自傷行為
自傷行為というと、リストカットを思い浮かべる人が多くいると思うのだが、
個人的な意見としては、私もやっていた自分自身を叩いたり、噛んだり、髪を引っ張ったりする方が実際的な数としては多いのではないかと思う。
なぜなら、そっちの方がわざわざハサミやカッターを探すこともなく、衝動的に、手っ取り早く自分を傷つけられるからだ。
(あくまで個人的な意見なので本当の所どうなのかはわからない)
この自分自身を傷付ける行為だが、正直なところどういう理由でやっていたか今でもわからない。
ただそれをする時は、大きな不安であったり、焦りであったり、恐怖であったりが自分の中でぐるぐるしていて、殆どが衝動的にやっていたと思う。
この、度々でてくる感情が自分の中で渦巻く感覚だが、うまく説明はできないのだが、今でも本当に恐ろしいものだと思う。
それは本当に、大きな不安や恐怖が体の外まで溢れ出て、それ以外にはなにも考えられないほどの大きなものであったし、
それらの感情を自分ではもう抑えることができなくて、自分が許せなくて、泣き叫ぶや、自傷行為など、外に吐き出さないとどうにもダメだった。
人に八つ当たりできない分、自分自身に当たって、発散しないとダメだったのかもしれない。
自分を傷つければ傷つけるだけ、その大きな不安から気を逸らすことが出来ていた気がする。
主だった自傷行為に叩くや、噛むを使っていた私も、一度だけ、手首を切った事がある。
元々注射だったり、紙で手を切ったりする痛さが苦手な私にとって、後にも先にも手首を切るのはその1回きりだったし、そこまで深く傷つけてはいないので、傷跡ももうないが、
手首が切れて、切れ目から玉の様な血がぷつりと出てきた時、じんじんと手首が痛む時、身体中を巡っていた恐怖だとか不安が、頭のてっぺんからさーっと引いていった感覚を今でも覚えている。
代わりに残ったのは虚しさであり、決して気分が清々するものではなかったが、自分の中をぐるぐるして埋め尽くしていた不安や恐怖が引いていくのは、泣けるほどに安心した。
自分の存在価値
小学校の頃からテストの点数が悪いわけではなかったが、中学校に入って初めてのテストで学年で3位の成績を取ることができた。
親を始め周囲の人間に褒められたことは、小学生の時からいじめられていた自分にとって、久しぶりに他人に認めてもらえた瞬間でもあったと思う。
今思い返し、よく考えれば、それがきっかけではないかとも思うのだが、
それ以降テストの度に必死に勉強をした。
ここまでなら良かったのだが、テストがある度に、
「テストでいい点数を取らなければ、自分に価値などないのだ」
「運動もできず、容姿も綺麗ではないし、人間関係が良好でもない自分にとって、勉強は唯一の取得なのだ」
「これがなくなったら、自分は本当に要らない子になってしまう」
と思うようになっていた。
だからテスト前は必死だったし、一つでもわからない問題があればとてつもない不安に襲われた。
泣きながら、時に自分に苛立ちながら、時に癇癪を起こすようにしながら勉強をしていた。
泣きながら、「これがダメだったら私にはもうなにもなくなってしまうのだ」と勉強する私に、父は何度も「そんなことはない」といいながら、私の不安を取り除くように、わからない問題を教えてくれた。
わからない部分が改善されると、安心できた。
1番になれたことはなかったが、学年の上位の成績をキープし続けられることは、「自分はまだ大丈夫だ」と思わせてくれた。
受験は失敗してしまったが、それでも偏差値の良い学校への進学は、まだ自分は価値のある人間だと思わせてくれた。
だからこそ、高校に入って、何一つ思い出せない時は、ショックなど通り越してただただ自分自身に失望した。
再び勉強しようと思っても、中学の時のように一生懸命できなかった。
不安や恐怖よりも、虚無感の方が大きかったと思う。
ここにはただでさえ自分よりも勉強が出来る子がたくさんいるのに、自分は何なんだろう、
