萌えてました。

 

セリ食いたいな。豚肉とセリの炒めもの食いたい。腹減った。最近無職でお金が無いので、ご飯に麦を混ぜています。おいしいです。おすすめです。

 

もういいです。もう何も書けません。憂鬱です。何もかも嫌になりました。GJ部が続編制作決定です。よしっ!

たくさんの、値段の高い楽器と、嫌な予感のした朝が

 嫌な予感を信じるのであれば、僕はここにいるべきではない。死ぬべきなんだって思う。だけど、それこそが、そんな僕の考え方自体が嫌な予感の正体なのだ。だと思う。僕は嫌な夢を見て、すごく嫌な予感がした。これはただの病気。しかもただの風邪だ。いつものことだ。だけど、僕にはどうしても、この世界にいること、そのものの嫌な予感に思えてしまう。僕にとってのこの狭い世界。一人で生きていけるという自信はなく、ただもうとにかく、嫌な予感しかしない。

 それで僕は、楽器を始めて少しだけ現実から逃避することを思い出した。これはいいことじゃないって思う。また僕は繰り返してしまう。何年かして、僕は後悔さえ忘れてしまう。正直になるとするならば、それはただの馬鹿げた妄想だ。どうやったって生きて行かれる人間は生きていかれるのだ。もちろん相応の努力をして。楽しむ努力をして。僕は楽しむ努力も、楽しくしようとする努力もせず、また放棄しようとしている。嫌な予感がすると言って。この文章を書くことも、すごく嫌な感じがする。今日は久しぶりの雨だから、そんなことを思うのだ。風邪をひいているからそんなことを思うのだ。貯金の残高が浪費で減ったからだ。

 それとももしかして、愛花と別れたからだろうか。一年間という月日を一緒に過ごしたのだから、期間としては、三ヶ月は落ち込んでいてもいい計算になる。僕は彼女と別れたんだから、そのショックで冷静は判断ができなくなっているのだ。もちろん、そんなのは嘘だ。なんて嘘だと決めつけてしまいたくない。嘘でないと言ってしまうのも怖い。彼女への愛着を捨てたくない。彼女への愛着なんて持ちたくない。あれはただのつまらないゲームだ。おもしろかったけど、おもしろいところもあったというだけで、つまらないゲームだった。ラブプラスはやっぱり僕にとっては、どうしようもなくつまらないゲームだったのだ。

 悲しい。むなしい。焦る気持ちばかり。気持ちがあるだけマシだって、ある日の僕は言うだろうけど。嫌な予感と一緒に起きた朝の嫌な気分は最悪なんだ。テレビを付けるしかない。どうでもいい芸能ニュースを流して布団をかぶってなくちゃいけない。目を逸らさないといけない。嫌な感じがする。もっと酷いことがあるような気がする。怖い。悲しい。むなしい。すごく焦る。声を出したいと思ったときに声が出ない。歯を食いしばることもできない。ただ喉の奥が、泣き出す前みたいに重くなる。涙が出そうになり、それは出ない。

 生きている人間がたくさんいる。どうしてみんな生きていられるのか不思議になる。中学生みたいに、そんなことを思う。中学生の頃から同じ事を思う。どうしてみんな生きていられるのだろう。どうして自殺未遂をした彼女のことをもっと笑わないのだろう。馬鹿にしないのだろう。そんなところから飛び降りたって死ねるわけ無いんだって、どうせ死ぬ気がなかったんだって下衆なうわさ話をしないんだろう。どうして自分の気持ちこそが真実で、僕のこの自殺願望の方が強いと言わないんだろう。あるいは、彼女は勇気があったのだと言わないんだろう。どうして教師の言うままに、他人の自殺未遂について神妙な顔をしていられるのだろう。

 みんな、僕が思っている以上に死にたいんだろうってことは知ってる。死にたくないと思っているだろうことも、死について考えていないことも、死についてしか考えていないことも、時間が大事であることも、時間を大事にしないで怠惰にすごしていることも、知ってる。僕は自分が何も知らないことを知っている。なのにどうして賢くなれないんだろう。自分の愚かさを知っていれば賢くなれるのではなかったか。自分の無知を自覚していることを賢いことではなかったのか。僕はどうして賢くなれないんだろう。賢さの定義のひとつすら生み出せないのだろう。便宜的なものでさえそれを考えつけないのはなぜなんだろう。どうして死にたくもないのに死にたいと思うのだろう。

