The Rolling Stones

さっきコンビニで流れていたラジオから The Rolling Stones の She's Like a Rainbow が聞こえてきてあまりに懐かしくて固まってしまったのだけど、そういう大昔に飽き果てるまで聴いたのに今はもう思い出すこともないような曲が思いがけず記憶の奥から引っ張り出された瞬間に込み上げてくる歓喜にはどうやら換え難いものがあって、それは恐らく、昔その人をして何度も何度も聴かしめたそのメロディや歌詞自体のエネルギーに、時間を置いて聴いたことによってしか得られないノスタルジーや、その当時の空気や匂いや思いなど周辺記憶のフラッシュバックまでもが加わって、そいつらに一挙に襲撃されるからで、ともあれ舞い上がってしまって、ITunesで衝動買いですよ。

She's Like a Rainbow - The Rolling Stones :

ついでに

Ruby Tuesday - Rolling Stones :


The Rolling Stones - Out Of Time (High Quality) :


僕らの世代でThe BeatlesThe Rolling Stonesを聴く人は大抵そうだと思うが、自分も完全に父親の影響で聴いていた。The Rolling Stonesは多分ハードな曲の方が有名だけど、自分はバラードっぽい曲がすごく好きだった。実家のCDラックひっくり返したら色々面白いものが出てくるんだろうな。

手塚雄二

最近電車で「エキからエコ。」という、コピーだけはやけにセンスのない、しかし眼を奪われる吊り広告を見た。

雌雄のライオンが並んだ現代日本画が載せられているだけの広告なのだけど、その絵を一瞬で気に入った。
調べてみると、手塚雄二という日本画家の描いた『気』という絵で。

http://www.jarap.jp/eco/artist/index.html


毅然とした二頭のライオンの眼、優くて濃い砂色、鬣の掠れたような筆遣い。
しばらく吊り広告の前に立ち尽くしてしまった。

なんとまあセクシー。

コードの抽象化

最近は雑務に追われて自分の仕事をあまりできていなかったのだけど、今日は久しぶりにまともに機能開発に打ち込めた。プログラミングってばやっぱ楽しいよ。


先日読んだ記事でとても印象的なものがあった。

http://steps.dodgson.org/?date=20090503


コードの抽象化を行う目的・タイミング・程度についての考察。
まとめがてら追って見る。

抽象化とは何か

曰く、理解の助けになる抽象化と対象との距離を生む抽象化があると。前者はプログラムの対象の本質を捉えた上でそれらに適切な名前を与えてやること。後者はプログラムに再利用性を与えるためにより高次のレイヤーまで抽象化を押し進めること(それを補うためにドキュメントが必要になってくるという説)。これは別物ではなくて程度の差だといえそうだ。そうすると、どんな場合にどの程度の抽象化を行うべきなのかということになる。

投機的抽象 VS YAGNI →妥協案としての「目配せ」へ

将来の柔軟性・拡張性を見越してその時点では過剰と判断されるまでの抽象化を行うべきか(投機的抽象)、抽象化は必要になったときに必要な分だけ行うべきか(YAGNI)という話。
将来への過剰な危機管理が現在の最適解を見失わせるという話が頭では理解できる一方で、経験から高い確度で将来が見えるときに先手を打たないということもできない。そういうジレンマの中で筆者は先行投資のリスクヘッジを行いつつ控えめな警鐘をならしておく(目くばせ)という手法をとることがおおくなったという。
この手法の痛いところは警鐘を聞いてくれる、或はそれが聞こえる人間が周囲にいなければほとんどメリットを生まないというところにある。

リファクタリング主義者曰く

そもそも投機的抽象も目くばせもプログラムの対象を理解していないことが原因なんだと。試行錯誤(testとリファクタリング)を繰り返すことで対象への理解を深めていくことこそが重要で、それができれば必然的に必要十分な程度の抽象化に落ち着くはずだと。

結局?

扱っているものにもよるかも知れないが、現実のソフトウェア開発では大抵、対象を完全に理解し尽くすことなどできない。情報・時間・能力が足りないのかも知れないし、対象とそれを取り巻く状況自体が変化するのかも知れない。僕らはそれを前提にして、何らかの方法を選択して前に進むしかないことが多い。どの方法がベストかはその時と場合によるだろうし、どれをとっても地獄ということもあるかもしれない。つまりは曖昧な対象を目の前にビジネスをするときのジレンマとどう向き合うかという話。

確実にできることは、どんな方法があるのかを知ること、経験を積むこと、それらをベースにして考え続けること、そしてそれを繰り返すこと。大きな目で見た時、入社してからこのサイクルをだいたい2周くらいした。なんか遅いし、ちょっと笑っちまうくらい苦々しい記憶。それこそ対象の理解が覚束ないために抽象化の程度と方法を間違えてきた。少しは階段を上っていればいいのだけど。でもまあ、今の仕事の何が面白いってそれが面白いし、そういう試行錯誤がもっと効率よくされなければいい加減まずいんでないかという危機感も強い。自分が扱っているソフトウェアは同じ製品のバージョンアップを重ねて行くものなので、将来の柔軟性・拡張性が生命線になる。Martin Fawlerの言う負債の利子率が極度に高いわけで、まずは最低限必要だと確信できる抽象化から取り組んで行くだけでも効果はあるはず。

