動物の権利を真面目に考える

動物の権利論関係の文献(日本語・英語・仏語)の読書メモ、紹介。

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights (「人権から有感動物の権利へ」)の紹介④(感想)

 以下は、Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights (「人権から有感動物の権利へ」)の簡単なまとめです。

 この論文の内容は3回にわたり紹介したので、詳細に興味がある人はそちらをどうぞ。

 以下は私自身の備忘録的なコメントですが、こちらだけ読んでも論文の内容が何となくつかめるかもしれません。

感想

 著者のように、権利の利益説を採用し、また、感覚を持つ存在は利益を持つ(ことができる)ことから、動物の権利を主張するという展開は、動物倫理に少しでも触れたことがある人であるならばおなじみのものだろう。あるいは、著者も参照しているファインバーグのような法哲学者の権利論においても同様の主張がなされているように、人外動物を権利主体とする考えは、権利の利益説を一貫させるのであれば、当然の帰結として導き出されるはずである。
 
 しかしながら、人権をめぐる議論、とりわけこれを擁護する議論において、この点が十分に指摘されてきたわけではないのかもしれない。この点については、安藤・大屋(2017)『法哲学法哲学の対話』における「人権」をめぐる対話が示唆的である。


瀧川・宇佐美・大屋『法哲学』有斐閣、2014)においても、「人権」「自然の権利」に関する説明箇所において、権利の利益説が取り上げられ、この立場に立つのであれば「動物は利益をもち、したがって権利を持つといえそうである」(187)とされている。

この論文の独自性は、権利論の枠組みにおいて予想される反論に応えつつ、動物の権利を肯定してみせたことにある。しかも著者は単に動物の権利を肯定するにとどまらず、「人権」という一般的に「普遍的」と見なされている基本概念が内包する閉鎖性という矛盾を指摘し、人権概念を根底において支える考える方を一貫させるとことで、人権概念を遺棄し、「有感動物の権利」として再定義する。この意味で、この論文はとりわけ「人権」を擁護するすべての者たちに向けて書かれていると言ってもいいのかもしれない(以下の引用を参照)。
 

The human rights movement cannot consistently turn its eyes away from the suffering and rights violations of non-human sentient creatures. These creatures are sentient like us; these creatures suffer like us; these creatures have interests like us; and these creatures have basic rights like us. To acknowledge these simple points, human rights should be reconceptualized as sentient rights.

憲法改正による動物保護の可能性(Oliver LE BOT "Inscrire l’animal dans la Constitution"(「憲法に動物を書き込む」)

以下は、Oliver LE BOT "Inscrire l’animal dans la Constitution"(「憲法に動物を書き込む」)という文章の読書メモ。
www.slate.fr

著者は法学者でフランスのエクス=マルセイユ大学の先生。
憲法を改正し動物保護に関する条文を加えることで、よりよい動物保護を実現することができるという立場から議論を展開しているようだ。
同じ著者による、動物保護の実現手段としての動物の権利に対する問題点を論じている論文は以下で紹介した。

teran2teran.hatenablog.com

以下は、上述の文章の概要。

幾つかの国がすでに、憲法を修正し、動物に関する条項を加えている。例えばインドは1976年に生物に対する「共感の義務」を加えた。ブラジルは1988年に動物に対する虐待を憲法において禁じた。ヨーロッパの様々な国の憲法にも動物に関する文言が書き加えられていった。
「動物の尊厳」(スイス)、「動物の保護」(ドイツ)、動物の「福祉」(ルクセンブルク)などである。

フランスが憲法に同様の条項を導入するとしたら、二つのケースが考えられる。ひとつは最小限のものであり、「国が動物保護を保障する」ことを命じる。もうひとつはより積極的なもので、「動物は生命と感覚する能力を持つものであり、その生命と福祉は尊重されなければならない」と言明する。

こうした修正の具体的なインパクトとはどのようなものだろうか。

まず、修正された憲法にそぐわない法律、条例、行政に関わる諸決定は全て憲法違反となり、管轄の判事により無効とされる可能性がある。例えば、闘牛を許可する刑法521-1条は憲法評議会により無効化されると考えられる。あるいは、動物福祉の標準を尊重しないサーカスの地方自治体での公演を許可する市町村条例が、行政判事により停止されることも考えられる。

次に上述のような修正は動物保護のために、 公権力が個々人の特定の基本的権利の制限を課すことに根拠を与える。憲法に動物保護の根拠がなく、かつ、動物に関する法令や条例が、憲法が保障する財産権や信教の自由、職業の自由などと衝突している状況を考えると、その場合は、前者が問い直されることになるだろう。しかし、動物に関する法令や条例が憲法に根拠を持つのであれば、そういった可能性を逓減することができ、また政府や議会は、法による動物保護を強化することができる。

第三に動物に対する虐待的な扱いが抑止される。現状においては、動物への暴力が起訴にまで至るケースや刑が宣告されるにまで至るケースはまれであるが、こうした状況が変わる可能性がある。動物保護がより重要な価値を持つにつれ、動物に対する残酷な暴力行為が刑事告訴の案件となる頻度が増え、また、法廷がそういった行為を厳しく取り扱うことにより、抑止的な効果がもたらされるだろう。