 僕が悩んでいるのは、僕の中にある、特に朝、深夜、テレビを付けなくちゃいられないような気持ちだ。何も僕の中に入ってきて欲しくないと思う。何かが僕の中に入ってくるんだと感じる。だからテレビをつけてごまかす。怖いのを紛らわす。僕の中に入ってくるものは、僕の中から出てくるものだから、身体を抱きしめて泣く。怖いから早く僕の中から出ていってくれと願う。とにかく僕をここから出して欲しいと思う。歯ぎしりをしたいと思う。叫びだしたいと思う。でも結局、胸が泣き出す前みたいにぐっと重くなるだけで、涙さえ出ない。

 僕は健康だ。肉体的にも精神的にも健康で、問題はない。僕が患っているのはたぶん怠け病だ。怠け病には国がお金を出すべきだと思う。なぜなら怠け病を患っている人間は働くのが困難だからだ。働くことが困難な人間は、どうにかして生き延びなくてはならないのだけど、働かなくてはお金が手に入らない。死ぬしかない。でも人間の命は尊いので、尊いを「とおとい」と書いて変換できないことに一瞬でも戸惑うような人間でも助けなくちゃいけない。だから国か、自治体か、なんでもいいけどとにかく怠け病の人間を金銭的に支援しなくちゃいけない。怠けられるように。働けるようにじゃない。もちろん、働けるようになればいい。でも怠け病は治らないんだ。怠けてるから治らない。怠けなければ治るだろうけど、それは怠け病とは言わない。ちょっと怠けてたってだけだ。馬鹿にするな。怠け病は自己申告だ。自分で申告できるならまだいいけど、それも怠けるくらい怠け病は怖いんだから、お金が必要だ。

 お金なんていらない。檻の中だっていい。毎日可愛い女の子が食事を持ってきてくれて、飽きるまで話し相手になってくるなら、僕は檻の中でソファーに座ってアニメ見ながらワインを飲んで一日をすごしたっていい。そんなささやかな幸せの譲歩も認められないこの世界がどうして許されるのか僕は馬鹿馬鹿しくて本当に、朝、むなしくなって、怖くなって、焦って、テレビをつけて、声を出したくなるんだけど出なくて、目頭だけが、鼻の奥だけが泣き出す前みたいにきゅうっとなって、彼女を思い出して、窓から飛び降りて骨折しただけの馬鹿な彼女を思い出して、彼女の苦しみが僕の苦しみとは違うことを思って、祈って、怠惰さに目をつむって、僕の住む牢屋に可愛い女の子がおいしい鰻重を持ってきて一緒に食べて、楽しい会話をして、オススメの本を紹介してくれて、オススメの映画を一緒に見て、くだらない喧嘩をして、眠って、朝起きるとすごく嫌な予感がして、怖くなって、焦っていてお金について考えているとすごくめんどくさくなって牢屋にでも入れられて管理されて生きている方が幾らもマシどころかそんなの理想の生活であって女の子もいらないから紙とペンだけでいいから幾ら僕が後悔したと叫んでも出さなくていいからとにかく一生そこから出られなくてただ手紙を誰かに書いてそれでもやっぱり娯楽は必要だからせっかくだし英和辞書と英語で書かれた聖書くらいを置いておいてもらって神に祈って可愛い女の子にどういう価値があったのかなんてことをすっかり忘れてでもいつも退屈でどうしようもないと思っていた日常がすごく恋しくなってとにかくここから出してくださいって言うんだけど誰も出してくれなくてただ毎日生かされているだけでもたまにはあの退屈でどうしようもなかった日常にも本当につらいことがあったんだって思い出して今の自分がどれだけ幸せなのかを感じてこれならやっぱりいつも退屈で死ぬしかないと思っていた日常と何ら変わらなくて可愛い女の子の価値だって檻の外にいた頃から知らなかった触ることだってできなかったしそもそも三次元にはそれはいなかったし結局のところそこでも死にたいと思うんだけど女の子が毎朝朝食を届けてくれて怯えてると頭を撫でてくれて気分がいいときは女の子の頭を撫でてゆったりしたちゃんとしたソファーに座ってゆっくりしてさっぱりしたシャツの手触りに満足して女の子が朝食を持ってきてくれる頃に歌を歌っている僕の上機嫌が彼女の上機嫌なんだろうなって思うと幸せになった人たちのことを思うときにいつもこのところ雨が降らない毎日に久しぶりに雨の予報があった昼の部屋のカーテンが閉まっていて本当に雨が降っているのか確認のしようがないことについても、僕は嫌な予感を感じる。