友達が出来ても、常に不安や緊張でうまく付き合えているとは言えないのに、自分は何故彼女達と一緒にいていいのだろうか、
勉強も、分からなくなってしまった。
あれだけ一生懸命やっていたはずなのに、その一生懸命さすら取り戻せない。
ついに自分にはなにもなくなってしまったのだと、感じた。
主な症状
はっきりと症状が現れたのがいつだかは覚えていないのだが、
覚えている限りで中学生頃から高校生、大学に入るまでのおよそ5、6年だか7年だかは少なくともこの主な症状と共に生きていた。
強い恐怖感や焦り、不安感に襲われる。
それらの感情が自分の中でぐるぐると渦巻いていて、気持ちを抑えきれずに泣き叫ぶ。
自分自身を強く叩いたり、髪を引っ張ったり、手や腕を噛んだりの自傷行為。
自分の存在が自分自身で認められなかったのか、ただ漠然と、それこそ暗示のように「死にたい」「消えてしまえたらいいのに」と常に思っていた。
泣き叫んだりするのに明確なきっかけがある時もあれば、ない時もあった。
きっかけといっても、おそらく普通の人がそれと出会ってもこんなことにはならないだろう。
その普通であればないだろう事が現れたのは私自身は当然、周囲の人間もひどく傷つけた事だろう。
症状と通院、家族との関係
以上が、私の小学校から高校までの生活である。
ここからは中学の頃から高校中退以降、大学に入る前までの、
私に現れた症状や、それに関わった人の話、通院について、家族との関係などの話を、少しずつして行こうと思う。
留年と中退。
親にはとても怒られた。
どうしてまた行けないのだと。
せっかく同じ中学の子がいないところへ行ったのに、なぜ行けないのだと。
中学の時と同じく、引きずられるようにして学校に行くこともあった。
クラスの子達は私が学校にいるのを見るととても心配そうに、私に話しかけてくれたが、
私は彼女達になにも答えることができなかった。
保健室登校が許されても、人に会うのが恐ろしくて外へはとても出られなかった。
1年の担任の先生はとても若く、一生懸命な人だった。出席日数やテストの点数が足りなくても、必死に周りの先生と相談し、サポートしてくれ、なんとか2年にあがらせてもらえた。
彼は涙ながらに、「なんの力にもなれずすみません」と、私と親に言ってきたのを、今でも覚えている。
2年は、学校にほとんど行けず、出席日数も足りず、せめて学校にさえ来てくれればなんとかしたいという先生方の協力もあったにも関わらず、私はほとんど学校に行くことができなかった。
どちらにしろ留年するしか方法がなくなったときは、一度休学して、ゆっくり休んだ方がいいとの事で、休ませてもらった。
2度目の2年は、始め、なんとか登校をしていた。
しかし人の目が怖いことと、その中にい続ける不安に耐えられず、程なくして再び学校へは通えなくなった。
2度目の2年ももう後がないと言われ、3度目をするか、これからなんとか踏ん張るか、選択肢はいくつかあったが、私は、中退を選んだ。
このまま学校に行かなければならないという不安と、恐怖に晒され続けてしまえば、いよいよ自分が自ら命を断つか、完全に壊れてしまうか、そのどちらかが、そう遠く無いところに横たわっている気がした。
親には散々怒られたが、私はここで、もう限界なのだと、すでに虚ろになりかけた心で、そう判断した。
トラウマ
今改めて思えばそれはトラウマのようなものだったのだと思うのだが、
高校入学してからは、人の目がとても恐ろしかった。
みんなは私をいじめたりしない。
現にこうして、春を終えた今でも仲良くしてくれてるじゃないか。
風邪をひいて休んでも、心配をしてくれるじゃないか。
みんながみんなと接するのと同じように、みんなは私とも接してくれているじゃないかと、
どれだけ自分自身に言い聞かせても、
自分のどこかおかしな言動が影で笑われたりしているのではないのだろうか、
いつか、この人たちは私のことを嫌いになって仲間はずれにするのではないのだろうかと
