カンシャカンゲキブログ。

感謝感激で人生を充実させられるか、読書と日常生活から実践します。

お刺身に、感謝。

けして腐ってはいけない。

 

今日何が食べたいか?と考えたとき漠然と魚が食べたい、と思うことがある。

7時を過ぎたスーパーでには、鮮魚売り場を見ても魚たちは少ない。

右を見ても左を見ても、食材として死にかけた魚類や貝類が売られているのだが、ひと際目を引くのがタコの刺身だった。その日のタココーナーは歯抜けの鮮魚売り場の中で幅を利かせていた。そう、それこそ幅を取っていたのある。

 

半額になっていたのが一つあったので「今日はタコでも食べようか?」なんて相方に聞いてみたが、相方の顔は渋柿を食べたように渋い顔。

タコの刺身は、まもなくほかのタコの刺身パックの上に戻された。

 

タコの刺身には腐らず頑張って売れてほしい。しかし時間は残酷な事実を伝える。

このタコはおそらくもうすぐ腐ってしまうのだ。

マグロやカツオの刺身が売れていく中で、タコが残ってしまう現実。

ここは一昔前海の悪魔としてタコが恐れられていた時代の西洋なのか。

 

かくいうオイラも、本マグロの入った刺身のパックの方を買おうとしたのだが、結局半額になっても高いものだ。

値段をもう一度見て、うまいダンサーのロボットダンスように伸びた手がピタリと止まる。

給料日がやってきた時しか買ってあげられないが、腐りかけたその姿になったときにはシロガネーゼヒルズ族に見初められて欲しい。

 

 

半額で買える可能性が残っている刺身たちに、感謝。

未来の食べ物「うな次郎」に、感謝。


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人間の飽くなき研究は、素晴らしい。

 

「うな次郎」を食べた。土用の丑の日に。「うな次郎」とは、つまりウナギの味に近づけた魚のかまぼこなのだが、これがよくできている。

まず見た目だが、並べてみるとトカゲとイモリのようにどっちがどっちかわからない。

山椒やタレもついていて、食べてみると「これもうほぼウナギじゃん」と思ったほど歯ごたえも舌触りもそっくりだった。

国産が2000円くらい、中国産も1200円ほどしていた中で、「うな次郎」は250円前後。

安い。

一般人のほとんどは、生バンドで歌を歌わない。カラオケを楽しんでいるはず。

そして、カラオケは日進月歩、その『質』を上げてきた。

「うな次郎」も、そうだ。

 

これからも、きっと庶民が高くて買えないモノに似せた商品が出てくるだろう。

そんなとき、オイラは作り手の「高級な食べ物の気分を味わってほしい」という気持ちを感じたい。その真摯な思いを浴びせかけられたい。

 

そして、できたら画期的養殖方法で大量生産され安くなったウナギも、食べたい。

 

最新鋭の研究結果、「うな次郎」に、感謝。

マンデリンに、感謝。

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ケチ根性はモノのおいしさを半減させる。

 

マンデリンを飲む。カルディで買ってきた、コーヒー豆だ。

「ボディがしっかりしていて酸味、野性味がある」という触れ込み。

 

買ってきたペーパーフィルターをセットして、粉末になっている豆を入れ、お湯を注ぐ。はたして、インスタントではない、聞いたことがない豆の種類のコーヒーはどんな味がするものか。

期待と少しのドキドキを胸に秘め、口に含んだ。

 

・・・薄い。昨日飲んだインスタントより、薄かった。

理由は、もったいないと思って計量スプーン一杯分の豆に対して、お湯を入れすぎたからだ。もっとも、お湯をペーパーフィルターの中の豆の部分に二度満たした注いだ程度だ。そんなに多くはないはずだ。

 

それがわかって、もう一度入れなおした。

今度も薄い。コーヒードリッパーの中の豆にお湯を一度浸しただけだ。それが薄いとはこれいかに。触れ込みの「ボディ」だの「野性味」もわからない。

 

もう一度だけ、と、さらに入れなおした。今度は測りを使って、豆は10g、量は100mlで。

「よし、やっとおいしくなったぞ!」

そう思ったのは、この3回目入れたコーヒーの残り5分の1ほどになったころだった。

そこには、言っているところの「酸味」や「野性味」を味わうことができた。

この20mlほどの味わい深いコーヒーは、恋愛映画でいうところの最後の思いを遂げるシーンみたいなもの。「やっとキスできて良かったね」と言ったところだ。

 

まずはコーヒーの入れ方から勉強をしなくてはといったところだ。

オイラはおいしいコーヒーを飲むために生まれてきた、のかもしれないのだから。

 

カルディのコーヒー豆、マンデリンに感謝。

インスタントコーヒーに、感謝。

今日もコーヒーって、おいしい。

 

