Xi(mopera)用のプロファイル

SIMフリー版のiPad3でdocomo Xi(mopera U)を利用しているが、テザリング等の動作が不安定なので、「iPhone構成ユーティリティ」でdocomo Xi用の「モバイルデータ通信/APN設定」のみのプロファイルを作成してみた。

for docomo Xi (mopera U) Rev.1.0.mobileconfig

実際に設定される内容は、以下のとおり。

  • APN : mopera.net
  • ユーザ名 : mopera.net
  • パスワード : mopera.net

手元の環境では安定して動作しているように見える。
何か不具合があれば、コメント頂ければ嬉しいです。

民意は合理的でない

他人(ヒト)を見て、「なんてバカなんだろう」と思うことがないだろうか?
その次に「○○すれば、良いのに」という言葉が出てくる。

実は、それは、自分への跳ね返りである可能性が高い。
人(ヒト)は思考するが、その時々の条件によって判断を変える。
また、それは、前後で考えている事と矛盾するような結論であったりもする。
そう、自分も含めたヒトの考え・判断とは、それほど合理的ではなく、自己矛盾を含み、多面的である。
実際に、そのヒトの状況になると、「バカだ」と考えていた行動を起こしてしまう可能性がある。

一個人における思考ですら、そのような相矛盾するような結論を生む「二重思考」があるのだから、その個人の集まりである集団では、更に、混沌とした状況になる。
それは「民意」と呼ばれたりするモノであるが、民意が「合理的」である可能性は非常に低いのではないだろうか?

多くの人が望む事を実現するという意味で「民意」は重要であると考えてしまうが、その「望む事」の裏に潜む事実や条件をどこまで合理的に判断して「望んでいる」のだろうか?

「個人が合理的でない」、また「民意も合理的でない可能性がある」という事実を踏まえた上で社会がどのようにあるべきか考えると、より多くの人を幸福にする手法として、民意に依存する民主主義が本当に適切かどうか、分からなくなってしまう。

11月14日の党首討論ノーカット(野田総理VS安倍総裁)

今週の党首討論は、非常に見応えのある討論だった。

野田総理は、全く派手さがなく、何を考えているのか伝わらない事が多かったように思う。
就任直後、「どじょう」と呼ばれていたが、悪い意味でそのキャラクターを感じていた。
昨今の国民感情を異常に配慮しすぎる今の政治状況では、何も決まらず、何も進まない状況が、多くの国民にそう感じさせていたのかもしれない。

そもそも討論時の野田首相を久々に拝見したような気がする。
安倍総裁の「美しい」だけで討論としての意味をなしていない発言と比較して、野田総理の発言は非常に重く考えぬかれたような感じを与えている。
稚拙な表現で申し訳ないが、「このヒト(野田総理)、ちゃんと考えているんだ」と感じた。
野田総理も、橋下市長のようにtwitterなどのインターネット・メディアを活用し、マスコミに負けない・流される事なく、自分の考えを正しく伝える事ができれば、本領を発揮できるのかもしれない。

野田総理VS安倍総裁 党首討論ノーカット1/5


野田総理VS安倍総裁 党首討論ノーカット2/5


野田総理VS安倍総裁 党首討論ノーカット3/5


野田総理VS安倍総裁 党首討論ノーカット4/5


野田総理VS安倍総裁 党首討論ノーカット5/5

デジタル化とインターネットがもたらしたモノ

先日、ミラーレス一眼カメラを購入した。
自由度高く高品質の写真が取れる。
1年前の機種でも十分な機能とクオリティを備えているが、それが半額以下の4万円で購入できた。
(単焦点の広角とズームの2つのレンズが付いて、フィルター等の小物も含めてである)
早速、色々な場面でカメラを向けているのであるが、気付いたことがいくつかあるので、羅列してみる。

