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岡本太郎は一生涯分の食糧と作った作品の量がおなじくらいなのでは、とくだらんことを南青山の記念館を訪ねて思ったりする。

 

*退勤後や休みの日に時間をつくって展示や公演を観に行く、というのが企画側にとっての「一般客」のイメージだけれど、はたしてそう簡単に一般客になれるものなのか、とたびたび思う。日々苦労の多い勤め人がコンサートに足を運ぶのはそれなりの理由があるはずだし(惰性で行くにはエネルギーがいる)、足早に観覧できる内容からといって、展示物の一つ一つが、いちいちあなたを癒してくれるわけでもないはず。

*と思うと、客になるというのはなかなか積極的な行為だな、と思わずにはいられない。特にこういったものはサービスではないので、ときに客にとって苦味を与える可能性もあるわけで。それでも観に来てくれるのは、癒されるだけでなく何かちょっとした賭けを打っているともいえる。客になった甲斐があるかもしれない、と思うための賭け。

*お金や時間は、こういうなんだかよくわからないものにも投げられることがある。そしてそれは当然だ、と一応は思う。けれどこのことを「一応」と留保しないといけないのは、ときにわたしたち(仮にアートとかカルチャーと呼ぶけれど)の行いをサービスと混同することからおこるトラブルに巻き込まれることがあるからだ。金を返せ、時間を返せ、という類のトラブル。不都合なものに触れてしまったがための客の表明は、自分の資本を目の前にして、作品とサービスを一緒くたに考えてしまうから起こる。というか、資本がすなわち快に通じる、という誤解と言ってもいいかもしれない。資本は笑うときもあれば、泣いたり怒ったりすることもある、ということを分かることは簡単じゃない。

*笑わないかもしれない資本に同意することが、アートやカルチャーに触れる「客」ということかもしれない。たしかにサービス一辺倒な視点からみれば積極的には見える。苦味も付き合う腹があるわけだから。

*ただちに付け加えるけど、だからと言って毎度「客」を貫け、ということじゃない。ピタゴラスイッチでやってた僕のお父さんの歌みたいなもので、会社にいるとき会社員、電車に乗れば乗客、みたいな感じで二種類の客を行ったり来たりすればいい、と思う。作品の客と、サービスの客。

*こう考えると、なるほど外連味・サービス精神というのは、作品にサービスへのアース線を敷くようなものなのか、と気づく。鑑賞者側からすれば、滑稽さからくる笑いなどは作品の堅牢な作品性を少し切り崩す、ちょっとしたサービスへの避暑なのかも、と。

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どこかのWeb記事で現代美術を長期連載漫画にたとえていたのが印象に残っている。最新回にねばねばとまとわりつく文脈に気づくと、そのコンテンツを初めてアクセスの人にとってはなんだか気だるく感じてしまうのも無理はない。だからこそブーレーズは「歴史を必要としなくなる時代がくる」と奇妙な預言を残していたわけで。

このあいだ近藤譲講演「対位法の三つの顔」を聞いてきて、いろいろと興味深かった。対位法の従来的なイメージである、複数の声部を組み合わせる技術(第1の顔)を批判的に検討し、対位法の起源を単一声部に厚みを持たせる技術(第2の顔)に見出したところで、第1の顔のような奇妙な対位法イメージを醸出するまでに発展した音楽が、「聴きようによっては和声的にも対位法的にも聴こえる」という第3の顔をもつようになった。という。近藤は自分の作品にも対位法への欲望が首をもたげることがある、と言い、それを第1の顔になぞらえて説明していた。

第1の顔、なところがミソ。「線の音楽」という号砲に限らず、近藤譲という作曲家は自己教育の作曲家で、その鍵は知覚によって音楽世界を再構成することにある。しばしば近藤は自分の音大受験へのエピソードをよく話すけれど、それは近藤の取り組む問題が、受験を志すその最初から今日まで一貫して変わっていないからだろう。近藤より先行する世代の音楽家たちが音楽や作曲に向けて投げてきた言い回し(耳がいいとか、和音を聞くと特定の楽器が聞こえてくるとか)を、文字通り受け取るとどう作曲できるか、それをラジカルすぎるほど極端に考えることが、近藤の最初期から継続しているプロジェクトなのではないか。