インスタントのネスカフェゴールドブレンドだ。

今までもおいしいとは思っていたのだが、今日は特にだ。酸味とか苦味とかの詳しいことはわからないが、「生きてていいんだな」と思わせてくれる。

このどこかの工場で作られた顆粒に、どうしてあのふくよかな舌触りや味わいができるのだろう。

 

そして思いつきで、コーヒー豆を買ってしまった。

豆を挽くミルが家にないので、お店で挽いてもらって。まずは、コーヒードリッパーも、ペーパーファルターも一番安いものを。

 

コーヒーの世界は奥深いらしい。

三日坊主のオイラがいつまでコーヒーうまいと言っているのか。

 

まあ、ちょっくらコーヒーの沼にはまってみよう。

しばらくは沼に足を入れてバシャバシャやって、どんな味のコーヒーが味わえるのかを楽しみたい。

 

ずっとそばにいた友達が恋人だった、みたいなコーヒーに感謝。

飲み切りソーダに、感謝。

ピッタリ終わる素晴らしさ。飲みきりサイズのソーダは2度スッキリする。

 

缶コーヒーサイズのソーダが存在する。普段目立ったところに置いてないが、アイテム数の多いスーパーやホームセンターなどにおいていて、さらに24缶まとめて売っていたりする。

500mlでも多いくらいなので、190ml缶は使いやすい。

炭酸でスッキリ、飲み切ることで2度のスッキリだ。

 

最近急に気温が暑くなってきた。夏というのは唐突に始まる。家に残っている10缶ちょっとの190mlソーダは、クーラーの効かない部屋にある。

それを取りに行くのがしんどい。サビついた機械人形になったかのように体が動かない。クーラーの効いていないところには行きたくない。

 

それでも砂漠で立ち止まっていてはオアシスの水は得られないので、なんとかソーダを取りに行く。オアシスに到達するまで、その砂漠を2万歩歩くことを想像してほしい。

 

ソーダを飲む。熱を帯びた、だらしない気持ちが吹っ飛ぶ。やる気も出る。時間にして2秒くらい。

そして、またいつもの「静岡県あたりから天然資源がでて、みんなが働かなくていい国にならないかなあ」という思考に戻る。

爽快感は、2秒でいい。その2秒を長く感じればいいのだ。

 

気持ちを爆上げしてくれる飲み切りソーダに、感謝。

 

オロナインに、感謝。

何にでも効く薬があると安心できる。

日中の暑さが体を侵し、首がかゆくなった。『あせも』だ。

それで使いかけのオロナインを塗ってみたのだが、まあマシになったのである。

 

切り傷や軽いやけどなどのときにとりあえず塗ったりするのだが、こういう日常生活の中での軽いけがをカバーするものを常備しておく心構えは持っておいたほうが良い。

それが無ければ、ツバつけとくしか治癒の方法がないのだ。

 

そうすると、職場やチームでもちょっとしたミスを何でもカバーしてくれる人は同じく安心する。しかし、当然そのカバーしたことを恩着せがましくする人はイヤだ。

そんなのは治すために極度に傷口に痛みを染み渡らせる、『ムヒ』だ。「治してやったんだぞ」というアピールがものすごい。

その人にオロナインのような出すぎない、奥ゆかしさがあるかどうか。それが、その職場の雰囲気を左右する。次の職場やグループではそのような人がいると、安心感から仕事に気持ちが乗るだろう。

 

ただ、小さいケガを超えた大きいやけどや刀の切り傷なんかはカバーしきれない。

そうしたときはもう気休めに「オロナミンC」でも飲んで、その危機的状況をやり過ごしたい。

 

首のかゆみに3分の1を使わせてもらったオロナインに、感謝。

お風呂に、感謝。

風呂の中で『永遠』について考えた。

温度がちょうどよく、うとうとしていてそうなった。

ずっとそこにいたい、というより、抜けられない。

 

半分寝ている状態。現実にいるのか、夢の中にいるのか。布団でいるより、その感覚はぼやけている。死んだあとの魂ってこういう感覚なのかもしれない。

 

ちなみに今いるのは家の風呂ではなく、人の家の風呂だ。

そのうちにに生きているか確認されてしまうから、永遠に『永遠』について考えていることなんてできない。それは死んでからのお楽しみということなんだなあ。

 

普段気持ちがせわしなくて、家の風呂でもカラスの行水になってしまうようなオイラが、人の家の風呂では何も考えずにゆったりとした時間を過ごせた。

その理由はハッキリしている。

家にいるより『やるべきこと』がないからだ。

自分の家にいたら、家事、パソコン、映画でも見ようか・・・と何かしようとする。

それができないなら、その分時間に余裕ができる。

本当に『焦り』から離れたいなら、一時的に何もできない状態を作り上げることもいい。

 

若い時にはわからなかった、『何もない土地に行きたい』という気持ちも今なら少しわかる気がする。

ゴテゴテの豪華海鮮ラーメンより、ただのしょうゆラーメンの方がスープや麺の味との対話が長くなるような、風呂場での自分の夢との対話だった。

 

適温の湯に、感謝。