また、裁判官による法文解釈への影響が挙げられる。ある条文に対して複数の解釈があり得るとき、動物保護を求める憲法の条項は、よりアニマル・フレンドリーな解釈を行うよう裁判官に影響を及ぼすだろう。

最後に、良心的拒否の権利が認められることになるだろう。一般的に良心的な拒否が正当と見なされるのは、問題になっている価値(例えば、いかなる場合であれ殺人は道徳的に不正であるとする考え)が広く支持されているものに限られる。憲法における動物保護の条項は、例えば生徒が良心に基づき動物実験を拒否することを正当化する根拠となりうるだろう。

憲法の中に動物を書き込むことにより、ひとつの枠組み、参照軸が定められることになる。あらゆる個人、権力機関はそのような枠組みを遵守するよう求められるのである。

この文章と関連する著者の著書は以下。そのうち読んでみたい。ありがたいことに安い。
www.amazon.co.jp

「権利」は有効な手段か? Olivier LE BOT, "Des droits fondametaux pour les animaux: une idée saugranue?"

 以下は、Olivier LE BOT, "Des droits fondametaux pour les animaux: une idée saugranue?(「動物の基本的権利」は突飛な考えか?)" (Revue Semestrielle de Droit Animalier, 1/2010)*1の概要。

 この論文は動物の権利論に批判的である。とはいえその批判は、動物に道徳的地位を認めないという考えからなされるのではない。むしろ、著者は動物の権利論者同様、動物の道徳的地位を肯定する。ただ、動物に対する道徳的な配慮を実現するにあたり、方法としての「動物の権利」には理論的にも実践的にも問題があるため、別の方法を用いて実現させるべき、というスタンスから議論を展開している。このように、動物の権利論が目指すものについては肯定的でありながら、その方法論を批判する議論はなかなか珍しい(と個人的には思う)ので、メモを残しておく。

 動物の権利論の根幹は、現在、人間だけが排他的に享受している基本的人権(基本権)を、動物にまで拡張することにある。基本権が確立されるに至る展開と、動物保護をめぐる展開は、当初は、別個に展開されてきたものだが、それらは近年合流し、動物に基本権を法的に認めるべきだとする主張を形成するに至った。
 基本権は、国家の専横を制限するために、歴史的に獲得されてきたものである。とりわけ、第二次大戦における数々の残虐行為を受け、国家による侵害に抵抗するための最低限の保証として、基本権は法秩序に確立された、という経緯がある。

 一方で、動物保護に対する法的保障を制度化する、ないし強化する、動物利用の条件を制限するといった、法分野での動向がここ数十年にわたり見られる。それらはここ最近の動物保護に対する関心を反映しているが、こういった動きは基本権の発展とは当初はまったく関係がなかった。

 しかし、20世紀末から今世紀にかけて、基本権の享有主体の範囲を人外動物にまで拡大すべきだと論じられるようになった。そうした主張は、全ての基本権を人外動物も有している、と主張しているわけではない。主張されるのは、一般に、生命権、苦痛を被らない権利(拷問を受けない権利、さらには、実験に供されない権利)、安全への権利、自由への権利(自由を剥奪されない権利、とりわけ檻に閉じ込められない権利)、平等への権利などであり、G・フランシオンのように「物」として扱われない権利を主張する者もいる。

 動物に基本権を認めるという考えは、一枚岩の主張ではなく、例えば、以下に示すような2つのタイプの主張が認められる。

①人類と大型類人猿の類似性に基づく主張
②有感であることに基づく主張

 ②はG・フランシオンらのあらゆる動物の搾取の廃絶を訴える主張が依拠するものであり、すべての有感動物に所有物として扱われない権利(もっぱら人間の目的のための手段として用いられることのない権利)としての基本権を認めるものである。
 一方、①の例として著者が挙げるのは、P・シンガーやP・カヴァリエリらによる、大型類人猿プロジェクトである。このプロジェクトは、人類と大型類人猿の遺伝学上の近さや、能力上の近さ(例えば言語能力、問題解決能力、信に基づく適切な選択、推論と一般化に基づく処理等の能力、ミラーテストから確認される自己意識)を根拠に、大型類人猿に人権に等しい権利を認めるべきだとする。もちろん、類人猿が有するこれらの能力は平均的な人間のそれに勝るものではない。一方で、人間の中には、類人猿よりも、上述の能力において劣る者もいる。しかし、だからといって、彼らの基本的人権が否定されているわけではない。そうであるならば、類人猿にも基本権を認めるべきである、というのが彼らの主張である。

 これに対して著者は、上記のような主張における「類似性」の恣意性を指摘し、幾つかの観点から批判する。例えば、類人猿とそれ以外の動物との間に明確な線がひけるのか、という問題がある。著者はこの点に関しては懐疑的であり、前者にのみ権利を認めることに正当性はないとする。あるいは、言語・理性・意識といった能力に依拠するのであれば、類人猿以上の高い言語能力を持つ動物、たとえばイルカに権利を認めないのは不当であろう。

 こういった批判に加え、著者は基本権の享有主体であることの基準として知性(認知能力)を持ち出すことの根本的な問題を指摘する。大型類人猿に権利を認めるべきという主張は、大型類人猿を道徳的配慮を受けるべき存在として見なしている。そして、上述のような認知能力の有無が、このような道徳的地位の条件とされている。著者はここに3つの問題点を認める。