ようするに知覚を通して対位法を再発明しようとしているわけだけど、しかし第1の顔の再現になってしまうのが一つの限界か。ここでは知覚=聴取なわけだけど、対位法はその技術的原理からマクロな視点をもたないはずなので、対位法を対位法として知覚することは理論的に不可能なのではないか。対位法は局地的交渉の束であり、声部の数に応じて視点が、つまり聴取ポイントが設定されるはず。だからいつも束としてのひとまとまりを聴くにすぎない。だから全体を聴く、というとき、それは対位法としてではなく和声として聞いているわけだ。講義の最後に司会者に答えるかたちで「学習フーガは和声ですから」とさりげなく言ったのは、じつに意義深いこと。

知覚を通して再発明する。知覚されたものが記憶と結びついてひとつの像をむすぶ。それが「歴史を必要としなくなる時代」の一つの方法なのだろうか(ようやく最初の話になった)。そう思うと近藤が第2の顔を見出したにもかかわらずそれ以上近づけなかったことに、なにか考えるところがないでもない。

 

 

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現代曲の楽譜をみるのにまとまった手段があるわけではなく、基本的に個別にあたることになる。おもえばその過程で海外の出版社の仕組みを学んだような気もする。

大学の図書館はもうしゃぶるように世話になった。高すぎて手が出しづらい楽譜とか、研究以外はレンタルしか取り扱ってない楽譜は特に。図書館は学生で作ってなんぼと思っているので、所蔵してない譜面があれば実際読みたいかを二の次にしても購入希望を申請して、だけどその到着は待たず別の音大図書館へ足を運ぶことばっかりだった。なので作曲家によってはまとめて借りたりしてたから、作曲家と図書館とが記憶で紐づいてたりする。望月さんなら玉川上水(入学時は学校には一冊もなかった)、シャリーノなら仙川、みたいに。

新図書館移行後にできた現代曲中心の開架を眺めていると、そのほとんどが学生の購入希望によるものと気づいた。請求記号の番号順でみると買った順番になるので、部分的に自分の興味の変遷と重なるようになってる。熱中したけどそれほどでもない作品、通り過ぎたけど奥深い作品、まだいろいろあるなと昨日ふと思った。

正確に数えてないけど、僕も少なくとも200冊は買ってもらったんじゃないか。母校は音大と美大がくっついているせいか、他の音大と同じように領域をカバーするのがなかなか大変らしい。学部のころはあの曲すらないのか、と思ったものだけど。なので図書館は基本的に学生の要望は極力応えてくれた。それが棚に反映されていて、棚の並びが学生の興味でひしめいているのが、ちょっと面白い。ただ今は昔より楽に発注できるので、借りるより買うほうが絶対いいんだけど。サインとか貰いにくいし(俗な理由)

今の学部生はどのぐらい図書館を使い倒してるんだろか。こういうのは後に残るから、後輩にも伝わってると良いのだが。

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修論を出した。なんというか7年経ってはじめて大学らしいことをした気がする。音大らしいことなら山ほどしたけど。

学部入学のころは、修士の修了要件は作品だけで良かった。それが僕の院試の直前に論文が加わって、あわてて題目を考えさせられた。作品みたくエイヤッとはできないので、院進してからはちまちまと文献を繰り、こもる日々だった。本当にこもってばかりいた。そうやって3年過ごして、まあなんとかなるものだなと。

どうも自由に生きて過ぎる気がするけど(そして多くの人は気もするどころじゃないだろうと突っ込まずにはいられないと思うけど)そんなことは知らんのだ。そんな反省でコロっと変わるならここまで粘り強く学生なんぞ続かんのだ。どこかの時点から人生をやり直そうが、狂いやすい自分に内外両面から一番必然性を与えられるのは結局今のルートなんだろうと思う。まわりへの迷惑のかけ方も含めて。そういうことは在院中何度となく思ったし、そう思うほうが一番責任がとれる。

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*これは塩鯖。この正月の風習はかなり局地的なのではと思うが、うちではこれが欠かせない。死ぬほどうまい。年始にだけあらわれるわがソウルフードでござい。

 

*今年は「切って血の出る一年」と名付けてみた。「切って血の出る」は中上健次紀州』にあらわれる文句。後にも先にもこの一年のせいだと思えるような、そういう動き方をしたい。さっそく今月から山場。退屈な冗談ごとには構わないで、今見えているものをしっかりと見据えていく。どうやら多くの人にとって、今年は攻めの一年と映っているらしい。それはそこかしこに勝負の舞台があらわれるということ。自他それぞれの成果に励まされる一年となれば頼もしい。

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 Suicaは高校の通学定期として持ちはじめて、もうすぐ干支も一回り。欠かさず出していた履歴の印字もこの厚さになっていた。遠出の時は学割で切符を買うから、ここには今のところ近場の移動の履歴だけがズラズラ並んでる。ざっと10年、けど行く場所にあまり変化もなく。