不安や恐ろしさは消えなかった。
友達と一緒にいても、楽しいはずなのに、どこか不安ばかりが募った。
それは学祭の時だった。
学祭自体も、ほぼ初めてみんなでわいわいしながら準備を進めていたことに、始終とてもどきどきしていた。周りとうまく合わせられるだろうか、邪魔にはなってないだろうかと、心の中がざわついていても、自分なりに一生懸命がんばった。
学祭の最終日。
みんなで頑張ったのを労おうと、打ち上げ会が開かれた。
私は学祭の最中、所属していた放送部としても活動していたこともあり、後片付けに追われていた。
事前に、もしかしたら行けないかもしれないとは言ってあった。
しかしせっかく誘ってくれたのだからと、片付けが終わったあと急いで打ち上げ会場に向かった。
胸がとてもどきどきしていた気がする。
せっかく誘ってくれたのに遅くなってしまった、まだ行っても、迷惑ではないだろうか。今更行っても、迷惑だろうか。
打ち上げをすることになっていたお店の場所を調べようと携帯を取り出したはいいが、充電が切れていた。
頭が真っ白になった。
あぁなんで今電池が無くなるんだろう。
あらかじめちゃんと調べて紙に書いておけばよかった。
これじゃぁ連絡もできない。
ひとまず最寄り駅にさえ行けば、地図でわかるかもしれないとも思ったが、残念ながらわからなかった。
時間はどんどんと過ぎていくし、連絡も取れないし、次第に焦りと、不安と、恐怖が募っていった。
結局打ち上げに参加することはできず、後日打ち上げに誘ってくれた子に謝った。
彼女は気にしないでと言ってくれた。
許して貰えた。
しかし私の中で日々積み重なっていた不安と、緊張と、恐怖は、そこで遂に限界を迎えたようだった。
自分でも不思議だった、彼らは私に何もしておらず、仲良くしてくれていたのに、なぜ私はこんなにも彼らに恐怖を感じているのだろうか。
どうしていじめっ子が1人も居ない学校へ行くのがこんなにも恐ろしくてたまらないのだろうか。
最初は学校へ行くのが憂鬱だった。
次は、体調が悪いと学校を休み始めた。
通えていたのは半年と少し。
私は再び不登校になった。
高校生活
初めはとてもどきどきしていた。
それでも、周りの子に挨拶をしたり、一生懸命話に加わったり、出来るだけ暗いところのないように、明るい性格だと見てもらえるように、自分に出来ることを精一杯にやった。
挨拶をしてくれる子ができた、一緒に教室を移動したり、お昼ご飯を一緒に食べれる子ができた。
一緒に帰ったり、その帰りに寄り道してお菓子を買い食いしたり、朝会えたら教室まで一緒に行けたり。
嬉しかった。
しかしそれと同時に、私の中では焦りや不安も大きくあった。
今の話し方はおかしかっただろうか。
もっとこうした方が良かっただろうか。
自分は普通の子に見えているだろうか。
ちゃんと、みんなと同じように出来ているだろうか。
この子達は、私を嫌いになるだろうか。
クラスのみんなから、どう思われているだろうか。
陰口は言われていないだろうか。
どこかおかしな言動があったとして、それを笑われてはいないだろうか。
今一緒にいる子達は、本当に、私といて楽しくて、一緒にいてくれているのだろうか。
他にも、自分で自分がおかしいと感じることはあった。
一番初めにおかしいと感じたのは、授業を受けていて、中学校までに勉強したことが思い出せなくなっていたことだった。
最初は受験が終わってから、そんなに勉強していなかったから忘れてしまったのだろうと思っていた。
しかし、数学の公式をみても何の公式かわからなかった。簡単な数式の計算も、どう解けば良いのかわからない。友達に教えてもらって、1度は解けるものの、また思い出せなくなってしまう。
国語の古文の活用がわからない。
歴史の年号がわからない。
理科の用語が、英語の文法が単語が…
なにか自分の頭の中にぽっかりと穴が空いているようだった。
とても不安だった。