  1. 道徳的地位は、主体の知性ではなく、その内在的価値に基づくと考えられるべきである。故に、例えば2者の知性を比較した場合に、劣っているほうは、そのことを理由に道徳的地位にないと見なされることはないし、あるいは平均的な知性の主体よりも知性が劣る主体であっても、そのことを理由に道徳的地位を失うことはない。
  2. 言語、理性、自己意識といった、特定の種の特徴が問題になるとき、個々の個体がそれぞれにおいて具体的に示す特徴が問題なっているのではない。問題になっているのは、考察対象の種が通常示す特徴であり、この意味で抽象的な特徴である(一般的な特徴と言ってもよいかもしれない)。

 1と2踏まえるならば、大型類人猿よりも劣る認知能力を持つ人間が基本権を持つ一方で前者には基本権が認められていないとしても、(前者が後者よりも認知能力において優れていることから、)これを適切でないとし、前者に基本権を拡大する主張はその論拠を失ってしまう。

 さらに3つ目の問題点として、認知能力と道徳的地位を結びつけることは、ある特定の人間にとってだけでなく、類人猿の保護にとっても問題含みである点が挙げられる。この点について著者は明示的に述べていないが、おそらくは、認知能力を道徳的地位の基準としてしまうと、人間であれ、人外動物であれ、基準に満たない個体には道徳的地位が認められないことになってしまうからだろう。それゆえ、法による動物への配慮を実現するのであれば、人類との近さではなく、フランシオンがいうように、有感性を基準とし、すべての有感動物が配慮の対象とされるべきである、と著者は述べる。

 このように著者はフランシオンの主張に賛同を示しつつも、フランシオンのそれを含む、動物の権利論にはテクニカルな面で障害があると指摘する。

 その指摘のひとつは、権利の本性に由来するものである。著者は、権利の利益説から動物の権利論を展開するフランシオンらとは異なり、権利の承認は意志を説明する能力に条件づけられていると考える。
 ただ、著者のような考えに対しては、意志を表明する能力を持たない人、例えば幼児や昏睡状態の人であっても権利を保持している事実を権利の意志説は説明できない、という批判が想定される。これに対し、著者は次のように応じる。すなわち、著者によると、権利はある種の抽象に依拠し、身体器官によって、または制度上の手段organeによって、意志を表明する能力を持つ「実体」「科famille」への帰属が重要となる。言いかえると、重要なことは、このカテゴリーへの帰属であり、個々のメンバーに説明能力が具体的にあるかないか、ということではない。それゆえ、あるメンバーが何らかの状況において、あるいは構造上の問題から、当該能力を持たないとしても、それによって権利、ないし権利を有する可能性を奪われることはない。例えば昏睡状態の人が、それによって自らの財産を奪われることはないし、ある企業が、制度上の問題から活動を凍結され、意志を表明できない状態にあったとしても、権利をはく奪されているわけではない。*2
 
 では、動物は自分自身で意志を表明できるだろうか。動物は意志を持ち、それを行動や態度などによって表明することができるのは疑いない、と著者はいう。しかし、現在の科学的な知識によって動物の意志を正確に理解するのは難しく、そのため、動物の基本権を検討するに十分なほどの確実性をもって動物の意志を理解することができていないとし、基本権の動物への拡張を問題視する。

 ふたつ目の問題点は、目的(動物の保護)と手段(動物に基本権を認める)がアンバランスであるという点である。現状において動物に基本権を認めるという主張は、あまりに急進的であり、周縁的なものにとどまっている。それにはそれなりの理由がある。まず、動物に基本権を認めるのに必要な文化的な基盤が欠けていることである。動物の権利論はようやく最近になって主張され始めたものであり、これを支える基盤はいまだ脆弱である。二つ目の理由は、基本権の射程はあくまでも人格としての人間の保護であり、人格が基本権の源泉である、ということである。この第二の理由は、基本権が獲得されてきた歴史的経緯にもかかわる。基本権は、ナチズムや全体主義の経験、つまり国家による専横、個人に対する恣意的な暴力の歴史の中から生まれ、継承されてきた。このような歴史的経緯があるゆえに、人間と基本権の間にはある種の感情的、情緒的なつながりが認められる。つまり、基本権とは「我々人間の権利」である、という感情である。そのため、動物にも基本権を承認することは、これらの権利の価値を貶めるように思われてしまうかもしれない、と著者は指摘する。

 加えて、著者は基本権の付与は本質上、行動の許可を与えることである点に着目する。基本権によって保障されるのは動物の行動の自由であるが、そもそも問題にすべきは人間の動物に対する処置である。動物が被っている現状を改善するという目的を実現したいのであれば、基本権に訴える必要はなく、動物の福利を損なう行為や殺害の法的な禁止で足るのではないか、と著者は主張する。

 著者によると、上記のような法的禁止処置には3つの利点がある、という。

  1. 実際の効果は、基本権の付与と同じであり、かつ、後者の場合に生じるえる信条間の衝突を避けることができる。例えば、動物に生命権を認めることと、動物の殺害を禁止することは実質上同じような結果をもたらす。
  2. 運用上の容易さ:権利の場合は、動物を代理するためのシステムをつくらなければならないが、禁止の場合、即座の運用が可能である。つまり、刑法が禁じ、法を侵した者は罰せられる、というわけである。
  3. 他の動物による捕食に介入せずにすむ:動物への加害の禁止ぜられるのは人間だけであるから、生命への権利を尊重するために捕食者から獲物となる動物を保護するべきか否かという厄介な問題を回避することができる。