デジカメは人の撮影技術を大幅に向上させ、いい写真が増えた

ご存知の通り、デジカメは、撮影後、すぐにその写真を確認できる。
どのように撮影すれば、どのような写真になるか、すぐに分かる。
以前のフィルム写真であれば、撮影後、数日以上経たないと現像された写真を見る事ができなかった。
人間の学習とは、「作用」と「結果」の関係を体得する事であると思うが、デジカメを用いれば、容易に写真技術を学べるようになるのである。
フィルム写真のように「撮影」の数日後でないと結果の写真が分からないと、撮影の記憶は曖昧になってしまい、的確な学習が行えない。
デジカメ登場を境にして、優れた写真技術を持っている人も増えているに違いない。
また、機器の技術のサポートにより、容易に「いい写真」が撮れる。
「いい写真」もまた、世の中に増えているに違いない。

インターネットによる写真の共有と撮影へのモチベーションの向上

インターネットの普及により、多数の人とのデジタル化された情報の共有が容易になった。
フィルム写真であれば、現像されたその写真を物理的に手にしなければ、見る事ができない。
遠方の人には、焼き増しした写真を届ける必要がある。
しかし、デジタル化された写真であれば、そのコピーは容易となり、インターネットという媒体を介して、送受信できるのである。
デジタル化とインターネットによって、より多くの人に安価にその映像を届けれるようになった。
それによって、様々な人から反響を得られるようになり、「撮影」への意欲が大きく向上しているのではないか。
また、撮影者がそれほど価値がないと思われる写真も共有されることになり、その結果、思いも寄らない反応が得られる場合もある。
これらのモチベーションは、更に撮影者の撮影技術を高める原動力になっている。

このように、「デジタル化」や「インターネット」という技術は、多くの現代人を芸術家にし、生活を豊かにしている。
まさにそれは、今、加速しているのである。

言語と文化の趨勢

先日のNHKスペシャルで、「漢字」によって、あの広大な中国大陸の統一と維持がなされた、という研究結果が報告されていた。

http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012043839SC000/index.html#

つまり、他の言語とは違って、それぞれの文字、単体で意味をなすという極めて特殊な、漢字を用いた言語は、様々な話し言葉が分布している中国大陸において、国家の統制のためのコミュニケーション手段として機能し広がった。
これは、同じような文字を用いつつも、異なる言語と異なる国家が分散していたヨーロッパとは大きく異なる。
以前は、中国という広大な平原による地理的条件により統一されたと言われていたが、内陸部は山岳地域であり、この理論には疑問を感じていた。

ここから導かれる結論として、コミュニケーションの範囲が人間の活動範囲を制限し、集団の形成に影響を与える、という事になる。
これは集団淘汰にも影響を与えるであろう。

これからのグローバル社会において、「日本語」というマイナーな言語は、「日本」という国の存在にどのような影響を与えるのであろうか?

年中Sex

ヒトが通年で性交するようになったのは「農耕社会」になってかららしい。

つまり、それ以前は、Seasonalに繁殖期があって、特定の時期に子供が生まれていた、という事になる。
子供を育てるためには、それなりに栄養補給が必要になるので、ちゃんと食料がある時期に子供を生んだりする事になったのだろうか。

仮に、その時に「星座占い」が有ったとすると、ほとんどのヒトが同じ星座に属していたのであろうか?
誕生日会とか、大変である。
(そもそも、暦という概念が無いと、そのようなモノはないわけであるが・・・)

話を戻すが、どうして、このような話を書いているかと言うと、昨日は周辺で多くの人が誕生日だった、という事を聞いて、改めて認識したからである。
昔のヒトの遺伝子が何か影響して、そういうSeasonalな結果として現れているのではないかと。

現代の状況を逆説的に言うと、通年において性交できる環境になったという事は、それだけヒトは「自然」の影響を受けにくくなったという事で、それは「ヒトの発展/進化」とか「文化の形成」と等価と考えれる。

そう、「ヒトの進化」は「自然のヒトへの影響を小さくする変化」であり、ヒトはそういう生き物なのである。
ヒトという存在である以上、自然との関係というのは、永遠の課題なのであろう。

「ヒトとして生きる」べきか、「自然の中で調和して生きる」べきか。
まだ、自分としての答えは出ていない。