よく頑張った

年が明けて4ヶ月が経とうとしているけど、あけましておめでとうございます。


『岳』という漫画がある。

岳 (1) (ビッグコミックス)

岳 (1) (ビッグコミックス)

世界の名峰をいくつも登り日本に帰ってきた島崎三歩。
彼の日本アルプスでの山岳救助ボランティアとしての生き様を描く物語。


島崎三歩が危険を冒して救助要請者のもとに辿り着いた時(彼らは既に亡くなっていることも多いのだが)、いつも大声でいう言葉があって、

「よく頑張った!!」「山に来てくれてありがとう!!」

と。その言葉は彼らの様々な思いを一瞬にして浄化する。登頂の感動、一転して生死の境で味わった極限の緊張感・不安・後悔、肉体的な苦痛、これで助かったという安心感、自分が求めた登山の代償として支払われたあまりにも多大な労力に対する面目のなさ(時にはそれが遺書に記されている)。そういうものを全て受け入れて三歩はよく頑張ったと大声で言い放つ。そのとき、もう何というのか、ぐわっとこみ上げてくる。

三歩の言葉によって浄化されている「もの」は何なのだろう。価値判断だ。成功ではなく失敗をし、快楽ではなく苦痛を得、人には感動ではなく迷惑を与え、価値ではなく損失を生んだ、そういう価値判断による迷いや後悔を三歩の言葉はぶった切って飛び越える。そのときにこみ上げてくるのが、ああそうだよねって思いなのではないか。

現代の価値判断の基準として最も一般的なものの一つは貨幣だ。そのような枠のなかにある社会では、最終的に貨幣価値という成果を生まないものはいつもどこか軽視される。自分だってそのなかに生きているのでその感覚は骨身に沁みているというか、正確には専らそのなかに埋没している。でも人間にはその枠が取っ払われる瞬間というのがあって、そういうときには誰しも何かちがくねえかと思う(もちろん、豊かさそれ自体を否定するわけではなくて)。

ともあれ、既成概念を壊すような何かが始まるとしたらそういう「何かちがくねえか」という違和感や絶望感からだ。枠に寄り添いたいのが人間の弱さだし、それを自らぶち壊せるのが人間の強さだよねって書いて、先日の村上春樹のスピーチを思い出した。とてもいいスピーチなので読んだことない人は是非とも。


村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳 ー 極東ブログ

「私が、高く堅固な一つの壁とそれにぶつけられた一つの卵の間にいるときは、つねに卵の側に立つ。」

ええ、壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているか決めずにはいられない人もいますし、そうですね、時の流れや歴史が決めることもあるでしょう。でも、理由はなんであれ、小説家が壁の側に立って作品を書いても、それに何の価値があるのでしょうか。


何が正しくて何が間違っていようと、何が価値で何が無価値だろうと、そんなもの飛び越えて「お前はよく頑張った」って。

トンマッコルへようこそ


トンマッコルへようこそ』を観た。結論から言うといい映画だと思いました。
以下、少しネタばれっぽい話もあり。



舞台は朝鮮戦争末期(1950年)、山奥の小さな集落だ。その集落で3組の兵士が鉢合わせる。飛行機が墜落し、助けられたアメリカ軍兵士。敗走の末、村に辿り着いた2人の韓国軍兵士と、3人の北朝鮮人民軍兵士。当然、南北の兵士は殺し合い寸前の敵対関係となる。彼らはこれまで凄惨な殺し合いをしてきたもの同士であり、和解する余地など見つからないように見える。

ここで最初の見せ場がある。戦争も武器も知らない村人たちがよってたかって彼らの腰を砕いていくのだ。銃と手榴弾を握って向き合う兵士たちの目の前で、男たちはイノシシに荒らされた畑の心配をし、子供たちはきゃあきゃあ遊びながら走り回る。銃口を向けられて「動くな!」と怒鳴られた婆さんは「動かなきゃ便所に行けないよ」といってすたすた歩いて行ってしまう。そんな馬鹿々々しい状況のなかでも彼らは意地だけで一晩中銃を向け合って立ち尽くす。最終的にその意地すら霧散させるのが何だったのかは映画を観た方がいいかもしれない。

こういう腰の砕き方は馬鹿にできない力を持っていると自分は思っている。感情や怨念や思考の渦に囚われている人間の横にふと、そのしがらみから完全に解放されている人間がいたとしたらどうだろう。あるいは人間でなくてもいい、自然でも動物でも絵でも。それが、自分が呪縛に囚われている事を無意識的にであれ気づかせてくれる可能性は多いにあり得る。