 以上を踏まえ、著者は、動物の法的な身分を向上させるのであれば、基本権の適用という手段ととるのではなく、憲法の中に動物の地位を保護するための規範を盛り込み、それに基づき、動物に対する加害を法的に禁止すればよいとする。この方法であれば、基本権に訴えた際の上述の抵抗を回避することができ、利点も多いと結論する。

 憲法の条文を根拠とした動物保護という著者の上述のアイデアはこの論文では最後に少し触れられるのみであり、詳細は述べられていない。この点については、著者の別の著書Droit constitutionnel de l'animal*3に詳しいのだろうが、未読である。ただ、この著書で扱われている内容を短く紹介した著者自身による短い文章を見つけたので、その文章のあらましを別記事で紹介したい。

*1:後に以下に収録。

*2:このような著者の主張は、権利論としてどの程度の支持が得られているものなのか、現在の自分の知識では判断がつかない。著者の主張は、権利の意志説に分類されうるのかもしれないが、一般に権利の意志説を採るのは、個々の権利主体の自律や自由といった契機を重視する論者が多いように思う。しかし、著者は、意志の説明能力を権利主体であるための条件としつつも、個々の主体が実際にそのような能力を持っているか否かは問題とせず、(一般的に意志の説明能力を持つ)人間という種への帰属を以って権利主体としての資格が満たされるとしている。つまり、人間という種の固有性に基づく権利論、ということになるだろう。

*3:

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights (「人権から有感動物の権利へ」)の紹介③

有感動物の権利は権利のインフレを生じさせるか

 残された問いは、人権を有感動物の権利としてい再概念化した場合、基本権の享有主体の数が増大し、権利間の衝突が際限なく増える一方で、人間の権利保障に必要な配慮と資源が逓減するのではないか、という危惧である。

 この点に関し著者は、まず、有感動物の権利保持により権利の数が増えるとしても、全ての有感動物があらゆる権利を有することになるのではないのだから、無節操に増えるわけではない、とする。また、有感動物の権利のひとつが確立するにあたっては、以下の3点を目的として、十分な議論がなされなければならないとする。

  • 当該権利が保護する利益の確定
  • 当該権利の強さと重要性の測定
  • 当該権利に対応する義務を他者が負うことが正当であるよう、競合する利益とのバランスの確定

 以上のような観点からの熟議を通して、有感動物の権利のひとつひとつが確定していくのであれば、インフレ的に権利の数が増大することはないと著者は考えているようである。

権利の衝突

 では、権利の衝突についてはどうであろうか。有感動物の権利という枠組みにおいて、権利の衝突は不可避である、としたうえで、それによって危惧されるのは、権利の規範的な力、ラズのいう 権利の強制力peremptory force of rightsが弱くなることだろう、と著者はいう。

 (この点に関する著者の記述はあまり詳細ではなく、また当該トピックに関する私の知識が乏しいこともあり、以下の記述は正確ではないかもしれない。)

 著者は、道徳諸概念と異なり、諸権利は(複数の権利間で)重みづけを行う(軽重を決定する)ことができるものではなく、権利とは最終的になされるべきことを定めるものである、という。ここで言わんとすることは、権利と義務が対応しており、ある権利には、権利保持者に対して他者が負う義務が本質的に伴うということだろう。基本的に私たちは、それが権利である以上、当該権利が課す義務を―例えばその義務を遂行した場合よりも、しなかった場合に得られる利益のほうが自身にとって大きいとしても、これを断念し―遂行しなければならない。しかし、権利が衝突するとき、私たちは重みづけをせざるを得ず、一方の権利を他方より優先することになる。その結果、優先されなかった権利が遂行を求める義務は履行されず、権利に内在する強制的な力が損なわれてしまうように思われる。もしそうであれば、これは、ラズのような権利概念(「私たちの説明によれば、権利が個人の利益にその源泉を持つ点、そして、人々が権利によって義務に拘束されているという事実によって示されている権利の強制力こそが、権利の特性である。」(Raz, J., (1988) The morality of freedom, Oxford: Clarendon, p.192))を擁護する者たち(著者も含む)にとって、もちろん好ましいことではない。

 だが、この問題は、一応の権利prima facie rightsと具体的な権利concret rihgtsを区別することによって解消する、と著者はいう。その考えによると、一応の権利のレベルでは衝突するが、具体的な権利のレベルでは衝突は生じない。

 ここで、一応の権利は、特定の状況に関わるものではなく、一般的なレベルにおいて存在する権利である。このレベルにおいては、2者以上の権利主体間で権利の衝突が生じえる。しかし、それによって、権利の規範的な力が損なわれることはない。これについて著者は、ヘルスケアへの権利を例に説明している。私もあなたもヘルスケアを受ける「一応の権利」を等しく有するが、しかし、両者の権利が対立する状況はあり得る。そのような状況においては、全てを考慮した結果、「一応の権利」が「具体的な権利」として解釈されないことがある。例えば、私が罹患している、生命に何らの影響を及ぼさない軽度の病を治すのにかなり高額の費用がかかるのだが、それを購入する予算があれば、あなたが罹患している重度の病を治すことができる状況において、私は薬に対する「具体的な権利」を有しているとはいえないだろう。このように、この状況において「一応の権利」は衝突しているが、「具体的な権利」の衝突は回避されている。ゆえに他者に対して義務を課すという権利の効力、peremptory forceは損なわれていないのである。