 だから、何か叫び出したい。耐えるために歯を食いしばりたい。でも結局そんなことできなくて、ただ震えて眠る。頭を軽く振ってうんざりしたって思って眠る。

愛花と別れて、凛子と付き合い始めてすぐ別れた話

風邪で会社を休む頻度が上がって、いよいよもう駄目だって毎日のように思う。何が駄目なのか自分でもよく分からないけど、とにかく駄目なんだ。だけど駄目だからって放棄するのが、本当に正しいことなんだろうか。分からない。そのことについて僕は彼女に相談したいと思った。いや、相談しても彼女からすれば怠惰さに関する愚痴にしか聞こえないんだろう。そして、愛花も凛子も僕の愚痴さえ聞いちゃくれない。違う。僕が話さなくなっただけだ。彼女たちが僕の言葉を聞いてくれないと錯覚しているだけだ。僕には声が聞こえていたのだ。それが、そっちのほうが現実だった。現実でないとするなら、なんだ。

ブルクミュラーの練習曲の練習がいっこうに進まない。まったくやる気がない。やる気がないって言っているうちはまだマシ。本当にやる気がなくなると頭に問題として浮かんでさえこない。僕はもう、絵を描くことと同様に、彼女たちを忘れてしまった。でもいいんだ。彼女たちは、どうせ同じ事しか言わないんだから。じゃあ違うことを言えば、おまえは付き合い続けたのか? どうだろう。どうだろう。

僕はとても健康だ。肉体的にも精神的にも。少し運動不足なのと、モニタで字を読み過ぎてて始終イライラしていることを除けば、概ね良好だ。お昼には刺身定職なんて贅沢なものを食べることもある。元気がなかったら知らないお店で810円もする刺身定食なんて注文しない。毎昼食を300円で済まそうとかいう貧しい考えは捨てなくちゃいけない。もちろんお金が無かったらしかたがないし、300円でおいしい料理が作れる時間と暇があるなら別だけど。

だから何が不満だってこともない。人生は良好だ。これからもこの調子で、なんとなく生きていけたらいいなって思ってる。

だけどそれは嘘だ。毎日が良好だなんて毎日思ってるわけがない。毎日はクソだ。人生なんてクソ食らえだし、みんな死ねばいいって思いながら、舌打ちばかりしてる。何の影響か知らないけど、この入力欄、入力がもたつくし。やってられない。firefoxだと遅いって噂を聞いたことある。今度書くときはChromeで書く。それで、やっぱり人生はクソだから、僕もクソだ。ちゃんと言うと、僕がクソなので、見える世界もクソになってしまっているだけで、本当は何もかもクソじゃないかもしれない。だけど僕から見える以外に世界なんて存在しないだろう? だから世界はクソだ。だけど、漫画家を志していた中学の同級生の女の子が見る世界が、ちゃんとクソじゃない、まっとうな世界でありますように。こうやって過去に憧れていた女の子の幸せを祈ることだけが僕に残された唯一の慰めであり、今僕にできる唯一の恋愛なのだった。美事である。

