アサギロ
線場のひと
頂のリヴィーツァ
アサギロ
線場のひと
頂のリヴィーツァ
王国(あるいはその家について)(’23/監督:草野なつか)
実験的手法で二時間半はちょっと勘弁してほしかった。特に定期演奏会のあだ名ウケ繰り返しはキレそうになった。
人はどんな親しい間柄でも、まるで見えないカメラや観客が存在するかのように演技しながら会話しているものだというのは、おそらくは統合失調症めいた世界観なのだが、あえてそういう芝居の稽古風景としてのセリフ読み合わせで映画を構成することで、時折挟まる定型的映画のドラマシーンのやり取りが二重の像を描いてみえてくる。ともに居る場での言葉の効果や影響がそれぞれに異なるなら、〈合言葉〉がじっさいに存在するという切なる願いにすがってしまう魔の刻というのは確かにあるかもしれない。しかしこれは何映画と呼べばいいんだろう。事件ミステリ、舞台劇映画、心理スリラー、現代人情もの… もうちょっと構成を練ってくれとは感じたが、主観と客観のズレからくる孤独な内奥というテーマは今の自分のメンタルにマッチしたのは確かなので特に不満はない。
哀れなるものたち ('23 イギリス・アメリカ・アイルランド/監督・ヨルゴス・ランティモス)
予告編で想像していたよりはるかに軽やかな作品だったが、主演のエマ・ストーンの奇矯さと気品とのありえそうにない両立をやってのけた偉業にかなりの割合でその印象は拠っているのかもしれない。トロフィーワイフの属性から遠いはずの主人公が男たちから主導権を奪っていくエピソードは、近代小説の躍動感に満ちているが、教養小説でありがちな女性の匿名化という定型は反転されており、いわばビルドゥングスロマンや恋愛小説のハックを監督はこの映画で志向したのだと思う。再生の父の欺瞞に怒り、赦したのち和解して、本を読み世界を見ることで自我を再構築した女は、みずからの楽園である屋敷の主となる。その構成員を選ぶのも当然彼女の指向の産物なのである。破綻のない見事な終幕だった。それにしても素晴らしいSFファンタジー的な美術の数々。あれが主人公からみえる世界なんですね。大作映画らしい映画を今年も観られてよかった。
ボーはおそれている ('23 アメリカ/監督:アリ・アスター)
日々を送る中で予測を立てる時(こうなったらやだな)、(こうなったらパニック状態になってお手上げだろうな)と考えるにおぞましい状況が、この映画の導入でつるべ落としにやってくる。特にオートロックを自ら無効化せねばならなくなるくだりは、観ている方が泣きたくなるぐらい気の毒。であると同時に、人は打つ手に詰むと望まずとも自ら墓穴を掘るしかないのだなという描写の絶妙なバランスに苦笑というか乾いた笑いが湧いてくる。癒しハウスでは話がつうじない庇護者のもとで暮らす懊悩、オーガニックキャンプ地でのひとときの落ち着きも現実でないかもしれないという予感により、アニメで表現された神話の不穏さにやがて覆われる。そして常に襲ってくる不意の暴力。主人公は客観をなくしながらやがて資本家である母の家にたどりつき、そこで更なる世界の残酷を目の当たりにする。ラストは『おめでとう』ENDと『きもちわるい』ENDを合わせたような不条理裁判スタイル。アリ・アスターは現代のカフカだ。それにしてもこれだけ長尺なのにダレない映像をつくれる編集センス。やはり非凡な監督なのだと再確認。
謎の失踪を起こして久しい俳優をさがすドキュメンタリーに出演する監督という、3つのレイヤー(劇映画、テレビ番組、それらを捉える本作)が入れ子として重なりあい、ほんとうのだれかに出会うのは、自らの瞼を閉じて心の中に問うしかないという永遠の孤独についての秘密があらわれてくる。何枚ドアを開けても、他者という実在に触れることは決してできない。だから人は詩をうたい、映画を撮る。うつくしい静かな時間。映画じゃない、作品という時間だった。
窓ぎわのトットちゃん('23 監督/八鍬新之介)
子供が二人、かたわれを手助けしながら木に登る。その木肌の荒くてしかしどこか親し気な手触り、陽ざしのやわらかさ。あるいは初めて大勢とプールで水遊びする時の、くぐもった音の響き方。世界へのどうしようもない壁の高さにただ立ちすくむしかないながらも、親や先生の庇護のもとで見つめることを第一の仕事とできたあのチャイルドフッドの日々。真の意味で子供の視点に立った映画がすくないことが本邦の映画の弱点だったが、ここに屹立と傑作があらわれた。大人は弱くて剛く、子供ははかなげで強靭。その二面性を示すためにホラーチックな表現が用いられているのが最も印象的。未来の自分に言い聞かすかのように駅の雑踏でセンテンスをつぶやく泰明、エゴを持たない聖職者像をみずから破壊してくる炎の目の小林。あと汲み取り便所の臭さ、汚さを覆い隠さず描いてきた覚悟に恐れ入った。(さすがの小林先生も一瞬止めようか迷っておる…)
RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる('22 監督:幾原邦彦)
前編よりも新規作画の割合がグッと高くなった印象で、映画としては断然こちらの方が面白く感じて没頭できた。終盤、主人公たちのアイコン的存在であるペンギンたちが暗い寒空のもと氷河をみつめるシーンで、ああこれは時代の方がテーマにいよいよ追いついちゃったねと。私たちはもう常に氷の時代に生きてる。息をしようともがいてる。でも答えは、常にひとつしかないんだよね。宮沢賢治が100年前に伝えようとしたみたいに。
地球にちりばめられて
国境という区切りに沿う形で規定される言語とは何なのかというのは作者のメインテーマであるわけだが、その集大成的な雰囲気を感じるシリーズ第一作。日本という国が消滅した近未来、ジェンダーや人種が様々な若者がゆるやかにチームをつくり、かつて存在した“日本人”の存在を探しに旅にでる。どこに到着する物語なのかが気になる長編。
最後の三角形
「タイムマニア」は片田舎で幽霊に導かれた少年が町の住民が複雑に絡む犯罪の謎解きをする。その過程でインフェルノを垣間見たり、同級生とのほのかな恋を経験するという一際ふしぎな味わいの一篇。グラント・ウッドの絵画を前にした時のような"のどかな無限地獄"としてのカントリー風景が脳内で浮かんでくる。表題作「最後の三角形」はミステリ仕立ての読み口、疎外という社会問題、そして徐々にあらわになるオカルト色と多層的な構造で忘れられない読後感を残す。なかでも印象を残されるのは恋愛のような関係性のあまりの幅広さ。多様性というイシューを無視できない作家としての誠実さも感じる。総じて、姉妹編『言葉人形』よりもややオポティミズム寄りでユーモアが漂う短編が多くまたロマンス要素も強め。技巧の精緻さはそのままに読みあたりはこちらの方が柔らかい。
寝煙草の危険
ただ自分らしく生きようとするだけで罰せられる。女性にとっての煉獄であるこの地上では、気付かぬうちに自らの失火で死ねる悲劇すら救いのある昇華行為なのかもしれない。表題作は孤独な老女の内面世界を綴ったものだが、他は集団の中で充足感と一体化した息苦しさを感じる様々な年代の女性の心象風景を感じさせる作品が多い。クイーンビーである人気者を無視できないティーンエイジャーが沼地から離れられない『湧水池の聖母』、中流階級住宅街がゾンビ群に侵食されていく様子にリアルな不安を感じる『ショッピングカート』が特に鮮烈なイメージだった。