 以上の著者の主張に従い、人権を有感動物の権利として再概念化した場合、人間の権利よりも、人間以外の動物の権利のほうが優先されることも当然ありえる。その場合、競合する複数の権利のそれぞれが保護する利益が同定され、それぞれに対する重みづけがなされ、そしてその他全ての条件が等しいのならば、より重要な利益のほうが保護される。重要なことは、権利の衝突を解消する際に考慮に入れられるのは、当事者の利益であり、各当事者の利益に対して平等な配慮がなされるということである。このように著者は、利益に対する平等な配慮という考えをシンガーと共有する。しかし、本論において、利益の平等な配慮は、功利主義的な帰結のためではなく、権利の衝突を解消するためのシステマティックで公正な手段として機能すると、著者は功利主義と自らの立場の違いを説明している。

 一点、留意すべきは、全ての有感動物が同じ強度の権利を持つというわけではないということである。例えば、人間が有する生命に対する一応の権利とラットのそれが対立する場合、その他のすべてが等しいという条件において、前者が優越する。その理由を著者は次のように説明する。

  • 人間の心的複雑性や感情生活は、ラットのそれを遥かに凌駕する。
  • 人間は将来に対して計画を立てる能力を持ち、また将来に対する欲望を持つ。
  • そうである以上、生の継続が人間にもたらす利益は、ラットのそれよりも遥かに大きいと考えるのは完全に合理的である。

 以上の主張はシンガーの『実践の倫理』やマクマハンの『殺すことの倫理』に基づくもので、その他の条件が全て同じであるならば、権利によって保護される利益の大きさによって、衝突し合う権利のうちの一方を他方に優先させるべきだと著者はここでも主張する。

人間の権利がラットの権利に優越するとしても、それは前者が、常に優先されるべき特定の種のメンバーのものだからではなく、人間の権利のほうが、より強く、より差し迫った利益an interest that is stronger and more compellingを保護するからである。( 671)

 (権利の衝突という問題を解決するための)以上の原則は、現行の「人権」概念に基づく枠組み内においても、衝突する諸権利がそれぞれ保護する利益を考慮に入れバランスを取ることで衝突を回避する、という形で依拠されているものと何ら変わりなく、これを有感動物の諸権利間の衝突に適用することができる、ゆえに、複数の人権間の衝突が解消可能であるように、複数の有感動物の諸権利間の衝突も解消可能であり、有感動物の権利は決してimpracticalではない、ということが示唆される。

 以上が本論文の主張のあらましである。

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights (「人権から有感動物の権利へ」)の紹介②

前の記事で紹介した著者の主張に対しては、人権のうちに有感動物の権利には還元できない本質的特徴を示し、これを根拠に両者を区別するという形での批判が想定される。そこで著者はそのような反論として、3つの主張を取り上げ、それらがいずれも反論たりえないこと、すなわち、人権には、有感動物の権利との区別を正当化するような特徴がないことを示し、反論を退ける

人格性の保護としての人権という考えに基づく区別

 まず、人権とは人格であるものの人格性personhoodを保護するものだという考えに基づき、有感動物の権利と人権を明確に区別すべきだ、という主張が検討される。 人格性の内実については諸説あるが、人格性の最も重要な性質は行為者性agencyであると著者はいう。ここで行為者性とは、端的に言えば、理性的に、また反省的に目的を追求する能力の特質のことである。行為者性は人間に特有の質であり、ゆえに、人権が行為者性としての人格性を保護するものであるのならば、人権は有感動物の権利とは区別されなけばならないことになるだろう。
 
 このような主張に対し著者は問題点を2つ指摘する。ひとつ目はいわゆる「限界事例」からの指摘であり、ふたつ目は、人権の福祉論welfarist theoriesに基づく指摘である。

 前者は、人格性の保護を人権の本質とした場合、人格性を備えているとは見なし得ない幼児や重度の知的障がい者などは、人権の享有主体とは見なされなくなってしまう、というものである。この問題に対し、人格性に基づく権利論の側がとりうる戦略として3つのものを著者は挙げる。

戦略①:こういった人々は人権を持たないが、私たちは彼らに対する強い義務を持つ。
著者による批判:この主張は、人権に関する通常の(現実における)理解と実践と乖離しているという問題を抱えている。

戦略②:人格となる潜在性ないし過去において人格であったという事実をもとに、幼児や障碍者に人権を認める。
著者による批判:全ての人間が潜在性をもっているわけではないし、過去において人格であったわけでもない。一生の間、人格になる見込みのない者たちは人権を持っていないことになってしまう。

戦略③:全ての人間が人権をもっていると認め、非人格である幼児や重度知的障がい者も人格であるそ他の人間と同じより大きなグループ、人格性を構成する諸能力を備えたヒトという種のメンバーであると考える。
著者による批判:種という集団への帰属がなぜ個々の存在の権利保持に関係するのか明確でない。もしこの問題を棚上げしたとして、そもそも権利保持の基準となるより大きなグループが種である理由に関する説明が欠けている。

