tebura0hitori's blog

体ひとつで どこへでも。そんな自由を求めていながら、自分をごまかし、だまし、なだめすかして生きている、そんなアラフィフの、叫びやひとりごとです。

既製品な人生を断った

既製品な人生を断った 私の人生の選択は間違いなくそんな感じ

 

結婚→子供ができる→家庭を守る→老後を家庭で平和に暮らす

当たり前に そのレールの上をガタンゴトン ガタンゴトン

その前提を決して崩さずに生きている人はたくさんいるのに

 

自分はそれが出来なかったんだけれども、どんなに大変な思いをしても後悔する気になれない…

 

本当に不思議なんだけれども、レールを踏み外さない人から見るとこちらが不思議に見えるんだろうと わかるけれども。

 

どちらが良いとも悪いとも思わないんだけれども。

 

時々 ふと同じスタンスの人が たとえば友人として近くにいたら

もっと毎日が 楽でくつろいだものになるかも、などと寂寥感を覚えることもあるのです。

結局は 一人でしかいられない私なのに。

 

窮屈な息苦しさのなかで連帯意識にを持つよりはるかに 寂寥感もありつつ解放されているほうが幸せ。

 

 

NHKオンデマンド

NHKオンデマンドで ドキュメントジャンルの

ナレーターの声が気持ち良い番組を視聴しながら

眠りにつくのが日課になりつつあります。

 

願わくば 江守徹さんとか、松平定知さんの声を聴きながら

眠りにつきたいのですが。

 

お気に入りは数学分野のNHKスペシャルでナレーターが小倉久寛さんの

番組です。

 

でもさすがに繰り返し聞いているので 飽きますから、たまに違うのにしてみようと

ゼロ戦の搭乗者のNスぺにしてみたのですが、やはり心が痛むものです。とても安らかに眠る気になれません。

 

「爆弾を搭載して、敵艦に体当たりしてほしい」と若者に告げた上官も

「はい」と答えた若者も

 

私たちと同じ日本で生まれた 同じ人間だったのです。

 

自分の悩みが急に 恥ずかしくなり 不満を意識しながら生きるのは

やめたいものだな、などと反省している次第です。

モンスターと天使

モンスターがたくさんいる

でもごくまれに天使もいる

 

それはわかる。

 

苦しさの海を泳ぐように生きる その途中で

ふわーっと呼吸が楽になるように救われたこともある。でもそれは

 

だれか天使に救われたのではなく、たとえばラベンダーの植え込みから花の香りが流れてきたとき

 

たとえば 月夜の海でスポットライトのように照らされて一人で海を見ていたとき

 

たとえば 各駅停車の湘南電車に平日の昼間に乗り込み、カタンコトン カタンコトン とひたすら電車に揺られながら無心でいたとき

 

そして

いつでも 苦しみの海に私を引き戻すのは 過去の自分

 

それこそ思い出したら恥ずかしさに首をつりたくなるほど愚かだった自分

 

あまりにも 無知で 浅はかだった そのころの自分が

ふと思い出されたとき

 

暗くて 凍るようで 痛くて 辛い。

 

だけど やっぱりそれも 自分だけじゃなかったんだと、それだけはもう忘れたくない。

 

今日も 一日 心のアザを抱えたままではあったけれど、逃げ出すことをせずに頑張って過ごしてきました。

 

今の会社が どれほど 良いところなのか、酷いところなのか、ごく普通なのか

そんなことも私にはわからない

 

ただ わからないのに 動かないほうがいい。それだけが分っているのです。

 

なんもかんも忘れて眠りにつこう。

 

 

 

 

 

今日も 心のアザ 痛いです。

仕事より戻り、今日もまた、人に疲れ切った痛みがあります。なぜこうなるかというと それは主に 自分の対人恐怖に起因するのですが。

人に多くを求めてはいけないことも、自分が人に何も与えることが出来ていないことも重々わかっているはずなのにです。

 

だれとも接することなく、生活することが可能だったらこの苦しみはないのか、と考えてみれば、それもいかにも寂しいことで、やはり良寛さんのようにはなれないし。

 

ひとまず、現在の仕事を守りながら細々暮らしてゆくことがベストな選択なわけなので、痛みながら、苦しさもありながら、淡々と毎日仕事に行きつつ、アザが万が一薄れて緩解したり、まかり間違って完治するようなことも、起こりうるのではなかろうかと、やや期待しながら今日も眠りにつこうと思います。

 

ブログというのは不思議なものです。

昨日始めるまでと、始めてからでまったく何も違いはないはずなのに、こうして吐き出しているうちにほんの少しだけ、心に軽みを覚えてくるのです。

そしてきっと、対人関係が大変なのはみんな同じなんだよ、と一蹴されても当然なありきたりな悩みなんだろうな、などとなんだか人並みになったような気にもなってしまう、魔法の習慣ですね。(ちょっと大袈裟すぎるか)

 

 

 

はじめまして 

大雪のあと 雪だまりを避けて歩いた、ビル際の道で

すってんころりんと 転んでできた両膝のアザもやっと取れてきました。

しかし 仕事で 人付き合いで 疲れ切った心のアザは 黙っていても

消えてなくならないのです。

 

だから 結局は独り言に過ぎないかもしれないけれど

吐き出す場所が 欲しくなりました。

 

きっかけは尊敬していた上司の何気ない一言。

それは自分に向けた言葉ではなく、別の人が、新人指導についてその上司に相談しているところをたまたま至近距離で聞いてしまったのでした。

相談者「○さんが、私の話を素直に聞いてくれないんです。」

上司「おだててみれば」

 

別の日

相談者「△さんが、私の話を真剣に聞いてくれないんです。」

上司「だったら自分が同席していくらでも不快な気分にさせてあげるよ」

 

この話を聞いてもだからなに?と思われるかもしれませんが、実はこの上司は仲間のなかではほぼ全員から嫌われ、軽蔑も受け、憎まれてさえいるのではないかというほどよい話を聞かない人だったのですが私はこの上司のよいところが自分には見えていると何年も思っていたのです。

ほかのひとからは私が気の毒に見えていたのだろうと、やっと気づいたのです。

 

だって上記のアメとむちを、私にも上手に使い分けられていたのですから。

孤独が平気で 別に人に思い入れなど持たないつもりの自分が実は、上記上司をずいぶんと頼りにしていたようです。

しばらく茫然としてしまい仕事でもミスをしてしまい、退職まで考えていました。

けれど思い出したのです。

私は もともと この社会で生きることに 馴染めてないことを。

だから 死んでない間は、とりあえず生きておこうというスタンスでいることを。

自分に 合った 生きる場所があるなど、今更期待していないことを。

 

なんでこんな 根本的なことを忘れていたのでしょうね。

思い出させてくれたのはこのブログ記事でした。

楽になりたいなら心の「マクロモード」を切れ - 雑考集

確かに 個々の人は 意識的に別の人間に絶望感を抱かせようと思ってなどいないでしょう。

でも確かに上記の上司のような人は少なくとも私には「辛いなら生きる必要はない、辛い間死なずにいればいい」という雑考集さんの言葉を再確認されてくれます。

ブログにみなさんが書いておられる言葉を読むと、この感覚を味わっているのは自分だけではないということがわかって気が楽になります。

体一つで生まれてきたのだから、最後はまた体一つで逝けばよいことです。