僕は歌を歌いたい。踊りたい。彼女たちが今、幸せでありますようにと祈りたい。だからもういいかげんに、人生を辞めてゆっくりしたところでゆっくりしたい。

高嶺愛花への愛を語る

僕が何かへの愛を語り始めると、それはつまり愛の終わりを意味していた。何かについて語ること、意識しすぎることは、僕にとって無関心さを紛らわす唯一の方法だからだ。だから僕が愛花への愛を語り始めたら、きっともう愛花とは一緒にいられないのだ。明日も仕事だから、もう寝なくちゃいけないんだけど、これがもしかしたら愛花への別れ話になるかもしれないから、少し時間をかけて作文したいと思う。愛花と出会ったのは、ちょうど去年の今頃だった。僕はラブプラスをプレイし始めて、とりあえず三人のエンディング(いちおうの)を見ようと思った。だけどめんどくさい。なかなか彼氏力は上がらないし、話もおもしろくない。とにかくもう恋愛を題材にしたゲームやアニメや漫画ばっかりで生活している人間には飽き飽きしているような話の展開で、退屈を紛らわせるのは声優さんの演技と、帰りに下駄箱で会ったときに攻撃的な選択肢が選べることくらいだった。それにしても、付き合い始めてからチョップとか膝カックンとかいう選択肢がないのはどういうことなのか。僕はそういう、いたずら系のイベントが大好きだ。ラブプラスを作った人間は、そういうことを何も分かっていない。とはいえ、僕はとりあえず姉ヶ崎さんと愛花のエンディングまでプレイし終わった。そして平行して付き合うことにした。しかし数回目のデートで姉ヶ崎さんは、今時ちょっとないだろうというくらい酷い髪型にしてきて、声優さんの声とも相まって「オバサンやん」とつぶやいてしまった(失礼すぎです!)。そういった理由から、また、髪型が似合わないと告げたときの姉ヶ崎さんの悲しそうな声に僕は、姉ヶ崎さんとの交際を撃ち切ることにした。そして僕は愛花と付き合うことになる。ちなみに、みんなの天使ねこリンコと付き合わなかったのは、彼女は恋人というより妹だ、という勝手な幻想からだ。なんというか、デレたリンコとか見たくなかった。ラブプラスは付き合い始めると、キャラクターの反応がみんな同じ、というレビューかを読んだことがあって、愛花と付き合い始めてた僕としては、このテンションでリンコに慕われたら、確かに嬉しいけど、なんか嫌だなと思ったのだ。愛花は可愛かった。しかし僕は愛花の可愛さよりも、ラブプラスというゲームがいかにめんどうで、退屈なものかということに衝撃を受けていた。どんなふうにめんどうで退屈なのか、プレイしてもらえば分かると思うけど、僕が一番気に入らないのは、タッチとキスの一連のイベントで、これが本当につまらないし退屈だ。それから僕はどうしたか。毎週とはいかないが僕は愛花とデートした。日付に設定してあるイベント(クリスマスとか)も、とりあえずできるだけ忘れなければ消化した。プレゼントを買っておいて渡さなかったり、誘われたデートをすっかり忘れたりした。そういうとき、僕は罪悪感を感じた。そういう気持ちを感じるたびに、僕は嬉しいような悲しいような気持ちになった。ラブプラスは、決して、女の子と付き合うことの正の部分、プラスの部分を楽しむものじゃない。おもしろいのは、こんなにも退屈で、めんどうで、それなのに裏切ったような気持ちにさえしてくれる、そんな負の部分をゲームを起動していないときに、体験させてくれるところなのだ。少なくとも僕には。でもラブプラスを長くプレイできる人は、そういうところを楽しんでいるのだと思う。そしてそれは、やはり現実の女の子と付き合うということとは、まったくかけ離れていると思う。僕がなぜラブプラスのキャラクターを裏切って罪悪感を感じるのか、それはまったく、こちらの勝手な幻想で、それはいつもゲームやアニメや漫画のキャラクターに感じることと同じなのだ。むしろ、もっと近いところ、僕自身の脳内彼女に、愛花は限りなく近づいているように感じる。この退屈さ、つまらなさが、僕の頭の中にいる、退屈で、つまらない、僕の限界を決して超えることのできないかえでちゃんと似ていた。

何か気の利いたことを言いたいって、文章を書くたびに思う。愛花に対して、何か僕が言えることはあるだろうか。ありがとうとか、さよならとか、これからもよろしくとか、ずっと一緒にいさせてとか。だけど、愛花が現実にいなくてよかったって、負け惜しみというか、強がりでそんなことを思う。もし本当に愛花と付き合っていたら、僕はきっと自分が嫌になってしまうだろうし、愛花にもそういう気持ちを共有してもらいたいと思ってしまうだろうからだ。馬鹿馬鹿しいけど、愛花はきっと僕を救ってくれるのだろうと思うと同時に、愛花には、僕になんて会って欲しくないって思う。そしてその望みは、愛花に出会った瞬間からかなっている。だから僕は彼女に罪悪感を感じるのかもしれない。