 次に、人権を人格性の保護とする主張の第二の問題点に関する著者の指摘をまとめよう。第二の問題点は、人格性を構成する諸能力ではなく、権利の享有主体が苦しまないことによってこそ、人権は正当化されると考えた方が妥当である点に認められる。例えば、私が拷問を受けない権利を有しているとして、それは、私が目的を策定し、見直し、追及するのを拷問が妨げるから、というよりも、もっと単純に、拷問は私に苦しみを与えるからだ、と考えたほうが妥当である、と著者はいう。

 この考えを著者は、福祉論welfarist theoriesの観点から敷衍する。福祉論的人権論によると、人権は人間の基本的な権利を守るものである。人権は最低限のまともな生活minimally decent lifeを可能とするすべての財goodsを保護する。このような人権概念を採用すると、minimally decent lifeの保護の対象から人間以外の動物を排除することは正当化しえなくなる。というのも、全ての有感動物が基本的な利益を持ち、また最低限のまともな生活を送ることができるからである。

政治的機能に基づく区別

 人権は有感動物の権利には還元しえないとする主張の第二として、人権の政治的機能に依拠する主張を著者は取り上げる。この主張は、人間存在にどのような価値(例えば人格)が内在しているか、ではなく、現実世界において人権がどのような政治的機能を果たしているのかという点に力点を置く。この考えに従うならば、諸国家の主権に制限を課す機能こそが、人権の第一の機能である。別の言い方をするならば、人権は、ある国家の事案に対する部外者の(武力の有無を問わず)介入が認められうる場合を特定する。このように人権を理解した場合、人権と動物の権利の違いは明白である。動物の権利はこの種の政治的機能を持たず、動物の権利が侵害されたとして、ある国の事案に対して国外から干渉することにはならないからである。

 だが、この種の議論が人権の「国内」における機能を無視している点を著者は問題視する。多くの国において、人権は国内における個人の基本的利益を守るために機能している以上、人権の機能を国際関係上のものに限定するのはおかしい。このような指摘に対しては、上述の人権の政治的機能面での特徴は他の権利と人権との違いを示すものであり、有感動物の権利と区別される点においては変わらない、という反論があり得る。これに対して著者は、有感動物の権利のために国際的な干渉が行われることもあることを指摘し、国際的干渉のトリガーとしての機能の有無という点から、人権と有感動物の権利を区別することはできない、と再反論する。

内容の違いに基づく区別

 続いて取り上げられる区別は、人権と人外動物の権利は内容において異なるという点に依拠するものである。とはいえ、人権にカテゴライズされる諸権利自体、内容は多岐にわたり、そこには特定の存在のみが享有主体となる権利(子供の権利、リプロダクツライツなどの女性の権利など)がある。つまり、内容において異なるのは各種個別の人権においても同様である。この点を前提としたとき、人権と有感存在の権利の関係はどのように考えられるだろうか。著者は2つの方向性を示す。

①多様な基本権が種を越え享有されていると考えたうえで、人権を有感動物の権利として再概念化する

 人権の普遍性(全ての人間が同じ内容の人権を共有している)という考えを捨て、人間は各自が互いに異なる基本権fundamental rightsを持つと考えるならば、同様に人間は人間以外の動物とは異なる権利を持ち、また、人間以外の動物もそれぞれが異なる権利を持つ、ということになる。この方向で考えるならば、各主体が保持する権利の内容の違いは、人権を有感動物の権利へと再概念化する妨げとはならない。


②個々の人権を基本的な権利からの派生として問えらえた上で、有感動物の権利とは区別する

 内容において多様な個々の人権は、全ての人間が享有する「基本的な権利basic rights」から派生したものである。基本的な権利とは身体の安全physical security、最低限の生活subsistence、自由であり、これら三つの基本的権利からその他の派生的権利が生じる。各人が享有する権利のリストが同一ではなくとも、これら3つの権利は共有されている。そのうちの自由権は人間にとって意味のあるものだが、動物にとってはそうではない。例えば奴隷の所有は奴隷の自由権を侵しているとはいえても、猫を飼うことによってその猫の自由権が侵害されているとは言えない。よって、人権と動物の権利は区別されるべきであり、前者を包括する概念としての有感動物の権利は不要である。

 ②に対して著者は次のように反論する。動物が自由権を享有するに足るだけの能力、ないし、人格性を欠いていることを認めたとしても、ある種の人間についても同様のことが言えるのではないだろうか。ゆえに、自由権が全ての人間にとって基本的な権利であるのか疑問であるし、自由権をもって人権とその他の有感存在の権利の間に線を引くことはできない。

 このように②を退けたうえで、人権の多様性を説明する方法として、基本権からの派生ではなく、利益の保護という権利の普遍的な基盤universal foundationsからの派生に訴える方法に著者は着目する。例えば、婚姻の権利や、妊婦の健康への権利は、当事者の基本的な利益を保護する。著者の言葉を引用しておこう。

これら権利の各々が保護する利益により、権利を保持する者が最低限のまともな生活a minimally decent lifeを送ることが可能になるがゆえに、これらの権利のひとつひとつは正当化され存在するのであるという考えから、これらの権利の普遍性は生じる。(667)


 この考えに従うならば、人権と有感動物の権利を取り立てて区別する必要はなくなる。なぜなら、後者も有感動物のdecent lifeに必須の基本的な利益を保護するからである。