で、その後、3組の兵士たちは次第に信頼関係を築いていくことになる。その過程も、雄大な山の景色も、何とも微笑ましいシーンの連続だ。『このままでは終わるわけはない』という予測がそれを一層印象的にさせる。

後半でぎょっとしたのが、墜落したアメリカ兵を探して連合軍兵士が村を襲撃しにきたシーンだった。何にってあんた、人間の「キャップ」に。この映画は最初戦闘シーンから始まる。そこでは通常の戦争映画と同程度の凄惨な映像が使われていて、当然観ている方は強い緊張を強いられる。その緊張が、舞台が村に移った事で次第に解かれて行き、さっきあんな戦場をくぐってきた兵士がこんなにも平和な暮らしに戻ったという事に今度はひどく安心感を覚える。その安心感がピークに達した瞬間に村が襲撃されるのだ。ようやく普通の生活に戻りかけた兵士たちの前に、「戦時の緊張感と暴力性」を身に纏った人間が現れたとき、さっきの安心感が一瞬にして裏切られる。ああもう。なんで戦争…。

興味ある方は是非観てみてください。


あ、やべえ。もうクリスマス・イブだ。
メリークリスマス☆

沢木耕太郎祭 『テロルの決算』

新装版 テロルの決算 (文春文庫)

新装版 テロルの決算 (文春文庫)

60年安保闘争が収束を見せた直後の1960年10月12日、日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社の三党首立会演説会において、当時社会党委員長だった浅沼稲次郎が17歳の右翼少年山口二矢(おとや)に刺殺されるという事件が起きた。その後山口は少年鑑別所内で自殺している。この事件は、起きた事象の表面をなぞれば「右翼の鉄砲玉が日本の赤化を阻止すべく左翼の親玉を刺殺した」という単純な物語になりかねない。それを沢木は、浅沼と山口が日比谷公会堂で交錯する瞬間までの各々の人生を、外的・内的状況の変遷にフォーカスして丁寧に追うことで濃密なノンフィクションに仕上げている。

その詳細は省くが、山口も浅沼も尋常でなはい真剣さでもって当時の日本を憂いていた。それを、何が一方の一方による殺害にまで結びつけたのか。やりきれない話だが、他ならぬ両者の「尋常でない真剣さが」ということになる気がする。その悲劇性は以下の文章に集約されている。

p.106
ある意味で哀しすぎるほど哀しい浅沼の一生を、二矢は「戦前左翼であったが弾圧されると右翼的な組織を作り、戦後左翼的風潮になると恥ずかしくもなく、また左翼に走り便乗した日和見主義者」のそれとしか見ようとしなかった。

p.197
浅沼の真の悲劇とは、このような少年に命を狙われるということ自体にあるのではなく、彼の生涯で最も美しい自己表現の言葉が、ついに人びとの耳に届くことなく、すべてが政治的な言語に翻訳されてしまったことにあったのかもしれない。

この本を読むにあたって気をつけていたのは、政治の季節を生きた人びとが何を考えていたかという事だ。この事件の主人公たちを追うことで、ある程度当時の空気にリアリティを持つことが出来るようになった。当時自分が学生だったら、どちらかの陣営に身を寄せて学生運動に参加していたのだろうか。していないとは言い切れないし、ではあの時代に他に何をすべきだったのか、すべきことがあったとして実際にできたのか、検討もつかない。

で、わざわざそんな昔に思いを馳せる事に何か意味があるのか。あると思います。
江戸・明治・大正はともかく(もちろん厳密には「ともかく」ではないのだけど)、昭和という時代はまだ「生」で現代に直結している(特に、僕らにとってリアルにイメージできるぎりぎりのところが戦後以降なのではないだろうか)。これから生きて行く方向を決めるにあたって、今という時代の出生を皮膚感覚を伴うように知ることは重要なことだと思う。ちなみに安保闘争収束以降、日本は掌を返したかのごとく高度経済成長へと突入して行く。その意味においても、1960年前後に何があったのかは知っておきたい。


最後にもうひとつ。後書きに沢木の興味深い告白があった。少し長いが引く。

p.369 あとがき 3
私は少年時代から夭折した者に惹かれつづけていた。しかし、私が何人かの夭折者に心を動かされていたのは、必ずしも彼らが「若くして死んだ」からではなく、彼らが「完璧な瞬間」を味わったことがあるからだったのではないか。私は幼い頃から、「完璧な瞬間」という幻を追いかけていたのであり、その象徴が「夭折」ということだったのではないか。なぜなら、「完璧な瞬間」は、間近の死によってさらに完璧なものになるからだ。私に取って重要だったのは、「若くして死ぬ」ということでなく、「完璧な瞬間」を味わうことだった・・・。

だから、沢木耕太郎を読んでいて面白くて仕方がないのだと納得した。