 もちろん、人間にとってのdecent lifeと、人以外の各種動物、例えば蛙にとってのそれは異なる。しかし、人間と蛙という種の違いが、それぞれの権利を本質的に区別することの根拠となるわけではない。なぜなら、人間という種内部においても、何が各人の最低限のdecent lifeを構成するかは、当人が新生児であるのか、成人であるのかといったことに左右され、同じではないからである。現状において、人権が保護するminimally decent lifeの内実がそれ自体多様でありながらも、「人権」という包括的なカテゴリーの成立を人権論者たちは認めている。その論理を一貫させるならば、必然的に権利概念は種を越え、あらゆる有感動物の多様なminimally decent lifeを包括するものへと拡張されなければならない、というわけである。

言いかえると、人間にとっての最低限のまともな生活を構成するものと、その他すべての有感動物にとってのそれを構成する者との間に、はっきりと明確な境界があるわけではない。そのため、人権の普遍性が、最低限のまともな生活の保護という普遍的な基礎から派生するのであれば、人権を有感動物の権利として再概念化することを支持せざるえなくなるのである。(668)

(紹介③に続く。)

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights (「人権から有感動物の権利へ」)の紹介①

Alasdair Cochrane (2013) From human rights to sentient rights, Critical Review of International Social and Political Philosophy, 16:5, 655-675
www.academia.edu


著者について

 この記事で紹介する論文の著者Alasdair Cochraneはイギリスの政治学者。主な研究分野は権利論、動物倫理、生命倫理などで、これまでに出版された著書は全て政治(哲)学的動物(の権利)論のようである。

An Introduction to Animals and Political Theory
Should Animals Have Political Rights?
Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals: Theory, Culture, Science, and Law)
Sentientist Politics: A Theory of Global Inter-Species Justice は、

 3つ目の著作については、id:DavidRice氏がその第1章を紹介している。
davitrice.hatenadiary.jp

 私自身はと言えば、いずれも未読だが、現時点で最新著の Sentientist Politics: A Theory of Global Inter-Species Justice は、ここでで紹介する論文とも関連していそうだし、いつか読もうとは思っている。(ただ高価なので買うのがためらわれる…)

 ちなみこの記事で紹介する論文の縮約版もあるらしく、そちらもid:DavidRice氏によって紹介されている(私は未読)。そのため、この記事を読む前に、下の紹介記事を読んでおくとよいかもしれない。

davitrice.hatenadiary.jp

論文の内容

 最初に、この論文の流れを記しておくと、

①「人権」を「有感動物の権利sentient rights」*1へと再概念化することの妥当性を(3つの反論に応えつつ)示す
②有感動物の権利と人権を区別する根拠となる特質が後者にはある、という反論に再反論を加える
③人権を有感動物の権利へと再概念化すると重大な問題が生じる、とする批判に応える

という流れになっており、論旨自体は明確である。その過程で、権利、ないし人権に関する、ファインバーグやラズらの諸説が取り上げられる。私はこの分野の文献を読んだことがほとんどないが、それらについても必要最低限の説明がなされており、さほどのストレスを感じることなく読み進めることができた(誤解・誤読している箇所があるかもしれないが)。

 以下では、①~③の流れに従いつつ、内容を紹介していく。(②③はそれぞれ別記事で紹介)

①人権を有感動物の権利へと再概念化することの妥当性を示す

 著者はまず、全ての有感動物sentient creaturesが基本的な権利を有しうる、あるいは有していることを一応の根拠をもつ主張prima facie caseとして提示する。その論証は以下のようにとてもシンプルだ。

  1. 権利の保有必要十分条件は利益である。ゆえに利益を持つ存在は権利を有する。
  2. (利益を持つ存在とはどのような存在かといえば、)有感動物のみが利益を持つ。
  3. (以上から、)全ての有感動物は権利を持っている(と言える)。

 権利とは何かという問題には、いくつか異なる議論があるが、1から見てとれるように、著者は権利の利益説、つまり権利とは権利の享有主体の利益を保護するものだとする立場に立つ。

 また、2の主張は、ピーター・シンガーや、ゲイリー・フランシオンら、動物解放論者、動物の権利論者に広く共有されている考えだろう。

 さて、仮に1と2に異論がないとするならば、3の主張を認めることになる。ところで、「人権」概念は、3の主張と両立しえない。なぜなら、「人権」の享有主体は、定義上ホモ・サピエンスに限定されているからだ。人権は民族、国籍、性別、宗教などを問わず、全ての人によって享有される点においては排除的ではないが、人以外の動物に対しては閉ざされている。しかし、権利保有必要十分条件が「利益を持つこと」ならば、(利益を持つ)人以外の動物に権利を認めないのは不当な排除となる。「人権」が人以外の動物に対する正当化しえない排除を本質的に含むものであるのならば、これを是正するために、「有感動物の権利」として再概念化される必要がある、というのが著者の主張である。

 以上の一見自明の主張の妥当性を示すべく、著者は3つの反論に応えていく。

反論1 自ら権利を主張するものだけが権利を持つ

 ひとつ目の反論は、上述の1(権利の保有必要十分条件は利益である。ゆえに利益を持つ存在は権利を有する。)に対するものである。つまり、利益と権利のリンクを否定し、権利を持つことが出来るのは、自身の権利の要求ないし放棄を主張することが出来る存在のみである、と反論する。

 この反論に対して著者はファインバーグの主張を援用しつつ再反論を試みる。権利とは本質的に主張であることを認めたとして、権利保有者が自身のために権利を主張しなければならない必然性をファインバーグは疑問視する。仮に権利保持者が自らの権利を主張することができないとしても、代理人がその権利を主張することは可能だからである。このように考えるならば、権利を自分で主張することができない者、たとえば、幼児や重度の知的障がい者もまた権利を有していることに説明がつく。したがって、権利保持の可否の基準は、自ら権利を主張できるか否かではなく、代理人によって、権利が主張され得るか否か、という点にこそ求められなければならない

 このようなファインバーグの主張に対する批判としては、この考えに従うと、権利保有者を制限することができず、代理可能であれば、岩や信号機など無生物も権利を持つことになってしまう、というものが想定される。

 しかし、この批判に対しては再度ファインバーグの論に従い、次のように反論することができる。まず、代理人が権利を主張するというとき、それが実質的に意味するのは、権利保有者に対する、他者による義務の履行である。ところで、義務の対象として意味を持つのは、利益を持つ存在だけ、他者の行為の有無から恩恵ないし害を受ける存在だけであろう。岩や信号機はこのような存在であるとは言えず、したがって、義務の受け手であるとは言えない。以上から、上述の批判が退けられる。

 一方、有感動物は、利益を持つ存在であり、そうである以上、代理人による権利の主張が可能であるため、権利を保持していると言えるのである。

反論2 利益と有感性はリンクしていない

 ふたつ目の反論は2に関わるもので、利益と有感性のリンクを否定するものである。このような主張として、著者は幾人かの環境倫理学者の主張取り上げる。彼らによると、利益は生物学的な意味での開花flourishやよさgoodsに関わり、意識経験を必ずしも必要としない。この点を踏まえるならば、全ての有機体が利益を持つということになる。

 これに対し著者は、利益は福利well-beingに関わるとし、この反論に応じる。福利とは当事者にとって生がどのようなものであるかという点と関わるのであり、生を経験するためには一定の意識レベルの経験が必要である。ゆえに、意識経験を欠くものに利益を認めるのは不適切である、とする。

反論3 権利を「持つこと」と「持つことができること」は同じではない

 三つ目の反論は、権利を持ち得ることと実際に持っていることは同じではない、という主張に基づく。この主張はラズの次のような権利論から導き出される。ラズによると、権利はそれ自体で自明の真理ではなく、道徳性に基底があるわけでもない。権利は利益についてのより基本的な道徳的査定により正当化されなければならない。つまり、他の側の義務を基礎づけるに十分な利益であるかチェックされることが求められるのである。

 この見解に従った場合、動物は利益を持つ(ゆえに権利を持つ可能性を持っている)が、権利を確立するに十分な利益はもっていない、という反論がなされるかもしれない。これに対し著者は、有感動物は何らかの義務を基礎づけるにたる基本的な利益を持っていると主張する。例えば、他者が自分の楽しみのために動物に苦痛を与える場合を考えてみると、これがあらゆる有感動物の利益に悖ることは明らかであり、こういった苦痛を受けない点において動物は利益を持っている。このような動物の利益は、自分の楽しみという目的から動物に苦痛を与えてはならないという義務を私たちに課す。というのも、苦痛を受けないことにより保護される動物の利益は重要である一方、苦痛を与えることによって得られる利益は些細であり、義務を課せられることによる負担は弱いからである。それゆえ、他者の楽しみのために他者から苦痛を受けないという基本的権利を有感動物は持っていると言えるだろう。

 もっとも、自由や生命といった権利については合理的な反論があるだろう。しかし、それによって、有感動物が基本的な権利のいくつか(上述のものはそのひとつ)を有することへの同意が妨げられることはない、と著者は主張する。

まとめ(ここまでの著者の主張)

 このように著者は有感動物の権利に対する3つの反論に応答し、その妥当性を示す。以上の議論を踏まえた著者の主張を引用しておこう。

(…)人間も含めすべての有感動物は、いくつかの権利を有しており、しかも、同じ理由からそれらの権利を有しているのだとすれば、自明の主張として、それらの権利は「有感動物の権利」という共有されている枠組みschemaの部分である、と考えることも支持されよう。言いかえるならば、ひとつの種に限定的な―人権という―基本的権利のリストの正当性を問う合理的な根拠があるということである。(659)

*1:sentient rightsを何と訳すべきか、難しいところである。sentienceはG・フランシオン『動物の権利入門』(井上太一訳)では「情感」と訳されているので、これに倣い、sentient rightsは「情感sentienceに基づく権利」とでも訳すべきかもしれないが、この論文では「人権」を、「情感を持つ存在sentient creature」の権利へと再概念化すること、つまり、権利の享有主体を「人」から「情感を持つ存在」へと拡張することが意図されている。この点を鑑み、「人権=人間が享有主体の権利」と対応させるため、「情感を持つ存在が享有主体の権利」という意味で「有感動物の権利」ととりあえず訳すことにした。なお、情感を持つ存在であれば、動物でなくとも権利の享有主体と見なされるのはもちろんだが、現状においては動物以外の存在が情感を具えているとは考えられない点を鑑み、「有感動物」の権利とした。いずれにせよ、この訳語はとりあえずのものである。